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2013年4月 4日 (木)

「ラファエロ展」(1)

Raffaposta2「ラファエロ展」国立西洋美術館 2013年3月6日(火)

都心で、証券取引所主催のセミナーがあって、出かけました。上場会社にとっては、強制ではないのですが、ある程度、そういうのに顔出ししておかないといけないこともあるのです。たまた、終了が中途半端な時間を予定していたので、どうしようか(直帰してしまうか、会社に戻るか)迷っていたのですが、終了予定が大幅に遅れたため、会社に戻るのをあきらめ、気が付くと時間的に、上野の西洋美術館なら閉館の1時間前に着けることがわかり、思い立って行ってきました。

最近、美術展を見て、感想を書き込むことが習慣のようになってきているようで、ある程度は美術館の予定はチェックするようになり、また作品を見る場合にも、後で言語化することを意識するように変化してきているような気がします。

とは言うもののラファエロか…、と我ながら思ってしまうわけです。私はいつからミーハーになったのだろうか、と多少自嘲気味に上野の駅に降り立ち、西洋美術館に向かうと、美術館からは大量の人々が吐き出されるようにでてきました。大変な混雑が予想されました。止めようかとの思いが一瞬よぎりましたが、気を取り直して、券売所で、残りが1時間しかないことを念押されながら、「別に1時間もかかることはないだろう、何せラファエロだから」などと意味もないことを考えていました。美術館は、5時を過ぎると大半の客は帰ってしまい、閑散まではいきませんでしたが、予想された混雑はなく、静かに作品を、時には立ち止まることで可能で、見て回ることができました。

ルネサンスの三大画家などと高校の授業で習った記憶があります。とはいっても、他の二人、ダ=ヴィンチとミケランジェロに比べると影が薄い印象でした。彼ら二人に比べて圧倒的な代表作がない、シンボルマークを欠いたようなもので、しかも、「これがラファエロだ!」というのがありませんでした。ラファエロが語られる時、私も、高校自体以降、彼について書かれたものに触れたことは何回もありますが、その際の書かれ方、「優雅」ということを特徴としていることは共通していたようですが、その「優美」さというのが具体的に、どのようなもので、作品のどのようなところに見つけることができるのか、という説明は一切なく、その「優雅さ」の説明については、ミケランジェロにはできなかったとか、そういう他の画家との比較のうえで、比較される画家の否定という形で語れることが殆どでした。つまり、ラファエロのことを語る場合には、絶対的なラファエロを持ち出して、その特徴や卓越している点をポジティブに並べていくという行き方ではなくて、他の画家に比べて、その比較の上でラファエロを紹介するというものでした。

例えば、名高いヴァザーリの紹介は、ラファエロをミケランジェロの激烈さと比較してラファエロの上品さを紹介しています。ラファエロの「優雅さ」は、「美」というダ=ヴィンチ以降のルネサンス美術を特徴づける、大きさや色彩、性質の調和、規則に基づく合理的な性格のものとは区別され、ラファエロと言う画家の主観的な判断力、センスに由来する、規則に基づく美の中の自由さ、とでもいうような比例などのような美の規則を測らなくても、多少規則を逸脱したとしてもあるものということです。しかも、このような「優雅さ」は努力によって獲得できるものではなく、天与のものと考えられていたようです。そこにもラファエロという人物に備わった上品さとか優雅さと作品を結びつけて考えることが、行われていたようです。とすれば、その点に、ルネサンスからバロックへの糸口があったのかもしれません。

実際、今回の展示を見て、ラファエロの個性というのか、これがないとラファエロではない核心のようなものは、ついぞ見極めることはできませんでした。かりに、この美術展をペルジーノ展だと言われも、私は何の違和感もなく作品を見て回るのではないか、と思います。ヨーロッパでは歴史上の巨匠として絵画のスタンダードになっているということですが、いわゆる教科書とか優等生というようなイメージを慥かに感じるのではあります。作品を見て回って、どれもそう思いました。実際のところ優等生であるということは大変な努力を伴うものではあるのですが、それはほとんど認識されず、通り一遍に、苦労を知らないだの、人間的な面白みがないだの、冷たいだのという先入観で見られてしまう、少しだけ印象をもちました。とは言っても、掴みどころのない、個性を見つけ出せない画家という先入観は崩せませんでした。ということは、こういう画家というのは言葉にしにくいわけです。「こうだ!」と言葉で明確化しにくいからです。なので、今回の書き込みは、私にとって挑戦になるかもしれません。

Raffaself例えば、展示の最初に飾られている『自画像』です。画家20代前半ときの姿と言われ、フィレンツェに移った初期の頃の作品と説明されています。顔とその周辺は長めの栗色の髪の毛や肌合いの微妙な感じとかが丁寧に仕上げられていて、陰影のつけ方も細かく、スケッチも丁寧にされたのが分かり、非常に技術の高い画家が丁寧な仕事をしているのが素人目にもハッキリわかります。それに、若々しい肌の色の明るさを引き立てるような黒いベレー帽と黒い衣装、その中で、襟元からシャツの白がアクセントのようにのぞかせて、若々しさとともに落ち着きを漂わせています。ただ、この若者はどちらを向いているか分かりません。まっすぐ、こちらを向いているのか、こちらを振り向いているのか。それは首から下が顔ほどに丁寧に描かれていないためです。証明を向いているには首の位置が斜めすぎるし、振り向いているには首が捻じれていないし太すぎる。

絵画がリアルな写実的表現を獲得したのは、おそらく革命的に全面展開したのは、レオナルド・ダ=ヴィンチによる解剖学的なスケッチを基に描かれた絵画作品が一つの大きな転機になっているのではないかと、個人的には思っています。そもそも、絵画は見た目そのものを描くものではないし、人が見た目といっても現代の写真と同じ光景を人が見ているとは限りません。リアルな写実と言うのは、一つの見方でしかなく、それを機械的に追求したのが写真というものです。(写真と言う言葉にそのままでていますが、事実の姿が映されているという人々の意見が一致しているから、写真というものが成立しているので、そういうコンテクストが成立してはじめて受け入れられているものです)。比例とか、遠近法とか自然科学の法則のように規則化により、美と言う基準をつくり、それによって絵画を制作して行こう方法論です。ここでの、ラファエロはこの自画像で顔を描く際に、その影響を取り入れているようです。しかし作品全部ではなく、そこで生まれるギャップが顔の首が上手く繋がっていないように見えることではないかと思います。この『自画像』から見えてくる一つの姿勢は、折衷的、あるいは中庸志向ということです。革命には全面的には参加しないけれど、新しい波は取り入れる。しかし、従来のものも残しながら。これは本人の性格なのか、顧客である注文者に混乱を与えない配慮であるからなのか、わかりませんが、その点が、逆に後世の私などから見ると、個性が見えてこない、物足りない、という感じを持ってしまうことになってしまうのです。

展示は、したのプログラムで行われましたが、ラファエロ本人によるもの以外、あるいは工芸品には、私は興味がないので、ラファエロ自身によるものと紹介されているものを中心に見ていきたいと思います。

.画家への一歩

.フィレンツェのラファエロ

.ローマのラファエロ

.ラファエロの継承者たち

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コメント

辛口ですね。ラファエロがもう少し長生きしていたら・・・などと我々は想像しがちなのですが絵はやはり優等生すぎるのでしょうか。展覧会で観たラファエロの絵はちょっと毒がなさすぎてCZTさんには物足りない感じだったようですね・・・。

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