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2013年7月12日 (金)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(3)~裸婦像

Makinociho牧野邦夫は、自画像と並んで裸婦を数多く遺したようです。たんに裸婦像というだけでなく、この後で見ていこうと思っていますが、群像や物語の場面を描いた大作のなかにも多くの裸婦を登場させていますので、牧野の作品の中に裸婦の登場するケースは非常に多いと思います。

Makinosiroikabeまずは、着衣ではあるのですが『白い壁の前』という作品です。このポーズ、このシチエィション。正直言って、芸術の格調とかそういうのではなくて、濃厚なエロチシズム、もっと卑近な言葉で言えば、エロ本でよく見る扇情的な写真と何ら変わるところのないものを感じました。この作品を、いわゆるエロ本、しかも一般に販売していない、秘密趣味の多少倒錯的でマニアックな粗悪な地下出版のような猥褻図書の中に入っていても、違和感はないでしょう。白い壁を前に目のはっちりした童顔に近い、それだけ無垢さが強く感じられる少女が、これまた無垢の色である白いブラウスを着て、そのブラウスがロマンチックというのかフリルといういかにも少女趣味の飾りがあるもので、少女はこちらを真っ直ぐにみて、こころもち微笑んでいるように見える。しかし、着衣は上半身だけで、下半身は裸です。そこには意外なほど豊かな臀部の広がりと、何よりも少女には不似合いなほど濃厚な陰毛の茂みが描かれています。それは、背後の白い壁、少女の着ている白いブラウス、そして少女自身の白い肌と対照的に黒々と、それだけ観る者の視線をそこに集めるかのようです。そしてまた、少女の着ている白いブラウスが薄絹でその下の少女の小さな乳首が透けて見えています。その乳首が透けて見えるためなのか、意外なほど濃い色をしていて、それも観る者の視線を引き寄せるようです。それは、いわゆる伝統的な西欧絵画の裸婦像の約束事、猥褻に見せないために、陰毛は描かないとか、乳首は皮膚に近い淡い色で描くとか、隠せるなら隠すなどして、なるべくそういう性を連想させる部分を、それと意識させない、ということと正反対の書かれ方をしています。これは、牧野が意図的に、何らかの効果を狙ったものなのか、本人が助平だったので、その嗜好に従ったものなのかは、分かりません。

私の場合は、現代で、男性週刊紙のヌードグラビアや時にはアダルト雑誌の写真を目にしたり、AVなども容易に見ることできる環境にいて、それなりの恩恵をうけている男性としては、西欧絵画の裸婦像をみていて、それはそういうものだろうけれど、物足りなさというのか、もっと踏み込んでいえば、もどかしさ、嘘くささを感じるのを抑えきれない人です。そういう私にとっては、牧野のこの作品はストレートで、嘘くささをかんじさせることはありませんでした。が、逆に、ここまでやっていいのか、という疑問も生じました。そういう猥褻なものと同じなら、別に敢えて絵画として描く必要がどこにあるのか。ということです。牧野という人は、どうやら商売気のなかった人らしいですから、自分が描きたいから、というのが純粋な動機かもしませんが。

Makinorafu2『白い静物のある裸婦』はそういう牧野の裸婦の中で比較的穏やかな?作品になっています。しかし、この身体をみても扇情的と感じます。身体つきは日本的なたおやかな女性とは違って、むしろ逞しさすらあるメリハリの利いた(出るところは出た)ものです。日本人の描く抒情性とか道具立てとしての耽美性というような薄いベールがかかっていることはなく、女性の身体の迫力そのものが迫ってくるような直接的な官能性が強く感じられるものになっています。西洋絵画でいう裸婦の形状というよりも人間の身体が息づくという感じで、形状が完璧とかいのではなく、筋肉によってできた身体の筋肉の筋が細かな陰影を形作り、その陰がたまらないエロチシズムを醸し出し、筋すじの弾かれんばかりの弾力性が石膏の形状スケッチのような裸婦像とは違って、触れば柔らかく弾き返すような肉体の瑞々しさを想像させるのです。もし、私が思春期の発情しているような年代の青少年であったとしたら、この作品は強い刺激となったに違いないと思います。

Makinotoruso『トルソー』という作品がありますが、題名の通り、古代ギリシャーやローマの遺跡から掘り出された一部が破損した人体彫刻で、しかもその部分が理想的な姿となっているため、そのまま作品として残されているものトルソーというものです。この作品では、そういう手足が破損して胴体部分がのこったトルソーに擬して、女性の身体が描かれています。通常、こういう作品では身体の形状の理想的な姿の現われとして表現されます。それは、例えば、アリストテレスが存在の本質は形相にありといったような、かたちにものの本質を求め、中身といった実質は一段劣るものとみなします。トルソーはそういう形相を表わしたものとして、その形を写し取ることが最優先されることになっていたわけですが、牧野はそういう形状を写し取ることと同じくらい、その肉体性というもの、『白い静物のある裸婦』で述べたような筋肉の描写に力を注いでいます。だからこそ、陰毛や勃起した乳首が生々しく見るものに迫り、官能性を掻き立てるのです。

さて、ここで、今回はこうれいとなってきている「ものがたり」を始めましょう。前回の自画像のところで、牧野は自らの姿をコスチュームプレイをするかのように様々な扮装をしながら、自身の本質である顔とその表情は一貫して変えなかったのは、自己のアイデンティティを保つ作業だったのではないか、ということを述べました。しかし、それだけでは、衣装に顔を描いたり、幻想的な背景を描き込んでいることの説明にはなりませんでした。そこでまた、「ものがたり」を騙り始めます。それは、牧野の裸婦像をみていると、かれは裸婦を単に人間の基本的な形状として描くということができなかったのではないか、と思われる節があります。美術学校で裸婦のデッサンが学習過程で為されますが、あれは対象を客観化して形状を客観的に写し取るパターンの練習であると思います。それを牧野は対象を突き放して客観化して形状を抽出するという描く前の作業ができなかった、あるいは苦手だったのではないか、と私には思えてしまうのです。牧野は対象と適当に距離を置くことが苦手であるために、モデルに外見以上のものを見てしまったのではなかったのか。だから、彼の描く裸婦というのは、人間の外形の抽象化された形状というだけでなく、男として女性の裸の姿を目の前にして自然と湧きあがる官能的な心身の動きを切り捨てることができなかった。それも一緒に裸婦像の中に描き込んでしまった。そして、彼は、実際にそれができMakinorafu
たわけです。彼の卓越した描写力がそれを可能にしたわけです。というよりも、それを描くために彼は描写力の研鑽を積んだと言えるかもしれません。そして、そういう描写力を身につけていったことで、ますます、そういう見る力が伸びていった。つまり、西洋絵画の形状を抽出するのではなく、色々な要素を切り捨てずに見るということをさらに強めていったのではないと思うのです。その行き着くところが幻想です。つまり、彼の作品のある幻想的なものというのは、彼の目には見えていたのかもしれない、と突飛な意見ですが、私には思えるのです。卑近な例ですが、妖怪とか幽霊などは現代では非科学的で迷信と片付けてしまいますが、江戸時代の人々には実在と見えていたのではないか、それは今の視点でいえば妄想なのかもしれませんが、その妄想を現実として捉えるということが社会で認められていた。だからこそ妖怪が後世に伝承として残ったのではないかと思います。それと同じように牧野個人は妄想を実際に見えていたのではないか、と思えるのです。それは、私の場合だって多感な思春期の年代では、目の前に存在するものをそのものとして客観的に突き放して見るだけでは満足できずに、この意味というような過剰に見ようとすることがありました。そこで妄想を見たのかもしれないのです。見たのかもしれないという書き方をしたのは、今、そういう見方をしていないため、その時見たかもしれないものを、今は見ることができないからです。だから、牧野が見たかもしれないものを作品に描いたとしても、今の私は幻想とか非現実としか見ることができないのです。この美術展のサブテーマは「写実の精髄」となっていますが、牧野は何を見て、何を写そうとしたのか、という写実の前段階、写すべき実とは何か、ということを牧野の作品は、私に問いかけているようにも思えるのです。

Makino『化粧する女』の周囲で彼女にまとわりつくように取り囲む人物たちのような幻想は、実際に裸の彼女を目前にして、その官能的な姿に妄想してしまった末に見えてしまったものかもしれないのです。また、『天使のT子』は、彼女を天使に見立てて描いたというよりも、実際に天使の羽を見たのかもしれないし、その羽根に邪な視線を入れざるを得なかったところに牧野の実感、正直な思いがそこに表われていないか、と私には感じられるのです。

そして、これはちょうどこれらが描かれた同時代に少女マンガの世界で、物語の語りについて小説で言う地の文に相当する客観的な語りと登場人物のせりふと、人物だか作者だかの内面の思いの区分の境界を曖昧にして、それらか渾然一体となった、現実の客観的世界と少女の内面の思いが相互侵入を果たすという、幻想とも現実ともつかない濃密な少女の世界を描く革命的な作品が登場しだす時期と重なっているように思えます。

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