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2013年5月26日 (日)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(10)

第5章 望ましい集合知を求めて

システム環境ハイブリッドSEHSの本格化とともに、ネット集合知はいかなる形を取るだろうか。ただ手軽にネットでアンケートし、人々の意見を機械的に加え合わせれば万事うまくいくというわけにはいかない。とくに唯一の正解がなく、人々の価値観が多様な場合には、集団としての意見を合理的に決定することさえ不可能な場合もある。もし知識が、集団に属するメンバーのあいだで共有されるものだとすれば、何らかの知識の構築にあたって、皆から認められるリーダー的存在が音頭を取る可能性を頭から否定することは正当でない。それは、メンバーが所与の知識命題を無批判に信じ込むこととは全く違うからだ。従って、ここでいう「リーダー」とは、独裁的個人というよりむしろ、集団の秩序やルール、さらに知識を体現する役割を持つ存在と考えることができる。つまり、既存の専門知にかわる集合知を考えるとき、知識がいかに生成されるかのプロセスをよく考察しなくてはならない。単にネットやITを利用して、フラットな機械的処理で瞬時に衆知を集めるのだけが集合知とは限らないだろう。問題なのは、専門家により三人称で記述される知識命題が、専門的権威とともに人々にトップダウンで押し付けられ、ITを利用して批判されることなく「客観知」として君臨し続けることである。ITは意味解釈をせず論理的記号処理を行うだけでだから、かえってそれを拡大し助長する恐れもある。

人間にとって最も基本となるのは、生命活動をするための一人称的な「主観知」である。それはクオリアによって支えられている。だが、単独行動生物でない人間は、群れ(集団)の中で通用する何らかの共通の知識なしに安定した生活を送ることができない。この共通知識の延長上に、いわゆる三人称の「客観知」が位置付けられるのである。ここで注目されるのは「二人称の知」である。対話によって知を構成していく古典的なアプローチだ。もちろん、私とあなたが対話を行っても、情報の意味内容がそっくり伝達されるわけではない。だが、私とあなたの心をベースにした上位の社会的HACSが作業を継続する限り、何らかの疑似的な情報伝達が行われていると見なすことができる。そこには、個々の主観世界をこえた、人間同士の最小限のコミュニケーションと社会的な意味生成が認められる。このような二人の間の対話、問いと答えの繰り返しこそが、ボトムアップの集合知の基本単位となるのだ。それがコミュニケーションにもとづく三人称的な知識の長期的な意味伝播(プロパゲーション)につながる。ここで浮上する問題は、ネットを通じていったい誰と対話するか、ということである。そこにはなんらかのリーダーシップが不可欠になってくる。

私と相手の間の情報伝達ないしコミュニケーションの成立/不成立を問いかけると、それは二人称の心身問題に帰着されるだろう。では、二人称の心身問題とは何か。例えば、私の前にロボットか人間か分らない存在が座っていて、その存在と私が言葉を交わすのだが、どうも相手の考えていることがハッキリしない。相手の言うことの意味もよく分らないし、こちらの意図もうまく伝わっていない気がする。質問と回答を繰り返しながら、互いに心の中を探り合う。ここで、私と相手の間の情報伝達ないしコミュニケーションの成立/不成立を問いかけると、それは二人称の心身問題に帰着される。要するに、対話における不透明性(不確実性)に注目するのが二人称の心身問題なのだ。人間の心がもともと閉鎖システムであるが故である。

ここで西川アサキによって考えられたモデルをもとに考えてみる。ある社会集団を想定し、そのメンバーはそれぞれ世界を認知観察しつつ様々な疑問を持ち、自分の質問に対する答えや意見、つまり知識を求めているとする。もしある特定のメンバーが物知り・情報通で、多数のメンバーの質問に答える能力を持っていれば、対話を繰り返すうちに、そのメンバーの回答は、単なる個人的な回答にとどまらず、三人称に近い権威を持つようになっていく。要するにリーダーとは、他のメンバーから信用される存在なのだ。メンバーは、対話の相手が信用できる存在であれば、たとえ相手が自分の質問にすぐ回答してくれなくても辛抱する。いつか答えてくれるだろうと予想し、じっと待つのである。そして、相手に自分を信用してもらうために、自分の知識、つまり相手の質問に対する体験に基づく回答を、無償でリーダーに預けることもあるだろう。こうして。メンバー同士の対話が頻繁に行われるとき、あるメンバーが、他の多くのメンバーから借りた知識を、一時的にせよ集約してたくさん身につけ、いわば知の交流センターのような役割を集団の中で果たす場合がある。このとき、そのメンバーは名実ともに集団のリーダーという存在になっていると言える。

このようなシステムにおいて各メンバーとリーダーのあり方に変化があるのだろうか。実はここに開放システムと閉鎖システムの違いが反映されることになる。システムが他律的で機会のように開かれていれば、適切な情報伝達と入出力操作によって、世界像を完璧に共通化し客観化していくことができる。しかし、生命体のように閉じていれば、情報の意味を主観的に解釈するプロセスが入るので、どうしても差異や不透明性が残る。このことが本書の議論に決定的な影響を与えるのだ。このような開放システムと閉鎖システムの差は、信用情報の広がり方だけだ。前者では世界は透明で、各メンバーの信用分布はほぼ同様になる。一方、後者では、世界は不透明であり、各メンバーの信用分布はそれぞれ自分なりの主観的な信用分布と解釈方法をもっている。だから一見すると、開放システムでは、客観的なリーダーが出現し、安定して存続するような気がするかもしれない。しかし、実態はそうではないのである。開放システムでは、各メンバーにとって世界があまりに透明に見えすぎるため、瞬間的にせよ一元的で絶対的な価値観が生まれる。従って従属閾値など僅かな外部環境の変化にも敏感に反応し、グローバルな状況が急激に変わってしまう、つまり外部環境に他律的に依存し、唯一のリーダーからリーダーなしの間を不安定に揺れ動くのである。一方、閉鎖システムでは、各メンバーにとって世界はかなり不透明であり、それぞれがいわば保守的に自分たちの価値観を維持しようとする。その意味で頑健であり、安定しているのだ。グローバルな状況としては、多元的で相対的な価値観が並立することになる。それぞれの価値観つまり信用分布は対話による相互の摺り合わせによって徐々に変動していく。ほどほどの安定なのである。こういった相対主義とは裏腹に、安定した一人のリーダーが生まれのである。

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