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2013年5月21日 (火)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(5)

20世紀を支配した思考を一言で概括すると、「(神が死んだ後の)論理と実証が支配した世紀」といってもよいのではないか。もはや、万象をつかさどる神という超越的存在の威力は衰えた。あとは人間の判断力しか残っていない。この時、個人の主観的要素をなるべく排除し、誰もが納得する客観的な手続きに終始することが、正確な知をもたらすという考え方である。の手続きとは論理や実証をふまえた科学的な精神や方法であり、これがあらゆる学問分野において、依然として圧倒的な影響力を持っている。例えば論理実証主義は、数学と論理学に基づく厳密で正確な記述を重視するだけではない。あくまでも経験的事実、つまり実験に基づく証拠を重んじるという点にある。つまり、あらゆる知識は、経験的な事実を記述する命題からの論理的推論によって得られるものだということになる。それらは検証可能でなくてはならない。そうしてはじめて、その知識は普遍的なもの、「所与の知識」となることができるのだ。このような議論に関して大切な点は、知識をあらわす命題を誤りなく正確に記述するための「言語」のあり方が問われたことだ。この考え方が、より進むと分析哲学的な考え方につながる。およそあらゆる知識が科学的な厳密性を持ち、普遍的な「所与の知」となるには、それらはできれば、曖昧性を可能なかぎり排除した、普遍的な論理的言語で記述されるべきではないだろうか。また、自然言語で記述された知識命題については、すくなくとも、それらが論理的厳密性を持っているかどうか、きびしく精査し分析すべきではないだろうか。

このような論理実証主義の潮流を踏まえ、「人間のかわりに正確に思考を行う機械」として誕生したのがコンピュータなのだ。コンピュータを生み出した人物の一人であるフォン・ノマンは数学基礎論の著名な研究者で形式主義の権化のような人物だった。それは要するに、「事物を記号で表し、記号を形式的なルールに基づいて論理操作することにより、自分についての正確な知が得られる」というのが形式主義の考え方で、記号が何を表すかは忘れてよい。そんなことに拘泥すると主観が混じり、正確さが失われてしまう。ひたすら、記号の形式的操作を行えば、自動的に事物についての正しい知がもたらされるという楽天聖性なわけだ。とすれば、形式主義者のフォン・ノイマンが設計した汎用コンピュータが「人間と同じく、いや人間にかわって思考する機械」をめざしたのは当然のことではなかったか。コンピュータとは、0と1からなる記号を形式的ルール(プログラム)にもとづいて操作して結論をだす機械だからである。それは正しい知を自動産出する機械であるはずなのだ。ただし、思考としての形式主義「無矛盾に公理系から導かれた真なる数学的命題は、必ず(形式的操作で)証明できる」の考えはゲーデルよって否定されてしまった。命題の中には、「この命題は証明できない」といった自己言及的な命題もあって、その正しさは形式的操作では証明できないのである。しかし、フォン・ノイマンをはじめとした多くのコンピュータ研究者たちはそう考えなかった。自己言及パラドックスのような例外はあるにせよ、基本的には、記号の形式的(機械的)操作によって人間の思考活動をシミュレートでき、正しい知が自動的にもとまるという考え方、コンピュータとともに普及して行ったのである。

正しい知をコンピュータで自動的にみちびくという技術は、「人工知能AI」と呼ばれる。これは、西洋の知的伝統において、何よりも、普遍的で有用で正確な知識命題を導出し、人間の代わりに問題を解決してくれる機械なのだ。1980年代まではコンピュータ研究開発の中心だったが、21世紀にかけてIT業界の動向が変わる。端的に言うと「AIかにIAへの転換」である。コンピュータに問題解決を丸投げするのではなく、コンピュータの能力を上手に使って人間の知力を高め、問題を解決するという方向に他ならない。コンピュータは、人間のような知力を持つかわりに、人間の知能を増幅する役目を帯びるのである。そこには、二種類の対話概念が出現している。第一は、一人の人間がコンピュータとリアルタイムで対話しながら思考するということ。そして第二は、多数の人間同士が、通信回線で相互接続されたコンピュータ群を介してつながり、情報を共有して互いに対話しながら、問題を解決するということである。技術的には、前者が「パソコン」に対応し、後者が「インターネット」に対応することは言うまでもないだろう。さらに後者の対話概念は、そのまま第一章で述べた集合知に結びついていく。ここで強調したいのは、人間の思考というものの理想型を「形式的ルールにもとづく論理命題の記号操作」とのみとらえ、それを実現する「汎用機械」としてのコンピュータを位置づける、という20世紀的な考え方が、大きな壁にぶつかったということだ。

本章では、そもそも人間にとって知とは何か、と問い直してきた。「所与の知識」は、学校に通う年齢になってから勉強するものがほとんどだ。科学的な知識だの、外国語の知識などである。だが、生きるための基本的な知識は、もっと幼い頃、母語習得とともに身につけることが多い。そこに生命的な知の原点がある。生命的な知とは、本来、本能的、身体的なものである。敵から逃げたり、餌を探したりするための知が最も基本的なものだ。つまり、知とは生物が生きるための実践的な価値とかかわっており、「真理」といった普遍的かつ超越的な価値を反映した天下りの知は、むしろ歴史的、文化的、宗教的な所産である。権威づけられた「所与の知識」も、その基盤は、いわば、人間が社会的にこしらえあげたものに他ならない。にもかかわらず、われわれはとにかく、唯一客観的な世界が存在しており、科学的な然るべき手続きによって、そのありさまを認識できる考えがちだ。アカデミックな訓練を受けた学者でさえ、客観世界を正しく認識し操作するためには論理的、実証的手続きが大切であり、それを可能にするのが分析的な言語であると固く信じ込んでいる場合が多いのだ。

認知心理学者エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドは、客観世界という前提なしに幼児の母語学習を論じている。その考え方は「ラディカル構成主義」と呼ばれるものだ。これによれば、人間は世界についての知識を外部から獲得するのではなく、世界のイメージを「内部でみずから構成していく」ということになる。つまり、ラディカル構成主義において、人間の認知活動とは、外部の客観世界のありさまを直接見出すことではない。大事なのは、試行錯誤を通じて周囲状況に「適応」することなのである。ここで「適応」というのは、何らかの行動をした結果を自分の世界にフィードバックすることだ。自分の概念構造に基づいて行動してみて、うまくいけばそれでよし、失敗したら概念構造を変更するのである。ポイントは、所与の概念構造への一致は要求されない、という点だ。例えば、鍵をあけるとき、必ずしも鍵穴に合致した鍵を用いる必要はない。針金をうまく操作しても鍵はあく。鍵をかける目的のために、ある人は鍵の種別を記憶するし、別の人は針金の操作法を修得する。内部で構成される世界イメージは各人ごとに異なるのである。つまりは鍵をあけられればよいのであり、鍵穴に合った正確な鍵を選ぶというのは唯一解ではない。およそ、生物はそのように進化してきた。実際よく考えてみれば、ラディカル構成主義の理論を待つまでもなく、地上にもともと存在するのは、各個人の主観的イメージだけだということは、むしろ明らかではないか。所与の客観的世界というのは、何らかの社会的必要性から生まれた仮構なのである。ネットが普及し、客観世界を記述すると称する知識命題があふれ返る時代に、まず頭を冷やして、このことを銘記しなくてはならない。

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