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2013年4月16日 (火)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(5)

これは資本主義を考えるうえでも重要な示唆を与える。資本主義の特徴は、今も昔も、マルクスが言ったように疎外と搾取である。AKBにおいてもこの構図は厳然と存在する。夢を見る少女たちの性的魅力を搾取し、運営と呼ばれ大人たちが安価な労働対価で働かせて、CDなりを売りさばく。恋愛弱者のヲタクという消費者に、アイドルの少女たちに疑似恋愛をさせてあの手この手で金を巻き取る。たかがアイドルでしかないAKBにおいては、どれだけそこに「愛」があると言っても、所詮は疑似恋愛的なものにとどまる以上、メンもヲタも、「本当の愛」からは疎外されてしまっている。それは否定しようのない構図である。しかしこれまで何度も見て来たように、AKBのシステムの特徴は近接性と、そこで生み出される関係の相補性にある。だからそれは、資本主義がもたらす疎外からは半分だけ遠いのだ。AKBはCDという商品に「会いに行ける」という近接する権利を添付している。資本主義的商品を通じて、本来ならば疎外しているはずのメンとヲタを近接させ、そこに絆や愛を育むという逆説。吉本は「関係の絶対性」を資本主義を打破するためのマルクス主義への加担に結び付けて解釈したが、むしろ資本主義そのものとダイレクトに結びつけたAKBこそが、「関係の絶対性」のポテンシャルを放ちうるのである。

AKBにおいては、ヲタの側も「誰かのために」つまり推しメンのために「利他性」を働かせる。だからそれは搾取とは言い切れない。いや正確に言えば、搾取と贈与が緊密なまでに結びついてしまっている。その「贈与の一撃」があるからこそ、メンバーたちは、総選挙の舞台でマジの言葉を吐き出すしかない。そしてそれにヲタの側は感染する。しかしそれは「利他性」といっても、「隣人愛」とは程遠い、ひたすらに自分の好みの相手だけに絞られた、えこひいき丸出しの、極めてエゴイスティックな行為でもある。これは利他性や贈与の観点から見ても興味深い問題を含んでいる。贈与は根源的なパラドックスを抱えている。なぜなら純粋に「誰かのために」行うボランタリーな行動というのはあり得ないからだ。贈与は必ず相手に負い目を与える。だから見返りをパフォーマティブに求めてしまう。つまり、同余は常にすでに「偽善」に見えてしまう可能性を孕む。あるいは何かに利用されてしまっているといったことがありうる。人間と人間の社会的な関係あるいはコミュニケーションが時間的なズレをはらむ限り、純粋なる贈与はあり得ない。これは言い換えれば、純粋なるコミュニケーションというものはあり得ず、なんらかのシステムに利用されてしまうと言い換えてもよい。だから贈与は「最初の一撃」でしかありえない。それをなしうるのがキリストのような超越的身体だった。しかし、AKBが行っているのは、むしろ贈与の手段をシステマチックに細分化し、握手券や投票券といった商品のオマケとして添付し、ばらまくというやり方だ、そこにはどう見ても搾取しかなく、贈与など這い込む余地が無いように見える。しかしAKBにおいては近接的なコミュニケーションの場がある。だからそれは搾取とは言い切れない、メンとヲタの間の絆を、いや愛を否応なく生み出してしまうのだ。

以上の考察を通じて私が言いたいのは、AKBにおいてアイドルは「二つの身体」に引き裂かれているということである。AKBのアイドルたちは、リアルの現場では近接性において承認される。しかしネット上では匿名性においてアンチに真っ向から叩かれる。この二つの矛盾を止揚し、AKB内における序列を定めるのが総選挙である。近接的承認に晒されるリアルの身体と、匿名的批判に晒されるネットの身体。それはレオニード・カントロヴィチの有名な言葉「王の二つの身体」をもじれば、情報社会における「アイドルの二つの身体」ということができる。カントロヴィチが言ったことは、中世ヨーロッパにおいて王は、「自然的身体」と「政治的身体」という二つの身体を持っているということだった。前者の「自然的身体」は、いわゆる人間としての身体である。死ぬということもある。しかし後者の「政治的身体」は見ることも触れることもできない超越的で抽象的な身体である。後者があるからこそ、王権社会は安定的なものたりえた。これとよく似た図式が、情報社会においては「リアルの身体」と「ネットの身体」の間で、すなわちAKBにおいて立ち上がってくるのだと言ってよい。ネット上に無数のアンチがいるから、その無意識の批判を経由して、何でもない普通の少女が自らの輝きを増すことができる。しかしネット上のアンチがいるだけでは、とても成長していくだけのエネルギーを確保できない。そのために彼女たちは劇場や握手会のようなリアルの現場に降臨し、ファンとの近接的関係において承認を得る。勇気を得る。そして握手や投票の実売によって「ここにいること」の正統性を獲得する。だからこそ彼女たちはアイドルの王、すなわち超越者たりえる。

この点こそが、前田敦子が「キリストを超えた」といいうる可能性の中心でもある。そもそも新約以前の旧約聖書から抱えているのが、唯一神という超越論的審級のもんだいである。存在しているが、存在していない。いるのかいないのかわからない。いや、むしろいないというような形でしか存在しているとしかいえないような超越的存在。哲学的には否定表現でしか神を語れない「否定神学」と呼ばれてきた問題系である。この「否定神学」という無限の問いを触発する構造こそが、唯一神型宗教の知的練度を飛躍的に高めてきた。何となく身近のありがたい者にすがる多神教型宗教よりも、いるかいないかわからないものの存在に賭ける唯一神型宗教るそのことの強みが、長くキリスト教をベースにした西欧近代の強みであると理解されて来たのだ。そしてその「否定神学」における特異点こそが、キリストその人だった。それが世界宗教としてのキリスト教の強さの源泉だったことは、いうまでもない。しかし、今、規模的には到底小さいとしても、それに論理的には匹敵し得る可能性のある「ねじれ」が、AKBのセンターなのである。あっちゃんもまた「否定神学」的な中心だった。「なぜあの子がセンターなの?」AKBを良く知らない者たち、あるいは前田アンチは言う。AKBを良く知り、あっちゃんを愛する者たちの間でも、彼女の魅力は「一言では言えないところが魅力なんだ」という、ある種の「否定神学」的な言説や身振りが一般的だったのである。あっちゃんもまた、AKBコミュニティにおける極めて規模の小さい否定神学的象徴だったのだ。

しかしあっちゃんは、ただ否定神学的な意味だけで、最終的にセンターたりえたのではない。AKBというシステムが為し得ているのは、カントのいう「アンチノミー」の新たな展開とすらいいうるだろう。純粋理性としてはどちらの命題も証明可能であるようなねじれた問題系、すなわち「アンチノミー」を通じて、超越論的な批判を加えること。それがカント的な近代的主体の用い得る批判の手段だった。哲学も思想も、この否定神学のロジックをいかに洗練させ、批判的に乗り越えるかに終始してきた。しかしAKBはもはやそこから遠く離れている。リアルのヲタ(支持者)とネットのアンチ(批判者)の間の「二律背反」をともに活用することで、情報社会における超越者を生み出すこと。その「ねじれ」をまたぐ隘路こそが、AKBの実現した「アンチノミー2.0」とでもいうべき何かである。私達はいま「否定神学」をクリティークいるのではなく、AKBがなしえた「否定神学」のイノベーション/リノベーションにこそ目を向けるべきなのだ。

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