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2013年5月24日 (金)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(8)

ネット社会においては、コンピュータをはじめITが枢要な役割を演じるのだが、ここでまず、生命とは何か、それは機械とどう違うのかを根本的に考察していく必要がある。さもないと、人間の思考とコンピュータの論理記号処理を同一視したくなり、20世紀末の人工知能研究者と同じ罠にはまってしまう。生命と機械との大きな違いは、設計図がなく自生するということである。機械とは、人間が引いた設計図通りに人間によって制作されるものだが、生命体は勝手に自分で自分をつくりあげてしまう。細胞は外部から与えられる設計図なしに、自分と似た細胞を次々に作り出す。だから「オートポイエティック(自己創出的)」な存在なのである。自分で自分を創り出すとは、作動の仕方も自分で決めるということだ。だから生命体は「自律的」なシステムである。これに対して、機械は他の存在(人間)によって制作され、また他の存在をつくりだすので「アロポイティック・システム」である。また設計された通りに作動するから「他律的」なシステムである。このように自己創出という観点から生命体をとらえ、機械と峻別するのがオートポイエーシス理論である。

オートポイエーシス理論は、生命体がいかに世界を認知観察しているかを考察する。ただし前にもふれたように、ここでいう認知観察は、遠くからじっと対象を観察しているのではなく、むしろ「生きる」という自分の作動にともなう行為の一部なのだ。たとえば、アメーバのような原始的生物も、栄養物を求めて遊泳するという行為を続けながら世界を観察し、世界の「意味」や「価値」を捉えているとも言えるのだ。我々の心の中ではいったい何が起きているだろうか。心の中では「思考」という出来事が、継続的に生々消滅している。ここでいう「思考」とは、いわば主人公の一人称モノローグをともなう映画のショットのようなものだ。それは一種の自己言及的コミュニケーションであり、クオリアから織あげられる世界のイメージである。過去の思考にもとづいて、現在の思考を自己循環的に創出していくのが、心というオートポイエティック・システムの作動なのである。もちろん、外界からの刺激は到着するのだが、それらは心にそっくり「入力」されるのではない。あくまで思考は再帰的に、心の内部から創出されるのだ。たせから、心とは本来、徹底して自律的な閉鎖系なのである。ところで、このような心の閉鎖性は、社会的なコミュニケーションとどう関わるのだろうか。閉じた心をもつ人間同士が言葉を交わすので誤解も生じるが、それなりに社会的な行為がなされ、企業や官庁などの組織が機能していることは確かである。興味深いのは、こういった社会的組織においてはコミュニケーションがコミュニケーションをつくりだすという自己循環的な作業が行われていることだ。社会的組織には特有の用語概念をもつ伝統や文化があって、一種の知識として記憶されている。その記憶を基にコミュニケーションが発生し、またそのコミュニケーションの痕跡が組織の記憶となって蓄積されていく。社会的組織のこういうダイナミクスは、再帰的に思考を生み出す心のダイナミクスと基本的に変わらない。したがって、社会的組織も一種のAPS(オート・ポイエティック・システム)と見なすことができる。この社会的組織と構成メンバーの心という両APSの関係が集合知や知識伝達を考えるときの鍵となってくる。社会的組織のコミュニケーションは、構成メンバーの発する言葉を素材にして織り上げられる。そして一方、構成メンバーは組織ルールなどの拘束のもとにある。だから端的には、社会的APSは構成メンバーの心的APSより上位にあり、両者はある種の階層関係をなしていると考えることができる。

このような階層的自律コミュニケーションシステム(HACS)というモデルを使うと、情報や知識の伝達や蓄積を論じることができる。心はもともと閉鎖系だ。知の原型は、主観的で身体的なクオリアをベースにして一人称的なものとして形づくられる。その意味で閉じている知を、簡単に伝えることなどできるはずはない。それなのに、社会の中で「情報」が伝達され、それらを組み合わせて三人称的な「知識」が構成されていくのはかぜか。これは、個人と社会という二レベルのHACSの関係を考えることで明確になる。例えば、高校生の友人AとBの二人が同じ小説を読んだ感想を語り合っているとする。このとき人間同士の対話では、言葉の意味が互いに首尾よく伝わるかどうかを確かめる手段は存在しない。そこが機械間の通信との違いだ。しかし、実際にはAもBもその小説に感動し主人公に共感していれば、二人の会話はそれなりに成功するはずだ。もちろん、それぞれの発言は別々の暗黙知に支えられているし、互いの言葉をそっくり理解できるわけではない。ある意味では誤解の連続かもしれない。だが、対話自体は大いに盛り上がり、コミュニケーションは継続していく。二人の間の情報伝達や知識蓄積はとは、基本的にこのようなものだ。つまりそれは、AやBという「個人」の階層のHACSではなく、二人か参加している「社会」という上位階層のHACSにおいてコミュニケーションが成功し、継続していくことなのである。さらに大切なのは、その有り様をCが観察し記述することである。小規模な社会的HACSであっても、Cの記述はこのHACSの「記憶」そのものであり、作動とともに蓄積されていく。このダイナミクスにおいては、「AやBの心」という下位HACSの作動が、いわば「細目」となり、「二人につくる社会」という上位HACSのコミュニケーションという「包括的存在」を形作っているとも言える。すなわちそこでは、新たな「意味」や「価値」が創出されており、それが当HACSの「記憶」に追加されていくのである。だが、これだけでは客観的知識には足りない。コミュニケーションとは瞬間的に成立するミクロな出来事である。知識形成というプロセスにおいては、コミュニケーションに加えて、いっそう長大な時空間で行われる「意味伝播」というマクロな出来事が不可欠である。これは「プロバケーション」とよばれる。プロバケーションとは、端的には、HACSの記憶(意味構造)の長期的な変化である。AとBが対話をつづけコミュニケーションが継続発生していくと、時間とともにやがて、AとBの各自の記憶に変化が生じてくるはずだ。二人は互いの言葉に影響され、それぞれのHACSにおける記憶(意味構造)の漸次的な変化が、プロバケーションなのである。このようにコミュニケーションとプロバケーションを通じて、クオリアのような主観的な一人称の世界認識から、(疑似)客観的な三人称の知識が創出されていく。形作られるのは、一種の社会的な「知識」であり、「意味」である。このダイナミクスの基本的な有り様、たった二人の社会的HACSから国家規模のHACSにいたるまで原則として変わらない。

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