宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(8)
最後に仮定(5)完備な契約を締結することが可能であるということを緩和することがエージェンシー問題にかかわる議論となる。企業内には企業を一定の方向に動かそうとする様々な力関係が存在する。とりわけ配当政策に影響を与える関係者は経営者、株主、債権者である。これらのステークホルダーの異なる利害は常に対立しており、企業の行動とは彼ら独立した経済主体の行動が均衡した結果であって企業そのものが意思決定を行うわけではない。ただし、エージェントである経営者は経営という現場に直面し、主体的な意思決定を行うため彼の行動は企業価値の形成にとってとりわけ影響力が大きい。そのため何らかの方法によって経営者の行動を企業価値拡大に向かわせなければならない。実際にはエージェンシー関係が不完備契約のもとで成立している現実を考えなければならない。そのため、様々な方法で経営者行動を企業価値最大化に向かわせる必要がある。その対応策がモニタリングとインセンティブという二つの仕組みである。しかし、モニタリングを行ったり、インセンティブを提供したりするには多大なコストがかかり、それがエージェンシーコストとなって企業価値に影響を与える。このようなプロセスの中で配当政策が経営者への規律付けとして有効に作用することになる。市場による経営者へのモニタリングという点から配当にふたつの機能があることが指摘されている。第一に、企業の資本投資政策を所与とすれば配当の支払いを増やす時に企業は資本市場を利用して配当支払のための資金調達を行う必要があるが、その際には資本市場を通して投資家による監視を受けることになる。例えば株式や債券の発行に伴う審査が必要であり、またエージェンシーコストを反映した発行ディスカウントが通常は要求される。このように資本市場は経営者の監視を低コストで賄えられると考えられ、配当は企業を監視コストが低い資本市場にとどまらせる機能があるとしている。第二の機能は経営者、株主、債権者のリスクレベルの調整である。一般的に投資家は分散投資を行うことによってリスクを低減することができる。しかし、分散投資ができない経営者は分散投資が可能な投資家に比べてリスク回避的であると考えられる。自己資本比率を維持するために配当を控えることは経営者にとってリスク低減の有効な手段だが、経営者が積極的な投資を行わなくなると株主は負担したリスクに相当するリターンを得ることができなくなる。その結果、株主のリスク負担が相対的に大きくなり、債権者に利益をもたらすことになる。配当を操作することによって株主、経営者、債権者が負担するリスクを変化させることができるのである。配当は企業のステークホルダー間の利害調整弁として役割を果たすと期待できるのである。一方、経営者が経営の現場で自由に使うことができる手持ちの資金すなわちフリーキャッシュフローを配当として社外流出させることによって削減すれば経営者の機会主義的行動は抑制され、結果として企業価値の向上が期待できる。つまり、企業内に余剰資金を残していると現場にいる経営者はその資金を自分のものにするか、もしくはその資金を自分の私的利益だけのために費消してしまい、企業価値拡大にとって無駄な投資や過剰な投資が起きてしまう。そこで経営者の自由裁量を狭めて企業価値向上を目的とした行動以外の選択肢を採らせないというアイディアがフリーキャッシュフロー仮説である。また、経営者側の立場に立てば私的利益への投資を行わないという株主への意志表示となる。配当の支払いはそのような経営者の意志表示を表わしている。配当支払はエージェンシーコストの削減効果となって本来毀損されている企業価値を回復し、拡大する可能性を持っている。フリーキャッシュフロー仮説においては配当を多く支払うことが企業価値を高めるという結論になる。これに対して成熟性仮説は企業が成熟期に近づくにつれて積極的な株主還元を行うという理論である。創業まもない成長期にある企業は有望な投資案件を多く持つために常に積極的な事業投資を行うことが求められる。しかし、成長性が高い一方で信用力が低いために資本市場における資金調達には強い制約がある。そこで、目先の株主還元などを目的とした社外流出を抑制し、投資資金の確保を優先させることになる。このような企業が黎明期を脱してやがて成熟期に入ると投資案件の減少とともに成長機会にも限界が訪れるが、利益率が安定しているため社内に現金が蓄積されやすくなる。結果として配当を増やすことによって株主還元を行うインセンティブが高まることになる。これはフリーキャッシュフロー仮説と同様の結論と言える。企業の成熟期において投資を続けると過剰投資の問題としてエージェンシーコストが高まるが、増配は過剰投資をしないという経営者のシグナルとして受け止められるという点で、成熟性仮説はフリーキャッシュフロー仮説の重要な要素であると理解できる。そして、経営者が自分自身の負うリスクを回避するために採る行動も経営者による私的利益の追求の一つである。例えば何らかの理由で企業の先行きが不透明になった場合、経営者が配当を減らしてフリーキャッシュフローを蓄積することによって非常時に備えようと考えることは自然である。企業個別のリスクが配当政策に影響を与えるという考え方が非システマティック仮説である。株主は経営者に比べるとリスク許容度が高い経済主体である。なぜなら株主は株式市場で分散投資を行うことによって非システマティックリスクを低減することが可能だからである。一方、自社が生むキャッシュのみに自分の給与が依存している経営者はリスク分散ができない。そこで企業固有のリスクが高まると経営者は配当を減らしてフリーキャッシュフローの蓄積に走るというのが配当政策における非システマティック仮説の典型的な帰結となる。
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