無料ブログはココログ

« 歳をとって本当に怖いのは「精神的退廃」 | トップページ | 「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展(3)~ルーベンスとアントワープの工房 »

2013年5月12日 (日)

「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展(2)~イタリア美術からの着想

ルーベンスは若い画家として独立して間もなくイタリアに向かい、その地で8年間イタリア美術を学び、本国に帰ってからも、折あるたびにイタリアやスペインでイタリア美術に触れ模写を何点も残したといいます。ここでは、そういう作品が展示されていました。展示点数は多くありませんが、脳天気に明るい、ゴージャスとかいささか空疎に響かないこともないルーベンスにもっていたイメージとは少し違う作品がありました。

Rubencewomanまず、『毛皮をまとった婦人像』(左上図)を見てみたいと思います。これは、ルーベンスが50歳を過ぎた成熟期に訪れたスペインで見たティツィアーノの『毛皮の少女』(右下図)をもとに制作した(模写した)作品だそうです。たしかに、そっくりで上手いです。しかし、二つの作品の微妙な違いがルーベンスの特徴を浮き上がらせています。まず目に付くのは、ルーベンスの作品の画面のサイズが相対的に横広ということです。これによって画面全体に余裕が生まれています。ティツィアーノの作品は単独で見ると感じることはないのですが、ルーベンスのと比べると少し窮屈な印象を受けます。このことはルーベンスという画家の透徹した眼ということを感じざるを得ません。そして、画面に余裕ができたぶん婦人の肉付きをよくしてふっくらした感じにして、目を心もち大き目に描いて。大きな目がパッチリと開かれていると顔の表情が明るくなり、顔にスポットライトがあったように印象が変わります。二つの画像を見比べてみるとルーベンスの作品が明らかに、ゆったりしていて、明るい、違いがはっきりと分かると思います。これが、ルーベンスの作品が脳天気なほど明るく、ゆったりした印象を生み出すひとつの要因かもしれないと思います。そして、このようなルーベンスの作品の婦人は生き生きとして実在の人間としての存在感、具体的に誰と名指しができるような実在の人間のような生気が溢れています。これに対して、ティツィアーノの作品の少女は影が薄いのです。暗い背景に埋もれているような印象Rubencewoman2
で、ルーベンスの婦人に比べると、模写したものとされたものですか似ているはずなんですが、こちらは整った顔立ちになっています。その分冷たい感じがして、生気があまり感じられないせいもあって、実際に息づいている人間という感じは、ルーベンスに比べると薄くなっています。もっとも、ルーベンスの画期漲る作品と比べるから、そう見えるのであって、これ一つだけを取り出して見れば、そんなことは思いもよらず、自然に見ることができでしょう。例えば、眉の付け根の描き方を比べて見て下さい。ティツィアーノの場合はスゥッと眉が半円のスッキリとしたラインとなって描かれているのに対して、ルーベンスは付け根の始点を強調し、そして眉の眉毛が生えていることをキチンと毛根が見えるかのように描いています。これは、ティツィアーノが人間の顔の形態に目が行っているのに対して、ルーベンスは実在の生きた人間の生々しいリアルさに目が行っているという違いによるものでしょう。これは、ティツィアーノがマニエリスムの影響から抜け切れず理念的というのか理想の女性像のようなものとしてこの少女を描いているように気がします。ティツィアーノの少女の表情をみると湛えている微笑みは人間のというよりはニンフや天使のような印象です。そうして比べて見ると、ルーベンスという画家がイタリア美術の様式や技法に習熟していたが、ベースはリアリズムの人であることが明らかです。しかし、私の好みは影薄いティツィアーノ描く少女の方です。だからルーベンスは苦手…とはいっても、そういう苦手を自覚している人をも惹き付けるものを持っているのです。

Rubencedomitilla『聖ドミティッラ』。これは祭壇画の準備のために描かれた下絵のようなものです。最終的な祭壇画ではここでの描かれ方と異なる描かれ方をしています。白いシャツを着て、腹部に毛皮を掛け、編み上げた頭髪を宝石の帯とリボンで飾り付けた女性は、右手に殉教者のアトリビュート(持物)である棕櫚の葉を持った姿で描かれ、視線を下方に向けている。あたかも柔らかい肌の感触が見て取れるかのような現実感を備えた生身の女性の描写が達成されている。その一方で、彼女の顔は厳格な横顔として表わされている。つまり、その顔の表現は、メダルやカメオに表わされた頭部を想起させるような威厳をも有しているのであり、古代美術の造形を強く意識しながら、生身のモデルに基づいて制作された作品ということができる。首飾りと棕櫚の葉が、直線を形成するように配されている点からも強い構成意識が見て取れる。とカタログで説明されているのは、その通りで、イタリア留学中にうけた注文でルーベンスはこのような下絵でそれまで学習したことを様々に試みていたのだろうと思います。顔の描き方をみるとタッチはけっこう粗目であるにもかかわらず、棕櫚の葉を持つ手の指先の丁寧な描き方や、カタログでは古代のカメオのような厳格なプロフィールでありながら、首の線の肉の弛みが肉感的に見えるなど、形式的な構成とリアルな視線の交錯がはっきりと表われていて、ルーベンスという画家が複数の方向性を持っていて、それらが拮抗してなかなかまとまらず、作品の中に対立的な要素が入っているのが大変興味深いです。ルーベンスの作品から放出されるあのエネルギーの源のひとつに、このような葛藤が原因しているのではないか、と少し考えさせられました。

Rubenceromeそして、イタリア美術の学習の集大成という位置づけで、ここに展示されていたと思われるのが『ロムルスとレムスの発見』という比較的規模の大きな作品です。展覧会の入場チケットやチラシにもこの作品がフィーチャーされていましたから、おそらくこの作品が目玉ということになるのでしょう。ローマの建国者であるロムルスとレムスの伝説を題材にしたものですが、構成が凝っていて正面に描かれた樹木によって左右に画面を分けて樹の根元に横たわる狼によって区切られる下の部分をまた区切ると、都合3つの部分に画面を分割しています。向かって左側はティベレ川の精で彼が寄りかかっている甕から流れ出ているのがローマの中心を流れるティベレ川になぞらえられているので、人間には見えない不可視の世界です。そして右側は羊飼いのファウルトゥルスという現実の世界で生活をしている人間です。だから、樹木を挟んで左と右で不可視の精霊の世界と羊飼いの生活する現実世界が樹の幹によって区分させられている。その間に狼が横たわり、それに区切られた下部の中心になっているのが、狼の乳で育てられたという幼い兄弟です。兄弟は羊飼いに発見され、人間の世界に戻っていくことになるのですが、ここでは下部に位置することで、人間の世界と不可視の精霊の世界の境にいるわけです。実際、レムスは手を挙げて人間には見えないはずの川の精を見ています。しかし、羊飼いを二人の幼児を見つけています。ルーベンスはここで異質の世界を一緒に描き、それらが元々は異なる世界でありながら、幼い兄弟の存在を通して連続していることも示さなければならいわけで、ここで対立矛盾する要素をまとめることが義務付けられています。また、ここでの様々な要素、川の精や兄弟を育てた狼の構図などはルーベンスがイタリア滞在で学習した古典的な構図や古代の彫刻の知識が使われているとされています。その形式的な図案に生き生きとしたリアリティを与えるという、これまた相矛盾する課題です。そういう対立的な課題を抱えての作品で、結果的に上手くまとまっているとは思えず、ルーベンス自身解決しきれていないで、画面の大きさに対して何か窮屈さを感じます。画面にそういう要素が入り過ぎて整理しきれていないというのか焦点が絞り切れていない印象です。部分をとってみれば画面上の品質が統一されていなくて、狼の毛並みなどは見事なほど描き込まれているのに対して、羊飼いの顔は明らかに仕上げが雑で平面的です。しかし、それらを補って余りあるのが、少し触れた狼の今にも動き出しそうなリアルな描き方と、画面でも光が当てられて、神々しさを与えられている二人の幼子の皮膚の柔らかさや縮れた毛で描かれた愛らしさと存在感でしょう。そういうムラは、後のアントワープ工房によって制作された傑作群では解消されていくのでしょう。だから、この作品はルーベンスの大作の秘密が露わになっているとも言えると思います。

« 歳をとって本当に怖いのは「精神的退廃」 | トップページ | 「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展(3)~ルーベンスとアントワープの工房 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 歳をとって本当に怖いのは「精神的退廃」 | トップページ | 「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展(3)~ルーベンスとアントワープの工房 »