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2013年4月 8日 (月)

「ラファエロ展」(5)~ローマのラファエロ 教皇をとりこにした美

ラファエロはローマに移り、ヴァチカンでみるみるうちに頭角を現し、多くの壁画を手掛けます。この展示では壁画を持ってくるわけにはいかず、複製版画や他の画家による模写が展示されていました。たぶん、美術史なんかで言えば、壁画はラファエルの中心的な仕事なのでしょう。でも、ここで展示されているものは、形骸、ぬけがら、としか私には感じられず、ラファエロがどのような画面構成をデザインしたかを想像することはできる程度のもの、別に見なくてもいいようなものに思えました。それは裏を返せば、ラファエロという画家の作品が仕上げということに、多分の細部の表現とか、そういうところの要素が如何に大きなものかということを、改めて分らせてくれるものでした。その意味で、地味な作品ですが、ラファエロが自身で仕上げたと考えられる肖像画を見ることができたことが、今回の展示における最大の収穫だったと思います。

Raffaeki話を肖像画に持っていく前に、『エキゼキエルの幻視』という作品を見ていただきたいと思います。小さなサイズの油絵の作品です。サイズは小さな作品ですが、構図は壮大で神話的なストーリーをあらわしたもので、言うなれば壁画で扱うようなものを、求めに応じて小さなサイズにして描いたものではないかと思います。考えられた構図で、当時としては革新的なデザインだったのではないかと思います。ラファエロらしく細部まで丁寧に描かれています。しかし、それが何っていう感じなのです。私には。今回の書き込みを通してラファエロには辛口と思われるかもしれません。正直に申せば、ラファエロに対するイメージは、ピッグネームでたしかに上手だけれど、優等生的というのか卒がないとは思うけれど、心の琴線に触れてこない。そういうイメージでした。表面的な美しさといったものを否定するつもりはさらさらなく、そういうもので、あまりに美しくて、危うさすら感じさせられてしまう作品は、それだけで魅かれてしまうものです。ラファエロは、よく言えば中庸だが、そういう突出したものがない。そう思っていました。この『エキゼキエルの幻視』もそうなのです。当時としては斬新だったのかもしれませんが、それを除くと何が残るか。何か、とても偏見に満ちた言い方ですが、そう問いたくなってしまうのです。喩えは変ですが、よく高級官僚の人の記者会見で受け答えのような、優等生的で無難なんですが、何のリスクもとっていない、聞くものに迫るものがない、そういうもののようなのです。ただし、これはラファエロだから言えることで、普通の画家なら、こういう作品を卒なく仕上げること自体がたいへんなことであることくらいは認識していてのことです。

Raffadoviziこういう話はこのくらいにして、肖像画のうちのひとつ『ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像』を見てみたいと思います。私にとって、今回の展示会の目玉は『大公の聖母』でも大作でもなく、この作品とこの後に紹介する2点の肖像画なのです。ヴァザーリの列伝やら伝記等に書かれているラファエロという人物は誰にでも好かれて、教皇から枢機卿、あるいは貴族から市井の庶民にいたるまで、だったそうです。気難しく人間嫌いなダ=ヴィンチやミケランジェロのような人とも親しく付き合って教えを受けたりと。それには、ラファエロという人物がもともと社交的な人だったのかもしれませんが、相手によって巧みに合わせることのできることのできる人だったのではないか、と思わせるものがあります。ラファエロの作品は多様で、様々な様式に対応しているように見えます。これは注文主のニーズに対応できるだけの柔軟性、いくつかのパターンを重層的に持っていたのではないかと想像してしまうのです。血液型のタイプでいえばAB型のタイプでしょうか。ラファエロの作品に、私が感じる“冷たさ”は、そういうところにあるような気がしています。そして、大規模な壁画のようなパブリックな場所で儀式とか不特定多数に見られるもの、あるいは多数がいる貴族の邸宅の広間で飾られるものは、そういうものとして描いたのではないか。『エキゼキエルの幻視』に感じた物足りなさなどは、そういうものとして私が見てしまったためかもしれません。それに対して、肖像画はもう少しプライベートな面があります。但し、この時代では肖像画は個人的に所蔵しインティメートに見入るものとは違い、公的な場とは、別の面で貴族個人の威光を示したりする公的な目的で使われた物でもあったと思います。しかし、例えば、この『ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像』でのラファエロには優等生的な要領の良さなど感じる余裕を与えないものであったと思うのです。かつてヴァルター・ベンヤミンが「複製芸術の時代」というエッセーの中で、現物のもつアウラ(オーラ)が複製になると消えてしまう、ということを言っていました(このエッセイ自体は、それを時代の変遷とし芸術そのものが変わることを説いているものですが、そうでなくては現代の文化はありえなくなります。)ラファエロのこの作品などは、カタログの美麗な印刷でもネット上の画像でも(当然、ここで貼り付けている画像でも)その良さは、上手く伝わらない体のものだと思います。それだけでなく、実物に触れても気づかない人は気づかないものだと思います。こんなことを書くと、そういうことに気付く俺は偉いと言外に言っているようですが…(実は自慢してます)その理由は何か問えば、圧倒的な情報量ではないかと思います。ラファエロの作品に全般的にいえることですが、作品の単位面積当たりの情報量が恐ろしく多いのです。それを印刷のドットやパソコンのディスプレイの粒子では粗すぎて情報が伝わりきれないのです。それは、あまりに微細な陰影とか、色の使い方のニュアンスとか、気が付かないと見落としてしまうものです。そのあたりに、もしかしたらラファエロは見るひとを試しているのかもしれない、などと想像を膨らませたりするのです。その細かさはいくら高精度の印刷でも追い付かないものです。そうなのです、それに気づいてしまうと、そういう細部が画面から溢れそうに見えてくるのです。例えば、画面の手前、長そでの衣装から出されている両手です。右手で書状を握る、その両手の指の表情。目は口ほどにものをいうという言い方がありますが、この絵を見ていると手は口ほどにものを言う、いいたくなるほど表情が豊かです。今までの展示を見てきて、他の作品では気が付かなかったのですが、この作品で気付かされて、遡って他の作品を見てみると皆、手に表情があるのです。例えば、アッシジの聖フランチェスコを描いた小品など、慎ましやかに描かれている指が異様なほど緻密に描かれ表情が感じられるのです。『ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像』にもどると、フランチェスコの小品で気が付かず、この作品で気付いたのはなぜかということなのですが。おそらく、ラファエロのバランス感覚によるものではないかと思います。つまりは、この『ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像』を書いたころのラファエロの成熟と画家としての知名度の高さがあってはじめて、細部が独走するほどのことを出来るようになった、ということではないかと思います。画家としての成熟が、多少細部が独走しても作品をまとめ上げることが出来るようになっていた。そういう細部がある程度、思うがままにえがかれることで以上に充実した情報密度の濃い作品ができてきた。このように細部の突出が起こった。別の例で言えば、着ている衣装の材質が肌触りの違いとして、目で見ているだけなのに、着ている感覚肌合いとして触覚で実感できるようなのです。それは、生々しさにも通じるものです。

しかし、作品全体を見ると何か変なのです。人物の頭部と上半身の身体のバランスが不釣り合いな感じがしますし、頭部が前に出過ぎな感じもして、どこかしっくりこないのです。これはラファエロの肖像画のほとんどに言えることで、こうなると下手というそういうことではなく、画家が意図的であったとしか考えられません。ラファエロが意識的だったかどうかは分かりませんが、ダ=ヴィンチのような解剖学的なリアルというものを、現代の私は常識として見ていますが、この時代はそうでなかったのかもしれないというのが第一で、第二には、ダ=ヴィンチ的なリアルさからズレていることは、細部で異様なほど緻密に描き込まれているものが全体の構図としては日常の視線からズレたものが入り込む、いわば異化という効果が生まれる、そこに通り一遍では納まりきれないような何かが、そこにあるかのような印象を見る者が受けてしまうことになるわけです。

そこで、全体として感じられるのは見るものを翻弄させようとでもいうような画家の悪意の視線です。そこにもはや優等生はいません。

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