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2013年5月22日 (水)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(6)

第3章 主観知から出発しよう

「クオリア」は「感覚質」などと訳されることがあるが、本書のテーマである「人間の知識」という問題に関するかなり重要なキーワードである。クオリアとは、読者であるあなたの心のなかに生ずる、一回限りの「感じ」のことに他ならない。もう少し難しく言えば、個々の人間の意識の中に特定の体験として出現する感覚イメージのようなものである。例えば色の質感だ。同じ真っ赤な大輪のバラを見ても、その感じ方は個人によって千差万別である。ある人は深く鮮烈な色調にうっとりして、ロマンティックな幸福感を覚えるかもしれない。別の人は、毒々しい血みどろの惨状を思い出し、吐き気がしてくるかもしれない。主観的な感じやイメージは、各人の興味や過去の体験、そのときの気分などにも大きく左右される。千差万別なのは当たり前のことだ。ただ、ここで大切なのは、「同一波長の赤色光を人間の視覚器官がとらえたとき、とれが、引き起こす印象がさまざまに異なる」というだけにとどまらないことである。そもそも、ある人が感じている「赤」と別の人が感じている「赤」とは、いったい同じなのか違うのか判定しようがない、という点が肝心なのである。感覚とはこのように徹底して個人的なものである。我々の喜怒哀楽を伴う体験はみな、取り換えの利かない個別の身体をベースにしたクオリアから成り立っている。微妙で割り切りがたい感覚に基づいて、主観的な世界イメージが構成されるのだ。我々はよく、情報や知識を共有するとか、心を開いて共感するとかいう。だが、それらはあくまでも、心が本当は閉じているという絶望的な事実を踏まえた上での、一種の希望以上のものではない。心とは徹底的に「閉じた存在」なのである。自分の痛みのようなクオリアは、他人には決して分ってもらえないことが、その証拠といえる。

ところで、世界イメージが宿る「心」はいったいどこにあるのだろうか。ひとまず、「脳」にあるという回答が出てくるはずだ。とはいえ、すべての心の働きを脳の活動だけに帰着させるのは、どうも無理がある。むしろ心は、身体の活動と関わっていると考えるほうが、はるかに納得がいく。色や痛みなどのクオリアは、知覚器官から得られる感覚や、さらにそれが引き起こす感情と密接に結びついている。「怖いから鳥肌が立つのか、それとも鳥肌が立つから怖いのか?」という質問に対して、以前なら、「怖いから鳥肌が立つ」というのが一般的だった。何らかの理由で、脳の中に「怖い」という感情が発生し、それかぜ身体の各部分に伝わって、鳥肌が立ったり、脚が震えたりするのだ、と考えられていたのである。しかし、今の脳科学者は逆に、「鳥肌が立つから怖い」と回答する人が多いだろう。まず全身の身体反応があり、その状態を脳がモニターした結果、「怖い」という言語的体験が生じるという。身体とは感情の原器に他ならないのである。「怖いから鳥肌が立つ」という常識は、いかにわれわれが頭デッカチの幻想にとらわれているかを示している。生き物であることを忘れ、言語論理中心、人間中心の幻想にどっぷりつかっていたことが人工知能の失敗の遠因ではなかったか。

クオリアが脳゛けでなく、身体全体とかかわることは明らかである。身体全体で感じる体験を脳がモニターすることにより、周囲環境つまり世界イメージが立ち上がる。クオリアとは、いわばその要素的な反映にほかならない。「私」と「あなた」とでは身体も体験もそれぞれ異なるから、私のクオリアとあなたのクオリアのあいだには当然、渡れないギャップが生まれるのだ。今、私が真っ赤なバラを眺めているとする。私はたしかに、自分の心の中にふんわりと漂う私固有の「赤」のクオリアは、私の脳の中を精密に測定すれば分析できるのだろうか。測定データは、私が感じている「赤」のクオリアとはまったく別次元のものなのだ。それらのデータが、「赤」のクオリアと関連がないとは言わない。とはいえ、例えば、脳に人工的刺激を加えて「赤」のデータを完全に再現した時、私が同一の「赤」のクオリアを再び感じるはずだと断言できる人がどこにいるだろうか。このことを直感的に理解するには、コンピュータの処理内容とメモリのアクセスパターン分析との関係を考えればいいだろう。メモリのどの部分がアクセスされているかを幾ら測定しても、プログラムの目的や論理の流れを知らなければ、このコンピュータの処理内容はまるで見当がつかないのである。この点に、クオリアをめぐる最大の難点が潜んでいる。ポイントは観察者の位置である。脳の測定は、客観的、科学的に行われ、その記述はあくまで三人称的である。観察者は外部にいるのだ。一方、クオリアは徹頭徹尾、内部から主観的に感じ取られるものだ。その記述は一人称で行われる。このとき観察者は、いわば心の内部にいるのである。両者は容易に結びつかない。これは「心身問題」として知られている難問なのだ。そもそも、外部の客観的観察者とはいったい誰なのだろうか。彼らにしても本ラスは、それぞれ独自な心を持った人間である。データの解釈に個人的見解が含まれることもあるだろう。彼らはただ、科学的な測定記述という社会的行為のルールにしたがっているだけなのだ。我々は客観的世界に住んでいるわけではない。だから、脳の測定だろうと何だろうと、認知観察行為とは「所与の客観的世界の表象をえること」ではないのである。とすれば、まずクオリアありき、ではないか。心身問題にアプローチするには、三人称的な科学的記述からクオリアに迫るのではなく、逆に一人称的、主観的なクオリアの記述から出発して、いかに客観世界という仮構が成立するかを問うていく必要がある。

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