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2013年5月13日 (月)

「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展(3)~ルーベンスとアントワープの工房

ルーベンスがイタリアでの滞在を終え、母国に戻ると、アントワープに工房を構え、本格的な制作活動にはいり、作品を量産していきます。この展示はそのころのものを集めたということで、今回の展覧会の核心部といっていいと思います。

まず目に付いた、というより印象が強かったのは、肖像画でした。今回のルーベンス展に関する記述の最初のところで書きましたように、肖像画というものの画家にとっての位置づけを考え直さされたものでしたし、それだけ気合入った作品を見ることができたし、画家の素の息遣いが画集に取り上げられるような大作よりも、むしろ強く感じられるとともに、今まで思っていなかったような新しい発見があったためです。

Rubenceprof2『髭を生やした男の頭部』。「東方三博士の礼拝」のための油彩スケッチとして描かれたものだそうです。前回に見た『聖ドミティッラ』もそうでしたが、モデルの人間を筆写して理想化(パターン化)を加えて作品素材として図案化のような作業していって、実際に使われたらしいそうです。つまり、工房で働く画家たちが大作に描きいれる人物のお手本として使われたらしいです。技量がルーベンスに届かない画家たちは大作の中の部分を担当した時に一定レベルを求められので、ルーベンスの描いたお手本を写して利用することで、そのレベルをクリアしていた。そのように、他人がコピーして使いまわすための図案集のような機能を果たすためには、特定の人物の特徴をとらえていることよりは、老人の一般性が現われている方が利用範囲が広まるし、写しやすい。そのような実用的な要求が、実は作品に入ると理想化された普遍性をもった表現になっている、なんと効率的な事か。とはいっても、実際にこの作品を、今、見ると、すごく斬新な感じがしました。男の頭部といっても、額は狭く、落ち窪んだような目と鼻以外は髪の毛と髭に覆われている。激しく波打ち、巻かれた、もじゃじゃの髪の毛と髭に強いハイライトが入り、まるで金属のような質感とダイナックな躍動感があるのは、素早い筆遣いと、色遣いによるものでしょうが、この髪の毛の様を見ているだけで水際立った手際の良さにうっとりしてしまうのです。ルーベンス本人が、このようなスピーディーな筆遣いでさっと作品を仕上げてしまう様子を何となく想像してしまいました。

Rubenceprof1『兄フィリプス・ルーベンスの肖像』は上で想像したような画家自身の手による肖像画。顔の部分にハイライトが当たり、明暗のコントラストが強く、少し上気したような肌の柔らかな質感が触って分かるほど生々しく感じられるのに対して、髪の毛は流れるようにさっと描かれでサラサラ流れるよう、そして衣服や背景は筆致が明らかなほど粗いのかサッと描かれている。そそのメリハリとスピード感。これを見ると、それほど大きな作品ではないはずなのに、シンプルな肖像画であるのに、ルーベンスは画面構成を緻密に考えて制作しているのがよく分かりました。その密度は大作と少しも変わらないと思います。こういうものを見てみると、ルーベンスという人の特徴は、画家としての技量の見事さにあるのは当然ですが、それ以上に画面のデザインとか構成とか設計者のようなところの才能に秀でていたことを強く実感しました。それは、単に描くこと以前のメタレベルのところで、絵画を如何に描くかという問いをいつも強く持っていたということが、代表的な大作よりも、むしろ、このような肖像画を見ていて、よくわかりました。

Rubenceprof3『男の肖像(ニコラース・ロコックス)』も下絵のような粗さのある絵ですが、暗い背景と黒っぽい衣装と対照的に描かれた白い襟、ハイライトの当たる横顔のコントラスト。このようなものを見ていると、カラバッジォの劇的な明暗の対比を、巧く取り入れて、強いインパクトを見る者に与える肖像画を描いている、これも手際の良さと緻密に設計されたロジカルな感じをすごく受けます。

『復活のキリスト』は、今回の展示の目玉の一つではないかと思います。これまで、肖像画を取り上げてきましたが、ルーベンスという画家のイメージからすれば、教会に飾られるような大規模で荘厳な大作です。そのようなものは美術館の回顧展のようにところに展示するのは不向きで、実際に現地の教会に出掛けて行って見るしかないでしょう。それならば、そういう作品に準ずるものしかないということになれば、この作品のようなものが格好の対象となるでしょう。実際、画家の壮年期の充実した作品という評価になっているのではないかと思います。2m近い縦横の大きな画面のほぼ大半を占める大きさで、見ているこちら側に迫ってくるようなポーズで迫力があり、当のキリストは死んで3日後に復活(蘇生)したにしては、血色がよく肌が艶々していて、逞しく描かれています。磔刑にされたキリストの絵の多くは瘠せさらばえた姿で描かれていますが、それがこんなに逞しく、まるでスポーツ選手のように筋肉質の逞しい身体つきになっています。これは復活というスタートを祝福するということなのでしょうか、死に対する勝利を語っているとカタログの解説にはありましたが、そういう死を克服した力強さを称えていると言えるかもしれません。キリストの肌は周囲の天使の幼児のような瑞々しさです。このような、肌の瑞々しさと身体の逞しさを備えた人々が織り成すエネルギーが作品から溢れるようなところがルーベンスの真骨頂といえるでしょうか。これまで見てきた肖像画が、背景を暗くして全体のトーンを落として人物にハイライトを当てて、落ち着いた感じの中に人物が静かに浮き上がって来るのに対して、この作品では、全体が明るくエネルギーが溢れんばかりです。とは言っても、この全体の明るさはハイライトが当たっているキリストが画面全体に占める面積が大きなところからきていると考えられます。画面左側は暗い色で塗られていて、これはキリストが復活する前の夜の名残ということでしょうか。キリストの頭部には背後から後光が差していて、これが復活したキリストが光を周囲に放っているという、そのコントラストということでしょう。つまり、単に復活の光だけを描くのではなくて、左側にあえて暗い空間を描くことで、復活の劇的なところを出している。キリスト本人のポーズや3人の天使を配した構図も比較的シンプルで、単調になりがちなところを光と闇のコントラストの効果を入れて劇的要素が加わることで、免れているということでしょうか。この辺りに、イタリアの明晰な絵画を学びながらもバロック的な特徴が出てきていると思います。以前、「暗のレンブラント、明のルーベンス」という私の偏見を申したことがありましたが、展示されている作品を見ていると、ルーベンスは巧みに明の中に暗を取り混ぜて作品の劇的要素を高めているのが分かります。この作品など、それがさりげなく生かされていると思います。それは、カラバッジォのような露骨な使われ方ではありませんが。そして、ルーベンスの取り扱っている題材が比較的ダイナミックな動きを取り入れているので、その動きが劇的な構成の中で生きて、さらに溢れんばかりのエネルギーがそれに加わり、生き生きとして、見る者を捉えて離さない作品を作っているということが分かります。

Rubencefukkatu_2そして、この作品では顕著なのですが、ルーベンスの大作となっている規模の大きな作品は複雑な構成になっていても、シンプルな方向を希求していることが今回分かりました。求心的と言ってもいいと思います。この作品で言えば、長方形の画面の対角線を引いた交点、つまり中心にキリストがいて、そこで区切られる四つの空間がそれぞれ描き分けられている。左側は暗闇で、上はキリストの後光と天使が月桂冠ょ被せようと飛んでいる、右側は赤い衣をまとった天使がキリストから白布を取り去ろうとしていて、下はキリストが寝かされていた棺で光が未だ届いてきていません。つまりは、四つの空間が中心のキリストに向かって収斂していくような構図になっていて、これを見る人の視線も、そこに集まるように巧みに構成されていいます。これを例えば、同時代のエル・グレコの作品と比べると、グレコの作品は様々な要素がごった煮のように画面に溢れ、それぞれが勝手の自己主張して競い合うような存在感アピールの競争をしているようです。その結果、画面全体は躁状態のような異様な盛り上がりを呈している。これに対して、ルーベンスの場合は、エネルギッシュであることは似ていますが、もっと秩序づけられて、それがひとつのストーリーに収斂され劇的なドラマに見る者を引き込むところがあります。このドラマチックな要素が人々の共感を呼び起こす、ひいては宗教的な共感に繋がる効果を生んでいるのではないかと思います。

ここで、若干、ドラマチックな要素について一般論的な説明をしたいと思います。美術史的なおさらいなりますが、中世からルネサンスに移り絵画技法として遠近法が発見?されます。それは、平面である画面に三次元の立体的世界にある奥行を与えたものでありました。それと同時に、消失点に向かって、つまり画面の奥に行くにしたがって世界は縮小して、最後は点に収斂するというものです。これは、人間が見る時に二つの眼でステレオにみて、ふたつの目の焦点を合わせて立体的に見ていることを平面であるキャンバスに移し替えたということが言えます。だから、これは人間という主観が捉えた空間を写したということに他なりません。そこで表わされる空間で、絶対に表わすことが出来ないものが生まれます。それは見ている本人です。そこに主観と客観の分離、つまりは、見ている人間の主体が生まれるということが起こったわけです。幼児にお絵かきをさせると、たとえば家族を書きなさいというとそこに自分も同然のように描きますが、幼児には描くものと描かれるものの分離はなく、描いている自分は自由に画面の中に入り込んでいる。そこに客観的に世界をとらえるということはありません。ルネサンス以前の中世の絵画を見てみれば、画面の構成は幼児の描くお絵かきによく似ています。神と人間が同列に並んだり、人間と動物の区別がなかったりという具合に、これは人間の主体とものがなくて、神様の前でみんな一律平等だったからです。だから、中世の絵画に立体を平面に移すとか、奥行とかいうような、人間の視線に近いような絵を描くという発想が生まれなかった。そこで、遠近法がうまれ、人々がそれに気づいたということは、そこで主観が発見されたことなるわけです。(この辺の議論は倒錯していますが、いまの、この方が読みやすいと思います。)その結果、ルネサンスの絵画作品は人間から見た世界を忠実に画面に写す、リアリティを獲得することになったと言えます。しかし、ルネサンスで発見された主観というのは、あくまでも客観に対する主観ということになります。だから、ルネサンスの作品は誰が見ても客観的にリアルです。つまり、周囲の環境を距離をおいて対象化しているのは、普遍的な人間ということになります。だから、ルネサンスの絵画は客観的で写実的なのだけれど、何となく整いすぎているとか、冷たいという印象を受けることがあります。それに対して、普遍的な見方はあるけれど、そうでなくては一人の個人が独自の視点で見たということが加わったのがバロックの作品ということができます。ある特定の個人が周囲の環境を見たときには、視点は限定されるので、客観的には存在するものが見えない場合が出てきます。逆にその人が見たいところはクローズアップされるように見えることもあります。いわゆる主観的な視線です。その視線に写った風景は、その個人の目に特有の風景ということができるため、それを作品として画面に写し取ったものは、その人と同じ風景を見る、つまりは視線を共有することができることになるわけです。その時に、普遍的な視点ではいので、写し取られる世界は客観的なものから離れて、時には歪んで見えることになるかもしれません。しかし、視線を共有することは、その視線の持ち主と共感することに繋がっていくことになります。

ルーベンスの壮大な大作の構図には、そういう点での共感できる特徴が備わっていると思います。

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