丸川知雄「チャイニーズ・ドリーム」(1)
家柄や資産に恵まれた特殊な人たちだけが資本家になれるのではなく、なにも資本を持たない普通の大衆でも才覚と努力と運によって資本家にのし上がっていく。そうした状況を私は「大衆資本主義」と呼びたい。事業で成功して資本家になる夢を持つ中国人が大勢存在することが中国の経済を成長させる大きな原動力となっている。私が本書の中で主張したいことを一言でいえばこれである。
民間企業の活発な創業や活動が経済成長の原動力だ、という主張は、中国以外の国のことであればごくごく平凡な主張に聞こえるかもしれない。しかし、中国についてこのように考えている人は実は多くはない。中国経済のたぐいまれなる成長を作り上げた主役は国家だ、と考えている人が中国の中にも外にも大変多いのである。そうした人達から見れば、本書が焦点を当てているような民間の中小企業はせいぜいあまり重要ではないもの、なかにはやっかいな存在だと見なす人もいる。
中国経済の主役は国家だ、という考え方にももちろん一定の真実が含まれている。中国は社会主義の看板を今でもおろしておらず、国家の経済に対する関与が普通の資本主義国よりもかなり強いし、国家の役割を強めようという考え方も根強い。
しかし、実際には民間企業の成長は押しとどめようもなく、国家の役割はしだいに縮小をよぎなくされている。国家の役割にばかり目を奪われ、成長する民間企業に目を向けないとしたら、中国経済を動かしている重要な原動力を見逃すことになってしまうのである。
本書では「いっぺんに多数の民間企業が出現したような地域や産業」に的を絞り、企業が輩出するメカニズムを探るとともに、多くの民間企業がたくさん入ってくることによって産業がどのように成長し、変化したのかを分析していきたい。個々の事例をみるよりも、一つの産業が民間企業の活躍によってどのように成長したのかを示すことができれば、「民間企業が中国経済の成長の原動力である」ということをより納得してもらえるだろうと思うのである。
第1章 草の根資本家のゆりかご・温州
中国は1970年代末に改革開放の時代に入り、経済の部分的な自由化を始めたが、その後に最初に民間企業を多数輩出して注目されたのが浙江省の温州市だった。温州市民はたくさんの草の根資本家たちをはぐくんだ、いわば中国の大衆資本主義のメッカであり、温州の企業家たちは地元で起業するだけでなく、中国各地や世界のさまざまな地域に散らばってその影響力を広げている。
温州は、もともと工業に対する国からの投資があまりなされず、山が多い地形のため農業に適した平地も少なく、その割に人口が多かったので、とくに文化大革命の時期に厳しい状況に陥った。そこで食い詰めた人々は中国各地に流れてふとんのうち直しや行商に従事せざるをえなかった。しかし、そのことが、行商に出た人たちからの情報が温州にさまざまなビジネスチャンスをもたらし、民間企業の萌芽が見られるようになった。
例えば、くず鉄を溶かして鋳直して化学工業に用いるバルブをつくる産業である。温州にはとりたてて化学工業があるわけでもないが、各地に出て行った行商人からバルブが不足しているという情報が入ったからである。この当時の中国は西側諸国から石油化学のプラントを次々と購入し、そうした工場の補修に使うバルブに対する需要が生じた。もちろん中国にも国有のバルブメーカーも存在したが、計画経済のもとではバルブを入手しようとすると政府に申請して次の年の生産計画に入れてもらう必要があり、実際に手元に届くのは翌年になってしまうから急場の需要には間に合わない。そうした空隙をついたのが温州の片田舎で草の根資本家たちがつくったバルブメーカーだったのである。
ある地域に産業が発展する一つのパターンとして、その地域特有の資源や人材に根差すケース、たとえば陶土が産出される地域で陶磁器生産が発展したり、大学や研究所の近くに知識集約的な産業が発展したりする場合もあるが、温州にはこれといった資源は何もなかった。温州の草の根資本家たちが依拠したのは、ひたすら需要に対する対応のすばやさであった。1980年代の中国経済の主役は国有企業であり、国有企業は政府からの指令に基づき、需要などお構いなしに物を生産していたから、需要への対応の速さだけをとりえとする温州の民間企業でも十分に優位性を持つことができたのである。改革開放の時代に入ると、中国全体の消費水準が向上するとともに、自営業が公認されるようになった。文化大革命の時期から全国に行商のネットワークを張りめぐらしていた温州人たちはいよいよ大手を振って活動できるようになり、彼らを通じて様々なビジネスチャンスに関する情報が温州に入るようになった、こうして温州の各地にじつに多様な産業が生まれ、そこで生み出された製品は温州人の流通ネットワークに乗って中国全土に売りさばかれていった。
それは例えば、スイッチやブレーカーだったり、ボタンだったりプラスチック製の靴だった。
どうしてこれほど多様な産業が温州に育ったのか。温州には産業集積地153か所あるが、産業がその地方の特産物に由来すると見られると由来するのは2か所で、それ以外は、どこかからたまたま情報が伝わり、誰かが製造を始め、周りの人が真似をしたという話ばかりである。
このように第一号企業が生まれるのは偶然であるが、それが大きな産業集積に成長するのは、最初の成功者を見て周りの人々がその事業のやり方を臆面もなく真似するからである。模倣によって短期間のうちに一つの業種の企業数が一社から数十社、数百社に拡大していくということが温州のあちこちで頻繁に繰り返された。
温州の人々が簡単に起業に踏み切ることを説明するもうひとつの要因として、起業を容易にするインフラの存在も挙げる必要がある。ある程度の規模を持つ産業集積地の中心には必ずその産業の製品を売る市場がある。これは中国全土で商業を営んでいる温州出身の商人が温州産の製品を買い付ける中継点である。そうした市場は行商人たちが商品を売買する場として自然発生的に生まれ、やがて地元の政府が建物を整備するという展開をたどることが多い。地元に市場があると、新規に開業した自営業者は自分が作った製品を市場に持って行けばなんとか買ってもらえるだろうと考える。
また、規模の大きな産業集積地には、製品を卸す市場の他に、生産に必要な材料を売る市場もできることがある。
では実際に温州の多様な産業を作り上げていった企業家とはどのような人たちなのであろうか。企業家たちは、当初は学歴もあまり高くなく、職業の経験もそれほどない状態で起業している。そのような人たちが企業かとして生成するプロセスとして大きく2つのパターンを見出すことができる。第一は、自営業や国有企業で見習工として働くところから始め、ある程度経験を積んだ後に自ら創業するパターン、つまり一貫して工業だけに従事してきた企業家たち。第二は、商人として働き、外地での商売なども経験してある程度の資金を蓄積して、工業に参入する異業種転換型の企業家たち。主にこの二つの流れから膨大な数の新規企業家が供給され、温州に多様な産業集積を生み出して行ったのである。
温州の人達は、地元のみにとどまらず各地に飛び地のような集積地を作った。例えば北京市郊外に存在した浙江村である。温州人達は中国国内にとどまらず世界へと出向いている。温州人は中国全土と世界に移民し、移住先でも彼らの経営と生活のモデルを再現している。そのモデルの特徴は、①多くの人が起業し、独立独歩の事業を持とうとする(独立)、②周りの人が成功したビジネスを真似し、競争し合う(競争)、③同業者たちの事業所は一つの地域に集積し、資金の貸借や生活面では協力し合う(協力)、という三点にまとめることができる。
温州の経済発展は温州人たちの旺盛な企業家精神に支えられてきた。しかし、温州の経済発展には一つの限界がある。それは大企業がなかなか育ちにくいということである。温州にはきわめて多くの多様な産業が存在するが、業界で中国トップになるような企業は極めて少数である。大企業の育ちにくさ温州のモデルの特徴と関係している。温州では誰もが独立しようとするため、操業する時は何人かで資金を持ち寄って始めても、企業が成功すると分裂してしまうことが多いのである。
また、温州から大企業が育ちにくいことと同根の問題として、温州企業が高度な技術の担い手になりにくいことも挙げられる。もともと技師術も資本もないような人たちが周りを真似て創業したような企業ばかりだから、参入した産業もそれほど高い技術を必要としない製品が多かった。温州の経営者たちも、高度な技術を追求して尊敬される企業になろうとするよりも、ローエンドの市場を対象とするそこそこの品質の製品でも利益が上がればよいと考える傾向がある。
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