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2013年5月30日 (木)

エレン・メイクシス・ウッド「資本主義の起源」(3)

第2章 マルクス主義の論争

この歴史論争では、マルクス主義歴史家と非マルクス主義歴史家との間にあったのと同じ程度の意見の相違が、マルクス主義者の間にも見られた。多くのマルクス主義者は、他の誰にも負けないほど、古い商業化モデルの支持者だった。

1950年にモーリス・ドップの『資本主義発展の研究』にポール・スゥイージーが批判を加えてことに端を発した移行論争が始まった。彼の著作は、それが資本主義の起源を(商業化ではなく)田園地帯に、つまり地主と農民との間の基本的な封建関係に位置付けた限りにおいて、古い商業化モデルに対する強力な異議申し立てであった。彼らの論争の中心的な問題は、封建制度から資本主義への移行の「原動力」をどこに置くべきかということであった。以降の第一原因は、封建制度の基本的で本質的な関係、つまり領主と農民の関係に見出すことができるのか。それとも原動力はその関係の外部、つりわけ交易の拡大に位置づけるべきなのか。実際、交易と都市がそもそも本質的に封建制度の敵対者であったわけでは全くなかった。むしろ封建制度それ自体の基本的な関係の内部要因によって、つまり領主と農民との階級闘争によって、封建制度が解体して資本主義が生じたことが明らかになった。貨幣、コア駅、都市、さらに「商業革命」までもが、封建制システムと無縁であるどころか、むしろ封建制システムの不可欠な構成要素であった。二人は様々な方法で、封建制度の解体と資本主義の勃興は、小商品生産の解放の結果である、つまり領主と農民の階級闘争によって小商品生産が封建制度の桎梏から解放されたことの結果であると主張した。剰余労働を譲渡させるために領主が農民に課す圧力は、生産技術の改良の根本原因であり、単純な商品生産の成長であった。同時に、この圧力に対する農民の抵抗は、資本主義への移行仮定にとって決定的な重要性を持っていた。一見したところでは、スウィージーの議論はその骨子においては商業モデルと完全に一致しており、一方ドップの説明はそれに対する正面からの攻撃である。

しかし、論争にはそれ以上の内容が含まれている。スウィージーは、移行論争の考察に際して見失われがちな点を一つ強調した。彼が、封建制度の解体の原因を商業の拡大の影響と都市の成長とに帰着させたことは確かである。しかしすうぃじーは、封建制度の解体では資本主義の勃興を十分に説明できないということ、またこれらは実際には別々の過程であったことを主張した。なぜこれが重要なのだろうか。この議論の含意を考えてみよう。もし封建制度の解体が資本主義の勃興を説明するのに十分であるならば、私達は再び商業化モデルの仮説に極めて近いことになる。そこで論争の中で一つの点が浮上する。資本主義への移行は、単純な商品生産の中に既に存在していた経済的な論理を自由にすること、あるいは解放することであるかという点である。この問題の核心は次の点にある。第一に、移行の問題を対立する二つの生産様式の対抗関係として扱う習慣は、あまりにしばしば先決問題要求の虚偽を犯すことの言い訳に使われてきた。この仮説は資本主義から社会主義への移行については当てはまるかもしれないが、封建制度から資本主義への移行を扱う上では問題を孕んでいる。商業化モデルとそれに関連する他の説明は、資本主義の発生を説明するために、資本主義や資本主義的合理性の存在を実際上前提にしている。封建制度は既に存在していた資本主義、あるいは少なくともすでに存在していた資本主義的論理と対決しており、それらの発生については決して説明されたことがない。具体的な点では問題は、商品生産の農民がいったん封建的な阻害要因から解き放たれれば、彼らは多少とも自由に資本家への道を選択したと述べられていることである。その一方で、資本主義は小商品生産から多少とも有機的に成長したと述べられている。資本家のように振る舞う生産者の性向を説明するには、単に生産者が制約から解放されたとか、「中規模」から大規模の所有者に成長したとかいう以上の説明が必要だと認めた方が、理にかなっているだろう。言い換えれば、小商品生産と資本主義の間には、単に量的なだけでなく質的な違いが存在している。その違いは未だ説明されていない。

ペリー・アンダーソンは、封建制度とは「経済と政治の有機的結合体」と定義される生産様式であると定義した。この結合は、条件的所有のヒエラルキー的な連鎖を伴う「細分化された主権の連鎖」という形をとった。国家権力は封建領主たちの間で断片化されており、領主権は政治権力と経済権力との系剛体を意味していた。封建領主たちのもつ国家権力の断片─政治的権力、経済的権力、軍事的権力─は同時に従属する農民から剰余労働を領有するための経済的権力を有していた。領主権には「剰余を搾り取るメカニズム」つまり「経済的搾取と政治的・法的な強制の融合である」農奴制が伴っていた。しかしこの封建制度の構造を不安定にしたのが、封建的貢租の貨幣地代への転化と、とくに商品経済の成長とによって、古い封建的束縛は弱体化した。そこで、農民階級に対する弱体化した支配力を強固にするために、封建領主たちはそれまでバラバラに細分化されていた強制力を新たな種類の中央集権化された君主制へと集結させたのである。アンダーソンの主張によれば、絶対主義国家は本質的に封建的である。なぜならそれは、封建領主の権力を経済的搾取から分離させた、封建領主の政治的・法的強制力の上方移転と中央集権化を表わしているからである。別の言い方をすると、絶対主義国家は搾取の二つの契機を分離した。一方で剰余の搾取という過程と他方でのそれを支える強制力である。以後その二つは、別々の領域に属することになる。経済と政治の封建的融合は、資本主義の特徴である分離に道を譲り始めた。そして、この分離によって「経済」がその内的論理に従って自由に発展することができた。

結果的には、封建制の政治的権力の上方への移転は、旧モデルで桎梏の除去が果たしたのと同じ役割を、アンダーソンの議論の中で果たしている。事実上絶対主義は、封建制度の桎梏が経済から除去される唯一のではないにしても本質的な手段であるように思われる。それゆえ絶対主義は、封建制度と資本主義の間の必然的な媒介項であったように思われる。すいずれにしても、直接的な政治の束縛から自由になったことにより、商品生産は成長することができ、そして「経済」は自らの本性に従うことが可能になった。資本主義は、経済を解放し、封建制度の重圧を取り除き、経済的合理性の自然の担い手つまり「市民」やブルジョワを解き放ったことの結果であった。このようなアンダーソンの説明は、資本主義への移行に関するかつての説明と同様、多くの根本的に意味で封建制度の間隙に既に存在していた社会形態桎梏を脱したことに、結局のところ依存しているのである。その洗練された複雑さにもかかわらず、アンダーソンの議論は商業化モデルの改良版である。

アンダーソンの主張は先決問題要求の虚偽を犯していることに注意を向ければよい。例えば、イングランドの商業的な農業がフランドルの毛織物市場を前提としているということと、次のような過程を説明することとはまったく別のことなのである。その過程とは、「商業的な農業」がどのようにして資本主義的農業になったのか、交易の可能性が現実性へと転化しただけでなく競争的な生産の必然性へと転化したのはどのようにしてか、市場の機会はどのようにして市場の命法となったのか、この特殊な種類の農業がどのようにして資本主義システムの発展を開始させたかである。アンダーソンは証明する必要のあるまさにそのことを前提してしまったのだ。前提とはつまり、商業あるいはさらに市場のための生産の純然たる拡大が、ある時点で臨界点に達して資本主義に転化したという仮説である。

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