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2013年4月19日 (金)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(8)

現代において宗教が「生きる意味」を与えるという時、そこにカルト的いかがわしさの問題は避けられない。大田俊寛は、オウムが単なるカルトというよりも、近代社会が必然的に生み出した存在だとする。近代社会は、「神」のような超越者を想定することなく、自由な個人を前提とする。近代的主体は、神にすがることなく自己判断できる人間のことだ。しかし当然のことながらそれに耐えられない者たちが現われてくる。だから近代社会は、必然的に反-近代的な思想を生み出す。それがロマン主義、全体主義、原理主義である。オウム真理教は、これらの反-近代的志向のアマルガムとしてある。これに対してAKBは筆者の考えでは、オウムを乗り越えた、資本主義と結託した宗教のようなものと捉えられる。オウムとコギャルを巧妙に合成した。いうなればAKBとは、いわば制服を着た少女を「推す」という関係性を根拠とした宗教である。狭い「現場」で起きている、世の中から奇妙がられているカルト現象という意味ではAKBはオウムのようでもある。AKBは制服を着て踊るアイドルなのだから、コギャルそのもののようだ。ファンにお金で投票させて夢を叶えるというのは、ある種の「マイルドな援助交際」といえなくもない。オウムとコギャルというモンスターを、むしろ資本主義の力も借りて統合し、国民的現象にしてしまったのがAKBではないのか。

私の考えでは、現代社会が「大きな物語」を失い超越者を失っている社会であるという時、そり処方箋は、「サリンを捲かないオウム」を生み出すしかないと考えている。生きる目的も、この世界が存在する意味もないままで、人は生きられない。しかしそれがオウムのように反社会的なものであってはまずい。AKBのように、「近接性」と「偶然性」という何一つ超越的な要素がないものを通じてでも、生きる意味とこの世界が存在する意味をつくり出すしかない。「誰かのために」生きる。それを少なからず提供している時点で、AKBは立派な宗教である。また別の角度からこういうこともできる。超越的存在の摩耗した現代社会では「あえてくだらないものとわかりつつもハマる」というアイロニカルな没入しかありえない。それはオウムに限らず、子供向けのアニメや漫画に大人になってもハマり続けるオタク達も同じことだ。しかし、AKBのオタク達はこうした心理からは程遠い。AKBにはアイロニカルな没入という感覚はない。ただ押しメンが好きなだけだ。どこまでも世俗的なつきあいに近いようなものがベースとなって、AKBに没入する動機付けが生まれている。それはどこまでもベタな次元の没入である。だから極端に反社会的な発想に行き着きようもない。

 

誰かのために生きること。しかしAKBの宗教としてのステージはそこにとどまらない。総選挙があるからだ。そして総選挙を通じて、あっちゃんはアンチからの攻撃に耐え、ある種の自己犠牲をAKBのために果たした。「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」AKBというものがもし宗教であるとすれば、それはこのあっちゃんという超越的特異点がそれを完成させたといってもよい。「推す」よりもさらに強い信仰の力。あっちゃんにはそれがある。私はまだ<世界宗教>という観点から見れば大変に規模の小さなAKBの総選挙も、今後も続いていけば、世界を一つにする可能性があると信じている。劇場公演を見て、握手会に足を運び、総選挙で投票する。こうしたメンとヲタの間の関係の絶対性のゲームを回し続けることで、あっちゃんのような小さなキリスト的存在をリザレクションさせるシステムとして、AKBはキリスト教を超える可能性がある。それはいってみれば、一神教への信仰による世界平和とは全く違う道である。AKBのファンにとって、あくまで信仰/推しの対象は一人一人のメンバーであり、それは異なっている。しかし総選挙の場を通じて、年に一度超越者を、センターを選ぶ。その瞬間、AKBという共同体はまさに一つになる。こうなれば民主的に超越者を決める多神教。それがAKBという<宗教>なのである。「推しメン」は偶然性で決まるが、「センター」は必然性で決まる。

 

私はこの本の中で様々なことを「論じ」てきた。しかし、それよりも何よりも、実際に「すること」、つまり現場に行きメンバーを「推す」ことに勝るものはないとも痛感している。「存在することの静かな感動を分かち合うだけでいい」まさにこれほどAKBを祝福する言葉があるだろうか。AKBにおいては、「思想を実践する」などという倒錯的な形とは違って、「論じることが、すること」でもあるという形で緊密にくっついているということだ。私はAKBについてみんなもっと論じるべきだと思う。たかがアイドルごときで、いやたかがアイドルだからこそ、人々は言葉の不毛な争いから逃れられない。リベラルではあり得ない。しかし、そうでしかありえない。そのことこそが、まさに「自分にとってものの見え方が、周りの人々にとってのものの見方と、どうしようもなくズレている」ということを否応なく知らしめるからだ。その矛盾をたしかめながら積分していく方法こそが、AKBという巨大な<宗教>なのだから。

 

 

AKBという現代に特徴的に見える現象を分析しているのだけれど、私には現在の社会で伝統的と思われている日本の組織の特徴の分析とダブって見える。たとえば、空虚のような、しかし、必然性がある前田敦子というセンターを超越者のように祀り上げるのは、停滞する日本の有名企業が無能な経営者を社長として空虚なリーダーに祀り上げ、個々の事業部がそれぞれの「推しメン」を好き勝手に追求し、全体の調和がとれてしまっているように見える。また、結局、AKBメンバーの個性というのは横並びのメンバー間の差異でしかなく、取り換えの利くファジーなパーツのようで、これは大企業で働く社員の存在に重なる。また、近接性という疑似的な直接的コミュニケーションの強調は「無縁社会」というテレビのメッセージに敏感に反応し、「三丁目の夕日」にありもしない原風景のようなノスタルジー幻想を抱いてしまう動きと妙に適合的ではないか。だから私は、これを読んで筆者は社会の停滞を生み出している既存の組織と同じような特徴を持っているAKBだけをなぜ積極的に取り上げようとしているのかを分析してもらいたいとおもった。それこそが筆者が最も語りたかったことで、実は、この本では、その外堀だけが書かれていて肝心なことが何も書かれていない。そして、その外堀だけを読んで時点では筆者の議論には説得力がない、という空回りをしている。

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