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2013年6月29日 (土)

村上隆「想像力なき日本─アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」」(3)

第3章 チャート式 勝つための戦略の練り方

現代芸術は西洋で誕生し、そのルールが形成されたジャンルです。だからこそ僕は、欧米の芸術史を今もまた学習し続けているし、そのルールの上でどのように勝負をしておけばいいのかを考え続けています。欧米の芸術には“確固たる不文律”が存在しています。そのルールをわきまえずにつくられた作品は、評価の対象にさえなりません。日本の現代美術家たちがほとんど欧米で通用しないのはそのことを理解していないからです。それでは評価されるためのステージにつくこともできないのは当然です。ではどのような作品が評価されて、どのような作品が評価されないのでしょうか。分かり易い単純な部分で言えば、欧米では「見た目がきれい」的なことは重要視されません。知的なゲームを楽しむのに似た感覚で芸術作品を見ているので、目に入った瞬間の美しさなどよりも、観念や概念と言った「文脈」の部分が問われるからです。

漫画やアニメが日本の代表的な大衆芸術ですが、そこでは、“今、生きている人たちへ訴求力を最大化”することに目的が絞られます。そのため、それに成功すれば、即座に見返りも受けられます。莫大な収入が得られ、作品の効果も評価もすぐに最大化できるのが大衆芸術のいいところです。一方、純粋芸術である現代美術の作家たちは、ハイヒエラルキーの人たちによって、お金で才能を買われます。その時代への訴求を考えることは最大目的にはなりません。才能を買ってくれたハイヒエラルキーの人たちの期待を裏切らないようにしていれば、大衆には理解不能なことをしていても構わないからです。束縛の大きいエリアと自由度の大きいエリアの違いが存在するのです。だからこそ、現代芸術は、その時代において評価を得られなくても“時代を乗り越えていく可能性”が出てくるわけです。

芸術とは“死後の世界をつくること”だという絶対的な事実があるにもかかわらず、美術書でも美大でも、なかなかそれを明言しません。ぼくにしいも生きているうちの効果を考え、そのための試みをしている部分はたしかにあります。しかし、それ以上に強く考えているのは、「生きている限り、作品をつくり続けること」、そして「その中で自分がどんな足跡を残しておけるか」ということです。“時のふるい”にかけられたときに、残ることができるか、できないか。ある意味でぼくは、死後に備えて作品を作り続けているともいえるのです。それはつまり、「死んでからが勝負」という発想です。

「何によって成功したか」ということには、いくつかのパターンがあります。その分類の中に自分を当てはめてみれば、戦略が立てやすくなるのではないでしょうか。つまり、チャート式に“成功への道筋”を考えるという発想です。過去の歴史を振り返ってみれば、成功した芸術家たちは次の六つのパターンのいずれかに属しているのがわかります。

一、天才型

二、天然型(超越型)

三、努力型

四、戦略型

五、偶然型

六、死後型

成功するための六つのパターンとも大きく関係してくることですが、現代美術の座標軸としては次の四つが挙げられます。

一、構図

二、圧力

三、コンテクスト

四、個性

「コンテクスト」は、文法、文脈と訳されます。例えば一見、ただの放射線にしか見えないマーク・グロッチャントの絵が何を意味しているのかということで、説明が必要なのか不必要なのかという議論がなされることもあります。そのどちらがいいかは別にしても、日本人は全般的に「芸術に説明は必要ない」と決めつけがちです。なぜそうきめつけるという疑問がまずあります。ゴルフにしてもサッカーにしても、テレビ放送にはひとつひとつのプレーがどういう意味を持つのかといった解説がついています。それと同じように、解説はあってもいいはずなのに、こと芸術に関しては拒否するのです。コンテクストの読みが重要な意味を持っているにも関わらず。日本人は芸術にルールはいらないという考え方をしがちです。実際にルールがある競技に対して「必要ない」と言っていても始まりません。現代芸術がそうですが、日本の伝統的な美術に対しても似たことが言えます。一見すればルール無用のようであっても、実際はルールが存在しています。ルールを知らなければゴルフやサッカーができないように、芸術においてもそれを知らなければ世界と戦う舞台に立てません。コンテクストがあれば、天才でなくても天才に見せることはできます。それが現代芸術です。「個性」に対しては、持って生まれたものだと考えられがちなのかもしれませんが、個性派作れるものだし、作るべきものです。評価されるための個性を考え、それを演じているうちに自分のものにしていくことができるのです。そけがすなわちアーティストにとってのブランディングということになります。

どのようなジャンルであっても、世界の舞台に飛び出して行き活躍するために求められるのが、覚悟であるのは同じです。そこで問われることになるのが、才能ではなく、そんな努力を続けていく覚悟があるかということになるのは当然です。どれだけ絵が下手であっても、戦略を持って努力を続けられるなら結果は出せます。とくに日本の若い人達には先鋭性と賢さがあり、自身に対する批評性も持っているので、クリエーターへの適合性は高いと言えるはずです。ただし現在は、そうしたプラスの特性がマイナスに作用している部分も大きくなっています。学力があり批評性があるにはいいとしても、その批評性によって自虐性を持ってしまい、努力を放棄してラクな方向に行くことを正当化させるようにもなっているわけです。その先鋭性や批評性をクリエイティブな方向に発揮してほしいと願われます。こうしたタイプの人たちは、現在、あるいは近い将来の一、二年といったスパンで効果を最大化するための知力と判断能力を持っています。しかし、ロングスパンの効果を考えることはうまくありません。うまくないというよりも、遠い先のことを考えても仕方がないと思っているようです。未来に希望など見出せないというのがその理由なのかもしれません。そのため、今この瞬間をどのように効率的に生きるかということに特化して頭を働かせるスーパー刹那主義になっています。そこで発揮される集中力と判断能力は非常に高いものがあるので、将来をあきらめずに戦略を立てることの有効性を知ってもらいたいところです。それは芸術の世界に限られたことではなく、どんな世界でサバイバルするためにもそうです。刹那主義でいたのでは、大きな収穫を掴むことは決してできません。

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