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2013年6月24日 (月)

「現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス」展(5)~マドリード

Ropezgran最初にポスターでも見ていただいた『グランピア』という作品です。何度も言いますが、これだけ精緻に描かれていることだけでも凄いという、画像でも片鱗をうかがわせるものですが、実物をみると本当に圧倒されます。人間業かと思わられるほど、よくまあ、これほど描かれるものかという感嘆以外のものは出てきません。しかし、他方で言うと、これまで見てきたロペスの写生ということに納まりきれない何ものかが常に部分的に突出してきた作品をみてきたことと比べると、納まりのいい作品という感は、私には拭えませんでした。圧倒的な技量、パッと見で凄いと分かる作品であることは確かです。しかし、そういう凄さが一目でわかるというのは、人々のものさしに対して違和感がないということです。これまで見てきた作品が、見る人に投げかけてきた何かというものが。この作品にはない。万人受けする仕上がりになっているということは確かなのではないか。そう感じるのは、多分、私がひねくれているからでしょうか。

それと、解説などを読んでみると、朝の一瞬の光線とそれに映し出される風景を描くために、その一瞬だけを定着するためにその光景が現われる20分間だけキャンバスを立てて写生につとめ、それを数年間続けてようやく完成したということが書かれていますが、私の印象は廃墟のように見えてしまうのです。朝の風景にしたって街に人影が何もないし、生活臭がしてこないのです。例えば、朝ならゴミが散らかっていてもいいし、人影だけでなく動物や鳥の影がない。また、建物が動くということはないのですが、とはいっても街です。街の動きというのが全く感じられない。そこは静止した、不気味な静けさの世界という感じです。この美術展の主催者や多分一般的にはロペスの代表作ということになっているのでしょうからポスターにも使われているのですが、そういう点で言うと、私の好みからすると、他のロペスの作品に比べると物足りなさを感じてしまうのです。

これは他の例で言えば話は変わりますが、映画が好きな人で小津安二郎という映画監督の名前を聞いたことがあると思います。1950年代に才能を開花させて集大成的な作品を多く残し、日本的なホームドラマをつくったという一般の評判の監督です。その代表作として誰もがあげるのが『東京物語』という映画で、尾道に住む老夫婦が東京で一家を構える子ども達の家庭を訪ね、そこで生活に汲々としている子ども達から慇懃無礼の歓迎を受け、唯一心の籠った歓待を受けるのは戦死した二男の未亡人の義娘である原節子だけだったというほろ苦い話ですが、この作品は小津作品のなかで突出したものがなく納まりの良い作品なのです。その前の作品である『麦秋』の意味不明の画面のつなぎもないし、固定ショットで画面を破たんさせないという、もっぱら小津に対する一般的評価ですが『麦秋』をはじめとした他の作品では、破たんさせる箇所が何か所か差し挟まれていて、それが何かのっぴきならない緊張感を与えているのですが、『東京物語』には、そういうものがなく、いうなれば、安心して見ていられるのです。先に言ったストーリーを安心して追いかけることができるのです。『麦秋』であれば、一見普通に見える家庭で、それを映画という画面に取り上げられるとそこには活劇と共通するような映画的な動きとか空間があり、通り一遍のホームドラマに納まりきれない葛藤のようなものが生まれ、そこに映画にしかない独特の映画的快感を濃厚に発散させるのです。それが『東京物語』にはないのです。もし、ここに書いたことが抽象的で分かりにくいということなら『麦秋』の最後の5分間、原節子の結婚がきまり、家族で海岸に出掛けて、砂浜に原節子と三宅邦子が腰を下ろしているところを後ろからカメラが撮っているシーンを見てみて下さい。びっくりするし、その後の不可解さに頭を抱えると思います。こんなことをホームドラマの娯楽映画でやっていいのだろうかと。

で、話を『グランピア』に戻すと、これまで見てきたロペスの作品でリアリズムと言われているロペスの評判とは違う何かを感じたものでしたが、この作品ではそういう何かを感じることはできませんでした。例えば、写生とか、リアルといいますが、ここで描かれている風景は、見えたままを描いているわけではないわけです。それらしく描かれているというだけの話です。それをロペス自身、よく知っていて、リアリズムというものに対する懐疑があったと思います。わざと、定規で量った後を残したり、構図を歪めてみたりということを、どこかでやっていました。この作品でも、遠近法を歪めるとか、それらしい形跡は見られません。

遠近法というのは、一種の誤魔化し、あるいは嘘です。そんなことは、見れば分かるといっても美術の教科書でそういう文法にどっぷり浸かってしまっていれば、その文法でしか見られなくなってしまうので、何の疑問も感じなくなるかもしれません。そういう遠近法のパースペクティブに準じて捉えている写真というのも、実はらしいというだけで、人と同じような光の捉え方はしていないものです。簡単に言えば、人は左右の二つの眼でステレオで光を捉えています。これに対して、カメラは基本的に一つのレンズ、つまり眼で光を捉えています。これは平面というものに定着させるため仕方のないことです。しかし、1点と光をとらえたのと、2点で光をとらえるのが、同じであるはずがありません。奥行のない平面で立体であるように錯覚するために使われる約束事と言ってもいいでしょう、遠近法というのは。だから、西洋絵画以外の絵画では、あまり遠近法が使われていません。これは西洋という一ローカルに特徴的な癖なのです。そして、それが癖であるということは、近現代の画家たちは分っていたからこそ様々な実験を試みたのではないかと思います。ロペスもその一人であったような気がします。

Ropezmadもう一つ『トーレス・ブランカスからのマドリード』という大きな風景画。これは『グランピア』に比べると変なところがあり、まだ安心して(?)見ることができます。1568㎜×2449㎜という巨大な画面にこれだけ精緻に描き込まれているのは、『グランピア』と同様に驚嘆しますが、画面を一枚の板ではなくて、つぎはぎで足しています。そして継ぎ目が露出しています。これだけ丁寧に描いていて、それをぶち壊すような画面の継ぎ目を隠そうともしてません。この辺のへんなことは、ロペスは分ってやっていることだろうと思います。ロペスはこの作品と同じような規模でマドリードの風景を何点か描いていますが、どれも画面はつぎはぎです。そして、もう一つ共通しているのは、それだけ描き込まれながら、画面の大半を占めているのが空であるということです。この作品でも上半分が空です。これだけ描けて、対象を写生することがメインであれば、もっと建物を描く部分が大きくてもいいはずなのに、そういう見方、画面の切り取り方をしないのです。描けるのに、あえて描かれない空の部分の画面に占める割合が大きい。それはまるで、これだけ描き込むことは出来るが、それはたいしたことではないと、画家が言っているように感じられます。そして、ロペスの他の作品では、こういった傾向は見られないので、明らかにマドリードの風景を対象とした作品の中で、意図的に行われていたのだろうと思います。そして、この大規模な作品で、息がつまるほど精緻に描き込まれ、定規で量ったように、まるで設計図のように計測されて写し込まれたような街の建築の描写よりも、茫洋とした上空の広く取られた空間の方に、私の場合には、視線が行ってしまうのでした。その時に、画家には悪いのですが、マドリードの街の建築の描写は後景に退いてしまって、空間のひろがりがとこも心地よかったのでした。

Ropezeriseこれは、この展覧会の感想の最初のところで少し紹介した、ビクトル・エリセという映画監督の映画の空間の把握に共通すると、私が強く感じた部分でもあります。最初に紹介したように、ビクトル・エリセという監督は、ロペスを出演させた『マルメロの陽光』の監督です。このエリセの長編第一作は『ミツバチのささやき』という作品で、アナというスペインの田舎の少女が巡回映画で見たフランケンシュタインを実在すると信じてしまうことから始まるお話しなのですが、その作品の舞台の撮り方が、アナという少女がフランケンシュタインの存在を信じてしまうだろうなと思わせる世界だったり、村の子どもの純真さというのか素朴さが画面に漲っていたりと、決して幻想的な画面ではないのに、フランケンシュタインがいるとかいないとかというのが客観的な事実なのかどうか、見ている者もだんだん曖昧になってくるように世界が見えてくる、そういう作品の印象でした。特殊撮影のような仕掛けめいたことは、最後に少しだけでてくるだけで。その映画の中で、アナが姉と連れだって、後にフランケンシュタインを発見することになる荒野に遊びに行くシーンはがあって、その画面構成が、まさにここでの、ロペスの作品に通じるものだったと思いました。当時の映画ファンは、ジョン・フォードへのオマージュという人が多かった(多分、実際はそうだったとおもいます。この世代のヨーロッパの映画監督はジョン・フォードとかハワード・ホークスといったハリウッド映画全盛期の監督をリスペクトしている人が多かったようですから)。難解な映画という人もいるようですが、そういうシーンの中で小さなアナが動きまわり、そのことにより事件がうまれ、ものがたりが紡がれていく、そうものが生まれるベースとして映画的な空間のひろがりが何よりも、この監督は映画を愛していることが伝わってくるように感じられたのでした。

Ropezerise2ああ、『ミツバチのささやき』は大好きな映画なので、語り始めると際限がなくなります。そこで、ロペスの空間です。マドリードの空が単に何もなく茫洋と広がっていたというのではなくて、そこに計測の後だったり、画面の継ぎ目だったり、意図的(?)に様々なものが残されています。何か意味があるのか、仕掛けとして考えさせたり何かさせるのか、私にはロペスのロジックが分らないので何とも分かりません。そう一種の不自然さは、そういう部分というよりも、このように空間の方を大きくとった構図が基本的にそうだと思います。どこかのびるの屋上から見渡した風景をそのまま写し取ったというような解説がありますが、空を全部写し取ったわけではなく、どこからどこまで画面に入れるかという計算は、ロペスはしていたはずで、そこに計算なり、意図があったはずです。そして、この作品の画面に大きさを、これだけの大きさにしたということも。

で、私は、それらはこの空間が決めたのではないか、と何となく、見ていて思ったのでした。空間の広がりとそこの光のあり方を、そういうものとして提示するには画面にも広がりが必要、ということで建築風景を後景として見てしまう、私の見方です。

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