「現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス」展(3)~家族
『マリアの肖像』という作品を見ていきます。紙に鉛筆で描かれたスケッチでこれを板に貼ったものだそうです。これを見て、私は一発で熨されてしまい、言葉が出ないほどでした。多分、画像では巧みなスケッチくらいにしか映っていないかもとれませんが、実物を前にした時に、その重量感というのか、存在感、もっというと出来栄え(誤解を招くかもしれないことばですが)が圧倒的に迫ってくる感じでした。ロペスが愛嬢であるマリアをモデルに鉛筆でスケッチしたという作品なのでしょう。マリア本人を写した写真と見まがう、しかし、全く違う描写力。
ちょっと言葉に拘りすぎかもしれませんが、リアリズムの巨匠という展覧会タイトルからいうと、この作品などは典型的なリアリズムの質の高い作品ということになるのでしょう。たしかに、画像データとして取り込んでウェブにアップしてものをディスプレイで見ていると、写真と変わらないようです。しかし、両者はまったく異なるものです。それは、言葉で説明すると余計な想像を挿入させてストーリーを捏造してしまうことにもなりかねないのですが、敢えて、そういうリスクを負いながら、試みに書いてみます。(上手く行くかはわかりません)第一に言えることとして、ロペスは、おそらく自宅の庭に立っているマリアを描いたのではないかと思いますが、その全てを描いていないということ。マリアの描き方にしても手の先は省略されています。また、マリアの背後の家の壁は上方の一部が少しだけ描かれただけで描かれていません。つまり、ロペスは現実の中から描くべきものを切り取ってきている、そこに選択が働いているということです。これは当たり前のことですが。ロペスのような画家でなくても、私でもそうですが、人間というのは、目の前にある全てを見ていません。たとえ見ても、すべて認識しません。いうなれば見たいものだけを見ている。ここで、ロペスが写真のように全てを描いているわけではないのは、そのためなのか、分かりません。その他にも、作品が完成した時に見る人に与える効果を考えて、省略したかもしれません。そして、第二に描き方のコントラストというのでしょうか。ここで描かれている主なものはマリアと右手の葉です。そして、この両者の描き込みは明らかに差があります。さらに、マリアについても、顔の部分と彼女の着ているコートの部分では描き込みの程度が違っています。最も手が込んでいるのがコートの部分で、少女には少し重く感じられるような重量感が感じられるように、そして暖かそうな手触りが分かるような質感が描かれています。(具体的に、どのような手法で、とうしてこんなことが感じられるように描かれているか、テクニックについては私のような素人には知る由もありませんが)同じマリアでも顔の部分はまったく鉛筆の痕跡がない部分もあり、描き込まれているという感じはしません。明らかに、ロペスはここでマリアというメインの対象に意図的にコントラストをつけていると言えます。これは、第一の点のセレクションを、より精緻に進めたことではないかと思います。これに対して、写真はどうなのでしょうか、写真は撮影したままなので、ここで為されていないコントラストづけはできない…ことはないんです。例えば、デジタルカメラの画像はフォトショップというソフトを用いて簡単に光線の強弱を調節できます。また、フィルム写真であれば、現像や焼きつけの微妙な調性である程度のことはできます。その点で考えられるのが第三の点です。ロペスは画面に意図的にコントラストをつけています。これが写真でできるものとは、全く違うもので、ロペスにしかできないものであります。それはロペスが自分の手で鉛筆を握って描いていることに起因するものです。ロペスによって描かれた『マリアの肖像』ではマリアの顔の部分とコートの部分の描かれ方の密度が異なっていて、存在感の質が違っています。これに対して、写真においては存在感は平等です。そこでのコントラストは密度に差をつける、デジタル画面で言えば画面のドットの数を調節することではなくて、一つ一つのドットの色を薄めることです。見た目には、そんなに変わらず、そんな違いに意味があるのか、と問われそうですが。そこで、私が見た場合、重量感とか存在感の違いとなって現われてくると思います。それをロペスは、描いている時に、つまりは、作品が形を直して後で調整するというという写真の場合の調整とは違って、描いているプロセスの中で、そういう風につくられていったということです。端的に言えば土台からコントラストがつけられているということです。これを言葉で、このように説明してしまうと、あたかもロペスという人の認識のあり方とか、画家として世界をどうとらえたか、解釈しているかという方向に行ってしまいそうですが。そうとはとらないでほしい。それが第四点です。さきに、ロペスは自分の手で描いていると敢えて、言わずもがなのことを言いました。そのことです。この作品をじっくり見てみると、余計な線や描き直した痕跡が見られないのです。いうなれば、一発勝負でこの作品が描かれていったことが分かります。水墨画のように即興的な作られ方をしたのではないかと思います。ただし、水墨画は墨が乾かないうちにという時間的な制約の中で描かれていきますが、この『マリアの肖像』は一本の線が引かれる前に十分な時間かけて慎重な検討が行われてと思いますが、線が引かれれば一発勝負でやり直しがきかない点では、同じだと思います。そこでです。絶対に間違いがいないとは言えないでしょう。中には意図したとおりに行かない場合もある。水墨画なら、その流れを止めないように即興的に転換や、その間違いを生かすような別の流れに乗るようなことをするでしょう。それが水墨画の即興性のひとつでしょう。それと似たようなことをこの作品でもあったのではないか。これは私の想像です。作品の表面上の汚れがそのままにされて、例えばマリアの顔を横切るようにある茶色っぽい染みのそのままにされています。
これらのことから、私が想像してしまうのは、ロペスという画家は描くという自らの肉体の行為のプロセスを、重視しているのではないかということです。だから、頭で考えた理念としてのリアリズムとかそういうものとは違うところで、描いている画家ではないかと思われるのです。水墨画の即興性を少しく話しましたが、そのような日本画の即興性というのが、手が動いて描いて行くことに素直に従って作品を作っていく、その結果としてリアリスティックな作品が生まれた、というのが彼の作品ではないかと思えるのです。最初のところで、「何か」という問いかけをしましたが、それは頭で考えたものや認識したものとかそういうものではなくて、描くという肉体の行為のプロセスそのものに起因するものではないか、という気がします。これは、未だはっきりしたことではなく、ひとつの仮説です。
『マリアの肖像』に関するコメントが長くなってしまいましたが、もう一つ『夕食』という油絵作品です。この作品は未完なのかもしれませんが、マリアもまじえた家族の食事風景です。この作品を見ると、わざと写生的な画面を壊しているような印象を受けます。右手の母親の頭は二重にダブられています。また、マリアの顔も塗りが部分的に何も塗られていない穴があけられているようです。ふつう、こんな穴のあけ方はしないのではないでしょうか。彩色するときにこんな穴の開くような点描みたいなやり方はとられないでしょう。これは明らかに、最初から、ここには絵の具を置かないと意図的に計算されたのは明らかです。それは、どうしてか、どういう意図か、考えても分りません。おそらく未完となっているところをみると、意図したように行かなかったのか、これからベの何かが為されるのか、分かりませんがこのままで画家が満足していたというのはないと思います。もう一つ考えられるのは、何らかの意図があって、こうしたのでしょうけれど、それに加えて、そういう行為をしている画家の身体が即興的に動いてしまったということが、あったような気がしてしまうのです。それは、もしかしたら、画家が無意識に通り一遍の写生のリアリズム作品に抵抗感を持っているかもしれません。それが、この画家の「何か」なのではないかと思います。
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