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2013年5月19日 (日)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(3)

スコット・ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』は集合知という問題に対して正面から取り組んでいる。前述の三つの疑問に対して、第一の「集合知が有効な条件」については多様性だけに絞り、第二の「集合知はなぜ正しいのか」という点については、理論的根拠を示そうとしている。ペイジは、「情報寄せ集めモデル」と「多様な予測モデル」の二つに分けて捉える。雄牛の体重の問題は後者に入る。まず、情報寄せ集めモデルの考え方はシンプルなものだ。集団の火メンバーが解くべき問題について部分的な情報をもっていれば、メンバーの意見を上手に組み合わせることによって、集団として正確な推測を行うことができる、というわけである。すなわち、ランダムな選択の結果、誤りは相互に打ち消し合い、正解だけが突出する可能性が高まるからである。たしかにここには、少数の専門家よりも多数の素人の集合知が正しいという主張は理論的根拠の一つがはっきり示されている。ただし、そのための条件として、未知の事柄について人々の間に集団的偏見がなく、あくまで中立ランダムな判断をするという仮定が本質的な役割を果たしていることを、決して忘れてはならない。群衆とは様々な憶測をするものである。問題によっては、この仮定は必ずしも成り立つとは言えないだろう。たしかにここには、少数の専門家よりも多数の素人の集合知が正しいという主張の理論的根拠の一つがはっきり示されている。ただし、そのための条件として、未知の事柄について人々のあいだに集団的偏見がなく、あくまで中立にランダムな判断をするという仮定が本質的な役割をはたしていることを、決して忘れてはならない。群衆とはさまざまな憶測をするものである。問題によっては、この仮定は必ずしも成り立つとは言えないだろう。

部分的な情報を寄せ集めると、誤りの効果がランダム選択によって打ち消され、集合知が成立するという議論は、雄牛の体重推測には通用しない。柵越に雄牛の姿を眺めてその体重の見当を釣れる人は、雄牛の頭、胴体、脚などそれぞれの部位について、特に何かを知っている人達の集まりではないからだ。ではいったいなぜ、この種の問題に対して集合知は有効なのだろうか。まず、各人の推測値がなぜ異なるのか。当然ながらそれは、各人が体験によって身につけた推測仕方に個人差があるためである。我々は生きていく上で、様々な問題を解決していかなくてはならない。その問題解決方法は、おおむね、家族環境等を含む個人的な体験と、学校教育等で受けた体系的トレーニングから得られたものである。近代的な専門家というのは、体系的トレーニングを受けた存在だから、その推測モデルだいたい似通ったものになるだろう。そして、その推測の精度は高いというのが常識だ。一方、素人は個人的体験のバラツキが大きいので、多様な仕方で推測を行う可能性が高い。さて、それでは推測の精度と多様性の関係はどのようなものになるだろうか。集合知はなぜ専門知を負かすことができるのだろうか。そこでは、集団誤差=平均個人誤差-分散値 という「集合知定理」が成り立つ。この集合知定理が示すのは、集団における個々人の推測の誤差(第一項)は多様性(第二項)によって相殺され、結果的に集団としては正解に近い推測ができる、ということである。均質な集団ではこの利点を活かせないが、様々な推測モデルを持つ多様な集団なら、個々人がかなりいい加減な推理をしても、集団全体としては正しい推測が可能になるのだ。しかし、この定理が示すのはそれだけではない。個々人の推測が平均として正しければ、第一項が減少し、集団としての誤差は減るというアタリマエの事実である。推測を行うメンバーのそれぞれの推測モデルの質がよいこと、しかも多様な推測モデルが用いられることが、集合知によって正解が得られる条件にほかならない。

最後に、集合知をめぐる第三の疑問、つまり「いったい正しさとは何か」について考えてみよう。端的には雄牛の体重推測等とは違って明快な正解がない問題について、集合知は果たして有効かということである。多くの現実問題は、利害対立や価値観の相違があり、誰もが認める正解などは存在しない。だがネットをつかって人々の相異なる意見を集約することが比較的たやすいとすれば、集合知の有効範囲は一挙に拡大する。直接民主制の可能性とも関わってくるはずだ。この種の問題の本質は、集団のメンバーの間に価値づけの相違がある時、いわば集団の「総意」ないし「一般意思」のようなものを数理的に導くことが可能か否か、という点にある。各人の価値判断が含まれる場合、集団のメンバーのそれぞれが合理的な価値判断(対象の順序付け)をしていても、つねに集団の「総意」として合理的な順序づけを与えられるようなルールは存在しない。これは実は、アローの定理といって、その筋の研究者のあいだでは昔から知られた古典的議論なのである。集合知が明確に有効性を発揮するのは、「正解」を推測する問題に対して幾つかの条件が満たされた場合だけである。多様な利害や価値観が対立するような問題については、集合知が有効かどうかは全然わからない。

本節で述べた議論は、近代社会についての数学的モデルに基づいている。つまり、あくまで個人主体を前提とし、各自の意識的な主張が形式論理的に表現され、機械的な操作によって集計が行われる、というものである。だが、そもそも集合知とはこれだけに限られるのだろうか。生物的な集合知とは本来、細胞を基本とする生命単位があつまって行動し、生命維持のためにいわば創発するものだ。そういう目から、もう一度、「知」を根本的にとらえ直してはどうだろうか。

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