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2013年5月25日 (土)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(9)

第4章 システム環境ハイブリッドSEHSとは

前章の議論で、生命体は機械とはかなり違った性質をもつことがはっきりした。とすれば、コンピュータネットを利用して意見を交換したり、知識を形成したりするには、いろいろな点を考慮しなくてはならない。現代のリアルとバーチャルが重なり合い。融合して来るような社会は、ユビキタス技術の進展とともに、人間=機械複合系の方向に進んでいる。これをはじめて学問的にとらえたのは、1948年にノーバート・ウィーナーによって書かれた『サイバネティクス─動物と機械における制御と通信』であると言える。しかし、サイバネティクスはひどく誤解され、世間では、生命体と機械の同質性を述べる議論であり、人間の機械化を限りなく促進する理論と見なされている。実はウィーナーの目指した意図は、これとは正反対である。サイバネティクスとは本来、生命体が生き続けるために、いかに電子機械を活用すればよいか、という実践知に他ならない。環境世界はつねに変動し、測定データにも有効な信号と雑音が混じり合い、予測困難である。生きるためには雑音を除去し、環境変動に対して適切に行動し、自分の安定性を保つ必要がある。これが電子機械を利用したフィードバック制御の目的なのだ。では、なぜサイバネティクスは誤解されてしまったのか。その理由のひとつは高度な数学を駆使した理論の難解さにある。もう一つはもっと本質的な問題で、生命体が生き続けるためには、何より、生命体の内側から環境世界を観察しなくてはならない。たとえば、痛みとはクオリアであり、主観的なものである。痛みの除去だけではない。生きるためには、時々刻々、生命体に降りかかる様々な問題を、あくまでも生命体に即して、内部の視点から解決することが必要なのだ。当然、その記述はいわゆる科学的な、外部の視点からみたものとは異なってくる。つまり、普遍的絶対性をもたない、個別具体的で相対的な観察記述になっていくはずだ。とすると、「観察行為を観察する」という、二次的な操作がどうしても必要になってくる。サイバネティクスの思想をつきつめれば、当然そういうことになるのだが、ウィーナーはそこまで考えてはいなかった。

ウィーナーの抱えていた問題点を見抜き、生物の主観性を考慮したサイバネティクスが1970年代に現われた。その中心は「二次サイバネティクス」つまり「サイバネティクスのサイバネティクス」として「観察行為を観察する」という世界認識上の操作から来ている。相対性を考慮しないと普遍的な理論とはならない。ある視点からの観察(世界認知)では一面的になり、盲点が生まれるが、別の視点からの観察を考慮すれば、この盲点を克服することが可能になる。なお、それなら三次、四次…も要るのではないかと疑問が出るかもしれないが、その懸念には及ばない。二次の相互観察によって相対化できれば、理論的には十分なのだ。

ウィーナーの一次サイバネティクスは「観察されたシステム」を対象とするが、二次サイバネティクスは「観察するシステム」を対象とする、とよく言われる。これは要するに、前者が機械のような入出力のある開放システムを対象とするのに対し、後者は生物のような再帰的・循環的な閉鎖システムを対象とする、ということだ。前者では唯一の客観世界が仮定されるが、後者では仮定されない。あくまで多様な主観世界が前提となり、そこでの認知の安定性や、多様な主観世界のあいだの相互関係性が問われるのである。これは、人間の主観世界を考えてみれば分かりやすい。私の認知観察する世界は、私のクオリアに支えられた独自のもので、あなたの世界とは違う。私もあなたも、時々刻々、環境から到来する刺激を自分の記憶(意味構造)に基づいて内部的に解釈し、再び自分の記憶(意味構造)を更新しつづけていく。そこにあるのは閉じたループである。だから問題は、私の世界の安定性や変動性、また、私の世界があなたの世界といかに関連しているかを論じることなのだ。このような二次サイバネティクスのモデルは、オートポイエーシス理論と深くつながっていることが想像できる。

 

21世紀になるとマーク・ハンセンらによるシステム環境ハイブリッドSEHSが発表される。SEHSとは、高水準の包含性をもつ「暫定的な閉鎖システム」のことである。システムの中には、人間主体とは異なる知能を持つ高度なITエージェント(人間を代表するコンピュータなどの知的存在)も含まれ、一種の分散的な認知活動が行われるというのだ。ハンセンによれば、生命的なAPSはもっぱら自己同一性を保つように作動する。動植物は、突然変異がなければ、基本的に遺伝と体験の与える軌道にそって自己維持的な再生産活動を行う。だが、人間の場合、テクノロジーによって、自己を乗り越え重層的に拡大していくという特徴がある。だから、人間の認知世界には当然、自らとは異質な機械的知性がまぎれこんでくる。そこには、人間の通常の意識ではとらえがたい「テクノ無意識」さえ生まれてくるとハンセンは主張する。ただし、この閉鎖システムは安定したものではない。IT機器は日進月歩で変化してくからだ。だからそれはあくまで暫定的な閉鎖系にとどまるのである。

ハンセンの意図は、端的には、主体的個人のリバイバルだと言っても過言ではないだろう。あまりに急速なIT文明の進展によって我々の環境が激変し、これまでの人文科学的な理念にささえられた人間社会がいわば侵犯されていくということである。そこで、たとえ暫定的にせよ、主体的個人の認知世界を閉鎖システムというかたちで位置づけることができれば、再帰的作動によって一貫性が生まれ、問題解決の見込みが立つのだはないかとハンセンは考えた。彼にとって、システムの閉鎖性とは、あらゆるシステムと環境の区別の中から、機能的な選択を行った結果あらわれる性質である。だから、選択の仕方、具体的には世界の認知の仕方によっては、たとえ周囲環境に複雑なITエージェントが混入していても、主体的個人としての首尾一貫性を保てる可能性が開ける。この選択においてハンセンが注目するのは、オートポイエーシス理論の提唱者ヴァレラの議論である。ヴァレラは主体的個人の「自己」は五つのレベルの閉鎖システムで定義されるという。第一は細胞で「生物的自己」、第二は免疫から決まり「身体的自己」、第三は行為を行う「認知的自己」、第四は人間社会における個人つまり「社会的自己」、第五は個人が組織化された「集団的自己」である。これによれば人間の想像力が上位レベルへの創発の原動力なのである。肝心なことは、作動と観察とが同一領域で、いわば同時に行われるので、上位レベルへの創発において常に観察者からみた一貫性が保たれる、という点なのだ。こうしてそれぞれの閉鎖システムにおける自律性がもたらされ、人間主体による倫理性が確立される余地が生まれることになる。しかし、ハンセンはこのような議論のもとでは選択されるITエージェントへの制約が強くなりすぎることを危惧する。むしろ、周囲環境の中の、自分とは全く違う異質な要素こそが、既存の自己を乗り越える新たな自己を創り出し、進化を推し進める契機になるはずである。想像力による創発現象は、生物的レベルの自己によって拘束されるにせよ、決定はされないのである。そこで、ハンセンは、人間のいっそうダイナミックな自己生成、いわば個体化のプロセスそのものの中へと踏み込んでいく。つまり、リアルとヴァーチャルが融合し、ネットの中にITエージェントが跳梁する周囲環境の中でこそ、人間は生物的な自己を乗り越えて行けるということだろうか。こうして、ネオ・サイバネティカルなSEHSのイメージが浮かび上がってくる。

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