無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(5) | トップページ | 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(7) »

2013年4月17日 (水)

濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(6)

第3章 人はなぜ人を「推す」のか

あっちゃんすでにAKBを卒業したが、AKBというシステムは続いて行く。今後AKBは、あっちゃんのような小さきキリスト的存在をリザレクションさせるシステムしていくだろう。AKBの宗教的システムとしての真価は、あっちゃんが卒業した今こそ問われている。そのキーワードとなるのが、「偶然性」である。AKBにおける偶然性は、前章で述べた「近接性」と並び、AKBという宗教的システムの柱となる要素である。そしてそれは、従来の宗教とは全く異なる宗教的機能を有している。本来宗教は「超越性」を志向する。現世とは遠く離れた「ここではないどこか」を志向する。この世界そのものを超えた超越者=神を信仰する。しかしAKBはそうではない。徹底して、いま・ここにある、目の前のメンバーとの関係性だけが絶対である。つまりAKBは超越性なき近接性のみを貫いた宗教的システムなのである。これと同じことが、AKBにおける「偶然性」についても言える。ここで言う「偶然性」とは、死・不運・災害といったネガティブな事柄を指している。この世界においては、なぜかどうしようもなく訪れてしまう不幸がある。その不幸がなぜ自分にもたらせるのか。なぜ他の誰かではなく、たまたま、この自分なのか。別ようでもあり得たという不確実性。これが偶然性である。そして人間は、むきだしの偶然性には耐えられない。そこで人間がすがるのが宗教である。例えば神のような超越者を持つ出し、これは予め神が決めた運命なのだと理解すれば、「偶然」の不幸が突きつける「なぜ?」からは逃れられる。宗教は偶然を必然に置き換えることで受け入れ可能にするメカニズムとしてある。では、AKBの場合はどうか、このように見てきたような宗教のあり方とは全く異なる。AKBにおいては、「偶然性」は受け入れ可能な形で飼い馴らされるのではない。むしろAKBという宗教的システムにおいては、端的な偶然性がむき出しになって宗教的体験をもたらすのだ。偶然性こそが、AKBにおいては推しメンとの関係性を決定づける。関係の絶対性としてのAKBにおいては、偶然性こそがメンとヲタの関係性を決定づける最大のファクターとなる。筆者は、メンバーとの出会いは一目ぼれのようだという、そこに「偶然性」が作用している。

AKBにハマるきっかけというのは、劇場でのメンとのレスがもたらす一目惚れのように、極めて刹那的な瞬間からはじまる。それは教室での恋のはじまりとさして変わることのない、ごくありふれた「恋」の感情にすぎない。普通の恋愛であれば、こうした些細な衝動から入って、愛という永遠の関係へと昇華していくことが夢見られる。しかしAKBはそうではない。そこで夢見られるのは、自分が恋している/推しているメンバーの人生の成功である。そこでは、メンバーへの愛情が投票という疑似政治的な行為に置き換えられる。はじめは劇場のような場所で、「偶然性」の作用に誘われるままに一目惚れの経験をする。するとCDを買って握手会に行くようになる。一目惚れした相手だ、会いたいと思うのは自然なことだ。そしてどんどんそのメンバーと親密になりたいと思って、あれこれ考えるのも自然なプロセスだ。そうして握手会に通い詰めているうちに、どんどんメンバーとの関係性は親密になる。さらにその子のパフォーマンスを追いかけて見ているうちに、「成長を見守る」という感覚が芽生えていく。そしてそのメンバーが抱いている夢も知るようになる。ファンとしては、その子の夢を叶えたいと思うようになる。それを叶えてあげるためにファンができる手段は何か。その一つが、選抜総選挙での投票である。

このようなアイドルを愛するということには、普通の恋愛と比べれば、なんの見返りもない無駄な行為である。しかしそうではないのだ。AKBはたしかに疑似恋愛である。それはアイドルという形態をとっている以上、むしろもっとも主要な要素と言ってもいい。だが見方を変えれば、それはかつての宗教的性格を強く有していた時代の恋愛に、先祖返りしているといっても過言ではない。もともと西欧で恋愛(ロマンチックラブ)が始まった背景には、キリスト教的な神への愛をベースに、貴婦人への情熱的に愛を訴える、というものがあった。階級が異なる貴婦人だから、本当は自分と恋愛などしてはいけない対象。そんな恋愛不可能な相手だからこそ、ますます自分の衝動は燃え上がる。自分の理性では抑えられない情熱が湧きあがってしまう。それがロマンチックラブというものであった。しかし、残念ながら、高度にコミュニケーション手段が発達した現代情報社会において、そうした「不可能な愛」に燃え上がる等ということは、なかなか誰にもできることではない。そこに現われたのがAKBである。それはひとことでいえば、ゲーム感覚で気軽に参加するにも拘らず、いつのまにか「不可能な愛」のようなロマンチックラブの理念に限りなく近い経験を得ることができる、極めてきとくなシステムである。もちろんそこでは、AKBのメンバーと本当に恋愛をすることはできない。しかしそれは言い換えれば、AKBにおいては、まさに不可能な愛が大観できてしまうということでもある。

AKBは疑似恋愛である。しかしAKBのメンバーを「推す」ということは、決して恋愛感情だけに還元されるわけではない。AKBのメンバーを推すということは、AKBの子コンセプト「成長を見守れるアイドル」にある通り、成長を見守るということの喜びでもあるからだ。それは有体に言えば、子供の成長を見守る親心に近い。つまりAKBは、疑似的な家族愛に近いものすら提供してしまうのだ。成長を見守る愉悦。それはほとんど人間にとって、動物的にインストールされている快楽なのだろう。人間は誰しも未熟な存在として生まれる。特に人間は他の動物に比べ、独り立ちするまでの期間が長い。だから人間は未熟な存在を見守らなければならない。そのために未熟な人間を見守ることに本能的に喜ぶような感情を進化させてきたのだろう。それは本来であれば家族つまり自分の子ども達や親族に向けられる感情だった。しかしAKBは、近接性と偶然性の元に、本来であれば血のつながった存在に抱く感情を、「推しメン」である未熟な少女へと差し向ける。

« 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(5) | トップページ | 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(7) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(5) | トップページ | 濱野智史「前田敦子はキリストを超えた─<宗教>としてのAKB48」(7) »