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2013年5月18日 (土)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(2)

例えば、土木学会では福島第一原発への津波の高さはせいぜい5.7~6.1m程度と見なしていたらしい。多くの専門家が、この基準値に基づいて、原子炉冷却など安全対策の多様な分析の研究を遂行していたはずである。論文もたくさん書かれただろう。学会の基準値をきちんと前提とするのが、その分野の「専門家」というものである。基準値の設定自体の検討は、また別の専門家の仕事というわけだ。しかし現実に来襲したのは高さ14mの大津波だった。ということはつまり、この基準のもとに書かれた論文はすべて紙クズだったわけである。もっと高い津波が押し寄せてくるという予測結果も、実はあったらしい。だが、いったんそれを認めてしまうと新たな防護壁建設のために膨大なカネがかかる。東電の幹部は当面の利益を増すためにそんなことは絶対したくなかったのだ。とすれば、東電の研究者だけでなく、東電から莫大な研究資金をもらっている大学の専門家が、彼らの意向を無視できるはずはない。こうして、高さ10m以上の津波を前提とした安全対策研究は、後回しにされるということになる。このようにして、専門分化と産学協同は、過度に進められると、学術研究そのものの基盤をゆがめてしまい、専門知そのものの品質が損なわれることになる。福島第一原発事故の悲劇はこうして起きたのである。これがアカデミズムの凋落でなくてなんだろうか。これは、ある意味では、専門家の思考や活動が一般性や普遍性を失い、個別の興味や利害に左右されるようになりなった、ということかもしれない。研究の方法論には細かいルールがあり、客観的で普遍的な知を生み出しているように表面上は見える。だが、研究遂行の前提条件そのものが、個別の偶然的要素によって強く限定されているのだ。こうした近代社会特徴と言われている専門知の普遍性が崩れていく。もはや専門家が一般のアマチュアと同じく、いわば主観的な知しか生み出せないならば、一般の人々の専門家に対する無条件の信頼は揺らいでいかざるを得ない。このことは逆に言えばまた、専門以外のアマチュア研究者への信頼が、一般人のあいだに生まれるということでもある。

言うまでもなく、専門知は研究教育制度やメディアのあり方と関連が強い。制度によって保証された専門家が、はじめてテレビや新聞を通じて自分の意見をひろく伝える権利をえるのである。そうでない素人の意見は、内容がいかに優れたものであっても、いわば床屋談義のようなもので、これまで多くの人々の耳目に触れることはなかった。この事情がすっかり変わったのは、インターネットが普及したためである。2000年代後半にいわゆるウェブ2.0が登場した。このウェブ2.0には重要な特徴がある。企業や官庁の公式ページだけなら、業種や担当部門などによって分類したポータルサイトからアクセスすればよしい、データ量も限られている。だが、一般のユーザがネットのなかで自由に自分の主張をするようになると、テーマも多種多様で分類が困難になる上、ネット内のデータ量が爆発的に増える。だから、それらのデータを相互に関連付け、的確にアクセスできるようにする高性能の検索エンジンが不可欠となる。検索エンジンというITメカニズムを介してはじめて、互いに見知らぬ人同士が結びつき、メッセージを交換し合えるわけだ。こうして従来、民主主義社会における一種の夢想でしかなかった「集合知」の実現がにわかに現実味を帯びてきたのだ。本書で取り上げる集合知は、本来の生物学的にいみあいよりは狭く、人々のいわゆる「衆知」、とくにインターネットを利用して見ず知らずの他人同士が知恵を出し合って構築する知のことを意味する。もともとインターネットのなかには、発足当時から、中央の権威に抵抗し、一般市民が交流して民主的に知を構築していこうというリベラルな文化があった。wwwが登場して一般ユーザが参入する以前から、インターネットは理系の研究者たちの間で情報交換のために活用されていた。若手研究者の中には、アイディアが湧くと、ただちにそれをインターネット上で公開する者もいた。つまり、論文にまとめて、査読を通してから専門誌に掲載されるまで待てないというわけである。アイディアが誤っている可能性もないではない。だが、優れたアイディアなら、いち早く公開して仲間に認めてもらう方が安全確実だ。これは逆に言えば、査読という制度の権威をあまり信用していないということである。査読者はエラい大学者かもしれないが、専門違いで見当はずれの難癖をつけてくる可能性もある。最悪の場合、優れたアイディアをこっそり盗まれてしまう恐れもない。要するに、ネット空間は従来から、学問の権威主義に抵抗する場としても用いられてきたのだ。

ジェームス・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』という本では、集合知の優位を熱っぽく論じている。例えば20世紀の始め、英国の家畜見本市で雄牛の体重を当てるコンテストが開かれた。参加者はそれぞれチケットを購入し、まるまると肥えた雄牛の姿を見物しながら、チケットに体重の推測値を記入する。いちばん正解に近い推測値を記した人物が、賞品を獲得するわけである。このコンテストに参加した有効なチケット総数は787枚だった。そこで驚くべき結果は、賞品獲得者の推測値の正しさではない。チケットに記された787個の推測値を統計的に処理すると、その「平均値」が正解を見事に当ててしまったという、信じがたい事実だった。スロウィッキーは、群衆の知恵は専門知に比べてもけっして劣ってはおらず、それどころか、はるかに優る場合が多い、という主張なのである。ここでいくつかの疑問が生じる。第一に、いったいどういう条件のもとで集合知は正しくなるのか。まさかどんな条件のもとでも、とは言えないだろう。第二に、第一の疑問とも関連するが、いったい集合知なぜ正しいのか。理論的根拠がはっきりしない。それが分らないと、見当違いの盲信に繋がる恐れがある。さらに本質的なのは、そもそも「正しさ」とは何か、という第三の疑問だ。雄牛の体重のようなものならたしかに正解が存在する。だが、つねに単純な正解があるとは限らない。難しい数学の定理の証明のように、問題解決法がたやすくわからないものもある。この場合、みんなの意見の平均値をとればよいというわけにはいかないだろう。また、中には正解というよりは、せいぜい「適正な解」とよぶほうがよいものもある。あえて言えば、世の中の大半の問題には、はっきりした正解など存在しない。あるとしても、正解かどうかよくわからない。例えば、原発を即時撤廃すべきか否かという難問は、いわゆる「正解」とは無縁である。複雑な利害関係やさまざまな価値観の対立を乗り越え、調整を重ねて結論にたどりつくのが通例なのだ。集合知というのは、こう言う問題解決にも有効なのだろうか。

「いったいなぜ集合知は正しいのか」という根拠についてスロウィッキーは、分析を加えている。とくに前述の三つの疑問のうち、第一の「集合知が正しいための条件」については、はっきりと示されている。それは、集団の意見が(1)多様性(2)独立性(3)分散性もの三つの性質を充たしていることであり、また、そういう意見を集約するシステムがあることだという。気にかかるのは、この三条件の間の関係性である。多様性とは集団の各メンバーが独自の情報を持っていることであり、独立性とは他者の考えに左右されないこと、そして分散性とは身近な情報を利用できること、と説明されている。だが、これらは明快な条件とは言えない。まず、メンバーの思考が互いに独立なら、多くの場合、多様になるだろう。また、分散性とは地域的に分散しているのか、論理的に隔てられているのかよくわからないが、いずれにしても独立性に含まれると言ってよい。おそらく、本質的なのは多様性だろう。集団が均質なら一人の意見と同じようなものだから、このことは直観的にうなずける。分散していて独立に思考していれば、まず間違いなく多様性が確保できるはずだからだ。だがこれをとらえ直すと、多様性さえ確保できるなら、必ずしも独立だったり、分散したりする必要はない。「独立性(分散性)」をふつうに解釈すると、集団のメンバー同士が相互に隔てられ、没交渉なことだという気がする。だが、これは民主主義の基本である討論の否定を意味するのではないだろうか。民主主義とは、集団のメンバーが多数決で決めるだけでなく、むしろ相互に話し合い、妥協点や実行可能な解を模索していくプロセスに主眼があるはずだ。真の多様性とは、そういうプロセスの結果として出てくると考えることもできる。

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