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2013年4月 1日 (月)

あるIR担当者の雑感(115)~1票の格差を巡る違憲判決への疑問

いつも書き込んでいる話題に比べて違和感があるもしれませんが、学校で法律の勉強を生半可ではありますが受けた者として、また仕事の中でも会社法や金商法といった法律に関係した業務に携わっている者として、法に対する姿勢とかセンスということに関して、どうしても鈍感ではいられないし、リーガルマインドという考え方はIRの業務に携わっている場合もベーシックな姿勢となっていると考えている者なので、そこで見られる今回の違憲判決とその報道に接していると、疑問を感じてしまっているので、今回は、いつもの趣旨から少しずれるかもしれませんが、書き込んでみたいと思います。違和感を持った方は、このまま、ページを移っていただきたいと思います。もしかしたら、不愉快な思いをされるかもしれません。

先ずは、そもそも論というのか原則論から考えます。民主主義という政治のあり方において、選挙で代表を選出して議会で議論をして物事を決めていくという、議会制民主主義といわれるシステムは、これしかない唯一無二というものではありません。例えば、古代ギリシャのポリスでは直接民主主義の形態がとられていました。だから、民主主主義イコール選挙ではないということ、あくまで便宜的に選択されている制度であるということです。近代民主主義の議論の中で、議会制民主主義の正当性というのが、だから何度も議論されています。たとえば、選挙で選ばれた代表が多数決で物事を決めても、それは多数意見というだけで正しい結果にはならないというのが、その一つの大きな議論です。例えば、実は多数の人々が嫌うような負担を強いるような施策が実は一番やらなくてはならないことだという時、多数の意見に従ってしまえば、手をつけられなくなる。そういう時にあるというものです。実際、歴史を見返してみても、ナチスを率いたヒトラーは人々の圧倒的な支持を受けて合法的に政権を握ったわけです。だから、多数の意見を代表したものが正しい結論を導くとは限らない。この時に、代表というのは多数の意見と切り離されるという議論が生まれます。つまり、選挙で選ばれた代表というのは、選んだ人々の利益とか縁とかに束縛されてはいけないということです。具体的には、地域の代表というのではなくて、国家全体のことを考えて、時には一地域(自分の選出地域であっても)に不利益となることも敢えて決断しなくてはならないということのわけです。だかに、議会制民主主義において選出された議員というのは、そういう国家レベルのことを考えられる人が選出されて、その人たちが、選ばれたという束縛から自由に議論をすることで、正しい結論に近づくことができる。というのが議会制民主主義の正当性を担保する議論となっていったわけです。それが衆愚政治に堕すことに対する歯止めとして働くということです。

そこで、一票の格差という議論に移ります。一票の格差というのは、選挙区によって人口に対する選出される議員の数の比率が違っていて、それが平等でないという議論です。しかし、議会制民主主義の原則を単純に当てはめて考えてみると、この議論は衆愚政治の議論に限りなく近いことが分かります。選挙区から選出された議員が選挙区の利害に束縛されず国家レベルでものを考え議論するならば、選出される議員の票数に格差があっても、国政ベルの決定に影響力はない筈です。その結果、選挙区においてたとえ議員一人に対する人工に格差があっても、結果として得られるものにその格差は反映しないのが議会制民主主義のあるべき姿のはずです。

もし実態がそうなっていないということなら、そうなるようにシステムを考え直すべきというのが本質的な議論のはずです。そこで、そうなっていない実態を認めて(実態を客観的に認識するのは必要なことです)、それを追認するかのような議論を進めてしまうのは、本質の取り違えではないかと思います。実際のところ、そんな暇はないということなら、そういう議論をすべきが、それが本質的な議論とすり替えられてしまっている。つまり、今の一票の格差の議論の前提に議会制民主主義は議員は選出された地域の利害を代表して議論をするということがいつの間にか前提されているということです。そうでないと、一票の格差という議論が成立しません。つまり、じっさいに都市部の人口の多い地区と地方の周辺地域の人口の少ない地区とを比べてみると議員一人当たりの人口が大きく違うというのが、実際の一票の格差です。裁判というのは、抽象的なことでは始めてくれないので、そこに実質的な利益が必要です、条文の哲学的解釈だけでは裁判は起こせません。そこから実際に不利益が生まれ、それが被害となった時に、それを是正するために初めて裁判を起こすことができるのです。だから、この一票の格差の裁判でも、実際に被害が生じているはずです。それは何かと考えれば、その前提として、国会での決定が、地域の利害を代表した議員によってなされていて、その議員は都市部の人口の多い地区よりも地方の人口の少ない地域のほうが人数が相対的に多い。国会の議論の方向を見ていると都市部と地方の利害が対立する場合、都市部に不利な決定がなされている、そこに不平等が生じている。そういうことが不利益ということのベースとなる考えになっているように見えて仕方がありません。実際のところ、このことに対して説明している判決文も、学者の解説も、マスコミの解説もありません。

実際のところ、各地の裁判所で沢山の違憲判決が出されているということは、その訴訟を提起した人々は、実際にその不平等をうけ、それによって不利益を受けているか、あるいは何かの要求を政治に対して行いそれが、不平等が原因で受け入れられなかったということがあったということのはずです。しかし、新聞やテレビの報道ではその一つ一つの事情が何一つ説明されていません。また、政治というのは実際面では利益調整の要素もあるわけですから、人々が要求を通すということ、あるいは不利益を是正させるということについては政治に対しての様々の働きかけを行った結果、どうしても何も変えられなかったということの結果、やむを得ず裁判という手段を使わずにはいられなかったはずです。そうでなければ民主主義での基本的なルール、権利の上に胡坐をかくなということをする、そうでなければ民主主義の政治システムは民意を吸い上げられず機能しなくなりますが、それを十分にしているのか。そのあたりが十分に伝わってこない。というよりもまったく伝わってこないのです。マスコミの報道だけを見る限りでは、単に手続き上で1票当たりの不平等があることだけが問題となって判決が出たようにしか読めないのです。

これは、今まで述べてきた立場で考えれば本末転倒としか言えないです。私の考えている民主主義という政治システム、それを基につくられた憲法という法律の人権条項の条文の文言を読む限り、一連の違憲判決の判決文には、その根拠が読み取れません。まして、そこから裁判官が憲法とそのベースである民主主義という政治システムの原則をどうとらえているのか全くイメージできません。これはまた、別の面で大きな違和感を持たさせるものです。

それは、そもそも三権分立、そして違憲立法審査権とはなにかという原則論です。三権分立論として歴史上有名なものはモンテスキューの「法の精神」という著作であることは社会科の教科書にも書かれていることです。その以前、憲法の源流の一つである英国の「マグナ・カルタ」は当時のジョン王の専横に対して貴族が歯止めをかけるものでした。それが象徴的なのですが、もともとヨーロッパにおいて議会というのは強大化し専横に走る王権を如何に抑えるかの手段の一つとして機能してきたものと言えます。だからヨーロッパにおける権力分立のシステムというのは権力を執行する王権に対して、貴族あるいは市民の代表による議会を対置させて王権の独走を抑えるためのものといえます。もともとは、この二本の対立関係が中心でした。しかし、王権の独走は議会で決めた法を度々無視するというわけで、法官貴族であるモンテスキューはこの対立関係の中の議会を補助すべく司法を加え三権分立としたというのが内容と言えます。そして、時代は大きく下って、20世紀になったところでヨーロッパに民主主義が生んだ奇形児ともいえるファシズム、その代表例としてヒトラーとナチスが現われます。前にも言いましたように彼らは合法的に権力を握り、合法的に議会を無力化し、合法的に独裁体制を作り上げました。このとき、ドイツにはドイツ国法学という輝かしい憲法学の学統がありました。ゲオルグ・イェリネックやハンス・ケルゼンといった憲法学者たちの法実証主義といわれる憲法学は、日本の戦前から戦後にかけての憲法学の源流でもあります。その輝かしい憲法学もナチスに対して何の歯止めにもならなかった。それはナチスが形式的に合法的だったからです。手続きは民主的だった。民主主義というのは少数意見を尊重しなければなりません、そのなかで当然民主主義自体を否定する意見も尊重せざるを得ないのです。形式上、民主主義はすべての意見を肯定せざるを得ない。その隙をナチスは衝いたと言われています。それには学問も議会も無力だった。その深刻な反省の中から生まれたのが、戦後の西ドイツのボン基本法と憲法裁判所と言われています。つまりは憲法判断はたんに手続きが法律の条文に形式的に適合しているかという解釈だけではないはずなのです。そこには民主主義という政治システムそのものを問うという繊細で微妙な議論があるからこそ慎重で、しかも大胆な議論が求められているはずです。このようなそもそも論で、今回の一連の違憲判決を見てみると、手続きで平等率の数字を満たしていればいいのか、という議論になってしまっているように見えて仕方がありません。

それは、これらの判決に対して、国会議員の人達が言っていることは、程度の差はあれ数を調整すれば形式的に違憲ではなくなるということです。それが司法の権力分立、あるいは違憲判決のそもそもの原則から考えて、そんなものでいいのかということなのです。

そして、そもそも(またそもそもです、訴訟を提起した人々の不利益は解消されるのかというと、別問題ではないのか。そうです。そこでまた、別の方面に行きますが、実際的な話として、都市部の人口に比べて割り当てられる議員の数が少ないのはなぜかという現実的な話です。なぜなのかということを、政治学者やマスコミはどうして議論しないのか、これも分かりません。だって、その原因が分かれば、何も裁判など起こさなくても、議員に働きかけて議員自身に直させるインセンティブを与えられるわけです。それもやられていない。単純に考えれば、都市部の議員定数を増やすことが、自民党にしても民主党にとしても、多分いずれの政党にとってもメリットがないからではないでしょうか。端的に言えば、投票率が低い、組織化されていない、傾向が不安定で読めない、などのことから議員を確保しにくい。つまりは政党の立場から見て選挙の効率が悪いということではないか。これに対して、地方では、共同体とか農協とか組織が維持され、あるいは議員の後援会と選挙民とのネットワークがあるといったことではないか。ということは、都市部の住民に比べて地方の住民はそういうものを維持させる努力をしているということです。政治に要求を届けるために、日常的に政党にとってメリットのあるようなことを維持するという努力をしているということです。これを都市部の住民がしているのか、単なる競争で言えば地方から取り返すということを考えれば地方以上の努力が必要なはずです。実際、自民党が小泉政権の当時、小泉首相は「自民党をぶっ壊す」といって、地方型から都市型へと自民党の性格を変えようとしました。それが続けば自民党は大都市に基盤を置いた都市向けの政策を展開する政党になって行ったかもしれないのです。そうなれば、議員構成も都市が中心となって選挙区構成も、それに合わせて変えていくインセンティブが生まれる。しかし、その後の選挙では自民党は都市部を中心に大敗北をうけ政権を譲り渡します。議員としては努力しても報われない事例を作ってしまったわけです。別に民主党に投票したのが悪いという単純なことではなくて、政治を変えようという継続的な努力を、選挙を利用したインセンティブという点でやっていたのかということなのです。これは一種の市場原理と考えてみてください。議員をこちらに誘導するためにニーズを掴み努力を真剣に続けたものが市場で勝つのは当然ことではありませんか。それをやっていないで、不公平だというタテマエをいうのはズルです。平等というのは機会の平等のことで、結果の平等ではないはずです。今回の違憲判決については、努力をするということをしないで、結果の平等を求めるという反則をしているように見えて仕方がないのです。

異常に長い書き込みになりましたが、もしこれを読んで不愉快な思いをされた方がいらっしゃるようでしたら、ご勘弁願います。たんなるいちゃもんではないかと怒りを覚えた方もいらっしゃるかもしれません。ただ本人はロジカルなつもりでいます。もし、論理が破綻していると考えられた方がいらっしゃるようでしたら、お手数かもしれませんが、ご指摘いただければ幸いです。私自身、できれば、これは誤解である、あるいはここに書いたことは理不尽であると思い、自分を納得させたいという思いもあります。

また、一連の雑感をお読みいただいている方には、ここに書き込んだことは、IRということに置き換えて読み込めると思っていただいた方が抵抗感は少ないかもしれません。

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コメント

システムを考え直すべき、というご指摘はもっともだと思いました。

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