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2013年4月 6日 (土)

「ラファエロ展」(3)~フィレンツェのラファエロ

Raffamadonna_2ラファエロがウルビーノの地だけに止まらず、フィレンツェにもたびたび出かけ、その地でレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと出会い、様々なものを吸収し、大きく自身の芸術を飛躍されたとされている時期のものを集めたということになっています。

この美術展の目玉にもなっている『大公の聖母』です。暗闇に浮かび上がるような聖母子像が何とも幻想的に映ります。青いマントのようなものを被るマリアの輪郭はマントの青が真っ黒な背景に融け込んでしまうように曖昧にされています。それに対して背後の光輪はくっきりと描かれ二人の金色の柔らかな髪や肌がそのなかで浮かび上がる様は神々しいという畏怖すら抱かせるものです。しかし、この背景の黒と人物の輪郭は後世の加筆ということだそうです。ラファエロの真筆では背景が描かれていたということですが、私は、別にこれはこれでいいと思いました。というのも、この作品を見ていて感じられたのは、重力がないかのような描かれ方をしていることでした。それは、キリストを抱くマリアの腕に力が入っておらず、抱かれたキリストもマリアの腕に支えられた部分に身体の荷重がかかっている感じがまったくなく、キリストがマリアに抱き着いている手の描写も単に添えられているだけで、しがみついているものにはなっていない。つまりは、キリストはマリアの脇を浮遊していて、それをマリアが遠くへ飛んで行かないように手でつなぎとめているかのような描かれ方になっているのです。そのような非現実的なあり方の背景には、暗闇の方がむしろ相応しい。というよりも、背景が暗闇であることによって、視線が二人に集中することによって、そRaffamadonna2の不自然さが際立ってきて、それが非日常性に気が付かざるを得ず、人間を超えたさりげない神々しさに気付かされるという構成に結果的になっていると思いました。普通の人間ならば、“地に足がついた”というような重力の呪縛から解放され、浮遊するというだけで、日常の風景がどれだけ異質なものとなってしまうかというのは林ナツミ(左下図)という写真家の浮遊する人物の写真を見ていると明らかです。ラファエロのこの作品では、キリストという幼子が、はっきりそれとは分らないながら、それとなく想像できるような感じで、結果的に普通の人の子でないところが見えてくる、ということに結果的になっていると思います。(ついでに書き添えれば、キリストの足の部分の描き方、とくにその小ささや足の指の不自然なほどの長さを執拗なほど精緻に描いているのは、この画家の偏執さを感じます。多分、そこにラファエロという画家の特徴が表われていると思います。それにしても、このような足では体重を支えきれないだろうと、しかし、神の子は宙に浮いていると考えれば、それなりに納得できます。)これは、似たような構図のペルジーノの作品(右図)と比べると、その違いが分かります。Raffamadonna4_3

また、同時展示で大公の聖母のためのスケッチ(左下図)の一つが展示されています。これを完成した作品と比べて見ると、明らかに印象が違います。その一番大きな違いはマリアの視線ですスケッチでは、こちら向いて、こちらを見ている、見返しているように描かれています。これに対して、完成した作品では、マリアは俯いて視線を落としています。眼差しの違いだけで、こうも違うのかと驚かされるほどですが、スケッチのマリアでは、こちらを見つめることで表情がハッキリわかるのですが、完成した作品では、彩色もされているのにマリアからは具体的な表情、あるいは感情の動きが消えてしまっているかのようです。そこにあるのは抽象化された一種の神々しさというべきおだやかさとでいうべきものでしょうか。悪く言えば、曖昧な呆けたような顔になっています。よく考えてみれば、赤子を抱いていて、視線をそちらに向けないというは不自然です。しかし、そこで自然なものにしてしまったら、単なる普通の母子像になってしまい、それはスケッチに描かれた姿で、聖母子の超越的な姿にはならない。そこで、さりげなく普通の姿からズラシを行っている。それは、ラファエロが学んだであろうダ=ヴィンチの聖母子像のマリアが赤子の方を向いているのに対して、あるいはラファエロ自身の描いた聖母子像の多くとも、その点でこの作品が特異な点かもしれません。むしろ、ルネサンス以前の伝統的な構図に近いのではないか、例えば、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品などのようか。しかし、これともキリストの描き方がまったく違っています。決然とこちらに視線をおくるフランチェスカに対して、ラファエロのキリストはマリアに倣うように穏やかに視線を落としています。

Raffamadonna3_2あえて深読みすれば、絵を見るということで、こちらからの視線を向けても、描かれた聖母子は、それに対して視線を返さない。ということで、信仰を捧げてもユダヤ、キリスト教の神はそれを返してはくれません。旧約聖書、たとえばヨブ記の中で、ヨブは何度も神に問いかけますが神は何ら答えることはありません。そういう超越的で、抽象的な存在として神があるというキリスト教の伝統から考えれば、この『大公の聖母』での、こちらに視線を合わせないで、何も答えない、曖昧に穏やかそうな顔をしているだけ、ということは伝統的な神のあり方に近いものかもしれません。

それもまた、暗闇という背景とうまくマッチしているように感じられてしまいます。

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