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2013年4月11日 (木)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(1)

序章 AKB48は「いま・ここに」ある宗教である

筆者はウェブサービスの「アーキテクチャ」を社会学的な分析対象として選んできた。ウェブサービスやアプリなどは、その人工環境をどのように設計するかによって、ユーザーの行動やコミュニケーションのあり方をかなりの程度、操縦・誘導することが可能である。そのアーキテクチャのちょっとした違いが、そのサービスや製品の成功/失敗を大きく左右することも珍しくない。ただしこの「アーキテクチャ」は、これまでソフトウェア工学やユーザビリティ・デザインの範疇で扱われてきたにすぎなかった。これを社会学的に分析してみようというのが筆者の狙いであった。なぜなら2ちゃんねるやニコニコ動画といった日本から生まれ、大きく成長したソーシャルメディアのアーキテクチャは、それを生み出す社会特有の要素が反映されるからだ。たとえば「日本の匿名性の強いウェブサービスが普及するのは、日本社会が「個」の弱い集団主義的性質をいまだ抱えているからだ」というようにである。これまでのアメリカの後追いを目指す情報社会論やネット社会論には不満で、日本ならではの情報社会論の確立。それが筆者の狙いであった。また、情報社会論における技術決定論と社会決定論の交通整理を行うための道具立てとしても、アーキテクチャという概念装置は有効であった。ミクロで見たとき、ウェブサービスのアーキテクチャは人の行動・振る舞いを決定するが(技術決定論)、マクロで見るとどのようなアーキテクチャがその社会で受け入れられるかは、その社会の特質を反映したものになる(社会決定論)。技術が社会を変えるのか、社会が技術を変えるのか、その問いを整理するうえで、アーキテクチャという分析対象は有用であると筆者は考えたのである。

筆者はなぜアーキテクチャに着目してきたのか。それは筆者なりに、社会学への限界を感じていたからだ。いや、より広く言えば、哲学でも思想でも批評でもなんでもよいのだが、ともなくもこの社会/世界の全体性を把握しようとする知的試みのすべてに、圧倒的なまでの不満を抱いていたからだ。社会というものを捉えるのに様々なアプローチが試みられてきたが、社会全体を捉えることはできない。そこで社会システムそのものを捉えるのではなく、むしろその外側の環境/アーキテクチャから社会の作動を観測するアプローチ。このいわばコロンブスの卵的な発想の結果として、筆者はアーキテクチャに着目するに至ったのである。それはいってみれば、高度に専門分化した近代社会システムにおける、「壁抜け」的な知的アプローチを可能にするものとして、筆者はアーキテクチャを選び取ったのである。

これは筆者がAKBに着目するに至った理由と完全に一致する。筆者はこれを<宗教>と捉え、分析することにしたい。近代以降、宗教はその役割を終えて失墜した。生きる意味はもはや神から与えられることなく、孤独な群衆が生み出された。それは近代社会が高度に専門分化したサブシステムを張り巡らせ、全体性を見渡すこと自体を放棄したからだ。逆に言えばそれ以前の社会は、宗教によって世界の全体性=世界観が用意されていた。世界がどのように構成され、どのような因果関係が世界を支配し、何に従っていけばどこへたどり着けるのか。そうした世界を捉える因果法則、あるいはこの世界を超えたメタ的次元を把握し、迷える子羊たちに生きる意味を与えるのが、宗教の役割だった。AKBは、まさに現に生きられる<宗教>としてある。それは近代が生み出したサブシステムを縦横無尽につなぎあわせ、さらには情報社会が生み出した様々なインフラの力を借りることで、私達はどこから来てどこへ行けばいいのかを指し示す。しかし、AKBは、これまでの宗教とは違って、何一つ超越的な次元を生み出すことがない。AKBとう宗教には徹頭徹尾、近接性あるいは内在性としかない。つまり、「ここではない・どこか」としての超越的次元を希求することなく、どこまでいっても目の前にある「いま・ここ」の近接的現場だけを通じて、超越的なもの/全体的なものを備給する、そんな手品のようなトリックを実現してみせるシステム。それがAKBなのだ。

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