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2013年5月

2013年5月31日 (金)

エレン・メイクシス・ウッド「資本主義の起源」(4)

第3章 マルクス主義の代替理論

移行論争において説明もされず、取り組みもされずに残ったものがあるとすれば、それは、どのような状況下で、またいかにして、生産者が市場命法に従属するようになったのかという問題であった。

歴史家ロバート・ブレナーは「産業化以前のヨーロッパにおける農民の階級構造と経済発展」という論文を発表することで論争を引き起こした。この論文は歴史叙述の二つのモデル人口学的モデルと商業化モデルを批判の対象に取り上げている。彼は、これらのモデルでは次の事実が説明できないことを強調した。すなわち様々な国で相異なる、実に正反対でさえある結果が同じ要因を通じて生み出されており、階級間の所得分配だけでなく、長期的な経済成長や生産力の発展から見ても、結果はさまざまである。明らかに類似の原因─類似の人口学的パターン、交易を増大させる同じネットワークへり編入─から異なる結果が生じておりこのことはこれらの原因の独立変数としての地位に大きな疑問を投げかけており、支配的なモデルの説明能力を大きく損なっている。これに代わってブレナーは、近代初期のイングランドにおける自立的な経済成長の確立をもたらした前例のない歴史過程を説明する説得力ある代替案を提示した。彼の説明は、社会的所有関係のさまざまな変化に焦点を当てている。そのような変化こそが、人口学的周期や交易の拡大といったその他の要因に対して、さまざまな状況に応じて異なる影響を与えたのである。

ブレナーは、二つの対立する生産様式が互いに対抗し合うという移行モデルでは封建制度から資本主義への移行の問題を扱えないと考えた。彼が一貫して探し求めていたのは、すでに存在している資本主義の論理を前提にすることのない内的なダイナミズムであった。領主と農民とがイングランド特有のある特殊的条件の下において互いに階級的衝突を繰り返し、自己を現状のまま再生産しているうちに、資本主義のダイナミズムを知らず知らずのうちに発動させるという状況が生まれたのである。それゆえブレナーは、旧モデルや、それが孕む説明すべき事柄を説明抜きで前提するという傾向とは全くかけ離れた立場に立っていた。ブレナーに言わせると、中世ヨーロッパ一般の特徴である見なされた条件は、イングランドに発生した資本主義の発展、つまり自立的な経済成長過程の特殊性を説明するうえで十分なものと考えることはできないのである。実際、彼の理論は、封建制度の解体がヨーロッパにおいて複数の結果をもたらしたことを明らかにしている。

ブレナーは明らかにドップとルトンの影響を受けているが、彼の議論とドップ等の議論との違いは明らかである。彼の議論において効果的に用いられる原理は、強制あるいは命法であり、機会ではない。例えば小商品生産者や独立自営農民がここで主要な役割をはたしているとしても、それは機会の担い手としてではなく、命法のしもべとしてなのである。独立自営農民は競争の圧力に屈服した資本家的借地農の典型であったし、いったん農業資本主義の生産性をめぐる競争が経済的な生き残りのための条件を設定しさえすれば農地所有者でさえそのような圧力を免れることはできないであろう。地主が地代を借地農の利潤に依存させたことにより、地主も借地農も市場での成功に依存するようになった。地主も借地農も、農業の「改良」、つまり革新的な土地利用や技術による生産性の向上に利害関係を持つようになった。イングランドの資本家的借地農は、資本家へと成長した単なる小生産者ではなかった。生産手段に対する特殊な関係、つまり土地そのものを使用する条件がある意味で彼を最初から資本家に仕立て上げていたのである。つまり彼が資本家になった利用は、彼が成長してある適切な規模や水準にまで繁栄を遂げたからだけではなかったし、彼が相対的な富によって賃労働を雇用することができるようになったからだけでもなかった。そうではなくて、自らの自己再生産の手段との関係が、彼が雇ったかもしれない労働者もろとも、彼を最初から市場の命法に従属させたのである。

ブレナーは、なぜ、どのようにしてそうなったのかの説明を試みた。つまりどのようにして生産者は再生産する手段や土地さえ市場以外の方法で入手することができなくなったのか、どのようにして搾取の地主的形態が「経済外的」な剰余取得から資本主義的地代の領有へと転換したのか、競争の命法に反応して行動することを地主と借地農はいかにして強制され、またそれができるようになったのか、新しい領有の形態はいかにして新しい強制を確立したのか、この強制はどのようにして農民層分解を左右したのか。もちろんこれは、地主により直接的な強制を通じて引き起こされた。なぜなら彼ら地主は、大規模かつ集中された土地保有に対して新たな種類の経済的利害関係を有するようになったからである。だが

それと同様にこれは、純粋に「経済的」な競争の圧力を通じて引き起こされた。プロレタリアートの大量発生は、この過程の始まりではなく終りであった。経済的行為者が市場に依存するようになったのはプロレタリア化の結果ではなく原因であったということは、ブレナーにとっていくら強調してもしすぎることはない。ブレナーの議論の際立った説得力は、それか資本主義およびその新たなかつ歴史的に特殊な経済的論理とを生み出した歴史過程の特殊性を強調していることであり、資本主義がどのように生まれたのかを説明するための説得的な努力を彼が行っていることである。

ブレナーは1993年『商人と革命』を出版し、マルクス主義的歴史記述のブルジョワ革命概念が実は商業化モデルと多くの点で共通しているという事実を指摘した。彼の議論によれば、伝統的なブルジョワ革命概念は、マルクスの仕事の中でも18世紀の啓蒙主義の機械論的唯物論にまだ大きく存していた時期に属しており、マルクスの成熟した経済学批判とは著しい対照をなしている。初期の理論では、生産力は分業を通じてほとんど自然に発展し、逆に分業は市場の拡大に応じて進化する。こうして資本主義の発生を説明するために、それの先行存在が前提されるのである。それゆえ伝統的なブルジョワ革命概念を使って資本主義への移行を説明することは、自己矛盾であり、自己破綻である。封建制度の束縛からの解放を待つだけの状態にある資本主義的合理性をブルジョワジーは持っていたのだと想定する事によって、ブルジョワ革命という命題は、かつての商業化モデル同様に、説明されなければならない事柄を説明抜きで前提していた。

2013年5月30日 (木)

エレン・メイクシス・ウッド「資本主義の起源」(3)

第2章 マルクス主義の論争

この歴史論争では、マルクス主義歴史家と非マルクス主義歴史家との間にあったのと同じ程度の意見の相違が、マルクス主義者の間にも見られた。多くのマルクス主義者は、他の誰にも負けないほど、古い商業化モデルの支持者だった。

1950年にモーリス・ドップの『資本主義発展の研究』にポール・スゥイージーが批判を加えてことに端を発した移行論争が始まった。彼の著作は、それが資本主義の起源を(商業化ではなく)田園地帯に、つまり地主と農民との間の基本的な封建関係に位置付けた限りにおいて、古い商業化モデルに対する強力な異議申し立てであった。彼らの論争の中心的な問題は、封建制度から資本主義への移行の「原動力」をどこに置くべきかということであった。以降の第一原因は、封建制度の基本的で本質的な関係、つまり領主と農民の関係に見出すことができるのか。それとも原動力はその関係の外部、つりわけ交易の拡大に位置づけるべきなのか。実際、交易と都市がそもそも本質的に封建制度の敵対者であったわけでは全くなかった。むしろ封建制度それ自体の基本的な関係の内部要因によって、つまり領主と農民との階級闘争によって、封建制度が解体して資本主義が生じたことが明らかになった。貨幣、コア駅、都市、さらに「商業革命」までもが、封建制システムと無縁であるどころか、むしろ封建制システムの不可欠な構成要素であった。二人は様々な方法で、封建制度の解体と資本主義の勃興は、小商品生産の解放の結果である、つまり領主と農民の階級闘争によって小商品生産が封建制度の桎梏から解放されたことの結果であると主張した。剰余労働を譲渡させるために領主が農民に課す圧力は、生産技術の改良の根本原因であり、単純な商品生産の成長であった。同時に、この圧力に対する農民の抵抗は、資本主義への移行仮定にとって決定的な重要性を持っていた。一見したところでは、スウィージーの議論はその骨子においては商業モデルと完全に一致しており、一方ドップの説明はそれに対する正面からの攻撃である。

しかし、論争にはそれ以上の内容が含まれている。スウィージーは、移行論争の考察に際して見失われがちな点を一つ強調した。彼が、封建制度の解体の原因を商業の拡大の影響と都市の成長とに帰着させたことは確かである。しかしすうぃじーは、封建制度の解体では資本主義の勃興を十分に説明できないということ、またこれらは実際には別々の過程であったことを主張した。なぜこれが重要なのだろうか。この議論の含意を考えてみよう。もし封建制度の解体が資本主義の勃興を説明するのに十分であるならば、私達は再び商業化モデルの仮説に極めて近いことになる。そこで論争の中で一つの点が浮上する。資本主義への移行は、単純な商品生産の中に既に存在していた経済的な論理を自由にすること、あるいは解放することであるかという点である。この問題の核心は次の点にある。第一に、移行の問題を対立する二つの生産様式の対抗関係として扱う習慣は、あまりにしばしば先決問題要求の虚偽を犯すことの言い訳に使われてきた。この仮説は資本主義から社会主義への移行については当てはまるかもしれないが、封建制度から資本主義への移行を扱う上では問題を孕んでいる。商業化モデルとそれに関連する他の説明は、資本主義の発生を説明するために、資本主義や資本主義的合理性の存在を実際上前提にしている。封建制度は既に存在していた資本主義、あるいは少なくともすでに存在していた資本主義的論理と対決しており、それらの発生については決して説明されたことがない。具体的な点では問題は、商品生産の農民がいったん封建的な阻害要因から解き放たれれば、彼らは多少とも自由に資本家への道を選択したと述べられていることである。その一方で、資本主義は小商品生産から多少とも有機的に成長したと述べられている。資本家のように振る舞う生産者の性向を説明するには、単に生産者が制約から解放されたとか、「中規模」から大規模の所有者に成長したとかいう以上の説明が必要だと認めた方が、理にかなっているだろう。言い換えれば、小商品生産と資本主義の間には、単に量的なだけでなく質的な違いが存在している。その違いは未だ説明されていない。

ペリー・アンダーソンは、封建制度とは「経済と政治の有機的結合体」と定義される生産様式であると定義した。この結合は、条件的所有のヒエラルキー的な連鎖を伴う「細分化された主権の連鎖」という形をとった。国家権力は封建領主たちの間で断片化されており、領主権は政治権力と経済権力との系剛体を意味していた。封建領主たちのもつ国家権力の断片─政治的権力、経済的権力、軍事的権力─は同時に従属する農民から剰余労働を領有するための経済的権力を有していた。領主権には「剰余を搾り取るメカニズム」つまり「経済的搾取と政治的・法的な強制の融合である」農奴制が伴っていた。しかしこの封建制度の構造を不安定にしたのが、封建的貢租の貨幣地代への転化と、とくに商品経済の成長とによって、古い封建的束縛は弱体化した。そこで、農民階級に対する弱体化した支配力を強固にするために、封建領主たちはそれまでバラバラに細分化されていた強制力を新たな種類の中央集権化された君主制へと集結させたのである。アンダーソンの主張によれば、絶対主義国家は本質的に封建的である。なぜならそれは、封建領主の権力を経済的搾取から分離させた、封建領主の政治的・法的強制力の上方移転と中央集権化を表わしているからである。別の言い方をすると、絶対主義国家は搾取の二つの契機を分離した。一方で剰余の搾取という過程と他方でのそれを支える強制力である。以後その二つは、別々の領域に属することになる。経済と政治の封建的融合は、資本主義の特徴である分離に道を譲り始めた。そして、この分離によって「経済」がその内的論理に従って自由に発展することができた。

結果的には、封建制の政治的権力の上方への移転は、旧モデルで桎梏の除去が果たしたのと同じ役割を、アンダーソンの議論の中で果たしている。事実上絶対主義は、封建制度の桎梏が経済から除去される唯一のではないにしても本質的な手段であるように思われる。それゆえ絶対主義は、封建制度と資本主義の間の必然的な媒介項であったように思われる。すいずれにしても、直接的な政治の束縛から自由になったことにより、商品生産は成長することができ、そして「経済」は自らの本性に従うことが可能になった。資本主義は、経済を解放し、封建制度の重圧を取り除き、経済的合理性の自然の担い手つまり「市民」やブルジョワを解き放ったことの結果であった。このようなアンダーソンの説明は、資本主義への移行に関するかつての説明と同様、多くの根本的に意味で封建制度の間隙に既に存在していた社会形態桎梏を脱したことに、結局のところ依存しているのである。その洗練された複雑さにもかかわらず、アンダーソンの議論は商業化モデルの改良版である。

アンダーソンの主張は先決問題要求の虚偽を犯していることに注意を向ければよい。例えば、イングランドの商業的な農業がフランドルの毛織物市場を前提としているということと、次のような過程を説明することとはまったく別のことなのである。その過程とは、「商業的な農業」がどのようにして資本主義的農業になったのか、交易の可能性が現実性へと転化しただけでなく競争的な生産の必然性へと転化したのはどのようにしてか、市場の機会はどのようにして市場の命法となったのか、この特殊な種類の農業がどのようにして資本主義システムの発展を開始させたかである。アンダーソンは証明する必要のあるまさにそのことを前提してしまったのだ。前提とはつまり、商業あるいはさらに市場のための生産の純然たる拡大が、ある時点で臨界点に達して資本主義に転化したという仮説である。

2013年5月29日 (水)

エレン・メイクシス・ウッド「資本主義の起源」(2)

これに対してカール・ポラニーは『大転換』において次のように主張した。市場交換と結びついた個人的利潤という動機は、近代にいたるまでは経済生活の支配的原理ではなかった。かれによれば、市場が十分に発展していたところでさえ、市場を備えた有史以来の社会と、「市場社会」とは、はっきりと区別されなければならない。ボラニーに従えば、近代の「市場社会」においてのみ、はっきりとした「経済的」動機や、非経済的関係とは区別された独特な経済制度と経済関係が存在する。価格メカニズムに駆り立てられる市場の自己調整システムのなかで、人間と自然は─労働と土地という形で─擬制的にではあるが商品として扱われるため、社会それ自体が市場の「付属物」となる。市場経済は市場社会の中でしか存在できない、つまり経済が社会関係に埋め込まれるのではなくて、社会関係が経済に埋め込まれている。もちろん資本主義以前の社会における市場の副次的な役割に注目したのは、ボラニーだけではない。有能な経済史家や人類学者なら誰でも、最も「原始的」で平等主義的な文明から始まり、最も複雑で階層化と搾取を徹底させた「高度」な文明に至るまでの、そのような社会で機能した経済行為の多様な非市場的原理を認めるはずである。また別の経済史家たちは(その数は人が考えるほど多くないかもしれないが)、交易の原理における一定の変化に注目してきた。しかしボラニーの説明がとくに優れているのは、それが「市場社会」とそれに先行する非市場社会との間に、前者と市場を備えた非市場社会との間にさえ、存在する断絶を鮮やかに記述したからである。彼は、二つの社会の経済原理の違いだけでなく、その転換が引き起こした社会的混乱をも説明している。ボラニーの主張では、自己調整的市場システムは、社会関係に関してだけではなく人間の精神に関しても非常に破壊的であり、人間の生活に恐ろしい影響を及ぼしたので、自己調整的市場システムの移植の歴史は同時にその猛威から身を護る防衛の歴史であらざるをえなかった。「対抗的防衛行動」、とくに国家による介入という手段がとられなければ、「人間社会は絶滅していたであろう」この議論には多くの点について、これまでの経済発展の説明との劇的な違いが見られる。これまでの説明は、「商業的」あるいは資本主義的な原理と封建制の経済的(あるいは反経済的)な論理との間の敵対的関係を考察している時でさえ、古代の商業と近代資本主義経済との間の(多かれ少なかれ協調的な)連続性を強調してきたからである。だがある重要な点について、ボラニーの説明は伝統的な経済史との間に大きな類似性を維持している。最大の問題は、市場社会が出現した条件、すなわちそれを生み出した歴史過程についてのボラニーの説明であり、これが市場を社会的形態として理解する彼の立場にとって何を意味するかである。

第一に、彼の議論にはかなりの技術的決定論が含まれている。ボラニーの歴史的説明の主題は、産業革命がいかにして市場社会を生み出したのかということである。産業革命は、人間と自然を商品化することによって社会を完全に転換させた「急進的で過激な」革命の「たんなる始まり」に過ぎなかった。同時にその転換は、技術の進歩の結果であった。その転換の中心は、技術の進歩の結果であった。その転換の中心には「生産用具の全く奇跡的ともいえる改良」があった。そして生産用具の改良は、社会の転換を引き起こす一方で、それ自体は技術の面でも、イングランドの囲い込みをはじめとした土地利用の組織化の面でも、近代以前になされた生産性の改良の頂点であった。ボラニーは「自然成長的進歩」を信奉することに異議を唱えているが、少なくとも西洋の商業社会の文脈では、そのような改良が不可避的であったことを一瞬たりとも疑っていないように見える。この点で商業化モデルと異ならないし、さらに、ボラニーの歴史著述の要旨は、いくつかの点で古い商業化モデルと全く異なるところがない。つまり市場の拡大が技術の進歩と手を携えて近代産業資本主義を生み出したということである。この過程は、あくまでヨーロッパ全体の歴史過程なのである。

以上の議論からは見えてこないのが、社会諸関係の根底的な転換がいかにして産業化に先行して起きたのかという認識である。生産諸能力の変革は、所有関係の転換と、労働生産性の向上という歴史上ユニークな必要性を生み出した搾取形態の変化とを前提していた。それは競争、蓄積、利潤の最大化という資本主義的命法の出現を前提していた。たんにボラニーの議論が本末転倒であると非難するために、こう言ったわけではない。より根本的な問題は次の点である。彼の考える因果関係の順序では、資本主義的な市場そのものを特殊な社会的形態とみなすことができないということである。資本主義市場に特殊な命法─蓄積と労働生産性の増大を迫る圧力─は、特殊な社会関係の産物としてではなく、少なくともヨーロッパでは、多少なりとも不可避的に見える技術の改良の結果として論じられている。『大転換』が「資本主義への移行」問題について伝統的な歴史叙述から離脱する重要な一歩であったことは、依然として事実である。しかし、資本主義とその起源という問題は全く問題にもされないか、その問題は別の問題、つまり資本主義はなぜ他の場所では発生しなかったのかという問題にすり替えられてしまうのである。資本主義の歴史をどのように理解するかは、問題それ自体をどのように理解するかに大きく関わっている。資本主義の発展の旧モデルは、歴史貫通的な決定論と「自由」市場の主意主義との矛盾した混合物である。このモデルでは、資本主義市場は不変の自然法則であると同時に人間の選択と自由の完成態でもある。このようなモデルのアンチテーゼがあるとすれば、それは資本主義市場の命法と強制とを完全に承認するような資本主義市場についての考え方であろう。同時に、これらの命法それ自体が、ある歴史貫通的な自然法則に基づくのではなく、人間主体によって構成され、変化を受け容れる特殊歴史的な社会関係に基づくという事実を完全に理解するような資本主義市場についての考え方であろう。これは、マルクス主義の中に見出されるはずだと期待できるような考え方である。だがマルクス主義の歴史家たちはその種の対案を必ずしも一貫して提供してきたわけではない。

2013年5月28日 (火)

エレン・メイクシス・ウッド「資本主義の起源」(1)

第1部 移行史論

第1章 商業化モデルとその遺産

資本主義の起源を説明する最もありふれた手法は、資本主義の発展が人類そのものとほとんど同じくらい古い人間の営みの自然な結果であり、必要なのはその実現を妨げていた外部の障害を取り除くことだけだったと、あらかしめ想定してかかることである。この説明の仕方、というよりは説明になっていない仕方というべきだが、これには多くの変種があるにしても、これが経済発展の「商業化モデル」と呼ばれて来たものの中身である。これはいまだに支配的なモデルだと言ってよい。

こうした説明では、資本主義は、それ以前の形態からの質的な断絶を意味するというよりは、大規模な量的増加、つまり市場の拡大と経済生活の商業化の発達とを意味することになる。このような伝統的な説明は、古典派経済学や、啓蒙主義の進歩概念それ以降の多くの歴史記述のなかに見られる。それは次の通りである。「取り引きし、交易し、交換する」という自然の傾向があろうとなかろうと、合理的で利己的な諸個人は、歴史の夜明けから交換と言う行為に携わってきた。この行為は分業の進展とともにしだいに専門的となり、また分業の進展は生産用具の技術的改良を伴った。こうした説明の多くにおいては、実際には生産性の向上こそ、専門化する分業の主要な目的であったと言えるから、その結果、商業発展という説明と一種の技術的決定論とが緊密に結びつく傾向が生まれる。その場合、資本主義すなわち「商業社会」とは、進歩の最高の段階であり、古来からの商業活動の成熟と、政治的、文化的な制約からの商業活動の開放を意味する。ところが、この話には続きがある。それによれば、これらの制約が全面的かつ決定的に取り除かれたのは西洋だけであった。

ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌらによれば、この商業化モデルについての最も一般的な仮説、資本主義と都市との結合─都市は最初から萌芽としての資本主義であったという仮説に行き当たる。その議論に寄れば、ヨーロッパにおける都市は、自立した「市民」階級の支配する、交易を中心とした都市であり、独自で前例のない自治権を持った都市として出現した。この「市民」階級こそやがて、古い文化的制約と政治的寄生という桎梏から最終的に自己を解放した階級となった。都市経済、商業活動、商人的な合理性のこの解放が生産技術の必然的な改良を伴い、この生産技術の改良が交易の解放をもたらす。これで近代資本主義の勃興を十分に説明できるように見えた。

これらの説明はすべて、交易と市場が交換という形で最初に現われてから近代産業資本主義として成熟するまで連続しているという前提を共有している。「安く買って高く売る」という形での商業的な利潤獲得の古来の慣行は、こうした説明によれば、剰余価値の領有を通じた資本主義的な交換や蓄積と根本的に区別されないのである。また、これらの資本主義の歴史論の中には、もう一つの共通テーマが隠されている。それは進歩の担い手としてのブルジョワジーというテーマである。私達はブルジョワと資本家とを同一視することにすっかり慣れ親しんでいるので、この前提に隠された前提が見えにくくなっている。ブルジョワという言葉は都市居住者から商人を経て資本家に至る意味の変遷の中に商業化モデルの論理を負うことができる。つまり、古代の都市居住者は中世の「市民」に道を譲り、今度は「市民」が近代資本家へと断絶なしに発展する。

そのため商業化モデルは、資本主義に独自の命法や、資本主義において市場が機能する独自のあり方や、市場への参入を人々に強制し、労働生産性の向上による「効率的」生産を生産者に強制するその独自の運動法則─競争原理、利潤最大化、資本蓄積の諸法則─などを全く認めなかったのである。その結果当然、このモデルの信奉者は、これらの特殊的運動法則を規定している独自の社会的所有関係や独自の搾取様式についても、それを説明する必要性を認めないことになる。それどころか商業化モデルにおいては、資本主義の発生を説明する必要は少しもなかったのである。この想定によれば、人々は機械が与えられればつねに資本主義的合理性のルールに従って行動し、利潤を追求しつつ、その中で労働生産性を向上させる方法を模索してきたということになる。

2013年5月27日 (月)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(11)

生命体である人間、そして人間の作る社会は本来、いずれも情報的に閉じており、通信機械のように透明なコミュニケーションを実行することはできない。だから閉鎖システムであるAPSやHACSによってモデル化されたのである。とすれば、情報社会はいかなる方向を目指すべきなのだろうか。ITは情報を効率的に広めるツールだと信じられている。従ってSEHSは、閉鎖性を弱めたフラットでオープンな社会を目指すことになる。他律システムである機械は開放システムでもある。だからIT機器が多用される社会はオープンになるとともに、本来は自律システムである人間が、ますます機械のような開かれた存在、決まった入出力を行う他律的な存在に近づいていく可能性が高い。しかし、人間が自律性を失って開放システムに近づくと、社会が透明になり過ぎ、外部環境の変動に影響される不安定な状態になってしまう。これに対して、人間本来の閉鎖性が保たれていれば、それぞれが自律的で唯一の価値尺度は存在しないにもかかわらず、社会の中に一種の慣性力が働き安定したリーダーが生まれる。つまり、閉じた存在同士の対話協調が、人間社会の安定性と動的適応性の両方をともに支えるのだ。

このような議論から、少なくとも効率化だけのために、次々と人間をITエージェントで置き換えることは慎むべきだろう。おそらく、求められるのは、多くの人々のコミュニケーションを活性化させ、集合的な知を構築していくための補助ツールではないだろうか。21世紀のコンピュータとはそういうもののはずだ。この目的のためにはまず、コミュニケーションの深層のありさまを検知する機能が必要となるだろう。とりわけ重要度が高いと考えられるのは、暗黙知のダイナミクスを必要に応じて明示化するようなITモニターである。

 

第6章 人間=機械複合系のつくる知 がこのあと結論として、これまでの議論を要約してまとめられています。この部分は要約でもあり、最後の結論は、実際に本を手にして原文に触れることをお奨めします。それだけ読み応えのある本だと思います。

2013年5月26日 (日)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(10)

第5章 望ましい集合知を求めて

システム環境ハイブリッドSEHSの本格化とともに、ネット集合知はいかなる形を取るだろうか。ただ手軽にネットでアンケートし、人々の意見を機械的に加え合わせれば万事うまくいくというわけにはいかない。とくに唯一の正解がなく、人々の価値観が多様な場合には、集団としての意見を合理的に決定することさえ不可能な場合もある。もし知識が、集団に属するメンバーのあいだで共有されるものだとすれば、何らかの知識の構築にあたって、皆から認められるリーダー的存在が音頭を取る可能性を頭から否定することは正当でない。それは、メンバーが所与の知識命題を無批判に信じ込むこととは全く違うからだ。従って、ここでいう「リーダー」とは、独裁的個人というよりむしろ、集団の秩序やルール、さらに知識を体現する役割を持つ存在と考えることができる。つまり、既存の専門知にかわる集合知を考えるとき、知識がいかに生成されるかのプロセスをよく考察しなくてはならない。単にネットやITを利用して、フラットな機械的処理で瞬時に衆知を集めるのだけが集合知とは限らないだろう。問題なのは、専門家により三人称で記述される知識命題が、専門的権威とともに人々にトップダウンで押し付けられ、ITを利用して批判されることなく「客観知」として君臨し続けることである。ITは意味解釈をせず論理的記号処理を行うだけでだから、かえってそれを拡大し助長する恐れもある。

人間にとって最も基本となるのは、生命活動をするための一人称的な「主観知」である。それはクオリアによって支えられている。だが、単独行動生物でない人間は、群れ(集団)の中で通用する何らかの共通の知識なしに安定した生活を送ることができない。この共通知識の延長上に、いわゆる三人称の「客観知」が位置付けられるのである。ここで注目されるのは「二人称の知」である。対話によって知を構成していく古典的なアプローチだ。もちろん、私とあなたが対話を行っても、情報の意味内容がそっくり伝達されるわけではない。だが、私とあなたの心をベースにした上位の社会的HACSが作業を継続する限り、何らかの疑似的な情報伝達が行われていると見なすことができる。そこには、個々の主観世界をこえた、人間同士の最小限のコミュニケーションと社会的な意味生成が認められる。このような二人の間の対話、問いと答えの繰り返しこそが、ボトムアップの集合知の基本単位となるのだ。それがコミュニケーションにもとづく三人称的な知識の長期的な意味伝播(プロパゲーション)につながる。ここで浮上する問題は、ネットを通じていったい誰と対話するか、ということである。そこにはなんらかのリーダーシップが不可欠になってくる。

私と相手の間の情報伝達ないしコミュニケーションの成立/不成立を問いかけると、それは二人称の心身問題に帰着されるだろう。では、二人称の心身問題とは何か。例えば、私の前にロボットか人間か分らない存在が座っていて、その存在と私が言葉を交わすのだが、どうも相手の考えていることがハッキリしない。相手の言うことの意味もよく分らないし、こちらの意図もうまく伝わっていない気がする。質問と回答を繰り返しながら、互いに心の中を探り合う。ここで、私と相手の間の情報伝達ないしコミュニケーションの成立/不成立を問いかけると、それは二人称の心身問題に帰着される。要するに、対話における不透明性(不確実性)に注目するのが二人称の心身問題なのだ。人間の心がもともと閉鎖システムであるが故である。

ここで西川アサキによって考えられたモデルをもとに考えてみる。ある社会集団を想定し、そのメンバーはそれぞれ世界を認知観察しつつ様々な疑問を持ち、自分の質問に対する答えや意見、つまり知識を求めているとする。もしある特定のメンバーが物知り・情報通で、多数のメンバーの質問に答える能力を持っていれば、対話を繰り返すうちに、そのメンバーの回答は、単なる個人的な回答にとどまらず、三人称に近い権威を持つようになっていく。要するにリーダーとは、他のメンバーから信用される存在なのだ。メンバーは、対話の相手が信用できる存在であれば、たとえ相手が自分の質問にすぐ回答してくれなくても辛抱する。いつか答えてくれるだろうと予想し、じっと待つのである。そして、相手に自分を信用してもらうために、自分の知識、つまり相手の質問に対する体験に基づく回答を、無償でリーダーに預けることもあるだろう。こうして。メンバー同士の対話が頻繁に行われるとき、あるメンバーが、他の多くのメンバーから借りた知識を、一時的にせよ集約してたくさん身につけ、いわば知の交流センターのような役割を集団の中で果たす場合がある。このとき、そのメンバーは名実ともに集団のリーダーという存在になっていると言える。

このようなシステムにおいて各メンバーとリーダーのあり方に変化があるのだろうか。実はここに開放システムと閉鎖システムの違いが反映されることになる。システムが他律的で機会のように開かれていれば、適切な情報伝達と入出力操作によって、世界像を完璧に共通化し客観化していくことができる。しかし、生命体のように閉じていれば、情報の意味を主観的に解釈するプロセスが入るので、どうしても差異や不透明性が残る。このことが本書の議論に決定的な影響を与えるのだ。このような開放システムと閉鎖システムの差は、信用情報の広がり方だけだ。前者では世界は透明で、各メンバーの信用分布はほぼ同様になる。一方、後者では、世界は不透明であり、各メンバーの信用分布はそれぞれ自分なりの主観的な信用分布と解釈方法をもっている。だから一見すると、開放システムでは、客観的なリーダーが出現し、安定して存続するような気がするかもしれない。しかし、実態はそうではないのである。開放システムでは、各メンバーにとって世界があまりに透明に見えすぎるため、瞬間的にせよ一元的で絶対的な価値観が生まれる。従って従属閾値など僅かな外部環境の変化にも敏感に反応し、グローバルな状況が急激に変わってしまう、つまり外部環境に他律的に依存し、唯一のリーダーからリーダーなしの間を不安定に揺れ動くのである。一方、閉鎖システムでは、各メンバーにとって世界はかなり不透明であり、それぞれがいわば保守的に自分たちの価値観を維持しようとする。その意味で頑健であり、安定しているのだ。グローバルな状況としては、多元的で相対的な価値観が並立することになる。それぞれの価値観つまり信用分布は対話による相互の摺り合わせによって徐々に変動していく。ほどほどの安定なのである。こういった相対主義とは裏腹に、安定した一人のリーダーが生まれのである。

2013年5月25日 (土)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(9)

第4章 システム環境ハイブリッドSEHSとは

前章の議論で、生命体は機械とはかなり違った性質をもつことがはっきりした。とすれば、コンピュータネットを利用して意見を交換したり、知識を形成したりするには、いろいろな点を考慮しなくてはならない。現代のリアルとバーチャルが重なり合い。融合して来るような社会は、ユビキタス技術の進展とともに、人間=機械複合系の方向に進んでいる。これをはじめて学問的にとらえたのは、1948年にノーバート・ウィーナーによって書かれた『サイバネティクス─動物と機械における制御と通信』であると言える。しかし、サイバネティクスはひどく誤解され、世間では、生命体と機械の同質性を述べる議論であり、人間の機械化を限りなく促進する理論と見なされている。実はウィーナーの目指した意図は、これとは正反対である。サイバネティクスとは本来、生命体が生き続けるために、いかに電子機械を活用すればよいか、という実践知に他ならない。環境世界はつねに変動し、測定データにも有効な信号と雑音が混じり合い、予測困難である。生きるためには雑音を除去し、環境変動に対して適切に行動し、自分の安定性を保つ必要がある。これが電子機械を利用したフィードバック制御の目的なのだ。では、なぜサイバネティクスは誤解されてしまったのか。その理由のひとつは高度な数学を駆使した理論の難解さにある。もう一つはもっと本質的な問題で、生命体が生き続けるためには、何より、生命体の内側から環境世界を観察しなくてはならない。たとえば、痛みとはクオリアであり、主観的なものである。痛みの除去だけではない。生きるためには、時々刻々、生命体に降りかかる様々な問題を、あくまでも生命体に即して、内部の視点から解決することが必要なのだ。当然、その記述はいわゆる科学的な、外部の視点からみたものとは異なってくる。つまり、普遍的絶対性をもたない、個別具体的で相対的な観察記述になっていくはずだ。とすると、「観察行為を観察する」という、二次的な操作がどうしても必要になってくる。サイバネティクスの思想をつきつめれば、当然そういうことになるのだが、ウィーナーはそこまで考えてはいなかった。

ウィーナーの抱えていた問題点を見抜き、生物の主観性を考慮したサイバネティクスが1970年代に現われた。その中心は「二次サイバネティクス」つまり「サイバネティクスのサイバネティクス」として「観察行為を観察する」という世界認識上の操作から来ている。相対性を考慮しないと普遍的な理論とはならない。ある視点からの観察(世界認知)では一面的になり、盲点が生まれるが、別の視点からの観察を考慮すれば、この盲点を克服することが可能になる。なお、それなら三次、四次…も要るのではないかと疑問が出るかもしれないが、その懸念には及ばない。二次の相互観察によって相対化できれば、理論的には十分なのだ。

ウィーナーの一次サイバネティクスは「観察されたシステム」を対象とするが、二次サイバネティクスは「観察するシステム」を対象とする、とよく言われる。これは要するに、前者が機械のような入出力のある開放システムを対象とするのに対し、後者は生物のような再帰的・循環的な閉鎖システムを対象とする、ということだ。前者では唯一の客観世界が仮定されるが、後者では仮定されない。あくまで多様な主観世界が前提となり、そこでの認知の安定性や、多様な主観世界のあいだの相互関係性が問われるのである。これは、人間の主観世界を考えてみれば分かりやすい。私の認知観察する世界は、私のクオリアに支えられた独自のもので、あなたの世界とは違う。私もあなたも、時々刻々、環境から到来する刺激を自分の記憶(意味構造)に基づいて内部的に解釈し、再び自分の記憶(意味構造)を更新しつづけていく。そこにあるのは閉じたループである。だから問題は、私の世界の安定性や変動性、また、私の世界があなたの世界といかに関連しているかを論じることなのだ。このような二次サイバネティクスのモデルは、オートポイエーシス理論と深くつながっていることが想像できる。

 

21世紀になるとマーク・ハンセンらによるシステム環境ハイブリッドSEHSが発表される。SEHSとは、高水準の包含性をもつ「暫定的な閉鎖システム」のことである。システムの中には、人間主体とは異なる知能を持つ高度なITエージェント(人間を代表するコンピュータなどの知的存在)も含まれ、一種の分散的な認知活動が行われるというのだ。ハンセンによれば、生命的なAPSはもっぱら自己同一性を保つように作動する。動植物は、突然変異がなければ、基本的に遺伝と体験の与える軌道にそって自己維持的な再生産活動を行う。だが、人間の場合、テクノロジーによって、自己を乗り越え重層的に拡大していくという特徴がある。だから、人間の認知世界には当然、自らとは異質な機械的知性がまぎれこんでくる。そこには、人間の通常の意識ではとらえがたい「テクノ無意識」さえ生まれてくるとハンセンは主張する。ただし、この閉鎖システムは安定したものではない。IT機器は日進月歩で変化してくからだ。だからそれはあくまで暫定的な閉鎖系にとどまるのである。

ハンセンの意図は、端的には、主体的個人のリバイバルだと言っても過言ではないだろう。あまりに急速なIT文明の進展によって我々の環境が激変し、これまでの人文科学的な理念にささえられた人間社会がいわば侵犯されていくということである。そこで、たとえ暫定的にせよ、主体的個人の認知世界を閉鎖システムというかたちで位置づけることができれば、再帰的作動によって一貫性が生まれ、問題解決の見込みが立つのだはないかとハンセンは考えた。彼にとって、システムの閉鎖性とは、あらゆるシステムと環境の区別の中から、機能的な選択を行った結果あらわれる性質である。だから、選択の仕方、具体的には世界の認知の仕方によっては、たとえ周囲環境に複雑なITエージェントが混入していても、主体的個人としての首尾一貫性を保てる可能性が開ける。この選択においてハンセンが注目するのは、オートポイエーシス理論の提唱者ヴァレラの議論である。ヴァレラは主体的個人の「自己」は五つのレベルの閉鎖システムで定義されるという。第一は細胞で「生物的自己」、第二は免疫から決まり「身体的自己」、第三は行為を行う「認知的自己」、第四は人間社会における個人つまり「社会的自己」、第五は個人が組織化された「集団的自己」である。これによれば人間の想像力が上位レベルへの創発の原動力なのである。肝心なことは、作動と観察とが同一領域で、いわば同時に行われるので、上位レベルへの創発において常に観察者からみた一貫性が保たれる、という点なのだ。こうしてそれぞれの閉鎖システムにおける自律性がもたらされ、人間主体による倫理性が確立される余地が生まれることになる。しかし、ハンセンはこのような議論のもとでは選択されるITエージェントへの制約が強くなりすぎることを危惧する。むしろ、周囲環境の中の、自分とは全く違う異質な要素こそが、既存の自己を乗り越える新たな自己を創り出し、進化を推し進める契機になるはずである。想像力による創発現象は、生物的レベルの自己によって拘束されるにせよ、決定はされないのである。そこで、ハンセンは、人間のいっそうダイナミックな自己生成、いわば個体化のプロセスそのものの中へと踏み込んでいく。つまり、リアルとヴァーチャルが融合し、ネットの中にITエージェントが跳梁する周囲環境の中でこそ、人間は生物的な自己を乗り越えて行けるということだろうか。こうして、ネオ・サイバネティカルなSEHSのイメージが浮かび上がってくる。

2013年5月24日 (金)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(8)

ネット社会においては、コンピュータをはじめITが枢要な役割を演じるのだが、ここでまず、生命とは何か、それは機械とどう違うのかを根本的に考察していく必要がある。さもないと、人間の思考とコンピュータの論理記号処理を同一視したくなり、20世紀末の人工知能研究者と同じ罠にはまってしまう。生命と機械との大きな違いは、設計図がなく自生するということである。機械とは、人間が引いた設計図通りに人間によって制作されるものだが、生命体は勝手に自分で自分をつくりあげてしまう。細胞は外部から与えられる設計図なしに、自分と似た細胞を次々に作り出す。だから「オートポイエティック(自己創出的)」な存在なのである。自分で自分を創り出すとは、作動の仕方も自分で決めるということだ。だから生命体は「自律的」なシステムである。これに対して、機械は他の存在(人間)によって制作され、また他の存在をつくりだすので「アロポイティック・システム」である。また設計された通りに作動するから「他律的」なシステムである。このように自己創出という観点から生命体をとらえ、機械と峻別するのがオートポイエーシス理論である。

オートポイエーシス理論は、生命体がいかに世界を認知観察しているかを考察する。ただし前にもふれたように、ここでいう認知観察は、遠くからじっと対象を観察しているのではなく、むしろ「生きる」という自分の作動にともなう行為の一部なのだ。たとえば、アメーバのような原始的生物も、栄養物を求めて遊泳するという行為を続けながら世界を観察し、世界の「意味」や「価値」を捉えているとも言えるのだ。我々の心の中ではいったい何が起きているだろうか。心の中では「思考」という出来事が、継続的に生々消滅している。ここでいう「思考」とは、いわば主人公の一人称モノローグをともなう映画のショットのようなものだ。それは一種の自己言及的コミュニケーションであり、クオリアから織あげられる世界のイメージである。過去の思考にもとづいて、現在の思考を自己循環的に創出していくのが、心というオートポイエティック・システムの作動なのである。もちろん、外界からの刺激は到着するのだが、それらは心にそっくり「入力」されるのではない。あくまで思考は再帰的に、心の内部から創出されるのだ。たせから、心とは本来、徹底して自律的な閉鎖系なのである。ところで、このような心の閉鎖性は、社会的なコミュニケーションとどう関わるのだろうか。閉じた心をもつ人間同士が言葉を交わすので誤解も生じるが、それなりに社会的な行為がなされ、企業や官庁などの組織が機能していることは確かである。興味深いのは、こういった社会的組織においてはコミュニケーションがコミュニケーションをつくりだすという自己循環的な作業が行われていることだ。社会的組織には特有の用語概念をもつ伝統や文化があって、一種の知識として記憶されている。その記憶を基にコミュニケーションが発生し、またそのコミュニケーションの痕跡が組織の記憶となって蓄積されていく。社会的組織のこういうダイナミクスは、再帰的に思考を生み出す心のダイナミクスと基本的に変わらない。したがって、社会的組織も一種のAPS(オート・ポイエティック・システム)と見なすことができる。この社会的組織と構成メンバーの心という両APSの関係が集合知や知識伝達を考えるときの鍵となってくる。社会的組織のコミュニケーションは、構成メンバーの発する言葉を素材にして織り上げられる。そして一方、構成メンバーは組織ルールなどの拘束のもとにある。だから端的には、社会的APSは構成メンバーの心的APSより上位にあり、両者はある種の階層関係をなしていると考えることができる。

このような階層的自律コミュニケーションシステム(HACS)というモデルを使うと、情報や知識の伝達や蓄積を論じることができる。心はもともと閉鎖系だ。知の原型は、主観的で身体的なクオリアをベースにして一人称的なものとして形づくられる。その意味で閉じている知を、簡単に伝えることなどできるはずはない。それなのに、社会の中で「情報」が伝達され、それらを組み合わせて三人称的な「知識」が構成されていくのはかぜか。これは、個人と社会という二レベルのHACSの関係を考えることで明確になる。例えば、高校生の友人AとBの二人が同じ小説を読んだ感想を語り合っているとする。このとき人間同士の対話では、言葉の意味が互いに首尾よく伝わるかどうかを確かめる手段は存在しない。そこが機械間の通信との違いだ。しかし、実際にはAもBもその小説に感動し主人公に共感していれば、二人の会話はそれなりに成功するはずだ。もちろん、それぞれの発言は別々の暗黙知に支えられているし、互いの言葉をそっくり理解できるわけではない。ある意味では誤解の連続かもしれない。だが、対話自体は大いに盛り上がり、コミュニケーションは継続していく。二人の間の情報伝達や知識蓄積はとは、基本的にこのようなものだ。つまりそれは、AやBという「個人」の階層のHACSではなく、二人か参加している「社会」という上位階層のHACSにおいてコミュニケーションが成功し、継続していくことなのである。さらに大切なのは、その有り様をCが観察し記述することである。小規模な社会的HACSであっても、Cの記述はこのHACSの「記憶」そのものであり、作動とともに蓄積されていく。このダイナミクスにおいては、「AやBの心」という下位HACSの作動が、いわば「細目」となり、「二人につくる社会」という上位HACSのコミュニケーションという「包括的存在」を形作っているとも言える。すなわちそこでは、新たな「意味」や「価値」が創出されており、それが当HACSの「記憶」に追加されていくのである。だが、これだけでは客観的知識には足りない。コミュニケーションとは瞬間的に成立するミクロな出来事である。知識形成というプロセスにおいては、コミュニケーションに加えて、いっそう長大な時空間で行われる「意味伝播」というマクロな出来事が不可欠である。これは「プロバケーション」とよばれる。プロバケーションとは、端的には、HACSの記憶(意味構造)の長期的な変化である。AとBが対話をつづけコミュニケーションが継続発生していくと、時間とともにやがて、AとBの各自の記憶に変化が生じてくるはずだ。二人は互いの言葉に影響され、それぞれのHACSにおける記憶(意味構造)の漸次的な変化が、プロバケーションなのである。このようにコミュニケーションとプロバケーションを通じて、クオリアのような主観的な一人称の世界認識から、(疑似)客観的な三人称の知識が創出されていく。形作られるのは、一種の社会的な「知識」であり、「意味」である。このダイナミクスの基本的な有り様、たった二人の社会的HACSから国家規模のHACSにいたるまで原則として変わらない。

2013年5月23日 (木)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(7)

科学的な客観知識が、必ずしも神の真理のような絶対的な存在ではない、ということはそれほど新しい指摘ではない。トマス・クーンの「パラダイム理論」によれば、科学の専門家集団における様々な学説は、論理と実証によってもたらされるという。つまり、それらの学説はあくまで与えられたパラダイムの内部にあるわけで、唯一の客観世界のありさまを正確に記述しているわけではない、ということになる。また、カール・ポラニーは「暗黙知の理論」として人間の知識の中には、明示的、形式的に表現できない知があり、それか個人だけでなく組織の活動においても非常に重要な意味を持つと主張した。この暗黙知理論とは、単に非明示的な知があるというだけではない。それは人間の知の本質的な構造をとらえた卓抜な議論なのである。いったいその構造とは何か。簡単に言えば、「諸細目」と「包括的存在」との二項関係からなるダイナミクスである。前者は近接項、後者は遠隔項にそれぞれ対応する。例として、誰かの顔を認識する時を考えてみよう。まず、相手の眼、鼻、口、額、頬、顎などの「諸細目(近接項)」にちらっと目を向けるが、いつまでも続くことはない。我々の注意はすぐに諸細目から離れ、顔全体という「包括的存在(遠隔項)」に移行する。といっても諸細目は完全に忘れ去られるわけではない。相手の顔を認知認識しているとき、われわれは相手の眼や鼻などの諸細目を無意識に、「顔全体の姿」の中にしっかりと感知しているのだ。それらは潜在化し、明示的に語られないものの、顔全体の「意味」を構成しているのである。語ることのできない知識というのは、こういった二項関係の構造における諸細目のことだと考えると分かりやすい。るちろん、我々は相手の眼や鼻を意識的に注視することもできる。だから暗黙知というのは、決して固定的に認識できない知というわけではなく、むしろ、包括的存在を認識するというダイナミクスのなかで、いわば意識から隠れてしまう知のことを指している。暗黙知理論の素晴らしさは、単に語れない知識の存在を指摘した点ではない。ある対象の意味を把握するには、それより下位の要素的な諸細目を身体で感知しつつ、対象を全体として包括的にとらえる作用が必要だという、生命的な認知のダイナミクスを指摘した点にある。

諸細目と包括的存在のダイナミクスは個人の心のなかの出来事だけだろうか。二人の人間が対話することによって、そこに互いに通じ合う共通の「意味(包括的存在)」が生まれることはないだろうか。もし、これが肯定できるなら、そういう対話を重ねて、複数のメンバーからなる組織において、ある程度共通了解される三人称的な知識(包括的存在)が認められる可能性もないとはいえない。ボラニーは、これらについて本格的には論じてはいないが、二人の人間がいるとき、「潜入」という努力によって一方が相手生み出した知識(包括的存在)をある程度体得できる可能性はあると説くのである。本来、知識とは個人の身体をベースにしており、一人称的なクオリアをもとに成立する主観的なものである。だから、別人の間で知識を共有することはできない。とはいえ、人間はトラのような単独行動の生物ではなく、群れをつくって生きる生物だ。それぞれの知識が全く食い違っていれば、集団行為は不可能となる。したがって、現実生活では、どの社会的組織においても、三人称で記述される何らかの「(疑似的)客観知識」がどうしても要請されることになるのだ。

2013年5月22日 (水)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(6)

第3章 主観知から出発しよう

「クオリア」は「感覚質」などと訳されることがあるが、本書のテーマである「人間の知識」という問題に関するかなり重要なキーワードである。クオリアとは、読者であるあなたの心のなかに生ずる、一回限りの「感じ」のことに他ならない。もう少し難しく言えば、個々の人間の意識の中に特定の体験として出現する感覚イメージのようなものである。例えば色の質感だ。同じ真っ赤な大輪のバラを見ても、その感じ方は個人によって千差万別である。ある人は深く鮮烈な色調にうっとりして、ロマンティックな幸福感を覚えるかもしれない。別の人は、毒々しい血みどろの惨状を思い出し、吐き気がしてくるかもしれない。主観的な感じやイメージは、各人の興味や過去の体験、そのときの気分などにも大きく左右される。千差万別なのは当たり前のことだ。ただ、ここで大切なのは、「同一波長の赤色光を人間の視覚器官がとらえたとき、とれが、引き起こす印象がさまざまに異なる」というだけにとどまらないことである。そもそも、ある人が感じている「赤」と別の人が感じている「赤」とは、いったい同じなのか違うのか判定しようがない、という点が肝心なのである。感覚とはこのように徹底して個人的なものである。我々の喜怒哀楽を伴う体験はみな、取り換えの利かない個別の身体をベースにしたクオリアから成り立っている。微妙で割り切りがたい感覚に基づいて、主観的な世界イメージが構成されるのだ。我々はよく、情報や知識を共有するとか、心を開いて共感するとかいう。だが、それらはあくまでも、心が本当は閉じているという絶望的な事実を踏まえた上での、一種の希望以上のものではない。心とは徹底的に「閉じた存在」なのである。自分の痛みのようなクオリアは、他人には決して分ってもらえないことが、その証拠といえる。

ところで、世界イメージが宿る「心」はいったいどこにあるのだろうか。ひとまず、「脳」にあるという回答が出てくるはずだ。とはいえ、すべての心の働きを脳の活動だけに帰着させるのは、どうも無理がある。むしろ心は、身体の活動と関わっていると考えるほうが、はるかに納得がいく。色や痛みなどのクオリアは、知覚器官から得られる感覚や、さらにそれが引き起こす感情と密接に結びついている。「怖いから鳥肌が立つのか、それとも鳥肌が立つから怖いのか?」という質問に対して、以前なら、「怖いから鳥肌が立つ」というのが一般的だった。何らかの理由で、脳の中に「怖い」という感情が発生し、それかぜ身体の各部分に伝わって、鳥肌が立ったり、脚が震えたりするのだ、と考えられていたのである。しかし、今の脳科学者は逆に、「鳥肌が立つから怖い」と回答する人が多いだろう。まず全身の身体反応があり、その状態を脳がモニターした結果、「怖い」という言語的体験が生じるという。身体とは感情の原器に他ならないのである。「怖いから鳥肌が立つ」という常識は、いかにわれわれが頭デッカチの幻想にとらわれているかを示している。生き物であることを忘れ、言語論理中心、人間中心の幻想にどっぷりつかっていたことが人工知能の失敗の遠因ではなかったか。

クオリアが脳゛けでなく、身体全体とかかわることは明らかである。身体全体で感じる体験を脳がモニターすることにより、周囲環境つまり世界イメージが立ち上がる。クオリアとは、いわばその要素的な反映にほかならない。「私」と「あなた」とでは身体も体験もそれぞれ異なるから、私のクオリアとあなたのクオリアのあいだには当然、渡れないギャップが生まれるのだ。今、私が真っ赤なバラを眺めているとする。私はたしかに、自分の心の中にふんわりと漂う私固有の「赤」のクオリアは、私の脳の中を精密に測定すれば分析できるのだろうか。測定データは、私が感じている「赤」のクオリアとはまったく別次元のものなのだ。それらのデータが、「赤」のクオリアと関連がないとは言わない。とはいえ、例えば、脳に人工的刺激を加えて「赤」のデータを完全に再現した時、私が同一の「赤」のクオリアを再び感じるはずだと断言できる人がどこにいるだろうか。このことを直感的に理解するには、コンピュータの処理内容とメモリのアクセスパターン分析との関係を考えればいいだろう。メモリのどの部分がアクセスされているかを幾ら測定しても、プログラムの目的や論理の流れを知らなければ、このコンピュータの処理内容はまるで見当がつかないのである。この点に、クオリアをめぐる最大の難点が潜んでいる。ポイントは観察者の位置である。脳の測定は、客観的、科学的に行われ、その記述はあくまで三人称的である。観察者は外部にいるのだ。一方、クオリアは徹頭徹尾、内部から主観的に感じ取られるものだ。その記述は一人称で行われる。このとき観察者は、いわば心の内部にいるのである。両者は容易に結びつかない。これは「心身問題」として知られている難問なのだ。そもそも、外部の客観的観察者とはいったい誰なのだろうか。彼らにしても本ラスは、それぞれ独自な心を持った人間である。データの解釈に個人的見解が含まれることもあるだろう。彼らはただ、科学的な測定記述という社会的行為のルールにしたがっているだけなのだ。我々は客観的世界に住んでいるわけではない。だから、脳の測定だろうと何だろうと、認知観察行為とは「所与の客観的世界の表象をえること」ではないのである。とすれば、まずクオリアありき、ではないか。心身問題にアプローチするには、三人称的な科学的記述からクオリアに迫るのではなく、逆に一人称的、主観的なクオリアの記述から出発して、いかに客観世界という仮構が成立するかを問うていく必要がある。

2013年5月21日 (火)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(5)

20世紀を支配した思考を一言で概括すると、「(神が死んだ後の)論理と実証が支配した世紀」といってもよいのではないか。もはや、万象をつかさどる神という超越的存在の威力は衰えた。あとは人間の判断力しか残っていない。この時、個人の主観的要素をなるべく排除し、誰もが納得する客観的な手続きに終始することが、正確な知をもたらすという考え方である。の手続きとは論理や実証をふまえた科学的な精神や方法であり、これがあらゆる学問分野において、依然として圧倒的な影響力を持っている。例えば論理実証主義は、数学と論理学に基づく厳密で正確な記述を重視するだけではない。あくまでも経験的事実、つまり実験に基づく証拠を重んじるという点にある。つまり、あらゆる知識は、経験的な事実を記述する命題からの論理的推論によって得られるものだということになる。それらは検証可能でなくてはならない。そうしてはじめて、その知識は普遍的なもの、「所与の知識」となることができるのだ。このような議論に関して大切な点は、知識をあらわす命題を誤りなく正確に記述するための「言語」のあり方が問われたことだ。この考え方が、より進むと分析哲学的な考え方につながる。およそあらゆる知識が科学的な厳密性を持ち、普遍的な「所与の知」となるには、それらはできれば、曖昧性を可能なかぎり排除した、普遍的な論理的言語で記述されるべきではないだろうか。また、自然言語で記述された知識命題については、すくなくとも、それらが論理的厳密性を持っているかどうか、きびしく精査し分析すべきではないだろうか。

このような論理実証主義の潮流を踏まえ、「人間のかわりに正確に思考を行う機械」として誕生したのがコンピュータなのだ。コンピュータを生み出した人物の一人であるフォン・ノマンは数学基礎論の著名な研究者で形式主義の権化のような人物だった。それは要するに、「事物を記号で表し、記号を形式的なルールに基づいて論理操作することにより、自分についての正確な知が得られる」というのが形式主義の考え方で、記号が何を表すかは忘れてよい。そんなことに拘泥すると主観が混じり、正確さが失われてしまう。ひたすら、記号の形式的操作を行えば、自動的に事物についての正しい知がもたらされるという楽天聖性なわけだ。とすれば、形式主義者のフォン・ノイマンが設計した汎用コンピュータが「人間と同じく、いや人間にかわって思考する機械」をめざしたのは当然のことではなかったか。コンピュータとは、0と1からなる記号を形式的ルール(プログラム)にもとづいて操作して結論をだす機械だからである。それは正しい知を自動産出する機械であるはずなのだ。ただし、思考としての形式主義「無矛盾に公理系から導かれた真なる数学的命題は、必ず(形式的操作で)証明できる」の考えはゲーデルよって否定されてしまった。命題の中には、「この命題は証明できない」といった自己言及的な命題もあって、その正しさは形式的操作では証明できないのである。しかし、フォン・ノイマンをはじめとした多くのコンピュータ研究者たちはそう考えなかった。自己言及パラドックスのような例外はあるにせよ、基本的には、記号の形式的(機械的)操作によって人間の思考活動をシミュレートでき、正しい知が自動的にもとまるという考え方、コンピュータとともに普及して行ったのである。

正しい知をコンピュータで自動的にみちびくという技術は、「人工知能AI」と呼ばれる。これは、西洋の知的伝統において、何よりも、普遍的で有用で正確な知識命題を導出し、人間の代わりに問題を解決してくれる機械なのだ。1980年代まではコンピュータ研究開発の中心だったが、21世紀にかけてIT業界の動向が変わる。端的に言うと「AIかにIAへの転換」である。コンピュータに問題解決を丸投げするのではなく、コンピュータの能力を上手に使って人間の知力を高め、問題を解決するという方向に他ならない。コンピュータは、人間のような知力を持つかわりに、人間の知能を増幅する役目を帯びるのである。そこには、二種類の対話概念が出現している。第一は、一人の人間がコンピュータとリアルタイムで対話しながら思考するということ。そして第二は、多数の人間同士が、通信回線で相互接続されたコンピュータ群を介してつながり、情報を共有して互いに対話しながら、問題を解決するということである。技術的には、前者が「パソコン」に対応し、後者が「インターネット」に対応することは言うまでもないだろう。さらに後者の対話概念は、そのまま第一章で述べた集合知に結びついていく。ここで強調したいのは、人間の思考というものの理想型を「形式的ルールにもとづく論理命題の記号操作」とのみとらえ、それを実現する「汎用機械」としてのコンピュータを位置づける、という20世紀的な考え方が、大きな壁にぶつかったということだ。

本章では、そもそも人間にとって知とは何か、と問い直してきた。「所与の知識」は、学校に通う年齢になってから勉強するものがほとんどだ。科学的な知識だの、外国語の知識などである。だが、生きるための基本的な知識は、もっと幼い頃、母語習得とともに身につけることが多い。そこに生命的な知の原点がある。生命的な知とは、本来、本能的、身体的なものである。敵から逃げたり、餌を探したりするための知が最も基本的なものだ。つまり、知とは生物が生きるための実践的な価値とかかわっており、「真理」といった普遍的かつ超越的な価値を反映した天下りの知は、むしろ歴史的、文化的、宗教的な所産である。権威づけられた「所与の知識」も、その基盤は、いわば、人間が社会的にこしらえあげたものに他ならない。にもかかわらず、われわれはとにかく、唯一客観的な世界が存在しており、科学的な然るべき手続きによって、そのありさまを認識できる考えがちだ。アカデミックな訓練を受けた学者でさえ、客観世界を正しく認識し操作するためには論理的、実証的手続きが大切であり、それを可能にするのが分析的な言語であると固く信じ込んでいる場合が多いのだ。

認知心理学者エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドは、客観世界という前提なしに幼児の母語学習を論じている。その考え方は「ラディカル構成主義」と呼ばれるものだ。これによれば、人間は世界についての知識を外部から獲得するのではなく、世界のイメージを「内部でみずから構成していく」ということになる。つまり、ラディカル構成主義において、人間の認知活動とは、外部の客観世界のありさまを直接見出すことではない。大事なのは、試行錯誤を通じて周囲状況に「適応」することなのである。ここで「適応」というのは、何らかの行動をした結果を自分の世界にフィードバックすることだ。自分の概念構造に基づいて行動してみて、うまくいけばそれでよし、失敗したら概念構造を変更するのである。ポイントは、所与の概念構造への一致は要求されない、という点だ。例えば、鍵をあけるとき、必ずしも鍵穴に合致した鍵を用いる必要はない。針金をうまく操作しても鍵はあく。鍵をかける目的のために、ある人は鍵の種別を記憶するし、別の人は針金の操作法を修得する。内部で構成される世界イメージは各人ごとに異なるのである。つまりは鍵をあけられればよいのであり、鍵穴に合った正確な鍵を選ぶというのは唯一解ではない。およそ、生物はそのように進化してきた。実際よく考えてみれば、ラディカル構成主義の理論を待つまでもなく、地上にもともと存在するのは、各個人の主観的イメージだけだということは、むしろ明らかではないか。所与の客観的世界というのは、何らかの社会的必要性から生まれた仮構なのである。ネットが普及し、客観世界を記述すると称する知識命題があふれ返る時代に、まず頭を冷やして、このことを銘記しなくてはならない。

あるIR担当者の雑感(119)

甘利経済産業大臣が、19日、NHKの番組で、「経済が回っていく順番がある。賃金に(業績回復が)跳ね返るのを早くするため、企業側、働く側、政府の3者で何らかの会議を持とうかなという話を(安倍晋三首相に)している」と説明したそうです。政府の経済政策の考え方ということです。これは毎日新聞のウェブサイトに載っていたことなので、くわしく報道されているわけではないので、正確ではないのかもしませんが、ちょっと疑問を感じました。そもそも、こんな説明しか乗せることができない、毎日新聞の記者は、果たして分かっているか、はなはだ疑問なのですが、それは、ひとまず措いておくことにします。

ここで報道されている、甘利氏の発言について、最終的には景気回復に持っていきたいという目的で話していると思うのですが(この前提が間違っているようなら、私の疑問は成立しないのですが)企業業績が賃金に跳ね返ってくることが、どうして景気回復に一番いいのか理由が分からないからです。経済を知らないのかとお叱りをうけそうですが、そうです経済学を勉強していない無知な人間の素朴な疑問です。疑問の内容を説明すると、多分、甘利氏は企業業績が回復して、その儲けによって従業員の賃金を上げてあげれば、その従業員は賃金が上がったということで買い物を増やすので、消費が増えて、その人々にものを売ったり、そのものを作ったりする企業の業績に回っていく、ということを言いたいのではないかと思います。だから、企業は儲かった金を従業員に回せということでしょうか。

そこで、素朴な疑問です。企業が儲けを従業員に回さなかった場合、その金は消えてしまうのでしょうか。常識的に考えてそれはないはずです。儲けが労働者に回らなければ、その金は別のところに回るのではないでしょうか。企業が現金をタンス預金でもしない限り。そうなった場合、従業員に金を回すのと、他に回すのと、どっちがいいのかということになると思います。その際の一番有効な回り方は従業員にまわすことであれば、そこに理由があるはずです。それについて閣僚の人たちの説明を聞いたことはないし、それを報道するマスコミも説明してくれない。あるいは、専門家であるはずの経済学者も説明してくれません。それは、私には当然と考えられます。なぜなら、こういうように金をまわして、景気を回復させるという仕組み、つまり経済政策をつくって発動させているわけではないからです。何が一番有効かということはむ、有効にさせる経済政策に一番そったものであるべきなのが、その政策が具体的にできていない段階で、何が最適かという議論をするこということは前提と結果の取り違えとしか思えません。経済学以前の問題で、ロジックに考えているのかということのように映ります。甘利氏の発言も、それを報道するマスコミも、それと同じ土俵に乗って反対する経済界の偉い人たちも、暗黙の気分で発言しているように思えて仕方がありません。それぞれの人たちがロジカルな根拠を全く語ってよらず、感情的に主張を繰り返しているだけで、お互いの言うことが議論になっていないのです。

ところで、どなたか、この素朴な疑問の解答を教えていただけないでしょうか。

2013年5月20日 (月)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(4)

第2章 個人と社会が学ぶ

人間にとって「知」とは何だろうか。専門知と集合知の問題を考えるためには、まずそこから始めなくてはならない。

21世紀は「知識社会」だという声がある。20世紀までは土地、労働、資本などが富を生む源泉だったのだが、今後は知識が鍵を握るという。例えば、投資金融で利益を得ようとすれば、各企業の製品開発力を正しく把握し、成長の可能性について的確な判断ができなくてはならない。そのための評価表のようなものが、「知識」と見なされているのである。具体的に言うと、評価表の各項目をなす断片的データのようなものが「情報」であり、この情報(データ)群を体系的にまとめあげたのが、いわゆる「知識」だと常識的に定義されているのである。その内容としては、評価の基準をきちんと定め、第三者からなる委員会などの機関をつくり、できれば数値指標にもとづいて正しく評価し結果を公表すれば、世界はますます透明になっていく。ネットは情報共有のたるに不可欠な重要手段であり、ネットを活用すれば、幾らでも知識を入手することができる。後は市場での競争に任せれば、ものごとは万事うまく進んでいくはずである。だが、知識や情報とは本当にそういうものだけなのだろうか。こういった知の捉え方は、いかにも実践的で効率的なもののように見える。だが実は、生命体としての人間の活動における知の役割というものを、根本的なところでとらえ損なっているのではないか。いちばん問題なのは、客観的な世界が存在し、しかるべき評価作業を行えば透明度がまして、世界の様子がわかってくるはずだ、という単純な思い込みである。この思い込みは、客観的な世界の様子を記述する知識命題が存在し、それらを上手にあつめて記憶し編集すれば世界をより深く正確に知ることができるようになり、さらには世界を操作できるようになる、という常識的な考え方に繋がっている。だが、実際には知識命題とは、所詮は誰かが行った一種の解釈に過ぎないのではないか。とすれば、所与の知識命題がネットにあふれることで、かえって判断が混乱し、思考力が衰える恐れもあるだろう。もっと大切なのは、手際よく所与の知識命題を集めて来ることではなく、自分が生きる上で本当に大切な知を、主体的に選択して築き上げていくことのはずである。ここでいう「知識命題」とは、自分の行為や生活から練り上げた体験知ではなく、天下りに与えられ、自分が手をふれて変更することなど不可能な「所与の知」だという点である。両者のあいだには本質的な違いがある。

所与の知とは、「社会的に権威づけられた知」ということである。これは、現代に限ったことではなく、およそ、人間社会が存続していくためには、社会集団の誰もがその妥当性を疑うことのない、何らかの所与の知が不可欠である。さもないと集団の秩序が失われ、人々の行動がたちまち紛糾し混乱してしまうからだ。だから天下りに与えられる所与の知は、人間社会のいたるところに出現してきた。中でもそれが最も秩序だった形で認められるのは、いわゆる「啓典の民」の社会だったと考えられる。啓典の民(例えばユダヤ教)の集団では、神の言葉(ロゴス)がしるされた聖典が絶大な権威をもっている。聖典に書かれた言葉は「真理」であって、その正しさは時間空間を問わず、いつでもどこでも普遍的に成立することになっている。その聖典はどこへでも持ち歩けることから、場所に拘束されずユビキタス(偏在的)になっていく、それが普遍という意味の「カトリック」なのだ。聖典に記された神の聖なる言葉が「真理」であるとすれば、それから正しい命題を演繹するのが神学のつとめということになる。言い換えれば、ある命題が正しいか否かは、真理から論理的に導出できるかどうかによって判定できるはずである。「神の真理」を「公理」や「原理」等で置き換えれば、そのまま現代の専門知に結びつく。このような真理や公理といった基本的な命題から出発して、次々に正しい命題を導出するためには、命題が記号で表現され、これを論理的な規則に基づいて機械的に組み合わせればよい、という発想が誕生したことである。機械的操作であれば主観が混入しないので、かえって説得力が増すという考え方だろうか。

2013年5月19日 (日)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(3)

スコット・ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』は集合知という問題に対して正面から取り組んでいる。前述の三つの疑問に対して、第一の「集合知が有効な条件」については多様性だけに絞り、第二の「集合知はなぜ正しいのか」という点については、理論的根拠を示そうとしている。ペイジは、「情報寄せ集めモデル」と「多様な予測モデル」の二つに分けて捉える。雄牛の体重の問題は後者に入る。まず、情報寄せ集めモデルの考え方はシンプルなものだ。集団の火メンバーが解くべき問題について部分的な情報をもっていれば、メンバーの意見を上手に組み合わせることによって、集団として正確な推測を行うことができる、というわけである。すなわち、ランダムな選択の結果、誤りは相互に打ち消し合い、正解だけが突出する可能性が高まるからである。たしかにここには、少数の専門家よりも多数の素人の集合知が正しいという主張は理論的根拠の一つがはっきり示されている。ただし、そのための条件として、未知の事柄について人々の間に集団的偏見がなく、あくまで中立ランダムな判断をするという仮定が本質的な役割を果たしていることを、決して忘れてはならない。群衆とは様々な憶測をするものである。問題によっては、この仮定は必ずしも成り立つとは言えないだろう。たしかにここには、少数の専門家よりも多数の素人の集合知が正しいという主張の理論的根拠の一つがはっきり示されている。ただし、そのための条件として、未知の事柄について人々のあいだに集団的偏見がなく、あくまで中立にランダムな判断をするという仮定が本質的な役割をはたしていることを、決して忘れてはならない。群衆とはさまざまな憶測をするものである。問題によっては、この仮定は必ずしも成り立つとは言えないだろう。

部分的な情報を寄せ集めると、誤りの効果がランダム選択によって打ち消され、集合知が成立するという議論は、雄牛の体重推測には通用しない。柵越に雄牛の姿を眺めてその体重の見当を釣れる人は、雄牛の頭、胴体、脚などそれぞれの部位について、特に何かを知っている人達の集まりではないからだ。ではいったいなぜ、この種の問題に対して集合知は有効なのだろうか。まず、各人の推測値がなぜ異なるのか。当然ながらそれは、各人が体験によって身につけた推測仕方に個人差があるためである。我々は生きていく上で、様々な問題を解決していかなくてはならない。その問題解決方法は、おおむね、家族環境等を含む個人的な体験と、学校教育等で受けた体系的トレーニングから得られたものである。近代的な専門家というのは、体系的トレーニングを受けた存在だから、その推測モデルだいたい似通ったものになるだろう。そして、その推測の精度は高いというのが常識だ。一方、素人は個人的体験のバラツキが大きいので、多様な仕方で推測を行う可能性が高い。さて、それでは推測の精度と多様性の関係はどのようなものになるだろうか。集合知はなぜ専門知を負かすことができるのだろうか。そこでは、集団誤差=平均個人誤差-分散値 という「集合知定理」が成り立つ。この集合知定理が示すのは、集団における個々人の推測の誤差(第一項)は多様性(第二項)によって相殺され、結果的に集団としては正解に近い推測ができる、ということである。均質な集団ではこの利点を活かせないが、様々な推測モデルを持つ多様な集団なら、個々人がかなりいい加減な推理をしても、集団全体としては正しい推測が可能になるのだ。しかし、この定理が示すのはそれだけではない。個々人の推測が平均として正しければ、第一項が減少し、集団としての誤差は減るというアタリマエの事実である。推測を行うメンバーのそれぞれの推測モデルの質がよいこと、しかも多様な推測モデルが用いられることが、集合知によって正解が得られる条件にほかならない。

最後に、集合知をめぐる第三の疑問、つまり「いったい正しさとは何か」について考えてみよう。端的には雄牛の体重推測等とは違って明快な正解がない問題について、集合知は果たして有効かということである。多くの現実問題は、利害対立や価値観の相違があり、誰もが認める正解などは存在しない。だがネットをつかって人々の相異なる意見を集約することが比較的たやすいとすれば、集合知の有効範囲は一挙に拡大する。直接民主制の可能性とも関わってくるはずだ。この種の問題の本質は、集団のメンバーの間に価値づけの相違がある時、いわば集団の「総意」ないし「一般意思」のようなものを数理的に導くことが可能か否か、という点にある。各人の価値判断が含まれる場合、集団のメンバーのそれぞれが合理的な価値判断(対象の順序付け)をしていても、つねに集団の「総意」として合理的な順序づけを与えられるようなルールは存在しない。これは実は、アローの定理といって、その筋の研究者のあいだでは昔から知られた古典的議論なのである。集合知が明確に有効性を発揮するのは、「正解」を推測する問題に対して幾つかの条件が満たされた場合だけである。多様な利害や価値観が対立するような問題については、集合知が有効かどうかは全然わからない。

本節で述べた議論は、近代社会についての数学的モデルに基づいている。つまり、あくまで個人主体を前提とし、各自の意識的な主張が形式論理的に表現され、機械的な操作によって集計が行われる、というものである。だが、そもそも集合知とはこれだけに限られるのだろうか。生物的な集合知とは本来、細胞を基本とする生命単位があつまって行動し、生命維持のためにいわば創発するものだ。そういう目から、もう一度、「知」を根本的にとらえ直してはどうだろうか。

2013年5月18日 (土)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(2)

例えば、土木学会では福島第一原発への津波の高さはせいぜい5.7~6.1m程度と見なしていたらしい。多くの専門家が、この基準値に基づいて、原子炉冷却など安全対策の多様な分析の研究を遂行していたはずである。論文もたくさん書かれただろう。学会の基準値をきちんと前提とするのが、その分野の「専門家」というものである。基準値の設定自体の検討は、また別の専門家の仕事というわけだ。しかし現実に来襲したのは高さ14mの大津波だった。ということはつまり、この基準のもとに書かれた論文はすべて紙クズだったわけである。もっと高い津波が押し寄せてくるという予測結果も、実はあったらしい。だが、いったんそれを認めてしまうと新たな防護壁建設のために膨大なカネがかかる。東電の幹部は当面の利益を増すためにそんなことは絶対したくなかったのだ。とすれば、東電の研究者だけでなく、東電から莫大な研究資金をもらっている大学の専門家が、彼らの意向を無視できるはずはない。こうして、高さ10m以上の津波を前提とした安全対策研究は、後回しにされるということになる。このようにして、専門分化と産学協同は、過度に進められると、学術研究そのものの基盤をゆがめてしまい、専門知そのものの品質が損なわれることになる。福島第一原発事故の悲劇はこうして起きたのである。これがアカデミズムの凋落でなくてなんだろうか。これは、ある意味では、専門家の思考や活動が一般性や普遍性を失い、個別の興味や利害に左右されるようになりなった、ということかもしれない。研究の方法論には細かいルールがあり、客観的で普遍的な知を生み出しているように表面上は見える。だが、研究遂行の前提条件そのものが、個別の偶然的要素によって強く限定されているのだ。こうした近代社会特徴と言われている専門知の普遍性が崩れていく。もはや専門家が一般のアマチュアと同じく、いわば主観的な知しか生み出せないならば、一般の人々の専門家に対する無条件の信頼は揺らいでいかざるを得ない。このことは逆に言えばまた、専門以外のアマチュア研究者への信頼が、一般人のあいだに生まれるということでもある。

言うまでもなく、専門知は研究教育制度やメディアのあり方と関連が強い。制度によって保証された専門家が、はじめてテレビや新聞を通じて自分の意見をひろく伝える権利をえるのである。そうでない素人の意見は、内容がいかに優れたものであっても、いわば床屋談義のようなもので、これまで多くの人々の耳目に触れることはなかった。この事情がすっかり変わったのは、インターネットが普及したためである。2000年代後半にいわゆるウェブ2.0が登場した。このウェブ2.0には重要な特徴がある。企業や官庁の公式ページだけなら、業種や担当部門などによって分類したポータルサイトからアクセスすればよしい、データ量も限られている。だが、一般のユーザがネットのなかで自由に自分の主張をするようになると、テーマも多種多様で分類が困難になる上、ネット内のデータ量が爆発的に増える。だから、それらのデータを相互に関連付け、的確にアクセスできるようにする高性能の検索エンジンが不可欠となる。検索エンジンというITメカニズムを介してはじめて、互いに見知らぬ人同士が結びつき、メッセージを交換し合えるわけだ。こうして従来、民主主義社会における一種の夢想でしかなかった「集合知」の実現がにわかに現実味を帯びてきたのだ。本書で取り上げる集合知は、本来の生物学的にいみあいよりは狭く、人々のいわゆる「衆知」、とくにインターネットを利用して見ず知らずの他人同士が知恵を出し合って構築する知のことを意味する。もともとインターネットのなかには、発足当時から、中央の権威に抵抗し、一般市民が交流して民主的に知を構築していこうというリベラルな文化があった。wwwが登場して一般ユーザが参入する以前から、インターネットは理系の研究者たちの間で情報交換のために活用されていた。若手研究者の中には、アイディアが湧くと、ただちにそれをインターネット上で公開する者もいた。つまり、論文にまとめて、査読を通してから専門誌に掲載されるまで待てないというわけである。アイディアが誤っている可能性もないではない。だが、優れたアイディアなら、いち早く公開して仲間に認めてもらう方が安全確実だ。これは逆に言えば、査読という制度の権威をあまり信用していないということである。査読者はエラい大学者かもしれないが、専門違いで見当はずれの難癖をつけてくる可能性もある。最悪の場合、優れたアイディアをこっそり盗まれてしまう恐れもない。要するに、ネット空間は従来から、学問の権威主義に抵抗する場としても用いられてきたのだ。

ジェームス・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』という本では、集合知の優位を熱っぽく論じている。例えば20世紀の始め、英国の家畜見本市で雄牛の体重を当てるコンテストが開かれた。参加者はそれぞれチケットを購入し、まるまると肥えた雄牛の姿を見物しながら、チケットに体重の推測値を記入する。いちばん正解に近い推測値を記した人物が、賞品を獲得するわけである。このコンテストに参加した有効なチケット総数は787枚だった。そこで驚くべき結果は、賞品獲得者の推測値の正しさではない。チケットに記された787個の推測値を統計的に処理すると、その「平均値」が正解を見事に当ててしまったという、信じがたい事実だった。スロウィッキーは、群衆の知恵は専門知に比べてもけっして劣ってはおらず、それどころか、はるかに優る場合が多い、という主張なのである。ここでいくつかの疑問が生じる。第一に、いったいどういう条件のもとで集合知は正しくなるのか。まさかどんな条件のもとでも、とは言えないだろう。第二に、第一の疑問とも関連するが、いったい集合知なぜ正しいのか。理論的根拠がはっきりしない。それが分らないと、見当違いの盲信に繋がる恐れがある。さらに本質的なのは、そもそも「正しさ」とは何か、という第三の疑問だ。雄牛の体重のようなものならたしかに正解が存在する。だが、つねに単純な正解があるとは限らない。難しい数学の定理の証明のように、問題解決法がたやすくわからないものもある。この場合、みんなの意見の平均値をとればよいというわけにはいかないだろう。また、中には正解というよりは、せいぜい「適正な解」とよぶほうがよいものもある。あえて言えば、世の中の大半の問題には、はっきりした正解など存在しない。あるとしても、正解かどうかよくわからない。例えば、原発を即時撤廃すべきか否かという難問は、いわゆる「正解」とは無縁である。複雑な利害関係やさまざまな価値観の対立を乗り越え、調整を重ねて結論にたどりつくのが通例なのだ。集合知というのは、こう言う問題解決にも有効なのだろうか。

「いったいなぜ集合知は正しいのか」という根拠についてスロウィッキーは、分析を加えている。とくに前述の三つの疑問のうち、第一の「集合知が正しいための条件」については、はっきりと示されている。それは、集団の意見が(1)多様性(2)独立性(3)分散性もの三つの性質を充たしていることであり、また、そういう意見を集約するシステムがあることだという。気にかかるのは、この三条件の間の関係性である。多様性とは集団の各メンバーが独自の情報を持っていることであり、独立性とは他者の考えに左右されないこと、そして分散性とは身近な情報を利用できること、と説明されている。だが、これらは明快な条件とは言えない。まず、メンバーの思考が互いに独立なら、多くの場合、多様になるだろう。また、分散性とは地域的に分散しているのか、論理的に隔てられているのかよくわからないが、いずれにしても独立性に含まれると言ってよい。おそらく、本質的なのは多様性だろう。集団が均質なら一人の意見と同じようなものだから、このことは直観的にうなずける。分散していて独立に思考していれば、まず間違いなく多様性が確保できるはずだからだ。だがこれをとらえ直すと、多様性さえ確保できるなら、必ずしも独立だったり、分散したりする必要はない。「独立性(分散性)」をふつうに解釈すると、集団のメンバー同士が相互に隔てられ、没交渉なことだという気がする。だが、これは民主主義の基本である討論の否定を意味するのではないだろうか。民主主義とは、集団のメンバーが多数決で決めるだけでなく、むしろ相互に話し合い、妥協点や実行可能な解を模索していくプロセスに主眼があるはずだ。真の多様性とは、そういうプロセスの結果として出てくると考えることもできる。

2013年5月17日 (金)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(1)

1章 ネット集合知への期待

3.11東日本大震災事故と東京電力福島第一原発事故は、21世紀の日本社会の深部に巨大な地殻変動をもたらした。その変化の実相は、渦中にいる私たちにはまだはっきり見えていない。だが、最大の変化の一つは、一般の人々のあいだに生まれた「専門知に対する根深い不信」である。要するに、みんなが本気で考え始めたのである。テレビに出てきて偉そうにしゃべる専門家や学者センセイの言うことなど、どうも当てにならない、と。自分で情報を集め、なんとか身を守らなくてはならなくなった、と。

実際に恐ろしい事故が起こったのに、関連する専門家たちはそれを懸命に隠蔽しようとし、一般の人に知らせようとしなかった。専門家なら、冷却用の全電源喪失という事実だけで、近々どんな悲劇が襲ってくるかすぐ予測できたはずだ。ということはつまり、一般の人々は見事に欺かれたのである。ニュースが広がればパニックが起こり、多くの死傷者が出るかもしれない、という判断も働いたのかもしれない。とはいえ、原子力発電の専門家はそれでよいのだろうか。あくまで科学的、技術的な観点から、生じ得る危険性について可能な限り正確な予測を行い、責任をもって自分の見解を公開し、そのうえで冷静な行動を呼びかけるべきではないのか。自分たちの言葉に、何千万もの人命がかかっているのだ。だが残念ながら、少なくとも、テレビに出演した「専門家」たちからは、そういう苦悩も真剣さも感じ取ることはできなかった。物知り顔で「大丈夫です、大した事故ではない」と繰り返し、やがて日数が経って事態の深刻さを否定できなくなると、まるで他人事のように「まあ、対策上、足りない点もあったかなあ」などと涼しい顔をしている。そこに欠落していたのは、学者としての最低限の条件である「知的誠実さ」である。こんないい加減な態度では、一般人のあいだに専門家への不信が広まるのは当然ではないか。彼らは原子力ムラの御用学者として非難されている。事実、その通りだろう。だが、ここで問題にしたいのは、いったい彼らが特殊な連中なのか、という点なのだ。もしそうなら、今回の事故は専門知全体の地盤沈下に直接結びつかない。にもかかわらず、私には、原子力発電の専門家たちを特別視し、彼らだけを非難する気持ちにはどうしてもなれないのだ。彼らは寧ろ、どこにでもいるような、視野の狭い平凡な連中ではないのか。私の周りでそれなりにまじめに仕事をしている種々の分野の専門研究者たちと、まあ似たり寄ったりではないのか。いや、敢えて言えば、本当の問題は、私自身を含めて、この国の専門知のなかに秘かに巣食っている癒しがたい病弊ではないだろうか。

いま、「アカデミズムの質的な凋落」を言うことかできる。その原因として少なくとも二つがあげられる。第一は過度の専門分化である。針先のように細分化された専門領域にどっぷり浸かっていないかぎり、専門研究者として認められない。昔はせいぜい二、三の専門誌しかなかった一分野が、今では何十をこえる多分野に枝分かれし、それぞれ定期的に何種類もの専門文献を公表している。それらに常に目を通し、自分の研究との関連に目配りしていないと、進展の速さについていけない。隣接分野の勉強をしたり、のんびり教養を高めたりしている暇などないのである。専門研究者の数がやたら増えた。競争を勝ち抜くには、少なくとも年に数編の論文を発表しなくてはならない。論文が認められるには、権威あるパラダイムに沿って入念にデータを集め、隙のない立論をするのが近道だ。研究者の日常は、このための「労働」でびっしり塗り潰されていく。今の専門家の大部分は、こういう人たちなのである。第二は、学問研究への無制限な市場原理の導入である。産官学の過剰な癒着といってもよいかもしれない。大学の専門研究者も、短期的なカネもうけに精を出さなくてはならなくなったわけだ。一般論として、学が産に協力すること自体を頭から断罪はできない。世の中の財を産がつくっている以上、そこに学が貢献することは、巨視的には公共のためになるはずなのである。ただ、問題は貢献の仕方なのだ。私企業の短期的利益のためだけに、大学の教育研究のエネルギーが使い果たされては困るのである。公的教育機関である大学を、手軽なアウトソーシング先にしてよいはずがない。

2013年5月16日 (木)

あるIR担当者の雑感(118)~IRツールとしての決算短信(11)~「中期的な会社の経営戦略」

最後に核心部に入ります。おそらくファンダメンタルで中長期の投資スタイルをとる投資家の人にとっては、この項目が核心部で、一番知りたいものなのではないかと思います。ここまで、この経営方針という大項目のストーリーの流れを、何回も確認してきました。このストーリーの流れの大きな方向性としては、抽象的な理念から徐々に具体的で現実的なプランに展開してきたという流れだと思います。実際のところ、読む側に立てば、そのような流れで具体化していくと興味も引っ張られるし、分かり易いと思います。

これを実際に書く側から考えていくと、これまでの検討の順番では抽象的な理念→具体的なプラスとだんだん段階を落としていくような順番で検討してきましたが、この項目を書いていく場合には、逆の順番で書くことも出来ると思います。むしろ、逆の具体的な戦略をまとめて大きな方向性を出して、それを抽象化して方針にしていくという作業の方が、現実を後追いするような会社の場合は書きやすいと思います。これは、実践的な戦略を最重視して方針は後からついてくるような会社の場合です。あとは、もともと方針のようなことを意識して考えず、戦略レベルでとまって実践的な議論に終始しているような会社です。前々回のところIRは企業のアイデンテティを構築する思想のような作業だなどと大風呂敷を拡げましたが、実際そのようなことを意識して、大上段に考究しても、まとまることは難しいと思います。しかし、この方向なら逆に具体的な戦略を煮詰めて行って蒸留していく作業を続けることで方針を浮かび上がらせることも可能で、その方が作業しやすいのかもしれません。何度も書いているようですが、これは私がこの項目の理念として考えてきていることで、実際の決算短信では、このようなことを考慮して一貫性をもってストーリーの流れとして書いているケースは見られません。

話はここで脱線しますが、これまで数回にわたって決算短信を、IR担当者がIRの視点で書くということで考えてきましたが、決算短信を作成する際の基本的な指針である証券取引所のマニュアルには一切触れてきませんでした。それは、知らなかったのではなくて、参照してしまうと、ここに書いてきたことが瓦解してしまうからです。証券取引所のマニュアルには決算短信の理念のようなことは書かれていません。あくまでも形式的に、この形式を踏まえるということ、あとは場合によって企業で選択できるとは書かれていますが、それぞれの短信の項目が何を伝えるとか、そもそも短信にはどういう存在価値があるとか、投資家は何を短信に求めているとか、そういうことを考えられてはいないようです。だから、あえて、マニュアルは無視することにしました。

さて、話をもとに戻します。では実際の決算短信を見てみると、会社によっては中期経営計画をそのままここに持ってきているケースなどもあります。これは中期的な経営戦略で、実行されているものですから、当然のことです。しかし、経営計画のパワーポイントの説明資料がそのまま引用されたような施策項目が列挙されて全体目標が書かれているようなものが結構多いのです。この場合、ひとつひとつの施策が書かれているのはいいのですが、最終的にその施策が為されることによって会社がどのようになっていくのかが分からないのです。その最終的な姿が説明されているケースもありますが、中抜けというのか、施策と姿の関係が見えないのです。だから、施策が全部うまく成功した場合はいいのですが、一部上手く行かなかった時はどうなるのかというのを想像しにくいのです。これなど、会社の将来に対して投資を考えようという投資家にとっても不親切に映るのではないでしょうか。また、そもそもパワーポイントの資料というのは口頭での説明を補完するものとして在るものですから、単に読んだだけで理解しなければならない短信にそのまま転記するのでは、当然足りなくなるはずです。そこを踏まえてストーリーとして説明できていない会社は多く見られます。

一方具体的な施策が説明されず、中期戦略によってどのような会社の姿を目指すかだけを説明しているケースもありますが、その場合前の項目である指標との関係で、その指標数値をどのように高めていくかが分からないので経営戦略の中身をはかれないので、投資家からみれば物足りないということになるのではないでしょうか。

また、これは理念として決算短信の、私の思う理想の姿として考えていることですが、長期戦略を説明するのはいいことなのですが、戦略はただ説明するためにあるのではなくて、実行し成果を上げるためにあるわけです。そして、戦略として説明の俎上に上がっている時点で、企業の側ではすでに実行に着手して着々と進めているのです。投資家としては、その戦略の内容、つまり、何をどのようにするのかは説明されて分っているとしても、現時点でそれがどの程度進んでいるのかという進捗状況も知りたいと思います。ところが、そのことを説明しているケースはありません。だからこそ、ここで進捗状況を説明する。そうなると、戦略の修正なども当然行われるはずなので、そういうこともフォローして説明していれば、会社の真剣度が投資家に理解されやすくなるのではないかと思います。

また、文章全体の一貫性というのか、一種の円環構造のような構造になっていて、戦略上のそれぞれの施策を理解するためには、事業の特徴や強み、リスク、市場環境やライバルの動向を理解しておくことがその助けとなってきます。そのためには、以前に考察した企業集団の状況などの他の項目に目を通しておくと理解が進みます。

こうしてみると、決算短信という文書は、ある面ではそれだけで完結しているミクロコスモスのようなものと言えるかもしれません。

これで決算短信の定性的情報をIRで考えるシリーズは一応終わります。

2013年5月15日 (水)

あるIR担当者の雑感(117)~IRツールとしての決算短信(10)~「目標とする経営指標」

この項目は、前回検討した「会社の経営の基本方針」によって示された、“会社は将来こうなるのだ”ということを例えば売上規模だったり株主価値の創出であったり、投資家にとって分かりやすいものさしに当てはめるところです。このように数値化することで、言葉ではあいまいだったことが明確化することになります。その結果として、他の会社でも数値化しているのですから、同じ指標をとっている会社の容易に比較することができることになります。投資家の立場に立ってみれば、その会社の経営の基本方針を相対的に評価することが可能となるわけです。例えば、会社が基本方針として打ち出していることが、容易なことなのか、それとも困難なことなのかということが、他の会社と比較して一般的にはどの程度の数値が目標となっているかを推測し、その一般値とその会社の提示している目標値を比べることで難易度を推し測ることができるわけです。

そして、数値化することのメリットは他にもあります。この目標に対して、実績がどの程度まで迫っているかを数値では定量的に把握できるため、進捗状況が一目で把握できることになるわけです。

では、この項目をどう書いていくかを検討していきましょう。ここまで述べて来たように、前の項目である基本方針を具体化させたのが、この項目ということになって、この後に来る経営戦略は、ここで説明された指標の数値を向上させることが戦略目標となります。だから、この項目は戦略の上位にあるといえます。

そのような、この項目の位置を考えた上で、実際の各社の決算短信の記述をみてみると、ほとんどの場合、こういう指標を選択しているということと、場合によっては、その指標での目標値を書いているというもののようです。しかし、これまで考えてきたストーリーという流れを見てみると、前項の「会社の経営の基本方針」を具体的に数値化されたものとして「目標とする経営指標」が出てきたわけですから、どうしてこのような経営指標をとっているのか、経営の基本方針との関係を説明するということが、まず、あってもいいと思います。これが一目瞭然で敢えて説明する必要がないというのならともなく、ほとんどの会社では、前項とこの項目との関係が全く見えず、それぞれが無関係にただ並んでいるだけという書き方がされています。

逆に、なぜこの指標をとっているのかという理由を説明することによって、前項の基本方針を補完することもできると思います。中には、指標を選択した理由を説明しようとしているケースもありますが、とってつけた感を否めません。

一方、こういう指標を選択している理由があれば、その指標でここまでやりたい、あるいはこの程度はやらなくてはならない、といったことで目標値を設定しているわけでしょうから。指標を選択して、目標を設定していないということは企業活動としては考えられません。予算と実績というのが企業経営の原則的なあり方ですから、当然目標は設定する筈です。そして、決算短信のこの項目で、目標値を書いているケースはあれますが、どうして、そういう目標にしたのかという理由までは説明されていません。その理由が分かると、目標を設定している会社の本気度とか、取り組み姿勢が推測できます。ここまで説明されて、ある指標を選択したという説明が完結すると、私は思います。

そこで、次の項目の経営戦略に移ったときに、説得力が違ってくると思います。

2013年5月14日 (火)

あるIR担当者の雑感(116)~IRツールとしての決算短信(9)~経営方針 「会社の経営の基本方針」

前回検討した「企業集団の状況」が形式的な企業紹介であれば、こちらは実質的な企業紹介といったところでしょうか。ここの小項目としては、「会社の経営の基本方針」、「目標とする経営指標」、「中期的な会社の経営戦略」そして「今後の対処すべき課題」ということが並んでいます。これは、大雑把な流れで言えば、会社には経営理念や基本方針があり、それに基づき、則って事業を行っている。しかも、会社が事業を営む限りは、目先の行き当たりばったりということはなく、たとえ漠然としたものであっても将来こうなりたいというビジョンを持って、それに向けて事業を行っていると言えるでしょう。従って、そのビジョンは経営の基本方針の中に入っているだろうと、一般的に想像できます。ただし、それは各会社の中で、会社の独自の表現で謳われているものなので、外部の投資家が一見で理解するのは難しい場合もあるでしょう。それに一定の物差しをあてて、会社どうしを比較しやすくし、投資家にも理解しやすくしようとしたのが「目標とする経営指標」という項目でしょう。そして、ただビジョンというだけでは絵に描いた餅でしかありませんから、実際の事業活動でこれを現実化させていかなければなりません。そのためにどうするか。会社として何をどのようにするかということを説明するのが、「中期的な会社の経営戦略」です。そして、大きい会社であれば、戦略を練る人と実際に事業を実行する人とは別の人が行うことになります。実際のところ、会社が戦略を立てても、それを実行して成果を上げて行かなければ何の意味もありません。そこで、経営戦略が実際に実行される際に、現実にぶつかって課題が生じてきます。これを説明するのが「今後の対処すべき課題」ということになります。このような流れで考えていくと、投資家が企業の将来キャッシュフローの現在価値に投資するという基本原則で考えると、投資家にとって最も欲しい情報ということになります。そして、この部分こそ、会社によって記述の内容に格差の大きい部分であると思います。

では、まず「会社の経営の基本方針」という項目について考えていきたいと思います。どこの会社でも経営理念とか基本方針とか、あるいは社是とか、名称はさまざまで、明文化されているところもあれば、暗黙のうちに社内に浸透していて企業文化になっているところまで、千差万別のかたちであると思います。ただ、そこで共通しているのは、そういうものが在るということです。「そんな堅苦しいものはウチの会社には無いよ」という御仁がいれば、それがないということが在るのです。だから、この項目が空白になるということは、そもそもあり得ないということです。

また、ここにまるで小学校の道徳の時間のような社是とか理念を載せているケースもあります。しかし、そもそも決算短信は何のためにあって、どのようなものであるべきかを考えてみると、投資家が企業を理解し投資判断をするということが第一目的のはずです。だから、決算短信にはそれに副った情報が載せられているはずです。道徳的な企業理念に共感して投資を決めることも考えられないことはありませんが、株式投資の王道は、将来キャッシュフローの現在価値と見ていいだろうと思います。つまり、決算短信にはそれを検討するために有益な情報が載せられてしかるべきなのです。だから、社是や会社設立の理念等を載せる会社を否定するつもりはありませんが、投資家が知りたいのはむしろ、会社を将来どのような方向に向かっていこうとしているのか。何をやりたいのか、ということだろうと思います。将来の具体的なことは、今から確定的なことがいうことはできませんが、すくなくとも、会社はこのように考えているという方針や方向性が分かれば、投資家もある程度推測することができるはずです。

現実に機関投資家が企業に投資をする時には、経営者に直接会って話をし、企業を訪れて現場の空気や雰囲気に触れるものです。経営者は理念を個人に体現させた存在であるし、基本方針は企業文化として有形無形に、企業で実際に動いている場に反映しているものであるからです。

そして、今回の最初のところで、この項目の大きな流れを概観しましたが、この「会社の経営の基本方針」からその後の「中期的な会社の経営戦略」に繋がっていく一連の流れがストーリーづけられているのが、私は、理想と考えています。つまり、この「会社の経営の基本方針」が源流となって経営戦略に具体化していくようなストーリーがあって、はじめて投資家は会社の将来、具体的にこうしていくのだということを理解していくわけです。

これらのことから考えてみると、この「会社の経営の基本方針」で記述すべき基本方針というのは、もともと会社にある理念や方針をそのまま、ここに書くというだけではだめで、その後の経営戦略を導き出すことができるものであるものであるということです。さらに追求していけば、ここでの経営戦略というのは机上の空論のようなものではなく、現実に実行されて、最終的に成果と結びつくものでなければなりません。その実際の現実という点について、この項目で記述されるのは、タテマエとして美しい言葉で飾り立てられた美辞麗句ではなくて、実際の会社の雰囲気やそこで働く人々の間で共有されている生きている企業文化を反映されることができるはずです。この決算短信を読む投資家の人々も、現実の会社の姿が投影されて、そこから経営戦略が紡ぎ出されて来るプロセスを読み取ることができれば、その経営戦略が現実味あるものとして説得的なものとなるはずです。

ここからは、私が考える、こうありたいという理想の姿です。ここで書いてきたことを、実際に基本方針としてIR担当者が書くということになれば、経営者が考えているこう会社を導いていくという有形のトップダウンの方針が一方にあって、それを現実化しじっこうしていく会社の現場の人々がこう動いていくという企業文化とか会社の空気とか言われている無形のボトムアップの行動指針の両方を汲み取って、会社の将来に向けて実際にこのように進んでいく、というものをまとめるということになるわけです。ここまで言うと、会社が実際に事業を実行していて、その会社の基本的なあり方を炙り出して表現を与えていくということになってきます。もっと突っ込んでいうと会社のアイデンテティを追求し、明らかにしていくということに他なりません。これは、大袈裟な言い方をすれば、社会というより大きな器において、このような役割を担ってきたのは思想家とか宗教者といった人達です。ここまでいうと行きすぎかもしれませんが、IRという業務の定義に立ち返ってみる時(日本IR協議会の日本語の定義にはありません)、このような要素はたしかに含意されているはずです。私は、IRという業務がそこまで踏み込むことができるとすれば、会社の経営に際して不可欠のものとなってくるものと思います。実際に日本企業の決算短信を見ている限りでは、そういうことが実現されているものは見つかっていませんが。

2013年5月13日 (月)

「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展(3)~ルーベンスとアントワープの工房

ルーベンスがイタリアでの滞在を終え、母国に戻ると、アントワープに工房を構え、本格的な制作活動にはいり、作品を量産していきます。この展示はそのころのものを集めたということで、今回の展覧会の核心部といっていいと思います。

まず目に付いた、というより印象が強かったのは、肖像画でした。今回のルーベンス展に関する記述の最初のところで書きましたように、肖像画というものの画家にとっての位置づけを考え直さされたものでしたし、それだけ気合入った作品を見ることができたし、画家の素の息遣いが画集に取り上げられるような大作よりも、むしろ強く感じられるとともに、今まで思っていなかったような新しい発見があったためです。

Rubenceprof2『髭を生やした男の頭部』。「東方三博士の礼拝」のための油彩スケッチとして描かれたものだそうです。前回に見た『聖ドミティッラ』もそうでしたが、モデルの人間を筆写して理想化(パターン化)を加えて作品素材として図案化のような作業していって、実際に使われたらしいそうです。つまり、工房で働く画家たちが大作に描きいれる人物のお手本として使われたらしいです。技量がルーベンスに届かない画家たちは大作の中の部分を担当した時に一定レベルを求められので、ルーベンスの描いたお手本を写して利用することで、そのレベルをクリアしていた。そのように、他人がコピーして使いまわすための図案集のような機能を果たすためには、特定の人物の特徴をとらえていることよりは、老人の一般性が現われている方が利用範囲が広まるし、写しやすい。そのような実用的な要求が、実は作品に入ると理想化された普遍性をもった表現になっている、なんと効率的な事か。とはいっても、実際にこの作品を、今、見ると、すごく斬新な感じがしました。男の頭部といっても、額は狭く、落ち窪んだような目と鼻以外は髪の毛と髭に覆われている。激しく波打ち、巻かれた、もじゃじゃの髪の毛と髭に強いハイライトが入り、まるで金属のような質感とダイナックな躍動感があるのは、素早い筆遣いと、色遣いによるものでしょうが、この髪の毛の様を見ているだけで水際立った手際の良さにうっとりしてしまうのです。ルーベンス本人が、このようなスピーディーな筆遣いでさっと作品を仕上げてしまう様子を何となく想像してしまいました。

Rubenceprof1『兄フィリプス・ルーベンスの肖像』は上で想像したような画家自身の手による肖像画。顔の部分にハイライトが当たり、明暗のコントラストが強く、少し上気したような肌の柔らかな質感が触って分かるほど生々しく感じられるのに対して、髪の毛は流れるようにさっと描かれでサラサラ流れるよう、そして衣服や背景は筆致が明らかなほど粗いのかサッと描かれている。そそのメリハリとスピード感。これを見ると、それほど大きな作品ではないはずなのに、シンプルな肖像画であるのに、ルーベンスは画面構成を緻密に考えて制作しているのがよく分かりました。その密度は大作と少しも変わらないと思います。こういうものを見てみると、ルーベンスという人の特徴は、画家としての技量の見事さにあるのは当然ですが、それ以上に画面のデザインとか構成とか設計者のようなところの才能に秀でていたことを強く実感しました。それは、単に描くこと以前のメタレベルのところで、絵画を如何に描くかという問いをいつも強く持っていたということが、代表的な大作よりも、むしろ、このような肖像画を見ていて、よくわかりました。

Rubenceprof3『男の肖像(ニコラース・ロコックス)』も下絵のような粗さのある絵ですが、暗い背景と黒っぽい衣装と対照的に描かれた白い襟、ハイライトの当たる横顔のコントラスト。このようなものを見ていると、カラバッジォの劇的な明暗の対比を、巧く取り入れて、強いインパクトを見る者に与える肖像画を描いている、これも手際の良さと緻密に設計されたロジカルな感じをすごく受けます。

『復活のキリスト』は、今回の展示の目玉の一つではないかと思います。これまで、肖像画を取り上げてきましたが、ルーベンスという画家のイメージからすれば、教会に飾られるような大規模で荘厳な大作です。そのようなものは美術館の回顧展のようにところに展示するのは不向きで、実際に現地の教会に出掛けて行って見るしかないでしょう。それならば、そういう作品に準ずるものしかないということになれば、この作品のようなものが格好の対象となるでしょう。実際、画家の壮年期の充実した作品という評価になっているのではないかと思います。2m近い縦横の大きな画面のほぼ大半を占める大きさで、見ているこちら側に迫ってくるようなポーズで迫力があり、当のキリストは死んで3日後に復活(蘇生)したにしては、血色がよく肌が艶々していて、逞しく描かれています。磔刑にされたキリストの絵の多くは瘠せさらばえた姿で描かれていますが、それがこんなに逞しく、まるでスポーツ選手のように筋肉質の逞しい身体つきになっています。これは復活というスタートを祝福するということなのでしょうか、死に対する勝利を語っているとカタログの解説にはありましたが、そういう死を克服した力強さを称えていると言えるかもしれません。キリストの肌は周囲の天使の幼児のような瑞々しさです。このような、肌の瑞々しさと身体の逞しさを備えた人々が織り成すエネルギーが作品から溢れるようなところがルーベンスの真骨頂といえるでしょうか。これまで見てきた肖像画が、背景を暗くして全体のトーンを落として人物にハイライトを当てて、落ち着いた感じの中に人物が静かに浮き上がって来るのに対して、この作品では、全体が明るくエネルギーが溢れんばかりです。とは言っても、この全体の明るさはハイライトが当たっているキリストが画面全体に占める面積が大きなところからきていると考えられます。画面左側は暗い色で塗られていて、これはキリストが復活する前の夜の名残ということでしょうか。キリストの頭部には背後から後光が差していて、これが復活したキリストが光を周囲に放っているという、そのコントラストということでしょう。つまり、単に復活の光だけを描くのではなくて、左側にあえて暗い空間を描くことで、復活の劇的なところを出している。キリスト本人のポーズや3人の天使を配した構図も比較的シンプルで、単調になりがちなところを光と闇のコントラストの効果を入れて劇的要素が加わることで、免れているということでしょうか。この辺りに、イタリアの明晰な絵画を学びながらもバロック的な特徴が出てきていると思います。以前、「暗のレンブラント、明のルーベンス」という私の偏見を申したことがありましたが、展示されている作品を見ていると、ルーベンスは巧みに明の中に暗を取り混ぜて作品の劇的要素を高めているのが分かります。この作品など、それがさりげなく生かされていると思います。それは、カラバッジォのような露骨な使われ方ではありませんが。そして、ルーベンスの取り扱っている題材が比較的ダイナミックな動きを取り入れているので、その動きが劇的な構成の中で生きて、さらに溢れんばかりのエネルギーがそれに加わり、生き生きとして、見る者を捉えて離さない作品を作っているということが分かります。

Rubencefukkatu_2そして、この作品では顕著なのですが、ルーベンスの大作となっている規模の大きな作品は複雑な構成になっていても、シンプルな方向を希求していることが今回分かりました。求心的と言ってもいいと思います。この作品で言えば、長方形の画面の対角線を引いた交点、つまり中心にキリストがいて、そこで区切られる四つの空間がそれぞれ描き分けられている。左側は暗闇で、上はキリストの後光と天使が月桂冠ょ被せようと飛んでいる、右側は赤い衣をまとった天使がキリストから白布を取り去ろうとしていて、下はキリストが寝かされていた棺で光が未だ届いてきていません。つまりは、四つの空間が中心のキリストに向かって収斂していくような構図になっていて、これを見る人の視線も、そこに集まるように巧みに構成されていいます。これを例えば、同時代のエル・グレコの作品と比べると、グレコの作品は様々な要素がごった煮のように画面に溢れ、それぞれが勝手の自己主張して競い合うような存在感アピールの競争をしているようです。その結果、画面全体は躁状態のような異様な盛り上がりを呈している。これに対して、ルーベンスの場合は、エネルギッシュであることは似ていますが、もっと秩序づけられて、それがひとつのストーリーに収斂され劇的なドラマに見る者を引き込むところがあります。このドラマチックな要素が人々の共感を呼び起こす、ひいては宗教的な共感に繋がる効果を生んでいるのではないかと思います。

ここで、若干、ドラマチックな要素について一般論的な説明をしたいと思います。美術史的なおさらいなりますが、中世からルネサンスに移り絵画技法として遠近法が発見?されます。それは、平面である画面に三次元の立体的世界にある奥行を与えたものでありました。それと同時に、消失点に向かって、つまり画面の奥に行くにしたがって世界は縮小して、最後は点に収斂するというものです。これは、人間が見る時に二つの眼でステレオにみて、ふたつの目の焦点を合わせて立体的に見ていることを平面であるキャンバスに移し替えたということが言えます。だから、これは人間という主観が捉えた空間を写したということに他なりません。そこで表わされる空間で、絶対に表わすことが出来ないものが生まれます。それは見ている本人です。そこに主観と客観の分離、つまりは、見ている人間の主体が生まれるということが起こったわけです。幼児にお絵かきをさせると、たとえば家族を書きなさいというとそこに自分も同然のように描きますが、幼児には描くものと描かれるものの分離はなく、描いている自分は自由に画面の中に入り込んでいる。そこに客観的に世界をとらえるということはありません。ルネサンス以前の中世の絵画を見てみれば、画面の構成は幼児の描くお絵かきによく似ています。神と人間が同列に並んだり、人間と動物の区別がなかったりという具合に、これは人間の主体とものがなくて、神様の前でみんな一律平等だったからです。だから、中世の絵画に立体を平面に移すとか、奥行とかいうような、人間の視線に近いような絵を描くという発想が生まれなかった。そこで、遠近法がうまれ、人々がそれに気づいたということは、そこで主観が発見されたことなるわけです。(この辺の議論は倒錯していますが、いまの、この方が読みやすいと思います。)その結果、ルネサンスの絵画作品は人間から見た世界を忠実に画面に写す、リアリティを獲得することになったと言えます。しかし、ルネサンスで発見された主観というのは、あくまでも客観に対する主観ということになります。だから、ルネサンスの作品は誰が見ても客観的にリアルです。つまり、周囲の環境を距離をおいて対象化しているのは、普遍的な人間ということになります。だから、ルネサンスの絵画は客観的で写実的なのだけれど、何となく整いすぎているとか、冷たいという印象を受けることがあります。それに対して、普遍的な見方はあるけれど、そうでなくては一人の個人が独自の視点で見たということが加わったのがバロックの作品ということができます。ある特定の個人が周囲の環境を見たときには、視点は限定されるので、客観的には存在するものが見えない場合が出てきます。逆にその人が見たいところはクローズアップされるように見えることもあります。いわゆる主観的な視線です。その視線に写った風景は、その個人の目に特有の風景ということができるため、それを作品として画面に写し取ったものは、その人と同じ風景を見る、つまりは視線を共有することができることになるわけです。その時に、普遍的な視点ではいので、写し取られる世界は客観的なものから離れて、時には歪んで見えることになるかもしれません。しかし、視線を共有することは、その視線の持ち主と共感することに繋がっていくことになります。

ルーベンスの壮大な大作の構図には、そういう点での共感できる特徴が備わっていると思います。

2013年5月12日 (日)

「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展(2)~イタリア美術からの着想

ルーベンスは若い画家として独立して間もなくイタリアに向かい、その地で8年間イタリア美術を学び、本国に帰ってからも、折あるたびにイタリアやスペインでイタリア美術に触れ模写を何点も残したといいます。ここでは、そういう作品が展示されていました。展示点数は多くありませんが、脳天気に明るい、ゴージャスとかいささか空疎に響かないこともないルーベンスにもっていたイメージとは少し違う作品がありました。

Rubencewomanまず、『毛皮をまとった婦人像』(左上図)を見てみたいと思います。これは、ルーベンスが50歳を過ぎた成熟期に訪れたスペインで見たティツィアーノの『毛皮の少女』(右下図)をもとに制作した(模写した)作品だそうです。たしかに、そっくりで上手いです。しかし、二つの作品の微妙な違いがルーベンスの特徴を浮き上がらせています。まず目に付くのは、ルーベンスの作品の画面のサイズが相対的に横広ということです。これによって画面全体に余裕が生まれています。ティツィアーノの作品は単独で見ると感じることはないのですが、ルーベンスのと比べると少し窮屈な印象を受けます。このことはルーベンスという画家の透徹した眼ということを感じざるを得ません。そして、画面に余裕ができたぶん婦人の肉付きをよくしてふっくらした感じにして、目を心もち大き目に描いて。大きな目がパッチリと開かれていると顔の表情が明るくなり、顔にスポットライトがあったように印象が変わります。二つの画像を見比べてみるとルーベンスの作品が明らかに、ゆったりしていて、明るい、違いがはっきりと分かると思います。これが、ルーベンスの作品が脳天気なほど明るく、ゆったりした印象を生み出すひとつの要因かもしれないと思います。そして、このようなルーベンスの作品の婦人は生き生きとして実在の人間としての存在感、具体的に誰と名指しができるような実在の人間のような生気が溢れています。これに対して、ティツィアーノの作品の少女は影が薄いのです。暗い背景に埋もれているような印象Rubencewoman2
で、ルーベンスの婦人に比べると、模写したものとされたものですか似ているはずなんですが、こちらは整った顔立ちになっています。その分冷たい感じがして、生気があまり感じられないせいもあって、実際に息づいている人間という感じは、ルーベンスに比べると薄くなっています。もっとも、ルーベンスの画期漲る作品と比べるから、そう見えるのであって、これ一つだけを取り出して見れば、そんなことは思いもよらず、自然に見ることができでしょう。例えば、眉の付け根の描き方を比べて見て下さい。ティツィアーノの場合はスゥッと眉が半円のスッキリとしたラインとなって描かれているのに対して、ルーベンスは付け根の始点を強調し、そして眉の眉毛が生えていることをキチンと毛根が見えるかのように描いています。これは、ティツィアーノが人間の顔の形態に目が行っているのに対して、ルーベンスは実在の生きた人間の生々しいリアルさに目が行っているという違いによるものでしょう。これは、ティツィアーノがマニエリスムの影響から抜け切れず理念的というのか理想の女性像のようなものとしてこの少女を描いているように気がします。ティツィアーノの少女の表情をみると湛えている微笑みは人間のというよりはニンフや天使のような印象です。そうして比べて見ると、ルーベンスという画家がイタリア美術の様式や技法に習熟していたが、ベースはリアリズムの人であることが明らかです。しかし、私の好みは影薄いティツィアーノ描く少女の方です。だからルーベンスは苦手…とはいっても、そういう苦手を自覚している人をも惹き付けるものを持っているのです。

Rubencedomitilla『聖ドミティッラ』。これは祭壇画の準備のために描かれた下絵のようなものです。最終的な祭壇画ではここでの描かれ方と異なる描かれ方をしています。白いシャツを着て、腹部に毛皮を掛け、編み上げた頭髪を宝石の帯とリボンで飾り付けた女性は、右手に殉教者のアトリビュート(持物)である棕櫚の葉を持った姿で描かれ、視線を下方に向けている。あたかも柔らかい肌の感触が見て取れるかのような現実感を備えた生身の女性の描写が達成されている。その一方で、彼女の顔は厳格な横顔として表わされている。つまり、その顔の表現は、メダルやカメオに表わされた頭部を想起させるような威厳をも有しているのであり、古代美術の造形を強く意識しながら、生身のモデルに基づいて制作された作品ということができる。首飾りと棕櫚の葉が、直線を形成するように配されている点からも強い構成意識が見て取れる。とカタログで説明されているのは、その通りで、イタリア留学中にうけた注文でルーベンスはこのような下絵でそれまで学習したことを様々に試みていたのだろうと思います。顔の描き方をみるとタッチはけっこう粗目であるにもかかわらず、棕櫚の葉を持つ手の指先の丁寧な描き方や、カタログでは古代のカメオのような厳格なプロフィールでありながら、首の線の肉の弛みが肉感的に見えるなど、形式的な構成とリアルな視線の交錯がはっきりと表われていて、ルーベンスという画家が複数の方向性を持っていて、それらが拮抗してなかなかまとまらず、作品の中に対立的な要素が入っているのが大変興味深いです。ルーベンスの作品から放出されるあのエネルギーの源のひとつに、このような葛藤が原因しているのではないか、と少し考えさせられました。

Rubenceromeそして、イタリア美術の学習の集大成という位置づけで、ここに展示されていたと思われるのが『ロムルスとレムスの発見』という比較的規模の大きな作品です。展覧会の入場チケットやチラシにもこの作品がフィーチャーされていましたから、おそらくこの作品が目玉ということになるのでしょう。ローマの建国者であるロムルスとレムスの伝説を題材にしたものですが、構成が凝っていて正面に描かれた樹木によって左右に画面を分けて樹の根元に横たわる狼によって区切られる下の部分をまた区切ると、都合3つの部分に画面を分割しています。向かって左側はティベレ川の精で彼が寄りかかっている甕から流れ出ているのがローマの中心を流れるティベレ川になぞらえられているので、人間には見えない不可視の世界です。そして右側は羊飼いのファウルトゥルスという現実の世界で生活をしている人間です。だから、樹木を挟んで左と右で不可視の精霊の世界と羊飼いの生活する現実世界が樹の幹によって区分させられている。その間に狼が横たわり、それに区切られた下部の中心になっているのが、狼の乳で育てられたという幼い兄弟です。兄弟は羊飼いに発見され、人間の世界に戻っていくことになるのですが、ここでは下部に位置することで、人間の世界と不可視の精霊の世界の境にいるわけです。実際、レムスは手を挙げて人間には見えないはずの川の精を見ています。しかし、羊飼いを二人の幼児を見つけています。ルーベンスはここで異質の世界を一緒に描き、それらが元々は異なる世界でありながら、幼い兄弟の存在を通して連続していることも示さなければならいわけで、ここで対立矛盾する要素をまとめることが義務付けられています。また、ここでの様々な要素、川の精や兄弟を育てた狼の構図などはルーベンスがイタリア滞在で学習した古典的な構図や古代の彫刻の知識が使われているとされています。その形式的な図案に生き生きとしたリアリティを与えるという、これまた相矛盾する課題です。そういう対立的な課題を抱えての作品で、結果的に上手くまとまっているとは思えず、ルーベンス自身解決しきれていないで、画面の大きさに対して何か窮屈さを感じます。画面にそういう要素が入り過ぎて整理しきれていないというのか焦点が絞り切れていない印象です。部分をとってみれば画面上の品質が統一されていなくて、狼の毛並みなどは見事なほど描き込まれているのに対して、羊飼いの顔は明らかに仕上げが雑で平面的です。しかし、それらを補って余りあるのが、少し触れた狼の今にも動き出しそうなリアルな描き方と、画面でも光が当てられて、神々しさを与えられている二人の幼子の皮膚の柔らかさや縮れた毛で描かれた愛らしさと存在感でしょう。そういうムラは、後のアントワープ工房によって制作された傑作群では解消されていくのでしょう。だから、この作品はルーベンスの大作の秘密が露わになっているとも言えると思います。

2013年5月11日 (土)

歳をとって本当に怖いのは「精神的退廃」

偶然に見たブログで目にした一節です。(『おもしろい50歳が増えると、日本は変わると思う』)この記事は、長くてなかなか本題に入らないのですが、読み応えがあって、50歳を越えた年齢の私には、他人事ではない、ハッとさせられるものがありました。

 そう、年を取って肉体が衰え、若いころのような溌剌としたところはなくなります。私はいつまでも若くいたいとか、若く見られたいなどということは思わないのですが、とはいっても、ふっ切れたか、といわれれば、そうとも言えないところです。

 そんな衰えではなくて、精神の衰えへの危機感ということに対しては、私は100%同意します。この人の言う面白い50歳というのは、滲み出てくる感じのおもしろさ、と言います。それは、ちょっとした物の見方やその人なりの捉え方から出てくるもので、どれだけ経験したことを自分の中で「おもしろく」変換させてきたか。この「変換」があるかという、いうなれば人生から蓄積されたものです。

 そういうのって、いいなと思いつつ、自分には今さら無理っぽいと思いつつも、私の場合には、このようなプログを始めて、コツコツととにかく続けていて、このプログを通じて、ネットでやり取りする人ができたり、何かの縁でこれを読んでくれて、何気ない席で「読んでますよ」と声をかけられて、そこでちょっとした付き合いが生まれる、というようなことは、自分一人では無理かもしれないけれど、「おもしろい」に変換させることをこういうネットワークの中で自然にできるようなことが、あるのではないかと思ったりします。そのためには、自分自身がネットの上だけでなくて、実生活でも、そうあろうと努力することは必要なのでしょうけれど。(とはいっても、そんなに無理する必要はないと思いますが)

 いつも、比較的長めの記事を書きますが、今回は、ふと、思いついた走り書きのような投稿です。もしかしたら、これから、たまに、こんな書き込みを思いつくかもしれません。

2013年5月10日 (金)

「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展(1)

2013年3月11日(月)BUNKAMURAザ・ミュージアム

Rubencepos週明け早々、昼前から都心に出て午後1番から機関投資家を3社とのミーティングを次々にこなして、神経が擦り減り疲労困憊の状態。月曜のしかも夜間に開館しているので、近くまで来たからと、思い切って行ってみた。地下鉄で向かった渋谷は、駅周辺の都市再開発が進んでいるとはいっても、猥雑で汚ない街の雰囲気は変わらない。辺境のエネルギーと流入する若年者たちによって活気があるのは、一時の新宿を彷彿とさせるのは確かだと思う。でも、感覚的に肌に合わないのか正直なところ、偏見とん先入観と言われればそれまでだが、山手線の新宿より南の繁華街である渋谷、原宿、恵比寿、どこも何となく敬遠したくなる。そんな渋谷の街を足早に歩いて道玄坂を上り東急百貨店のあたりで少し落ち着き、BUNKAMURAのエスカレーターを下る。実は、BUNKAMURAのスノッブさもあまり好きでなく、ここの映画館やオーチャードホールというコンサートホールも肌に合わない。オーチャードホールは響きがデッドなわりに音の分離が悪く、アンサンブルにもソロにも中途半端な響きが時にフラストレーションを起こさせる。実は、ザ・ミュージアムも…、と愚痴が際限もなく出てきそうなので、今日は疲れているのだ。

今回はルーベンスの回顧展です。かなり、私的には驚きで、このところ、グレコ、ラファエロと泰西名画のブランドの展覧会を見て回るなどと、好みと必ずしも一致しない美術展に行ったりするなど、そのたびに、いつからこんなミーハーになったのかと自問を繰り返しながら、今度はルーベンスです。「フランダースの犬」のあの聖母像のルーベンスです。豪華絢爛な北方バロックの、壮大とか豊満とかそういう形容が似合う、大寺院やお城の大広間に飾られるゴージャスな画家です。どちらかというと敬遠していたタイプです。またまた、愚痴に近いものを書いてしまいました。どうして、そんなものまで見に来てしまったのか。それは、考えるに二つあって、一つには、このように感想を文章にしてウェブでアップしているうちに積極的に美術展に足を向けるようになってきたこと、そして第二には、このところグレコやラファエロのような今までなら絶対に行かないような美術展に行っても発見があって、いままで知りえなかったこの画家たちへの糸口のようなものが掴めた気がしたこと、そんなことから、言って見てみれば何かあるかもしれないと、肩の力を抜いて展示を見ることが出来るようになったことからだと思います。

私の個人的な先入観なのですが、フロマンタン『オランダ・ドイツ絵画紀行』やそれを敷衍したプルースト『失われた時を求めて』でルーベンスと隣国のレンブラントを比較するように扱っていて、レンブラントに対してはこき下ろすような低い評価をしているのと対照的にルーベンスを称賛しているのを読んで、多少の反発を覚えていたということもあるでしょう。何となくイメージとしてレンブラントは「夜警」のイメージから暗い画面の画家でこれに比べてルーベンスの画面は脳天気なほど明るいとか、作品そのものを見る前に様々な言葉の情報によって先入観を持っていたのは確かです。

このところ、続けざまにエル・グレコ、ラファエロ、そしてルーベンスの美術展を見ていて、あらためて肖像画の面白さに気付かされました。肖像画などというのは、貴族や金持ちの注文で多額の金をせしめて注文主に似せて、こころもち実物より立派に書いてあげて、構図や書き方は似たり寄ったりだから、今でいえば葬式の遺影や履歴書の写真のように決まったパターンに当てはめて一丁上がりっと、コストをかけずに効率的に量産するようなものだと思っていました。それゆえ、後世における写真の勃興によって廃れていってしまった類のものと。しかし、この3人の描いた肖像画を見ていると、それだけにとどまらない、そんなものを遥かに超えた作品としての面白さを見つけました。それは、彼らは画家であると同時に工房の主催者でもあったわけで、教会や王宮に飾られている彼らのモニュメンタルな大作は彼一人で描いたのではなく、工房の職人のような画家達との共同作業により、彼らの指揮のもとに多くの人間を参加させて完成されたものです。だから、現代のアーチストのような見方とは違って、まんが家が多数のアシスタントを使ったプロダクションのシステムで作品を作っていくのと同じようなものです。だから、ルーベンスやラファエロ自身が自ら筆を執って描いた部分はすくなく、かれらは工房の職人たちの指揮監督にあたっていたというのが実態ではないかと思います。だから、何か工夫したいとか、新しいことに挑戦したりとか試行錯誤や模索を繰り返しながら作品を制作していくのは、このようなシステムでは難しくなります。完成した作品は不特定多数の人が見ることになり、多くの人が受け入れられるようなことが求められます。これと対照的に、肖像画の場合には、規模が小さく画家が独りで描くのに大作のような手間を要しません。また、注文主は出来上がった作品を他人にも見せるでしょうが、注文主本人が納得すればいいので、広く受け入れられることは大作ほど求められません。そうなった場合に、画家たちはこのような特徴を利用したのではないか。つまり、ルーベンスにしてもグレコにしてもラファエロにしても大家となってからも他人の模写はするし、大作でもないのに馬鹿丁寧に細部を微細に描き込んだり、大作の違ったタッチで描いたりと、効率的とは程遠い仕事しているのです。多分、肖像画の全部にそんなことをしているわけではないでしょうが。ということは、画家たちは新しい技法とか新機軸とか、今までとは違った試みというような挑戦的な試みを肖像画でやっていたのでしないかと思えたのでした。それだけ、この3者の展覧会で展示されていた肖像画は力が入っていたし、展覧会の目玉として喧伝されていた大作よりも興味深かった。また、従来より抱いていた画家のイメージを覆すような創意や斬新さが感じられたのでした。それは、ルーベンスの肖像画でも十分に当てはまるものでした。そんなことも含めて、私がルーベンスを、あらためてどのような画家と受け取ったかは、以下で個々の作品に即して書いて行きたいと思います。

この美術展は次のような構成で展示されていました。

1.イタリア美術からの着想

2.ルーベンスとアントワープの工房

3.専門画家たちとの共同制作

4.工房の画家たち

5.ルーベンスと版画制作

といっても、前半の展示が面白く、閉館時間の近くなって後半の展示にはそれほど興味を覚えていません。具体的な作品を取り上げて感想を書いて行きますが、前半中心で、後半は素通りに近くなります。

2013年5月 9日 (木)

あるIR担当者の雑感(115)~IRツールとしての決算短信(8)~企業集団の状況

決算短信は決算期末に作成する通期の決算短信と各四半期に作成する四半期決算短信とに大きく分けられます。前回まで述べてきた項目は、その両方の決算短信で載せられている項目といえます。(前回のリスクに関する項目は別)今回から述べていく項目は、通期の決算短信のみに載せられる項目と言っていいと思います。

今回は「企業集団の状況」について考えてみたいと思います。

ウェブの検索で決算短信を探して見てみると、この項目は連結決算の対象となるグループ会社を紹介しているケースが多いようです。しかし、と天邪鬼な私は、ここでひっかかるのです。ここで何回も申し上げているように、決算短信というのは、企業が投資家に対して、決算の報告をするというだけでなく、決算というまとまった数字をもとに投資家や株式市場に企業の存在をアピールし、認知してもらうもの、企業が市場とコミュニケーションを続けていくためのツールとして活用できるもの、と考えています。そういう前提で、企業グループに属する会社の一つ一つの社名と事業内容がいちいち紹介されている、というだけで、積極的にそれを知りたいと思うでしょうか。好みの違いや個人的な考え方の違いはあるにしても、大きな企業グループでひとつひとつの会社を紹介されても、その会社に余程興味がある場合以外には、積極的に知りたいとは思わないのではないかと思います。その企業グループを投資の対象として評価するとか、新しい投資対象を探して決算短信を手にしている、というような場合に、このような項目について投資家が知りたいと思うのは、企業グループが経営を進めて行く際の組織体制と祖家に関する基本姿勢ではないかと思うのです。

別の観点から言えば、巨大な企業グループをトップが経営としてマネジメントする場合に、個々のプロジェクトを直接マネジメントすることはせずに現場の責任者に事業は任せて、各プロジェクトに対する資金や人の流れをコントロールすることで、全体の舵をとっています。つまり、トップマネジメントは、資金すなわち投資と人すなわち人事組織のコントロールが中心となっていると言えます。その時、決算短信の「企業集団の状況」という項目は、のトップマネジメントの人事組織のコントロールに対応していると考えられないでしょうか。そして、企業への投資を考えている人は、このことに対する興味はとても大きいと思います。具体的に言うと、グループの企業の紹介とかグループ構成とかグループ内の分担とか、そのようなことの前提になることではないかと思います。つまり、どうしてこのような構成にしているのかという方針です。それは、グループを経営する、あるいは事業戦略を推し進めるに当たって、最適の組織構成を経営として選択しているはずであるから、その選択の際には、そういう組織にすることのメリットやリスクを検討しているはずで、そういうことも含めて(当然、公表できない事項もあるはずですが)そのような組織でなければならないか、ということ。そこには、複数のプロジェクトを同時併行で進めている場合には、それぞれのプロジェクトに対する評価や経営的な位置づけがなされ、それに応じた組織づくりをしているはずで、そういう方針も見えてくるのではないか、例えば、どのプロジェクトをメイン事業、コア事業として重点を置いているかとか、また組織のつくりによって、一点集中型の戦略かリスク分散型の戦略かということも実際の組織からも実践の点から理解できることになるわけです。

それだけにとどまらず、細かなことを言えば、各ブロジェクトの特徴や市場環境(市場規模や成長性、シェア)などによって組織構成のつくり方も変わってくる可能性があります。複数のプロジェクトが併行していれば、それらの関連性や補完性などの側面も考慮されているはずです。そうなると、事業の説明や事業戦略の説明も関連して来ることになります。とくに、先ほど挙げた事業環境は、投資家が事業に関して特に知りたい情報であり、決算短信にはそういう情報を説明する場所がないため、ここで説明すれば、投資家にとっては非常にありがたいことになるのではないかと思います。

そして、人事組織を築いていくのは、昨日今日でできることではなく、時間を要することなので、この後で考え行く項目である、中長期的な経営課題とも関連して来ることになります。つまり、人づくり、組織作りは、企業の将来に向けての投資のような側面もあるので、将来にむけて企業グループをどのような方向に導いていくのか、ということと連動しているはずです。

実際に各企業の決算短信を見てみると、このようなことを説明している企業はありませんし、証券取引所も、そのようなことを決算短信に求めてはいません。しかし、投資家の側に立って考えてみれば、あるていど妥当性はあるのではないかと、思います。企業の中には、そういう視点で決算短信の「企業集団の状況」の記述をすれば、投資家の企業に対する理解が、かなり進むのではないかと思います。

私の勤め先の決算短信は、ここで私が貶めている各企業の短信の記述と大同小異の状況でありますが、主要事業とされている複数の事業のそれぞれの相互の位置づけなどを説明することから、少しずつ変えて行こうと考えています。

2013年5月 8日 (水)

あるIR担当者の雑感(114)~IRツールとしての決算短信(7)~事業等のリスク

この項目については、有価証券報告書にも似たような報告事項があり、企業によっては有価証券報告書で報告しているので、そちらを参照するようにと記述を省略しているところもあります。それは、証券取引所が決算短信の書式を、そのようにしていいと定めているからです。ということは、証券取引所ではリスクの説明について、それほど重視していないと考えていいわけです。有価証券報告書の記載事項は内閣府令で詳細に決められているので、これに反するわけにはいきません。決算短信は有価証券報告書に比べれば企業の裁量の範囲を比較的広く認めているので、リスクに関する説明もその範囲のひとつと考えられます。これに対して、企業の側でも、説明を省略するところもあれば、数ページにわたって詳細にリスクを提示する企業もあります。後者の方は至って少数ですが。このような企業は、IRに熱心な企業として色々なところで表彰されたり、模範として例になっている企業がほとんどです。それらの例を見てみると、よくこれだけリスクを列挙していると驚くとともに感服します。

そこで、ないものねだりなのかもしれませんが、もう一歩できないか、と思ってしまうことがあります。それはリスクということに対する根本的な考え方によるものです。それは、リスクとリターンが裏腹の関係にあるということです。ハイリスク・ハイリターン等と言いますが、これは、あることをするのに、うまく行けばリターンが大きいけれど、失敗すれば逆に損失が大きくなるということです。つまり、リターンがあればリスクがついて回るし、逆にリスクを冒すのはそこにリターンの可能性があるからです。企業がリターンを求めるというのは事業上での施策を実行することです。つまり、企業が業績を求めて、何らかの施策を打って出る時に、そこに危険や失敗の可能性が生じる。それがリスクとして認識されるわけです。だから、「事業等のリスク」という項目名は、そのことを指していると思います。つまりは、ここで挙げられているリスクというのは、その企業が何らかの施策を打つことによって生じてくるものといえるわけです。実際の決算短信のリスクの説明のところで、リスクだけを単に列挙しているケースもありますが、先ほど紹介した感嘆させられてしまうようなケースでは、こういうことをしようとしているから生じるリスクだということは、さすがにきちんと説明されていました。そこで、もう一歩として、企業が施策を打つということは将来に向けての成長戦略の一環としてです。これは、短期的なことならば、前々回で検討した「次期の見通し」で説明されていることです。そして、「次期の見通し」この「事業等のリスク」という項目は、同じ「経営成績」という大項目の中に位置づけられています。これは、決算短信の構成の考え方からも、それぞれの項目の性格からも、相互に関連している、あるいはさせるべきと考えていいはずです。つまりは、次期の見通しとして、企業は短期的にこのような戦略をとって、それを実行する。それに応じて、失敗の可能性と危険が生じる、それをリスクとして認識しているのがこうだ、という具合です。だから、これは「次期の戦略」を補完する機能があるといえます。そして、投資判断をするために決算短信を読んで情報を得ようという立場に立って考えとみれば、単独でリスクを取り上げて、それを説明されるよりも、次期に企業はこういう戦略をとろうとしている。この場合、企業はこのようなリスクがあると認識している、と戦略に関連して説明してもらった方が、リアリティを感じやすいし、何よりも戦略の有効性とか妥当性とかリターンを判断しやすくなると思います。

第2の点です。「財務状況に関する分析」のところでも似たようなことを述べましたが、リスクの説明で気になっているのは、多くの企業が“リスクがある”という記述の仕方をしていることです。これは企業のリスクに対する考え方を表わしているとしたら、投資家は消極的と思うのではないかと、思ってしまうのです。誤解が内容に単式に言いますが、リスクというのは存在するのではないはずです。先ほども説明しましたように、リターンを求めて一歩踏み出した時に、失敗の可能性や危険を背負うわけです。それをリスクとして認識するのです。だから、一歩踏み出さなければリスクはないのです。だからリスクを取るという言い方をするでしょう。リスクは予め存在しているのではなく、人為的に発生させているのです。しかし、決算短信のリスクの説明では、そういう説明の仕方はされていません。企業は、敢えてリスクを冒しているわけです。だから、ここでリスクの説明をすることで、敢えてリスクを冒す企業のチャレンジングな姿勢を炙りだすこともできるし、逆にリスクを冒さないのであれば安定した経営ということを強調することもできるはずです。そして、敢えてリスクを冒しているのなら、事前にリスクについて分析が為されているはずです。たとえば、リスクの程度、発生確率、性格、回避可能性などを検討して、その上でリターンし衡量した上で、経営判断をしているはずです。そのことをある程度、ここで説明してもいいのではないか。単にリスクの列挙だけでなく、そういう説明をすることによって、事業戦略や施策の説明を補完し、リアリティをアップさせることになります。そして、企業としてリスクを認識しているならば、当然そのリスクの回避策や防御策を講じているはずです。いわゆるリスクヘッジです。そこまで説明しようとすれば、企業のリスク管理体制や、それを置く組織体制、さらに遡って経営方針や姿勢の説明にまで関連して来ると思います。そこまでくれば、こりリスクのところは、単なるリスクの列挙ということではなくて、企業の将来戦略、あるいは企業の理解のために必要な視点となっているということができます。

私の勤め先では、そうしていくための第一歩として、まずリスクに対する対策の説明を入れていくことから始めようとしています。

あるIR担当者の雑感(113)~IRツールとしての決算短信(6)「利益配分に関する基本方針及び当期・次期の配当」

「財務状況に関する分析」については、資産、負債、純資産の状況に関する分析、キャッシュフローの状況、財務指標の状況と細かく項目が分かれますが、「経営成績に関する分析」における、当期の経営成績、次期の見通しほどに方向性が違うわけではないので、前回で、それら全般として考えたとして、今回は、「利益配分に関する基本方針及び当期・次期の配当」という項目に進みます。

まず、ここまでの項目の並べ方。「経営成績に関する分析」、「財務状況に関する分析」そして「利益配分に関する基本方針及び当期・次期の配当」と続く記述の順序ですが、私のような初老に近い人間は、現在の会社法ではなくて、旧商法で決算をしていた時代のことを思い出させるものです。つまり、旧商法では、決算によって期間損益を明らかにした後、算出された期間損益を利益処分として、貸借対照表の資本勘定に繰り入れたり、配当として株主に還元したり、役員賞与として報酬に回りたりということを決めるわけです。ちょうど、この順番が一致するように、見えるわけです。このように見るということは、つまり、株主還元というのは、経営成績、財務政策と直接的に連係して、経営者が動かしている、考えることができるわけです。とすれば、「経営成績に関する分析」、「財務状況に関する分析」そして「利益配分に関する基本方針及び当期・次期の配当」は企業の一貫した戦略として捉えることができる、逆に企業が成長していくためにはこの一貫した戦略が必要になってくるということになります。

実際の決算短信を参照しながら、「利益配分に関する基本方針及び当期・次期の配当」について考えていきたいと思います。この項目、これまで考えてきた項目に比べて、ボリュームは大きくなく、短信の中で小さい面積しか占めていません。大抵のケースでは最初に利益配分に関する基本方針として説明されるのは、安定配当を旨としていて、具体的には基準とする配当性向まで述べていれば、比較的説明している方ではないかということです。

このことは以前にあるセミナーで某薬品メーカーのIR担当執行役員の方が仰っていたのですが、このような説明で投資家は納得するのか、なぜ安定配当政策をとっているのか、あるいは配当性向30%を基準としているのなら、その30%という基準の理由を説明している企業はないということです。私も、そう思います。たとえば、アメリカの有名なIT企業は、高い収益と成長率を誇っていますが、株主に対して配当をしていません。かりに、配当を支払おうとしても、株主からは、その資金を成長のための投資にまわせ、配当の提案を拒否されてしまうでしょう。ということは、安定配当以外に企業には選択肢があり、それは株主の側からも安定配当以上に多くのリターンを得ることのできる選択肢があるということです。その場合、株主にとっては発行会社が選択する利益配分策が、本当に最大のリターンとなるのかを確認したいでしょうし、投資しようとする人は投資に対するリターンを企業がどのように考えているかを確認したいのは当然のことです。

そもそも、上場企業の8割以上が安定配当として、ほとんど一律のごとく配当性向30%前後で配当を続けている、もしくは定額の配当を支払い続けているというのは、日本的な横並びの風潮を超えて異常なことと言ってもいいと思います。このようなことになっているのは、歴史的な背景もあり、日本的経営の特徴とも言われているので、理由がないわけではないでしょう。少し長くなりますが、おさらいをしてみましょう。既に、ご存知の方は退屈でしょうから、次のパラグラフに跳んで下さい。

1937年の日中戦争により、日本国内は戦時体制に入りました。この時、小国であった日本にとって戦争遂行のための財源確保のために、企業の配当を通して消費に回された資金の流れを、資本を蓄積し、それを軍需産業へ集中的に配分することを行います。そのために、商法改正により株主の権限を制約します。さらに翌年の国家総動員法により企業の配当を制限し、増配企業には主務大臣への届け出が義務化されました。配当と利益の連動は切断され、資本家から企業を解放するとして、取締役は従業員出身者が占めることとなり、資本市場への依存度を下げ間接金融による資金還流のコントロールが始まりました。これがメインバンク制の源流と考える人もいます。当時の世界的なインフレを避けるため価格統制を行ったことにより企業の利潤が低下し、「経済新体制確立要綱」が示され、企業の目的は資本の要求に基づく利潤の追求から計画生産の達成に移りました。そのために経営者を株主の要求から解放し、増産に専念させる。限界ある国内の資源を効率的、集中的に軍需産業に振り向ける措置であり、この結果日本企業特有の従業員重視の経営スタイルや負債中心の財務構造はこのような事情で形成されたと考えられます。そして、太平洋戦争の敗戦により日本国中の資本蓄積は破壊された戦後の復興には、さらなる集中的資源配分が必要とされました。そこで、戦後の復興政策では戦時体制の資金提供者、経営者、従業員の企業内におけるパワーバランスをむしろ進展させ、銀行の監督下による企業再建を推進しました。いわゆる傾斜生産方式です。そこで、日本企業は株主資本に報いるというインセンティブを失い、国家指導の強い管理下で資源配分を余儀なくされるという市場原理とは全く異なる価値観によって経営理念が形成されていったことになります。この間、配当に対して政府による法的な規制が課せられ、企業は自由に配当を決められない状況が続きました。昭和25年の朝鮮戦争勃発に伴う特需が戦後復興のスタートとなりましたが、政府は経済自立のために産業合理化を推進する方策を打ち出し、鉄鋼業を中心として、そのための設備投資を進める政策を取ります。いわゆる傾斜生産方式と呼ばれるその政策は、鉄鋼業に集中的に投資を行い鉄材をエネルギーである石炭に振り向け増産した石炭を鉄鋼に振り向け、鉄鋼を材料とする機械や耐久消費財の製造に波及させていくというものでした。これらは、いずれも大型の長期投資を必要とする産業であったため長期資金の確保が必要となりました。これらの資金の源は家計に求める他はありません。一方では企業に巨大な資金需要がありながら、当時の家計には余剰資金は不足していました。そのため株式等に投資して長期資金を提供する余裕はなく、そのため、銀行が預金の形で家計から資金を吸収するための様々な制度設計(金融規制)がなされました。その結果、企業の長期資金の調達方法が主として銀行経由が主となっていきました。一方、財閥解体等の政策で持ち株会社の解体によって放出された株式の保有者はそれらの会社の社員が中心でしたが、徐々に市場で売却され、株式市場が押し下げられる結果となり株式市場は低迷します。そこで、各企業は安定株主対策を講じます。いわゆる持ち合いです。これを可能としたのは、資金調達の場として株式市場の必要性が低かったためといえます。高度経済成長の原動力となったのは企業の旺盛な設備投資活動でした。この設備投資により増産した製品はアメリカ等の海外市場に輸出され、さらなる生産量の増産を生み出していきます。その際に、資金は間接金融で限られた余剰資金を政策的に集中して低金利で投下されました。一方株主資本コストも人為的に抑えることで、設備投資の促進、国際競争力に資することとなりました。つまり、メインバンク制度、株式の持ち合い、生命保険や事業法人による政策的目的による株式保有という投資による財務リターンを主目的としない株式保有は投資の期待値を抑えることで資本コストを低く抑えることができました。その一環として安定配当を捉えることができます。その実際的な理由は、株主としてのメインバンクが株式を安定保有するための条件としても貸出の実効金利を下回らない配当利回りを要求したことです。また、生命保険などの株主は市場で頻繁に株式を売買してキャピタル・ゲインを求めないため配当が事実上経営的に投資リターンの中心であったため株式投資の元本を簿価で捉え、10%の配当が安定的に得られる仕組みは、株式を疑似確定利付証券として位置付けられることができたわけです。安定配当の理由は、これだけに限定されるものではありませんが、ひとつの考え方として受け取っていただきたいと思います。

以上、長々とおさらいをしました。

企業の担当者がこのようなことをいうのは奇妙なこと、不謹慎なことかもしれません。しかし、企業が市場で投資家を、他の企業ではなく自社に投資をさせようとするならば、通常の売込みであれば、他社と自社の違いを明らかにして、自社の方が他社よりいいことを強調する、つまりは差別化、を進めるものですが、この配当に関しては他社と同じことを敢えてしているわけです。これは、売込みの常識に反しています。それは、件の某薬品メーカーの執行役員氏が仰っていたように、海外投資家から見れば、日本企業は株主還元を本気でやっていない、と指摘されても反論できないことになります。だからこそ、ここで当社は他社と違って、安定配当をしているのは、このような理由がある、と明確に説明することは、たいへん有効ではないかと思うのです。このような指摘をされていた件の執行役員氏の某薬品メーカーの決算短信を見てみると、たしかに他社の一律のような利益配分に関する基本方針の説明のし方はしていませんでした。それは、配当の基準について新たな基準を提案するもので、そこに独自性を出して、その基準の説明に文章を費やしていました。その点で、他の会社との差別化を図っていました。しかし、なぜ安定配当をしているのかという本質的なことに対しての説明は、全く触れられていません。また、その会社が独自に打ち出した新しい基準はいいとして、その基準による指標の数値の理由が明確に説明されていません。その意味では、不十分ではないかというのが、私の率直な感想です。努力そのものは素晴らしいが、説明のピントが少しずれてはいないかと感じました。話は、そのような独自の試みをしている企業ではなく、その他の大多数の企業に戻りますが、配当性向30%を基準として定めているのならば、その理由も当然あわせて説明できると思います。それは、当然企業の資本政策や財務政策と密接に関係しているはずなので、企業の戦略の基本姿勢が明らかになるからです。そこでは、将来の成長のために、どのような投資の方針であるとか、財務の安定性をどの程度重視しているかであるとか、最適資本構成をどのように考えているか、などといったことに触れざるを得ないでしょう。投資家にとって、このようなことが明確に説明されていれば、投資判断をする際にはかなり役立つだろうと思います。また、企業としても明確な方針のもとに戦略を進めているという経営のアピールには最適の手段になると考えられます。そのとき、この「利益配分に関する基本方針及び当期・次期の配当」が「経営成績に関する分析」という大項目の中で、投資家にとって最も重要で、ぜひ読みたいものとなると思います。

2013年5月 6日 (月)

あるIR担当者の雑感(112)~IRツールとしての決算短信(5)「財務状況に関する分析」

次に「財務状況に関する分析」について考えてみます。ここでは決算期末日現在の貸借対照表の内容やキャッシャフロー計算書の内容、あるいは財務指標について説明しているところです。これを単純に貸借対照表の説明をしている短信もあります。総資産はいくらで、それは現金が増えた云々というような。これは、貸借対照表を見れば分かることで、ハッキリ言って何の意味もないものです。むしろ、そんな分かり切っていることを、無駄な説明をしているということだけで、その企業の姿勢、つまり、そんな無駄なことを公開の場で何の疑いもなくダラダラと行っているのだから、企業活動において管理がきちんと為されていないのではないか、という疑いをもたれてしまうのではないか、と私は思ってしまいます。かなり、穿った見方かもしれませんが、一事が万事です。

そして、もう一つ、多くの企業の決算短信の記述で気になるのは、「こうなった」という書き方をしている点です。これは、単に事実を後追いしているだけです。仮に、実際の企業活動の中で、財務担当者が経営者から、現金が増えたのはどうしてか、と問われてそのような答えをしたとしたら、その財務責任者は無能と言われても仕方がないのではないか。そういう書き方を、投資家に対してしているということです。単なる言葉遣いと言われればそれまでですが、しかし、企業活動における行動としては当然、「こうなった」ではなく「こうした」あるいは「このようなことをした結果としてこうなった」ということではないでしょうか。つまり、現金が増えたのではなくて、現金を増やした、というのが企業活動であり、貸借対照表というのは、その企業活動の結果を表わしたものではないでしょうか。これは当たり前のことのように思いますが、ここでの説明は、その当たり前のことが踏まえられていない、と私は思っています。そのような考え方に従えば、この部分は「事業の経過と成果」の「今期の経営成績」と同じ書き方の姿勢で書かれるべきではないかと思います。これも、教科書的な当然のことですが、「今期の経営成績」が損益計算書の説明ならば、「財務状況に関する分析」は貸借対照表の説明ということは、そういう意味で考えることができるではないでしょうか。

そう考えると、「今期の経営成績」では書けなかった企業努力を、ここに書くことができて、それを投資家にアピールすることができる、企業のことを理解してもらうことができる、ということです。そのようにポジティブにこの項目を捉えて、既述している企業は、私は寡聞にして知らず、私の勤め先も残念ながら、それができていません。これは、有価証券報告書の第2.事業の状況のところの7【財務状態、経営成績及びキャッシュフローの状況の分析】のところと同じです。ここのところに関しては企業の自己評価を書くことになっているので、若干の企業がそういう書き方をしているケースが見受けられます。私の勤め先も、ここではポジティブに書いています。

では、具体的にここで書ける企業活動として、どのようなことが考えられるか。財務政策、資本政策、あるいは、これらの一環として効率的な事業運営に向けて継続的に企業努力をしていると思いますが、そういう点です。例えば、キャッシュの創出に向けて、売上債権の早期回収に努めるとか、債権を早期に回収した現金を活用していくことで、債権として利息も取れないで単にあるだけのものが、運営できることによって新たな利益を生み出していくことになるものです。さらに、これはキャッシュの創出だけでなく、貸倒のリスクを減らすことにも通じます。このような努力の結果は、企業にとっては現金を増やしたことになるのではないかと思います。その結果流動比率も変わって来るし、自己資本比率にも影響がでてくる。ゆくゆくはROEの改善にもつながる。こういうことは、今期の経営成績の説明には出てこないことです。しかし、投資家にとってはこういう情報は有益であるはずです。その他にも、メーカーの場合なら在庫回転率や無駄な固定資産を削減していく努力とか。このようなことは、企業が常日頃努力していて、なかなか投資家には伝わらないことで、この場をチャンスとして伝えることを考えてもいいのではないか。企業にとっては、メリットのあることではないかと思います。

他方、企業にとってあまり出したくない情報で、投資家サイドでは知りたいこともあります。例えば株式の持ち合いの状況とか。その他には、キャッシュリッチな企業は投資家から、その使い道を問われることが多いようで、企業の側ではそういう質問は嫌がられます。そのような場合、財務政策や資本政策の基本方針を投資家に理解してもらうように、説明できる場でもあります。「今期の経営成績」が企業の経営戦略の方針を投資家に分ってもらえる場であるとしたら、ここは財務戦略の基本方針を理解してもらえる場でもあると考えられます。手元の現金は通常、どの程度確保していて、その理由を明確にするということは、ほとんどの企業では説明されていません。多分、企業の側でも明確に決められていないで、暗黙の了解で続けられているところが案外多いのではないか。そのようなところは、IRを機縁として明確な方針を決めるということがあってもいいのではないか、と思います。これは、後に出てくる株主還元などとも密接に関係してくるところでもあります。

2013年5月 5日 (日)

あるIR担当者の雑感(111)~IRツールとしての決算短信(4)「次期の見通し」

「経営成績に関する分析」の項目について「当期の経営成績」の次に「次期の見通し」の部分について考えてみたいと思います。原則的には、「当期の経営成績」で実績について説明があって、それを踏まえて「次期の見通し」として、これからどうするのか、ということを説明していく、というものでしょう。おそらく、投資家の立場では、この部分を一番詳しく知りたいのではないかと思います。とはいえ、大多数の企業では、「当期の経営成績」と「次期の見通し」の説明を比べて見ると、前者の「当期の経営成績」に関する分量が「次期の見通し」よりもかなり多くなっています。それは決算短信が、決算報告が主な目的であり、今期の業績を説明することを優先しているのは、この書類の本来の目的から考えれば、無理のないことです。しかし、そこでまた、話は逆転しますが、では決算発表は何のためにあるのか、何のために短信を市場に向けて発表するのか、ということになれば、市場の投資家に投資してもらうため、投資判断をするためのものです。そうだとすれば、投資家が投資判断をするために、投資先を見つけるために資する情報を載せることが本来の目的ということになり、現時点では投資家は企業の今後の見通しを決算報告よりも重要視するのであれば、そちらを優先して載せることが本来の目的に適っていると考えることもできるわけです。まあ、このような神学論議のような屁理屈を述べたところで、実際には決算は経理の部署が担当し、決算の方法や決算短信の形式は上場規則や会計原則で事細かに規定してあって、その通りにやらなければいけないということになっていて、それをどこの企業でも踏まえているということなのでしょうけれど。もしそうであれば、それを何の反省もなく決まったことだからと鵜呑みにしてしまって、自らの業務に何の疑いもなく従事している各業の経理担当者というのは、誤解を恐れずに言ってしまえば、ホワイトカラーではなくてブルーカラーの仕事になってしまっているのであって、そこまで細かく決まっていて、その通りに作業を進めればいいのであれば、何も判断をしたり考えることのできる人間が従事する必要がなくて、決まった計算をするのならばすべてコンピュータやアルバイトに投げてしまえばいいという程度のものになっているのではないか、とかなり口を滑らせてしまいました。閑話休題で、話を元に戻します。

また、一昔前であれば、これから企業がどのような施策を打って、どの程度の目標をもって事業活動を行っていくことを具体的に説明してしまうと、それは株主や投資家に対して約束したことになってしまって、後になって目標が達成できなかった際には、経営者の責任を問われることになるから、あえて言質を取られぬように曖昧な説明でごまかすという考え方の人、これは法務、総務畑、あるいは経理畑の年配の人に多いでしょうか。あるいは部署の体質になっていて若い人も染まっているケースもあります。あるいはまた、営業畑の人などは具体的施策をライバルに知られることになるので営業阻害要因となるという人もいるでしょう。ついでですが、このような想定される企業内の抵抗の声は、前のパラグラフと同じようにリスクに向き合うことをせずに所与の作業に終始するブルーカラーの発想に近いと思います。例えば、ライバルに知られるという杞憂に対しては、その程度のことなら注意深く観察していれば、センスの鋭い人なら想像できてしまうことで、これだけ情報化の進んだ時代にライバルはとっくにその程度のことは想定していると考えて、その対策を考慮しながら施策を進める方が、よほどリスク管理していると思います。逆に、ライバルが何をやろうとしているか、こちら側だってその程度の情報は当然得ているはずなので、そこで自社のことを知られてはまずいと考えるのは状況把握が甘いと言わざるを得ません。またまた、脱線してしまいました。今度こそ本題に戻ります。 

百歩譲って、企業でも投資家が重視しているということを分っていても、実際には説明するのが難しい所ではあると思います。表面を撫でるだけの通り一遍でも済ませられてしまうのですが、この内容を企業の外部のひとに深く理解してもらおうとすれば、企業の強みとか市場の特性とかリスクといった基本的なことを理解してもらわなければなりません。だから、どの程度まで説明するか、その点を含めて企業の姿勢が明らかになってくるところだと思います。逆に、投資家はここのところに注目しているので、ここで企業の内容まで踏み込んだ説明をすることによって、企業への理解も進むという積極的に活用することもできると思います。 

ここで、ある程度踏み込んだ説明をする場合、ここでの説明に際して補助的な説明を行うか、他の項目のところで説明をしておいて、関連させながら読んでもらうかというやり方があると思います。また、両方のやり方を併用することもありだと思います。ひとつあるのは、「当期の経営成績」で結果に対する反省を行った結果、新たな年度に向けて方針を立てていくという継続性が、ここでの説明で読む人に感じられることは大切であると思っています。そして、ここで書かれたことは翌年の決算短信の「当期の経営成績」において結果と評価が説明されるというサイクルが継続的に回っていくことになります。これはなにも決算短信に限ったことではなく、企業の仕事の進め方の基本としてPDCAなどといわれるものと、そんなに変わりはありません。つまりは、日頃やっていることを、そのまま出せばいいわけで、それほど難しいことを言っているわけではありません。 

では、実際のところ、具体的にどのように「次期の見通し」を書いていくかについて、企業によって千差万別様々な書き方があるので、私の勤め先に即して考えていきたいと思います。既述のパターンは「当期の経営成績」に準じたものになると考えています。これは、前期の実績に対する検証と反省をベースにして今後の方針を考えていくという、いわゆるPDCAと似たような考え方によれば、こうした方が書きやすいし、読む側でも実績と今後の展望を関連して見ることができる。また、1年後の実績を見る時も、同じパターンで記述されるので展望が実際にどのような成果となっているのかを追いかけやすいと思うからです。具体的に言うと、最初に市場動向にたいする展望を簡単に記述し、そういう状況に対して、どのような方針でどのような戦略を立てているかの概略を簡単に説明する。ここで重点的な施策を説明してもいいと思います。そして、具体的な施策についてはセグメント別の事業の説明のところで、各セグメントの個別の市場動向に対する展望とともに説明していくというパターンです。何をどう説明していくかについては、企業それぞれの施策の立案プロセスや実行の仕組みが違うので、具体的にどうすべきということはできません。しかし、今期は当社はこうするんだという意気込みとか気迫のようなメッセージを込めてもいいのではないか、と私は思っています。直接的に意気込みの言葉を入れるまでは行かなくても、やる気があるのか、と読む人に疑問を抱かせてしまうようなら、展望を説明しても何の意味がないことになるわけですから。計画をたてたら、後は実行する。この実行するが伝わらなければ、計画を説明しても意味がないわけですから。

 

2013年5月 4日 (土)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(12)

第8章 まとめと今後の展望

筆者は本書で示した内容をもって配当政策やコーポレート・ガバナンスがかくあるべきと主張しているわけではない。配当政策の現実を捉えて従来とは異なる一つの視座を示したに過ぎない。ただし、考えるに企業の行動は一貫した理論に整合的であるべきと思う。そして、その理論整合的な行動は企業個々に存在する。理論とは、個別の現象や事実を科学的に分析して得られた統一的体系的知識である。また、科学的とは、一定の基準を満たした因果関係に着目する態度にある。つまり感覚的・直感的な行動を排し、行動を選択するに至った結論がどのような根拠に基づいているのかを精査することが企業個々に可能であり、求められるはずである。企業の置かれた環境や事業の特性は企業それぞれで異なる。したがって、それぞれで異なる理論整合的な行動を企業自身で真摯に組み立てることが必要になる。その結果、望ましい配当政策やコーポレート・ガバナンスに対する解答が得られるのではないだろうか。以上のような過程において本書の内容が日本企業に新たな選択肢を提供することの一助になるとすれば幸いである。

2013年5月 3日 (金)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(11)

第7章 特殊性資産評価仮説の実証

本章の目的は次の仮説を検証することにある。すなわち人的資産など特殊性資産が競争力となっている企業はエージェンシー関係から得られる結合効果が大きいため、株主の支配力を強めるより人的資本のインセンティブを重視する結果、利益やキャッシュの拡大に対して配当額の感応度が低下する(配当が粘着的になる)というものである。もし株主が特殊性資産を企業の競争力として評価するならば、それらの資産を活用する経営者の裁量を認めるため必ずしも利益に応じた配当ばかりを要求しないと考えられる。この仮説を特殊性資産評価仮説と呼ぶことにする。本仮説は、株主による特殊性資産への評価がエージェンシー関係の結合効果を生むという観点を見出している。また、コーポレート・ガバナンスと配当政策の関係を観察するにおいて所有権理論に依拠し、取引費用理論のアイディアを取り入れたところに大きな特徴がある。

本章で着目する企業は、大型設備投資と大規模な有形の物理的資産が競争力になる古典的な資本集約型企業に対して、経営者の知識や経験、従業員の技術力や情報ネットワークといった無形の人的資産が競争力となる現代の知識集約型企業である。後者のような企業の競争優位を実現する無形の資産は、インタンジブルズ、人的資本、知識資産などと呼ばれ、最近では幅広い分野で用いられている。具体的な要素として、第一に自社内や他企業との共同によって実現するイノベーション、第二にイノベーションを起こすような独自の組織とデザイン、第三に従業員訓練への投資やインセンティブ報酬、研究機関との協働など、心的資源制度によって生み出される無形価値の源泉と定義している。また、このような資産の意義は無形資産としての単独の価値だけではなく有形資産との間に価値創造の相互作用をもたらすところにある。人的資産は企業内にのみ存在するとは限らない。顧客や取引先など企業外部のグループとの間に構築された関係性が生む資産も含まれるだろう。企業活動を通じて形成された顧客や取引先との信用力なども当該企業固有の関係資産として企業の競争力に貢献している。一方で、人的資産は有形資産よりも管理と運用が困難であり、経営者にとっての不経済性も存在する。また、成長段階における知識集約型企業にとっては情報の非対称性に基づく資本コストの上昇を招くといった制約もあるだろう。以上のような人的資産あるいは特殊性資産には株主の支配権を及ぼすことが現実には難しい。つまり株主に資産のコントロールを任せると企業価値にとって合理的ではない結果を生みやすい。人的資産など特殊性資産には次のような特徴があるからである。第一に当該企業にとって何が特殊性資産であるかは現場の当事者でないと理解できない。第二に特殊性資産に対する外部からの客観的な評価が難しい。第三に特殊性資産同士は有機的に一体化していることが多く、それぞれを切り離すことによって減価する恐れがある。第四に経営者や従業員が企業を去ることで企業外に持ち出すことができる。第五に特殊性資産の蓄積や維持には経営者や従業員の個人的な努力インセンティブが必要である。以上のような特殊性の高い資産は一般の物理的資産と異なり、所有権が株主にあるからといって現場にいない株主がコントロールすることは難しい。そのため経営者の裁量により大きく依存することとなる。したがって特殊性資産が競争力となっている企業において株主の支配権を強めることは株主にとっても合理的ではないはずである。

人的資産など特殊性資産が強みとなっている企業で経営者の裁量を狭めてしまうと、このような資産にとって重要なモチベーションが低下してしまうため、結果としてエージェンシー関係の結合効果が期待できなくなる。これは経営者や従業員だけではなく株主にとっても合理的ではない。そこで、特殊性資産を強みとする企業の属性と配当政策の考え方について説明しておこう。株主の支配力をどこまで強めるべきかは、企業が持つ特殊性資産の重要度に依存する。特殊性資産が企業の高い競争力になっているケースでは、利益やキャッシュが拡大した時に株主はそれに応じた総還元をその都度経営者に要求するのではなく固定的な配当の受け取りで満足することになる。では、経営者や従業員の固有の能力や技術力が特段企業価値に影響を与えやすい企業は、具体的にどのような属性を持つであろうか。仮説の設定に当たっては研究開発費し配当政策の関係に着目し、研究開発費による企業の成長モデルを前提とする。研究開発費は一般的な経営能力増強の中でもとりわけ企業の人的資産と有機的に結合して価値を生む特殊性の高い資産への投資と言える。情報の非対称性を考えれば研究開発投資が相対的に大きい企業は投資家にとってその評価が難しい。しかし、研究開発型企業の中でも研究開発投資が安定的に回収され実際に収益化している企業では、エージェンシー関係によるコストのマイナス効果よりも統合効果の方が大きいと期待できる。結果として、このような特殊性の高い資産を活用している企業は安定的配当政策によって株主と経営者のインセンティブを維持することができると考えられる。株主は企業が持つ特殊性資産を評価し、そこから得られる収益機会に依存することができるのである。これを特殊性資産評価仮説と呼ぶことにする。

2013年5月 2日 (木)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(10)

第6章 経営能力評価仮説の実証

前章で行った検証「経営者自己抑制仮説」によれば、経営者は株主の支配力を過剰に強めることは自らの企業経営にとっても非効率を招くことを知っている。そのためエージェンシーコストの発生を認識している経営者は、自己抑制的な行動を選択することによって株主によるモニタリングコストを低減させようと努力していることを明らかにした。では、一方の株主はエージェンシーコストの発生に対してどのような行動を選択するのであろうか。本章で取り組みたいことは、そもそも株主がなぜ特定の経営者にエージェントとして経営を委託するのかという問題意識である。株式市場で取引を行っている投資家ないし株主にはどの企業の株主になるかという点で多くの選択肢が与えられている。将来キャッシュフローを生み出す事業が存在し、その事業を担うことができる経営者がいて、その経営にリスクマネーを投じる株主が現われるのである。株主は経営者の経営能力を認めるからこそ自らリスクを賭して株主という役回りを演じていると考えられる。したがって本来は、経営者の能力が最大限に引き出されるインセンティブをいかに経営者に与えるかを考えることが優先されるべきであろう。そして、経営者の能力が高いと思えば、むしろ経営者の裁量を狭めることよりもその能力を存分に発揮する自由度をあたえることによって企業価値の最大化を目指した方が合理的ではないだろうか。仮に株主が経営者の能力を過剰に評価して投資先を誤ったとしても株主には途中退出のオプションが与えられているし、市場を通したリスク分散機能も有している。さらに経営者を交代させることすら不可能ではない。経済システム上、株主がリスク許容者として機能し、株主はエージェントである経営者の裁量に委ねるリスクを取ることで経営者に経営能力を発揮する場を与えていると考えられる。

伝統的な経済学の考え方においては経営者の役割は株主価値の最大化という単純な帰結以外には行き着かない。経営者はあたかも株主のためにひたすら働く無機的な存在にしか見えない。しかし実際には企業の付加価値を創造しているのは経営者が有する無形の能力であることが多い。私的便益を経営者と共有しないという意味での外部性は株主資本を企業に投資するが、経営者は人的資本である経営能力を投下しており、その意味で何らかのリターンを求めて外部株主と交渉できる立場にある。そして固定的な配当政策の維持は、それから逸脱すれば外部株主の経営介入を招くという圧力の下で経営者自らが十分な経営能力を投下していることのシグナルとなる。外部株主は自らリスクマネーを企業に投資している以上、投資先企業からリターンを獲得するためには経営者にその経営能力を存分に発揮させ、企業価値自体を拡大させなければならない。経営者の経営能力が投下され、それが収益に結び付いたときに株主はその収益の全てを配当として獲得するのではなく、経営者にインセンティブを与えるため収益の一部のみを配当として受け取ることを選択する。経営者がインセンティブを失い、企業の収益が低下するすると株主の長期的利得は期待できないからである。むしろ株主は、利益増によってキャッシュが増加した場合、経営能力や従業員の技術力等の企業特殊的能力を引き出すためのインセンティブとして内部留保することを容認し、その残りを配当として受け取る。そして、次の期も株主として投資を継続するであろう。これが、企業が必ずしも配当を利益に100%連動させない理由である。一方、経営者は無配にして獲得した利益から将来への投資に必要な資金を控除したものを全て自らの利得としてしまうと、次の期に外部株主は継続して投資することをやめるかもしくは外部株主の介入を招く可能性が高まる。そこで経営者にとってはいくらかの配当を支払った方がむしろ合理的となる。経営者が無配を避ける理由はここにある。では、無配にしないとすればどの程度の配当を支払うことが経営者にとって妥当であろうか。もし外部株主が経営者の能力や従業員の技術力などの企業特殊的能力に着目しているならば、経営者が支払う配当水準は自分の能力が十分に投下されていることを外部株主に確信させ、外部株主に次の期も継続して投資を促すに足りる水準にとどまるはずである。つまり経営者は必ずしも獲得した利益に応じた配当を支払う配当水準は自分の能力が十分に投下されていることを外部株主に確信させ、外部株主に次の期も継続して投資を促すに足りる水準にとどまるはずである。つまり経営者は必ずしも獲得した利益に応じた配当を支払う必要はない。以上のような考え方に基づき、外部株主が株主構成の中で相対的に高い比率を占める企業は、利益と配当の連動性が低く、むしろ配当政策は粘着的になるという現実を設定する。言い換えれば、これは、外部株主は収益に連動した配当を常に要求するのではなく、経営者能力や従業員が有する企業特殊能力を評価するという現実を説明するための仮説である。これを経営能力評価仮説と呼ぶ。

これを検証した結果は、日本企業の配当は収益性指標と有意に正の関係を持つ、すなわち収益性が高い企業では積極的な配当支払が行われるが、外部株主の保有割合が高いと収益性と配当の連動性は失われ、また金融機関の保有割合が高い企業では積極的にその連動性は依然として高いという事実を証拠づけるものである。この結果は経営能力評価仮説を支持する内容であると言える。経営能力評価仮説では、外部株主は経営者の経営能力や従業員のノウハウ等企業が固有に持つ企業特殊的能力に着目するため、必ずしも利益に連動した配当を要求するのではなくむしろそのような能力を引きだすよう経営者の裁量を尊重することが合理的であると考える。経営者とは株主によって投下された資本を成長させることを使命とした経済主体である。そのような主体として相応しい能力を持った経営者が努力を傾けて事業を拡大することは経済活動全体の拡大に貢献することになる。一方、株主は資本を提供するとともに経営者の投資プロセスを監視することによって無駄を排除し、より効率的な事業経営を促進させる主体である。当然のことはあるが、以上のように考えれば株主と経営者双方の利害は実は経済全体の利害と一致している。しかし、この二つはトレードオフの関係にある。すなわち株主の監視がなければ経営者は必ずしも効率的な行動のみを選択するとは限らない。最悪の場合は資本を浪費することによって企業価値を毀損する可能性もある。これがエージェンシー理論の考え方である。その一方で、あまりにも株主の監視にと介入が過剰になると経営者のモチベーションは低下し、その能力を十分に発揮できなくなる。最悪の場合はその企業に特化した人的資本を持ち去ることによって企業価値を毀損する可能性もある。経営能力評価仮説は、このトレードオフを配当政策という視点から実証的に把握する切り口を提供した。経営者のモチベーションが企業価値の拡大に大きく貢献するような環境にある企業では、配当は一定の水準に粘着して残りのキャッシュの使途は経営者の裁量に任されるようになる。しかし、株主による監視が企業価値の維持にとってより重要な企業においては、配当は利益に連動して変化する。本研究はこの粘着型の配当と柔軟型の配当を株主の属性に着目して分析を行い、一定の結論を導き出す幸運に恵まれた。しかし、株主の属性のみを分析対象としたことは一面的と言わざるを得ない、企業が属する産業構造や事業特性等多くの要素が分析対象として考えられるであろう。

2013年5月 1日 (水)

宮川壽夫「配当政策とコーポレート・ガバナンス~株主所有権の限界」(9)

第5章 経営者自己抑制仮説の実証

本仮説は2000年以降の会計ビックバンを皮切りに行われた規制緩和政策の流れが従来の日本的経営の中で培われてきた株主と経営者の関係に大きな変革をもたらしたのではないかということに注目した。とりわけ企業の成長資金がメインバンクによって安定的に確保されるという構図から、投資資産からの効用のみに関心を持つ多様な投資家が企業価値に応じて資金を提供するという構図に変化したとすれば、企業に対する支配権の配分メカニズムにも大きな影響を与えているはずである。また、この時期に行われた多くの制度改革は経営者側に一方で経営の選択肢を豊富に提供したと考えられる。このような環境変化の中で配当政策という経営成果の配分ルールはどのように築き上げ、どのように行動したのだろうか。配当政策を介して当該期間の経営者行動を分析することにより、日本企業のコーポレート・ガバナンスに対してもより現実的なアプローチができると考えられる。そこで、エージェンシーコストの構成要素に着目し、株主と経営者の情報がたとえ対称的であったとしても経営者は株主からの信任を獲得し、株主からの監視を緩和するために自己抑制的な行動を採るという経営者自己抑制仮説を設定した。

この仮説はエージェンシー理論の考え方に依拠したものである。エージェンシー理論は株主と経営者の異なる利害関係をエージェンシー関係として把握することによって、エージェンシーが選択する行動の結果が常にプリンシパルにとって望ましいとは限らないことを主張している。エージェントには常に自由裁量の余地が残されており、その範囲内で自己の利益を選択するであろうと想定するのだが、具体的には経営者には便益をもたらすが株主には何ら便益をもたらさない非金銭的利益、これに加えてキャッシュフローの私的流用なども含めて経営者は私的便益を追求するとされている。このようなエージェンシー関係の存在によって企業価値の低下をもたらす損失をエージェンシーコストと呼ぶが、このエージェンシーコストは次の三つの要素によって構成され、その合計であると定義されている。

①プリンシパルによるモニタリングコスト

②エージェントによるボンディングコスト

③残余損失

上記のうち①は、利害が一致しない経営者の行動を株主が監視するために株主によって惹き起こされるコストであり、②は経営者が株主の利益を毀損しないことを株主に示すための支払いコストである。そして③はそれら両方の結果によって発生する機会損失であると整理される。これまで情報の非対称性は株主と経営者の関係を見る上で重要な問題であった。では、仮に株主が持つ情報と経営者が持つ情報が対称的であったとしたら問題は解決するだろうか。否である。なぜなら株主が経営者の行動を全て観察できたとしても(つまり経営者と間に契約が結べたとしても)株主が経営者の不適切な行動を阻止するためには第三者に立証する必要があるからである。

これに対して筆者はこの考え方を現実の世界に持ち込むことに限界を感じているという。一般的に経営者という地位はそれほど単純に自分勝手な行動をとれる立場ではない。経営者は株主からの過剰な監視を緩和しながら自分の地位を安定させようと努力する筈である。そのためには株主の監視が過剰にならないよう株主からの信頼を獲得することを目的に、経営者自身の私的便益への誘引をある程度抑制しながら慎重な行動をとる方が合理的であると考えられる。経営者はそのような自己抑制的な振る舞いを、配当政策を利用して株主に表現し、自分の満足度と地位を安定化しようとするのである。この経営者自己抑制仮説では、エージェンシー理論の3要素のとりわけ①と③を低下させると考えられる。株主からの監視(①)とそれによって経営者の意思決定が一部拘束されることが生じる損失(③)は、企業の継続を目指す経営者にとって重大な損失と感じられるであろう。経営者の報酬も企業業績にリンクしていることが多いと考えれば、経営者がある程度の裁量をもとに企業価値拡大にとって適切なタイミングで意思決定を行うためには結局のところ上記①に関連した株主による過剰な監視を緩和することが一つの手段となるのである。

これを検証した結果は以下のようにまとめられる。第一に、日本企業の配当政策は一定期間(5年)のタイムホライズンを経て財務特性に影響を受ける。当期の配当が直ちに同年の財務指標に影響を受けているという証拠はない。しかし、時間的経過を考慮して分析を行うと日本企業の配当政策は経営者の自己抑制的な行動を反映して意思決定されていることが説明できる。第二に、2001年から2005年の期間では投資機会の少ない企業においては負債比率と配当変化率が有為に負の関係にあるが、投資機会の多い企業においては有為な関係が確認できなかった。投資機会の豊富な企業は負債による調達を行っても常に投資する先があるために負債によるエージェンシーコストの削減効果は低い。一方、投資機会の少ない企業は常に資金需要があるわけではないために多くのフリーキャッシュフローを保有するとエージェンシー問題はより深刻になると考えられる。そのため投資機会の豊富な企業に比べて負債によるエージェンシーコスト削減の余地は大きい。第三に、投資機会の少ない企業は投資機会の豊富な企業に比較すると配当変化率の売上高利益率に対する感応度が相対的に高く、投資機会の少ない企業は収益力の上昇に対してより敏感に配当を高めていることが確認された。投資機会の少ない企業におけるエージェンシー問題がより深刻であることが示された。

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