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2013年5月23日 (木)

西垣通「集合知とは何か~ネット時代の「知」のゆくえ」(7)

科学的な客観知識が、必ずしも神の真理のような絶対的な存在ではない、ということはそれほど新しい指摘ではない。トマス・クーンの「パラダイム理論」によれば、科学の専門家集団における様々な学説は、論理と実証によってもたらされるという。つまり、それらの学説はあくまで与えられたパラダイムの内部にあるわけで、唯一の客観世界のありさまを正確に記述しているわけではない、ということになる。また、カール・ポラニーは「暗黙知の理論」として人間の知識の中には、明示的、形式的に表現できない知があり、それか個人だけでなく組織の活動においても非常に重要な意味を持つと主張した。この暗黙知理論とは、単に非明示的な知があるというだけではない。それは人間の知の本質的な構造をとらえた卓抜な議論なのである。いったいその構造とは何か。簡単に言えば、「諸細目」と「包括的存在」との二項関係からなるダイナミクスである。前者は近接項、後者は遠隔項にそれぞれ対応する。例として、誰かの顔を認識する時を考えてみよう。まず、相手の眼、鼻、口、額、頬、顎などの「諸細目(近接項)」にちらっと目を向けるが、いつまでも続くことはない。我々の注意はすぐに諸細目から離れ、顔全体という「包括的存在(遠隔項)」に移行する。といっても諸細目は完全に忘れ去られるわけではない。相手の顔を認知認識しているとき、われわれは相手の眼や鼻などの諸細目を無意識に、「顔全体の姿」の中にしっかりと感知しているのだ。それらは潜在化し、明示的に語られないものの、顔全体の「意味」を構成しているのである。語ることのできない知識というのは、こういった二項関係の構造における諸細目のことだと考えると分かりやすい。るちろん、我々は相手の眼や鼻を意識的に注視することもできる。だから暗黙知というのは、決して固定的に認識できない知というわけではなく、むしろ、包括的存在を認識するというダイナミクスのなかで、いわば意識から隠れてしまう知のことを指している。暗黙知理論の素晴らしさは、単に語れない知識の存在を指摘した点ではない。ある対象の意味を把握するには、それより下位の要素的な諸細目を身体で感知しつつ、対象を全体として包括的にとらえる作用が必要だという、生命的な認知のダイナミクスを指摘した点にある。

諸細目と包括的存在のダイナミクスは個人の心のなかの出来事だけだろうか。二人の人間が対話することによって、そこに互いに通じ合う共通の「意味(包括的存在)」が生まれることはないだろうか。もし、これが肯定できるなら、そういう対話を重ねて、複数のメンバーからなる組織において、ある程度共通了解される三人称的な知識(包括的存在)が認められる可能性もないとはいえない。ボラニーは、これらについて本格的には論じてはいないが、二人の人間がいるとき、「潜入」という努力によって一方が相手生み出した知識(包括的存在)をある程度体得できる可能性はあると説くのである。本来、知識とは個人の身体をベースにしており、一人称的なクオリアをもとに成立する主観的なものである。だから、別人の間で知識を共有することはできない。とはいえ、人間はトラのような単独行動の生物ではなく、群れをつくって生きる生物だ。それぞれの知識が全く食い違っていれば、集団行為は不可能となる。したがって、現実生活では、どの社会的組織においても、三人称で記述される何らかの「(疑似的)客観知識」がどうしても要請されることになるのだ。

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