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2013年6月 9日 (日)

「現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス」展(2)~故郷

Ropez2pアントニオ・ロペスの画学生あるいは修行中(?)の作品が集められていました。ここに展示されている作品を見ているとロペスという画家が写真のように対象を写し取ることを志向していたのではないことが分かります。結果として、写真と見違えるほどそっくりな作品になっていたとしても、それはあくまで意図したということではなく、ただそうなってしまった、ということが、この初期の作品を見ていると分かります。だって、わざとそっくりにならないように描いているではありませんか。『花嫁と花婿』(左図)という作品を見てみましょう。この時点で、すでにロペスはある程度の画力を身につけていたはずです。前回のポスターで見ていただいた『グランピア』の圧倒的な力量とまではいかないにせよ、その素地は十分あったはずです。それにしてはリアリズムとは言えないような作品です。これは意図的に、こう描いているとしか思えません。画面左手奥にギターや瓶や果物等がテーブルに乗ったり立てかけられたりと描かれていますが、リアルな写生ではなくて、単純化され、しかもかなりデフォルメされギターはどのように置かれているかよく分らないといった体で、とりあえず、そこにものが在る、そういう形をしたものが在るという描かれかたです。まるでキュビズム直前のピカソのようなフワフワした感じです。そして、中心の2人の人物も人間というよりは人形に近い、人間の形をしたものが在るという感じです。そして、全体としてのバランスが何となくチグハグで、空間とものとの関係がバラバラにRopezkotan_2されてしまっている感じです。私には、ここに描かれているここのものの外形が在るということが、ここでのロペスの関心で、それ以外はあまり顧みられなかった、という気がします。若い時の試行錯誤の後だからと言われれば、それまでですが。そういう試行をしようとしたということと、そういう試行だからこそ彼の意図が純粋に近い形で表われている、ということができると思います。そして、色遣い、絵の具の使い方です。なんかキレイでないというのか、余計な色がいっぱい使われているというのが、背景の壁で迷彩模様になっていますし、女性の衣装も花嫁衣裳なので純白ではないかと思うのですが、沢山の色が使われています。これは、例えば印象派の絵画では、そういう意外な色を配置することで光のスペクトルというのでしょうか、まばゆい陽光が当たって煌めくさまが印象的に目に映るのですが、ロペスの作品にはそういう煌めきのようなものは感じられません。ロペスは、このころから意図的に光沢のない透明性の少ない絵の具を用いていたといいます。それらをひっくるめて、作品全体を見てみると、写真のような見たままとは正反対の世界が、そこにちょこんと乗っかっているという感じがします。そして、面白いことにそのために、今まで上げたことを嚆矢として、ほかにも様々な試みをしているのですが、それが決してうるさくない、不思議な静謐さを保っているのです。先ほど、少し触れましたがキュビスムに行く直前のピカソの作品を見てみれば、様々な試みの強い自己主張をもっていて、それらが画面から飛び出してきてしまいそうなエネルギーに充満していて、それは見る方からすれば圧倒されるのですが、ロペスの作品はそれとは反対にスタティックな静けさが漂っているのです。ここでは、突飛に思えるかもしれませんが、スペイン・バロックの時期に、スルバランや他の画家たちによって一時集中的に描かれた「ボデコン」と総称される神秘的な静物画(右図)を彷彿とさせられたのでした。

Ropezstreet『立ち話をするフランシスコ・カレトロとアントニオ・ロペス・トーレス』(左図)は、さきほどの『花嫁と花婿』に比べれば、遠近法で画面が構成されて、写真のような感じで見ることができます。私には、ロペスが写真のようなものには、敢えてしないという意図のようなものを感じしまうのです。写真のようにしないというのではなくて、そういう写すということはハナから考えていない、ということなのでしょうが。それは、全体しての輪郭がすべてボヤけているように、輪郭線を消して、色遣いの点で隣り合う色同士が対立しないように、慎重に選択されているように見えます。そして、例えば中心にいる二人の男性の着ている黒い背広にしても黒だけでなく異質のいろを慎重に散りばめることによって、黒という強い色が目立たぬようにして、同じように全体に異質のいろを散りばめることによって、画面全体から色彩の対立による緊張関係を生じさせないようにして、対立点である色の境目が輪郭として目立ってこないようにしているように見えます。そのとき、絵の具を塗るというのではなくて、まるで絵の具が置かれるように、そこには筆触が見えないように周到に注意が払われているように見えます。その結果、輪郭が曖昧な幻想とまでは行かないまでも、現実のリアルな世界と一歩ずれたような不思議な世界が現われているような感じがします。そこに配置された人物たちが曖昧な輪郭に囲われて人間らしき外形の色のかたまりがものとして在るという、不思議な感じの作品となっているのです。だから、そこで、人々はそれぞれにポーズをとっているのですが、動きが感じられない。まるで止まっているようなのです。そこで感じられるのは静寂さです。もう一度、展覧会ポスターの『グランピア』を見ていただきたい。街の風景のはずなのに、人影はなく、街の喧騒が聞こえてこない感じがしませんか。この美術展訪問の文章の最初のところで渋谷という街の大衆的なエネルギーに対する違和感を少しくお話ししましたが、ロペスの作品を見ていると、そういうものを注意深くされる、もっというと嫌悪する(言い過ぎかもしれません)、ちょっとした貴族主義的といったら言い過ぎかもしれませんが、ハイエンド志向というのか、私のようなもともとローエンドの人間からは鼻持ちならないと感じられないでもない、ただしこれは批評家からみれば真摯とか映るんでしょうが。そういうものを感じることがあります。

Ropezcarreteroそういう、これまでお話ししてきたことが集大成されているのではないか、思えるのが『フランシスコ・カレテロ』(右図)という肖像画です。ここでのロペスのスケッチ力というのは凄いの一言以外に何もしゃべれないものです。それなのに、この汚い色の使い方は何なのか。まるで画面を汚しているとしか思えないような、関係ない色がそのスケッチが表われるのを妨害するようです。それらの理由というのか、そこで感じ取られる効果というのは、今まで書いてきたことが全部まとまって、見る私の目前に提示されているように見えます。

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