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2013年4月14日 (日)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(4)

第2章 なぜアンチに耐えられるのか─AKBのコミュニケーションシステムを読み解く

私の考えでは、AKBの凄さは、あっちゃんのような超越的存在を生み出すに至ったシステムの側にある。そこで、以下では、AKBの諸システムについて見ていくことにしよう。

注目すべきが、劇場公開や握手会といった、リアルの「現場」でのメンバーとヲタの間の交流機会である。そもそもはAKBの活動の中心は、「会いに行けるアイドル」というコンセプトが当初から掲げられているように、劇場ではほぼ毎日行われる公演や、CDが発売されるたびに開催される握手会である。そこでは、極めて近接した距離において、メンとヲタの二者のフェイス・トゥー・フェイスのコミュニケーションが行われる。宗教の比喩に置き換えるならば、ここでいう「現場」とは、ヲタ=信者にとっての聖なる信仰の対象としてのメン=神に出会う、教会のミサのような場所である。しかしそれはこれまでの宗教とは決定的に異なっている。なぜならそれは徹頭徹尾「近接」していることに意味があるからだ。つまり、「この世ではない超越的などこか」という宗教的領域とそれは全く異なる。ただ近づいて見ること、接すること。コミュニケートすること。AKBがもし仮に宗教だとすれば、それはどこまでもこうした「近接性」の力に拠っている。だひたすら近い距離で見る・会うということが、テレビや雑誌といったメディアを介して見るのとあまりに違うということに、衝撃を受けるのである。

そして結論を先取りすれば、AKBのメンバーたちがネット上での匿名のアンチに耐えられるのは、リアルの現場でのヲタからの承認の声を存分に浴びているからだ。劇場や握手会といった近い距離。AKBのヲタたちは、その近接性において見るメンたちに祝福と歓喜の声を上げ、AKBへの信仰を深める。その声を間近に受けるからこそ、AKBのメンバーたちは太陽のように輝く。つまり、「現場」があるからこそAKBは宗教たり得ているのだ。

そこには全くといっていいほど、神秘的な要素はないのである。AKBの場合は、これが「ゲーム」化されることで、よりメンバーとヲタの間の関係性を強化するように作用している。AKBヲタの間で使われる言葉に、「良対応」というものがある。これはメンバーと握手したときに、とてもうれしくなるような対応をしてくれることを指す。握手会に行くヲタの側からすれば、せっかくCDを買って握手する権利を得たのだから、どうせならこの「良対応」を相手から引き出したいと、「費用対効果」を考えることになる。ここで問題になって来るのが、握手会では握手券一枚当たり、数秒程度しか握手できないという「制約」の存在である。握手会に行くにあたっては、メンバーに何を言ったら「良対応」を引き出せるのか、知恵を絞って考えることになる。それはまさにゲームの攻略の喜びに近い。また、握手会はメンバーの側にとっても真剣勝負の場である。なぜならAKBにおいては、握手会の人気が、そのメンバーの序列に直結するからだ。だからメンバーの側も握手会では気が抜けない。なるべく多くのファンに気持ち良く帰ってもらえるよう、「良対応」を心がけているメンバーが多い。ゲームと言う言葉は、およそ宗教的な何かとは遠いという印象を読者に与えるであろう。しかしそうではない、ゲームだからマジでハマってしまい没入してしまうような、経験のアーキテクチャがここにはある。ここで興味深いのは、握手会というものが、アイドルとの接触という、ある種、疑似性的な商品を販売する場に過ぎないにもかかわらず、メンとヲタの間のマジな関係を生み出す場にもなっている、と言う構図である。それは所詮金儲けのビジネスの上に乗っかったものに過ぎない。それはたとえば「自由恋愛」のような、自由な個人同士の対等な関係性とは程遠い。だからそれは偽物のコミュニケーションである。そう考える人も多いだろう。もちろん、それはそのように見てしまえば、そのとおりである。ハーバーマスの言葉を使えば、AKBはコミュニケーションを商品として販売するビジネスである以上、どこまでも経済合理性を突き詰めた戦略的行為にすぎない。AKBヲタの用語を使って言い換えれば、それは「釣り」である。ヲタが喜びそうな言葉や行為を提供することで、自分への握手のリピーターとなってもらい、自分の営業成績を高めることを意味する。だからそれは、対等な個人同士がなんら騙す目的を持たずに自由に対話しあうコミュニケーション的行為ではありえない。人間にとって本来的な関係性とは当然後者であり、資本主義は人間同士の対等な関係を疎外する。これが従来からの左翼の発想である。しかし、AKBにおいては、そうではないのである。むしろ戦略的行為(釣り)がそのコミュニケーション的行為でもありうるような、逆にコミュニケーション的行為がそのまま戦略的行為にもつながるような、そんなあやふやな相補性が成り立っている。なぜなら、ヲタの側から見たとき、たとえそれが営業成績を上げるための釣りであろうとも、推しメンのマジの夢を叶えるためには、握手会だろうか投票券だろうが、CDを買うしかないからだ。逆にメンの側から見たとき、自分の夢を叶えるには、握手会だろうか投票券だろうが、CDを買ってもらって自分所に来てもらうしかないからだ。そしてそこでのコミュニケーションが、匿名のアンチに立ち向かう際の勇気の糧となる。ネットワーク社会となり、どれだけ離れていても、誰とでも無料でいくらでもコミュニケーションできる時代だからこそ、お金を払ってまで数秒での会話に行くと言う行為に、正義の感覚が、利他性の感覚が宿るのだ。それは免罪符の代わりに握手券をばらまく宗教といっていい。どこまでも自分たちと近い、そして自分達よりも弱いかもしれない、か弱い少女たちに、元気や承認をもらうこと。

AKBという「会いに行けるアイドル」の特徴は、メンとヲタが互いに顔が見えて認識できる「近接した距離」があるからこそ、メンとヲタの関係の相補性が生じる。これこそがアンチに負けない強力な絆を生み出しうる。その相補性の極北はゴルゴダの丘としてのAKBの総選挙に最も強く立ち現われる。AKBの総選挙と言うのは、非常に冷たく突き放してみれば、ただアイドルタクたちが自分の推しているメンバーをランクインさせるためにCDを買っている販促イベントにすぎない。だから、これほど現代における資本主義の搾取が見事に発動している光景もない。これが一般的な見方であろう。しかし、AKBの稀有な特徴は、こうした市場と共同体、あるいはネオリベラリズムとコミュニタリアニズムの奇妙な接合形態にある。そもそも票が金で買えてしまうという点において、それは政治と経済、あるいは選挙と市場という、これまで人類史上決して相容れることのなかった二つのシステムが合わさっている。普通の感覚であれば、金でいくらでも票が買えてしまっては不公正な選挙結果になってしまうと思われるだろう。しかし、AKBの総選挙はそうではないのだ。金で票が買えるからこそ、ファンが共同体のように団結できる。ファンの団結した思いが大量の票に変わり、「干され」と呼ばれる普段日の目を見ないメンバーのランク入りという夢を叶えることができる。そこでは、「金で買えるからこそ清い一票になる」という痛快なまでの逆説が成立しているのだ。個々に立ちあがっているのは、いうなれば見知らぬ他者への無限の隣人愛ではなく、メンとヲタの間の財力が尽くす限りの票数愛。CDに添付された握手券や投票券を購入し、少女たちを推すという利他性を巻き取りながら、資本主義が行き着いた果てに生み出した新たな宗教的愛。それがAKBなのである。

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コメント

宗教的愛ですか・・・確かに何かにハマらないとヒトは生きていけない。でも何か幼稚なモノにハマるっていうか、未成成熟な大人が多い社会なんですかね、日本ってば。おもしろい切り口な本ですね。

poemさん。コメントありがとうございました。慥かに何かにハマらないと生きていけない、といいきれるのかどうか。1945年の敗戦の焼け跡の中で心の支えを失って呆然としている人がいた、一方で現実の目先の食べていなければ生きていけないと逞しく生きた人もいたわけです。ただ、はっきり言えるのは、私自身も含めて典型的なサラリーマンはハマるというか、何かにすがっていない生きていけない人種で、現代日本人の社会ではそういう人種にみんながなりたがっている風潮があるということです。大企業に就職して安定した生活を求めるのは、そういう心象の裏面としてあると思います。とくに、このあと出てきますが、核心が空虚だと著者本人も言っていますが、日本の会社の実体とよく似ていると思うのです。私が著者に物足りないのは、そうしている自分に対して懐疑が働いていないことです。それがママゴトめいた印象を読む人に与えている原因になっていると思います。

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