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2013年5月20日 (月)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(4)

第2章 個人と社会が学ぶ

人間にとって「知」とは何だろうか。専門知と集合知の問題を考えるためには、まずそこから始めなくてはならない。

21世紀は「知識社会」だという声がある。20世紀までは土地、労働、資本などが富を生む源泉だったのだが、今後は知識が鍵を握るという。例えば、投資金融で利益を得ようとすれば、各企業の製品開発力を正しく把握し、成長の可能性について的確な判断ができなくてはならない。そのための評価表のようなものが、「知識」と見なされているのである。具体的に言うと、評価表の各項目をなす断片的データのようなものが「情報」であり、この情報(データ)群を体系的にまとめあげたのが、いわゆる「知識」だと常識的に定義されているのである。その内容としては、評価の基準をきちんと定め、第三者からなる委員会などの機関をつくり、できれば数値指標にもとづいて正しく評価し結果を公表すれば、世界はますます透明になっていく。ネットは情報共有のたるに不可欠な重要手段であり、ネットを活用すれば、幾らでも知識を入手することができる。後は市場での競争に任せれば、ものごとは万事うまく進んでいくはずである。だが、知識や情報とは本当にそういうものだけなのだろうか。こういった知の捉え方は、いかにも実践的で効率的なもののように見える。だが実は、生命体としての人間の活動における知の役割というものを、根本的なところでとらえ損なっているのではないか。いちばん問題なのは、客観的な世界が存在し、しかるべき評価作業を行えば透明度がまして、世界の様子がわかってくるはずだ、という単純な思い込みである。この思い込みは、客観的な世界の様子を記述する知識命題が存在し、それらを上手にあつめて記憶し編集すれば世界をより深く正確に知ることができるようになり、さらには世界を操作できるようになる、という常識的な考え方に繋がっている。だが、実際には知識命題とは、所詮は誰かが行った一種の解釈に過ぎないのではないか。とすれば、所与の知識命題がネットにあふれることで、かえって判断が混乱し、思考力が衰える恐れもあるだろう。もっと大切なのは、手際よく所与の知識命題を集めて来ることではなく、自分が生きる上で本当に大切な知を、主体的に選択して築き上げていくことのはずである。ここでいう「知識命題」とは、自分の行為や生活から練り上げた体験知ではなく、天下りに与えられ、自分が手をふれて変更することなど不可能な「所与の知」だという点である。両者のあいだには本質的な違いがある。

所与の知とは、「社会的に権威づけられた知」ということである。これは、現代に限ったことではなく、およそ、人間社会が存続していくためには、社会集団の誰もがその妥当性を疑うことのない、何らかの所与の知が不可欠である。さもないと集団の秩序が失われ、人々の行動がたちまち紛糾し混乱してしまうからだ。だから天下りに与えられる所与の知は、人間社会のいたるところに出現してきた。中でもそれが最も秩序だった形で認められるのは、いわゆる「啓典の民」の社会だったと考えられる。啓典の民(例えばユダヤ教)の集団では、神の言葉(ロゴス)がしるされた聖典が絶大な権威をもっている。聖典に書かれた言葉は「真理」であって、その正しさは時間空間を問わず、いつでもどこでも普遍的に成立することになっている。その聖典はどこへでも持ち歩けることから、場所に拘束されずユビキタス(偏在的)になっていく、それが普遍という意味の「カトリック」なのだ。聖典に記された神の聖なる言葉が「真理」であるとすれば、それから正しい命題を演繹するのが神学のつとめということになる。言い換えれば、ある命題が正しいか否かは、真理から論理的に導出できるかどうかによって判定できるはずである。「神の真理」を「公理」や「原理」等で置き換えれば、そのまま現代の専門知に結びつく。このような真理や公理といった基本的な命題から出発して、次々に正しい命題を導出するためには、命題が記号で表現され、これを論理的な規則に基づいて機械的に組み合わせればよい、という発想が誕生したことである。機械的操作であれば主観が混入しないので、かえって説得力が増すという考え方だろうか。

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