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2013年7月

2013年7月31日 (水)

アンドリュー・S・グローブ「インテル戦略転換」(1)

序章 パラノイアだけが生き残る

「パラノイアだけが生き残る」。これは私のモットーとしてよく取り上げられる言葉だ。事業の成功の陰には、必ず崩壊のタネが存在する。成功すればするほどその事業のうま味を味わおうとする人々が群がり、次々に食い荒らし、そして最後には何も残らない。だからこそ、経営者の最も重要な責務は、常に外部からの攻撃備えることであり、そうした防御の姿勢を自分の部下に繰り返し教え込むことだと思う。私がパラノイアのように神経質になってしまうことは色々ある。

しかし、こうした懸念も、私が戦略的転換点と呼んでいるものに比べれば大したことはない。戦略テク転換点とは、企業の生涯において基礎的要因が変化しつつあるタイミングである。その変化は、企業が新たなレベルへステップアップするチャンスであるかもしれないし、終焉に向けての第一歩ということも多分にありうる。戦略的転換は技術的変化によってもたらされることがあるが、通常の技術革新よりも深刻な事態を招く。また、競合企業によってもたらされる場合もあるが、単なる競争にはとどまらない。戦略転換点は事業のあり方を全面的に変えてしまうので、それまでのように新技術を導入するとか、競合との争いを激化させるといった方策だけでは十分対応できないのだ。変化をもたらす力は音もなく静かに蓄積していくため、何がどう変わったのかは見えにくい。ただ、「何かが変わった」とういうことだけがわかるのである。戦略転換点を見過ごすということは、企業にとっては命取りになるかもしれないのだ。この変化の結果衰退しはじめた、まず、かつての栄光を取り戻すことはできないだろう。しかし、戦略転換点が常に災いをもたらいとは限らない。事業の手法が変化すれば、新しい方法に精通している者にはチャンスが生まれる。新規参入企業であろうと同じことだ。これらの企業にとって戦略転換点は、新たな成長への好機となるかもしれないのである。

今、我々が生きている時代は、技術革新がこれまでにないスピードで進み、すべての産業を揺り動かしている。その変化の速さは、職業を問わずあなたにも影響を与えるだろうし、思いもよらないところから、新しい手法を使った新たな競争をもたらす。では、このような発展は建設的な作用なのか、それとも破壊的な作用なのか、それとも破壊的な作用なのか。わたしにいわせればその両方であり、避けて通ることはできない。テクノロジーの分野では、“可能な”ことはいつの日かかならず“実現”される。われわれはこの変化を食い止めることも出来なければ、そこから逃げ出すこともではない。出来ることは、その変化に万全の構えで備えることなのである。戦略転換点から学べることは、会社経営においても個人のキャリア構築においても同じようにあてはまる。経営者であれば、どんなに詳細な事業計画をもってしても変化を予測することは不可能だと認識しなくてはならない。しかし、たからといって事業計画が必要ないというわけではない。戦略転換点がどういうものなのか、またどう対応すべきなのかを把握しておけば、企業の自己防衛に役立つ。会社が誤った方向に進まないように軌道修正し、新しい秩序の下で繁栄するよう導いていくのは経営者の責務であり、それができるのはあなたをおいてほかにはいない。

企業が新しい状況に対応しようとしているのは、これまでずっとうまく機能してきた経営手法が、もはや過去のものになりつつあるからだ。インテルの経営に長年携わってきて、私自身、戦略転換点から多くのことを学んだ。戦略転換点について考えることが、競争が激化する中でインテルが生き残っていくための援けとなった。私は技術者であり、経営者である。

本書は、ルールの変化がもたらす影響について書かれたものだ。未知の領域で進むべき道を見つけ出す方法についてまとめたものだ。

あるIR担当者の日記~7月30日(ちょっと危ない議論)

このところ、憲法改正をめぐる議論がそこここで為されているようで、しかも多くの場合第9条の条文をめぐる議論がセットで為されていることが多いようです。例えば、護憲=戦争はごめんだとか、改憲=再軍備とかいうような議論とか。ただ、この時に、防衛とか戦争とか、そういうことが抽象的に語られすぎているようで、私のような日々、目前の事実に振り回されている人間にとって、どちらの側の議論もリアリティが感じられません。例えば、戦争というもの、最近、A国とB国とが宣戦布告して両国が正規軍を繰り出して正面から戦いました。とか、これに同盟とか入っても、戦闘機同士の空中戦がありましたというような、戦争映画のような、国家同士の戦争ってあったでしょうか。実際、私がニュースでみる戦闘は、テロリストを制圧する戦いだったり、民族ゲリラと国家、ゲリラ同士の戦闘だったりというような、大規模な軍隊が展開するというような、いかにも戦争というよりは、治安とか諜報を含めた特殊部隊のようなケースが多いように思います。そういう状態では、国防とか戦争とかいうのを国家同士の戦いとして見ているように映る憲法論議における戦争の議論は、現実離れして映ってしまい、抽象的に神学論争みたいに是非を一方的に主張しているようで、どうしてもリアリティを感じられない、というところです。

2013年7月30日 (火)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(11)

第9章 新しい世界システムと私たち

レイヤー化したひとりひとりが、たくみに設計され、運用されている<>で自律的に活動していく。ひとりひとりの個人のありかたというのは、そのようにかわつていくでしょぅ。何かのウチであることによって規定される個人から、さまざまなプレーヤーの重なりによってあいまいに規定される個人へ。<>の世界システムは、「どこどこのだれだれである」という固定化したアイデンティティの枠に収まらない、そういう新しい個人像を生み出そうとしているのです。

この流れに、いずれ私たちは対応しなければならなくなります。<>では昔の常識が終わります。ウチとソトを分けていた社会では、それに適合した能力がありました。ウチの組織をきちんとまとめていくこと。ウチとソトを分け、ソトと戦い、ウチを盛り上げていく。様々な企業というウチどうしの戦いの中で、いかに自分のウチを強くしていくのかということ。しかしレイヤー化した<>の世界では、ウチとソトの境界はありません。だから<>ではウチとソトの戦略は成り立ちません。国民の結束と、それに伴う強大な軍事力など、未来の<>では何の意味も持たないのです。では、どのような戦略が成り立つのでしょうか。レイヤー化した<>の世界でよく生きていく戦略は二つです。

第一に、レイヤーを重ねたプリズムの光の帯として自分を捉えること。

第二に、<>と共犯新柄生きていくということ。

世界システムが替われば、「優秀な人」「ダメな人」「強者」「弱者」等の定義もがらりと逆転してしまうでしょう。例えば、マイノリティ。ウチとソトを厳密に分ける社会では、例えば障害者等は少数派として、つねにソトとして扱われてします、社会のウチから差別されてしまっていました。しかし、レイヤー化した<>では、身体の障害などは、個人をつくりあげるたくさんのレイヤーのひとつにすぎません。障害者であるということは、レイヤーのひとつが他の人と少し違うということに過ぎないのです。そして、他の人と一風変わったレイヤーを持っているということは、そのレイヤーでは同じ特質を持つ人たちと強くしなやかにつながれるようになるということ。それは生きやすさに通ずることはあっても、生きづらさにはなりません。だからレイヤー化した<>は、マイノリティにとっては生きやすい世界になるかもしれないのです。一方、これまで自分が社会のマジョリティだと疑わず、安心しきっていた人は、その平凡さのゆえに、特異なレイヤーで他者とつながることが逆に難しくなるでしょう。<>はマジョリティとマイノリティを逆転させてしまうのです。

すべては逆転していく世界。この世界を前向きに引き受けられるか。それとも苦痛に満ちたものとして忌避するかは、すべてあなた次第なのです。

 

 

最後の結論に近いところは、かなり省略したので、興味のある方は、実際に読んでみることをお奨めします。私が読んでいて、個人的に気になったことは、結論の部分であるレイヤー化した世界の未来図が静止画のように描かれていたことです。多分、将来の素描ということなのでしょうから、無理はないといえばそうですが。例えば、レイヤー化した人々の繋がりとか社会のレイヤー化した部分そのものが、そうなったことで変質していくことになると思います。この本では、現状のものが、そのままスライスされて存続するような描かれ方をしています。また、個人とレイヤーに対する関係も変化していくと思います。このようなレイヤー化した世界に個人が対応していくと、その世界が変化し、個人の個々のレイヤーにたいする関係も変化していくと、レイヤー化して世界の構造も変化していくダイナミクスの方向性に触れられていませんでした。例えば、個人の関係するレイヤーのひとつがどこの地域に住んでいるというものだった場合、その意味内容とか、そのレイヤーに対する個人の関わり方が、ウチとソトの世界とレイヤー化された世界とでは、違ってくると思います。この本で紹介されている例は、例えば、メジャーにところにいて安心しきっている人にとっては、違う世界の出来事のように見えなくもないので、そういう身近な変化を記された方が、リアリティを感じやすいと思います。

あるIR担当者の日記~7月29日(決算短信の投げ込み)

7月16日に東京証券取引所と大阪証券取引所の統合市場がスタートしました。私の勤め先はJASDAQ市場に上場しているため、上場の事務手続きが大証のシステムから東証のシステムに替わることとなりました。まずは、第1四半期の決算発表です。証券取引所に決算短信を提出して公開するには、大証の場合も、東証の場合もTDNetという統一システムにログインしてPDFファイルとXBRLデータを登録します。それらは、登録されると証券取引所のホームページから適時開示サービスを通じて、インターネットで閲覧することができます。この方法は、今度のことで変化はありません。

今回変化したのは、証券取引所にある記者クラブ、東証の場合は兜クラブへの情報提供です。兜クラブには日経新聞や一般紙、あるいは通信社の経済記者が詰めていて、各社のブースと書類受付のポストがあります。決算発表のときは、その各社のポストに決算短信を投函します。これを「投げ込み」といいます。実際のところ、これだけインターネットやパソコンが一般化し電子データが高速で飛び交っている状況で、未だに紙にプリントして綴じこんだものをわざわざ持って行って、記者はそれを受け取って見るという、原始的なことを未だにやっています。上場会社は報道各社の分として50部以上を持参して投函します。一方、記者は側はピーク時は数百社が一斉に投函されてくるのを全部見ることができないので、めぼしい決算短信を斜めに見て、あとは捨ててしまいます。それを決算短信を投函している上場会社の担当者の見ている前でやっている記者もいました。そんなこともあってJASDAQでは、兜クラブと交渉して、兜クラブ専用の閲覧ページをネット上に設置し、上場会社はそこに短信をアップロードすることで、「投げ込み」をせずに済ますことができるようになりました。これは上場会社にとっては、大変ありがたいことです。都心に本社がある会社はいいですが、そうでない場合は、わざわざ兜町まで短信の束をもって「投げ込み」に行かなければなりませんでした。

しかし、東証にシステムが統合されたことで、そういう便利にシステムはなくなってしまい、再び「投げ込み」に行かなくてはなりません。東証にきいてみたら、投げ込みをするかどうか上場会社の自由ですから、ということでした。なんかすごく無責任な感じがしました。未だに、こんな時代遅れのことから抜けられない経済記者クラブもそうですが(それで、よくまあ最先端技術とか、企業とかの記事が書けるものだと感心もしますが)、上場会社の決算が発表されるという制度的なことしか、考えずマスコミを通じて投資家に伝えることが視野に入っていないのか東証は、と疑問を感じています。

2013年7月29日 (月)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(10)

第8章 「超国籍企業」が国民国家を終わらせる

権力は、国民を法律と道徳でしばる国家から、人々の行動の土台となる<>へと移っていくでしょう。上から人々を支配するのではなく、下から人々を管理する、そういう形に権力あり方は変わっていきます。権力は、国民国家から奪い取られるのです。国家の権威は消滅し、最終的には国という形そのものさえなくなっていくかもしれません。すべては<>に吸収され、<>こそが国家に代わる権力になっていくと私は考えています。つまり、<>を運営している新しい企業体こそが、権力の源泉になるという世界がやってこようとしているのです。<>の企業は従来の大企業が国家や国民と共存したのに対して、国と関係なく働きます。インターネットというGPTは、生産も消費も世界にばらまいてしまうからです。つまり、<>は、国歌の持つ三つの国力「経済力」「軍事力」「国民力」の三つをも殺いで行きます。ひとつずつ見ていきましょう。

経済力です。新しい<>は、ものが流通するさまざまな市場自体も呑み込んでいきます。少し前まで、市場は国ごとにあり、それらがたくさん集まって、国際市場をつくっていました。でも今は「国ごとの市場」の実体が段々薄らいできています。たったひとつの世界市場があって、それが世界全体を覆い尽くすような構図になってきているのです。例えばiPhoneの裏面には「アッセンブルド・イン・チャイナ」と刻印されています。でもそれでiPhoneを中国製だと思う人はいないでしょう。中国で組み立てられ様々な国に輸出されることから、見た目は中国の貿易黒字を増やすことになります。でも本当に一番儲けているのは中国ではなく、設計・デザインしているアメリカのアップル社です。しかしアップルはアメリカの貿易黒字を増やさず、大して人も雇っていません。一体どこの国に属しているのかという、もはやはっきりとは分らないようになっているのです。様々な国で活動する企業のことを多国籍業といいますが、アップルのような会社はいまや国籍を超えた「超国籍企業」になってしまっています。そういう超国籍企業がつくったiPhoneが、世界市場というたった一つの<>で流通しているということなのです。近代の資本主義は、先進国のウチ側でものが製造されて、ソトである途上国を資源の入手先や販売先の市場として利用するという不平等を土台として成り立っていました。でもこのウチソトを分ける構図は最早なくなって、世界という<>で先進国も新興国も途上国も関係なくも平等にものや情報が流通する形に変わってきています。つまり先進国というウチを、世界単一の市場という<>が呑み込んでしまったということなのです。こでは一国のGDPなどもはや何の意味もありません。

次に軍事力。軍事力は、政府に潤沢な予算がなければ増強できません。しかし<>に産業が吸収されていけば、母国の政府にきちんと税金を支払うということの意味が乏しくなっていきます。実際、<>を運営している超国籍企業の多くは、まともに母国に税金を払っていません。超国籍企業は、国内ではものを作っていません。国外で部品を集めて、国外で組み立てて、国外に売っているのです。全く母国を通りません。さらに様々なものの流通が<>に移行していくと、物理的なものの移動さえなくなっていきます。すでに超国籍企業は、ものではないソフトウェアやサービスの販売に軸を置くようになっています。このように、政府はもはや超国籍企業から富をピンハネすることができなくなっていきます。<>が進化し巨大化し、運営する超国籍企業がどんなに収益を増やしても、母国の政府の国庫はあまり豊かにならないという状況になってしまったのです。これは政府の予算を増やさず、長い目で見れば軍事力を殺いでいくことになるでしょう。

最後に国民力。「第三の産業革命」は仕事を増やさず、企業は人を雇わなくなっています。21世紀超国籍企業は少数精鋭で<>を運営し、ウチに従業員を囲い込みません。少ない社員で大きな影響を持ち、何億人もの人たちに<>を提供しています。<>は先進国から雇用を奪い、アジアや中南米などの新興国にばらまいています。世界中の仕事の給料は、だんだん同じ金額へとならされているのです。そしても仕事は給料の安い新興国へと移っていき、すべての世界がフラットになるまで下がり続けるでしょう。

世界中の労働者がフラット化した先には、ロボットが待ち受けていると言われています。例えば名刺の管理や請求書の作成、経理といった事務作業の多くは、いまインターネットの安価なサービスとして提供されるようになっています。これまでだったら、中小企業がそういう仕事のために社員を一人雇っていたのが、インターネットのサービスのために不要になってしまっているのです。これも機械が仕事を奪っていることの一例です。ロボットが単純労働や簡単な仕事を肩代わりしてくれるようになれば、人間はもっと知的な仕事に専念できるようになるという意見もあります。しかし、これは幻想です。なぜならロボットに出来ないような知的な仕事のできる人は、限られているからです。たいていの人にはそんな知的な仕事はできず、ロボットの普及で仕事を奪われて終わるだけ、というのが冷酷な未来像なのです。この変化は、私たちが生きてきた古いシステムを分断します。<>は民主主義を否定し、私たちを分断し、不幸にしているように見えます。

<>を運営する超国籍企業は母国に最適化しているのではなく、世界全体に最適化しているのです。母国のために仕事をしているのではなく、世界全体に平均して富を与えるように仕事をしているのです。母国には貢献していないけれど、アップルやグーグルは世界経済の成長を後押しし、世界の雇用を増やしています。

 

では、<>が世界にもたらす世界観とは、何でしょうか。それは、私たちと<>の新たな「共犯」関係です。

<>のシステムは極めて巧妙に管理運営されています。そのためのメンテナンスやイノベーションのために、<>は皆の動きや、関係や新しい動きといったデータを無数に採集して分析しています。これが「ビッグデータ」と呼ばれるテクノロジーです。超国籍企業は、使い勝手が良くてとても便利で、そして無料だったり安価だったりする<>を提供する代わりに、ビッグデータを集めてお金儲けをしています。しかし、人々もまた<>を利用しています。同時に、<>は利用者のデータをたくさん集めてビッグデータ技術で皆の行動を利用しています。ビッグデータを活用することで<>はもっと使いやすくなります。<>が使いやすくなることで、人気が高まって利用者は増えます。利用者が増えるとビッグデータはもと大きくなります。この繰り返しで、<>は巨大化していきます。巨大化していくためには、多くの利用者を惹きつけなければなりません。一方的に支配するだけでは、決して巨大化できないのです。これは古代や中世の帝国が巨大になって行ったなりゆきと、少し似ています。言って見れば現代の超国籍企業がつくる<>は、情報が非常に流通しやすい交易システムのようなものです。しかし、この新しい帝国は、目に見える帝国ではありません。中世の帝国のように皇帝が君臨していて、人々を見下ろしているわけではありません。多分私たちの社会の見た目は、これからも今までと同じようになんら変わりはないでしょう。そこに静かにひそひそと、<>という新しい権力構造が浸透してきて、下から支えられるようになる。

 

私たちは、<>に支配される被支配者です。しかし同時に、私たちは<>を利用しています。<>が存在するからこそ、いままでの化粧箱の中の息苦しい生活ではなく、横に動き回る自由を得ることができたのです。<>に支配されることを知っていながら、自由を得るための代償として、支配を受け入れているのです。一方で、<>は圧倒的な支配者でありながら、私たちがいなければ存続することができません。<>は、私たちの自由な動きからエネルギーを得ているのです。<>はなんでも呑み込んでいきます。私たちが<>の支配に抵抗し、<>を破壊しようとしたとしても、<>はそのエネルギーを呑み込んでさらに巨大化していくでしょう。私たちはそれを内心分っていながら自由に動き、<>に抵抗さえし、そして結果的には<>にエネルギーを与えていくのです。だからこれは、一種の「共犯」関係なのです。

2013年7月28日 (日)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(9)

第7章 レイヤー化する世界

この<>は、いったい私たちの生活や生き方をどう変えていくのでしょうか。見ようによっては、たんに権力が別の権力変わるだけのようにも感じられるでしょう。これまで大企業や国家が支配していた社会が、新しい別の企業に支配されるようになるだけじゃないか、と。しかし、そうではありません。また、<>は、単なる新しい権力というだけではありません。<>は、人と人の関係、人と権力の関係を根もとの部分からがらりと変えてしまうのです。

ITの専門用語にレイヤーという言葉があります。レイヤーは、「重ね合わされているもの」という意味です。例えば、ライオンが草原を走っている映像をライオンの部分と草原の部分を用意して、二つの部分を重ねると、ライオンが草原の位置を変える場面をいくつも作ることができます。アニメも、背景と人物を別々のシートに描いて重ねて撮影することで同じような効果を上げています。この部分に当たるものがレイヤーです。

これからの新しい世界システムでは、ウチとソトを分ける壁ではなく、レイヤーによって上下をスライスして分けていく考えかたに変わっていき、レイヤーの考え方は人間社会のありとあらゆる場面に使われていくことになるのです。境界のない世界。レイヤーは、こういう境界の存在しない形状をしているのです。例えば音楽やテレビ、本といった娯楽は、つぎのようなレイヤーにスライスされていきます。

インターネットというインフラのレイヤー

楽曲や番組、本などが販売されるストアのレイヤー

どんな音楽や番組が面白いのかという情報が流れる、メディアのレイヤー

購入した楽曲や番組を、テレビや音楽プレーヤーやスマートフォンやパソコンで楽しむという機器のレイヤー

そして楽曲や番組そのものというコンテンツのレイヤー

どのレコード会社のつくった楽曲なのか、どの放送局の作った番組なのかという縦の切り分けは、この<>の世界では意味を持ちません。どんな楽曲だろうが、番組だろうが、全部ガラガラポンの中に運び込まれて、それが様々なレイヤーを経由して、皆さんの手許に運ばれる。そういう風にかわるのです。

人と権力の関係も、レイヤーの構図に取って代わられるでしょう。これまで政治家や独裁者のような権力者は、上から人々を押さえつけてきました。権力は。切り分けられたケーキが収まっている化粧箱のようなものです。私たち一人一人の個人は、化粧箱という権力の中で、管理され、命令され、服従させられてきました。個人は一人ずつ切り分けられ、しかし全員がひとつの化粧箱に束ねられ、化粧箱に上から押さえつけられてきたのです。しかし、<>の世界では、権力はレイヤー化します。レイヤー化した世界に生きていると、そこには上から押さえつけてくるものもなく、全員が化粧箱の中に束ねられているわけでもなく、まるで自分が自由に生きているように感じられるでしょう。しかし、権力がなくなっているわけではありません。様々なレイヤーのうち、その時々でもっとも強いレイヤーが権力者になり、その<>を支配するようになる。<>とレイヤーは、そういう作用で働いているのです。ここでは化粧箱のように人々を束ね、上から見下ろして命令する権力はありません。そうではなくて、下から人々を支え、人々を管理する。それが新しい権力の形、新しい権力と人との関係です。

そして<>は私たち自身のあり方と、人と人との関係も変えて、レイヤー化していきます。これまでの人と人との関係は、化粧箱の中で切り分けられているケーキとケーキの関係でした。それぞれは独立し、分断されているけれども、同じ化粧箱の中に束ねられているという連帯感みたいなものがあったのです。でも<>の中では、私たち一人一人もレイヤーとなってスライスされてしまいます。私という人間は一人の独立した個人だけれども、一方で様々なレイヤーも持っています。そういう無数のレイヤーを積み重ねていった結果として、私という個人があるということになります。すなわち、私はレイヤーが積み重なったひとつの集合体であると言えるのです。

今までは、私と他の人たちを分離するのは、切り分けられたケーキとケーキの間の隙間でした。でも同じレイヤーでは、私と他の人たちとも容易につながることができます。そこには隙間も空間もありません。ソーシャルメディアのようなものが進化し、普及してきて、そういう同じレイヤーの人たちを探すのはいまとしても簡単になりました。自分は無数のレイヤーにスライスされて、そしてそれらのレイヤーで横にすぐにつながることのできる関係、それこそが<>における人間関係となっていきます。そして、そのようなレイヤーごとの人間関係の積み重ねによって、私という個人はここにあり、社会に存在できるということなのです。レイヤーにスライスされて自分という個人は切り分けられてしまっているけれども、切り分けられているからこそ、それぞれのレイヤーで他の人たちとし繋がりやすくなるということなのです。

 

2013年7月27日 (土)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(8)

第3部 未来─<>の上でレイヤー化していく世界

第6章 すべては<>に呑み込まれる

第三の産業革命が起き、テクノロジーに基づいて新しく設計されたシステムが、世界を逆回転させようとしています。民主主義が引き裂かれ、国民国家の幻想が打ち砕かれていくにかで、このテクノロジーを中心とする新しいシステムがいま急速に姿を現わそうとしています。これまでヨーロッパやアメリカ、日本などの先進国では、企業のウチとソト、国民国家のウチとソトというようにウチとソトの関係をいくつも重ね、つねにウチは豊かになり、ソトの富を奪っていくという構図をつくっていました。しかし、テクノロジーの革命は、このウチとソトという構図を破壊しながら進行しています。インターネットはウチとソトの壁を壊し、ただひとつの<>のようなものをつくり、その<>はインターネットに接続して限りすべての人々に開放されていて、無限に広がっていきます。

しかしその先には、昔から人々が願っているような「皆が自由になる世界」「抑圧がない平和な世界」がやってくるわけではありません。ウチの幸せが消滅し、<>へと世界が移行していくと、そこではやはり<>を運営する側とされる側という新しい支配関係が生まれます。国民国家という古い支配関係が終わり、<>という新しい権力支配が始まるということ。それが21世紀に世界中で起きることなのです。

すべての分野が、この<>に呑み込まれていこうとしています。最初に呑み込まれたのは、音楽業界でした。音楽CDはレコード会社のウチで企画され製作され、その相互の関係が業界をつくり、業界のウチとソトを分けていました。ところがいの音楽CDは売れなくなり、アップルのアイチューンズを代表とするインターネット上の音楽配信へと移っています。アイチューンズは、レコード会社と違って何もしませんが、音楽が流通する<>を提供し、有名ミュージシャンでも無名の独立系ミュージシャンでも、素人の個人でさえも自分の音楽を流通させることができるようにしています。そしてこの<>を世界中に広げています。ミュージシャンの面倒は何も見てくれない代わりに、世界的な<>を用意して、音楽を自由自在に、しかもネット経由で猛烈な速度で流通できるようにしてしまったのです。

<>の浸食する空間は、音楽からさらに書籍や映像にも広がっています。書籍の世界では、アマゾンのキンドルという電子書籍が<>の覇権を握っています。映像の世界では、アップルやアマゾンやグーグル等のネット企業だけでなく、映画産業もレコード会社の二の舞を踏むまいと参入しています。この流れは文化の世界だけではありません。たとえば、コンピュータは、もうかなり前から<>に変わっています。

1990年代、マイクロソフトが販売したウィンドウズは、パソコン本体とは別のOSで、マイクロソフトはOSに合わせて自由にパソコンやアプリを売ってくださいとコンピュータやソフト会社に呼びかけました。これはウィンドウズという<>をつくったということでした。この<>の上で安価なパソコンやアプリが売られるようになり、種類も増えて、ウィンドウズの<>は大変栄えました。そして古くからあった他のコンピュータをほとんど追い払ってしまったのです。ても、このウィンドウズという<>は、いま尼祖先やアップルが運営している<>とはだいぶ違います。いまの<>をネット企業がコントロールしているのと違い、ウィンドウズは自由自在゛でした。メーカーがウィンドウズに合わせたパソコン本体やアプリを売っても、手数料さえ取らなかったのです。ウィンドウズやグーグルのような自由な<>が有利なのか、それともアップルやアマゾンのような管理された<>の方が有利なのか。いずれにせよ、インターネットの世界では、昔のようなウチの構造に戻るとは、もう誰も考えていません。

電子機器だけではありません。<>はさらに浸食の手を伸ばしていきます。いずれ自動車も、<>に移行していくと言われています。現代の精密で高性能なガソリン車は、「すり合わせ」によってつくられています。自動車には、ブレーキシステムやエンジン、車体などの部品があります。これら部品をただ集めてきたら自動車が出来上がるのではありません。部品をきちんと組み合わせる、すり合わせの技術がすごく難しいからです。ところがこれが電気自動車になると、大きく変わると言われています。これは大変な変化です。ソフトウェアを巧みに書くことができれば、車の制御能力を上げていくことができるからです。この結果、機械と機械をすり合せるような職人芸は必要なくなります。そしてもソフトウェアが電気自動車時代の<>の役割を果たしていくことになります。

自動車だけではありません。製造業すべてが、<>へと移行していくでしょう。これまでのものづくりは、巨大企業が大量生産するシステムでした。しかしいまは巨大企業がつくる大量生産の製品は、だんだん売れなくなってきています。先進国ではどこでも「皆と同じものを持ちたい」という考えがなくなり、「自分にとって大切なもの」「自分が好きと感じるもの」を購入したいと思う人が増えてきています。そうなると、自分が本当に好きなものをつくって、それを少しの人たちに買ってもらえばいいと考える人も現われて来ます。数百万人に売るのではなくて、数千人、数百人に売れればいいということなのです。数百人に売るのであれば、巨大企業や巨大工場にたくさんの従業員は必要ありません。小さな町工場みたいなところで、ほんの数人が集まってものづくりをすればいいのです。この新しい世界では、パソコンとつながった工作機械が出力先になり、様々な設計データやデザイン、使い方のノウハウなどが新たな<>で共有されるようになるでしょう。そのような<>はまだ発展途上ですが、いずれアップルやグーグルと同じように世界中をつなぐものづくりの<>ができあがっていくのは間違いありません。そして、同時にこれは時計の逆回転であり、中世への回帰にもなっています。産業革命による巨大工場の大量生産から、家庭や自宅のガレージでものをつくるような方向へ回帰しています。

お金の流れる、<>へと変わっています。「ソーシャルファイナンス」と呼ばれる新しい仕組みが出てきています。例えば、銀行から融資を受ける時、そのお金は多くの人が銀行に預けた預金が元手です。それなら、お金を預ける人と、銀行からお金を借りたい人を、直接<>で結び付ければよいという発想です。銀行という組織のウチ側に取り込まれていたお金の流通を、<>という開放された場所へと移していくものです。

<>は、人と人とのつながりやコミュニケーション、あるいは政府や自治体、そして教育の世界へも浸透しようとしています。このように<>は、世界のありとあらゆる分野へと浸蝕し、すべてを呑み込んでいきます。この流れはもはやとどまりません。数十年後には、私たちの世界の構造はすっかり様変わりしているでしょう。

2013年7月26日 (金)

あるIR担当者の日記~7月25日(インサイダー取引って本当にいけないの?)

インサイダー規制に関するセミナーを聴いてきました。大手証券会社でインサイダー情報が漏れたとか、金商法の見直しとか、金商法の関係では、マスコミで取り上げられる回数も増えて、東証などでも、上場会社向けに、頻繁にセミナーを開いたり、J-IRSSのような取締役の自己株売買の登録システムを作ったりしています。

そこで、そもそも論として、インサイダー取引の何がいけないのか、という点で考えさせられたセミナーでした。常識としては、インサイダー取引はフェアプレイではなく、ズルして他人に抜け駆けして利益を掠め取る、というイメージがあります。道徳的によくないこととなっている、ということでしょう。そのように、悪いことだから、やってはいけない、だから規制しよう、規制を有効にするためには違反者に罰則を設けよう、というのが現在の金商法の規制ということになっていると思います。

これを逆の方向から見てみましょう。インサイダー取引をした人を処罰するということです。金商法とか具体的な法の規定から少し離れて、そもそも法律で処罰するという場合、刑法総論ですかね、一般論として、法律に触れていること、つまり、法律でやってはいけないことをやったということ、そして、違法性がある、つまり、その人のやったことが悪いといえること、そして、その人がやったことによって誰かが被害を受けたということの間に因果関係があるという3点が成立することが必要だとされています。そこで、インサイダー取引をやったということを当てはめると、第1の法律に触れています。しかし、第2及び第3の違法性と因果関係って本当に言えるのか、疑わしいのです。端的に言うと、インサイダー取引が行われて、誰が被害を受けたか特定できないのです。そして被害の程度も特定できません。そんなことはない、という反論あるかもしれません。そんなことがあって、本当は儲かるはずが儲からなかったという人が出てくるかもしれません。しかし、それは実際に損害を受けたというわけではありません。また、損をしたという人が出て来たとしても、どの分がインサイダー取引があったことによるのか特定できないと、因果関係がはっきりしないわけです。そうなると処罰の根拠がはっきりしない。

そのへんの何をもって悪いとするか、ということがウヤムヤで、場当たり的に規制をしているというような感じを、企業の現場にいる者は感じてしまうのです。会社法の改正の動き等もそうですが。

2013年7月25日 (木)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(7)

第5章 崩壊していく民主主義と国民国家

いまの先進国の若者たちは、かつてと逆回りの変化を感じています。

繁栄から失業へ

平等から格差へ

希望から恐れへ

近代ヨーロッパの世界システムは、今から考えるととても脆いものだったと言えます。経済成長は増えていく富を全員に分配することができ、これが民主主義を支えました。しかし逆に考えれば、富が増えていかなければ分配が止まってしまい、民主主義の根っこにある「国の内側の全員をできるだけ幸福にする」という理念にひびが入ってしまいます。そもそもヨーロッパの世界システムは、最初から矛盾を抱えていたとも言えるでしょう。民主主義がつくったのは「全員が政治に参加できる」という理念です。そして民主主義は、決して参加者をウチとソトに分けてはいません。民主主義に参加できるのはヨーロッパ人だけで、アジア人やアフリカ人は参加できないとは言っていないのです。なぜなら地球上の人間は生まれながらにして全員がひとしく人権を持っている、ということを民主主義は考えの土台にしているのですから。そうするとそこから矛盾が出てきてしまいます。民主主義の土台となった国民国家は、国のウチとソトを分けることで成り立っていました。なのに民主主義そのものは、国のウチとソトを分けないことを理念としています。相反しているのです。

この民主主義と国民国家のすれ違いは、民主主義をほころびさせていくことになります。民主主義は最初にヨーロッパの国民国家の間で広まって行きました。しかし20世紀に入るころから、民主主義の理念はヨーロッパだけでなく、それまでソトだったアジアやアフリカや中東の国々にも伝わって行きました。そしてこれが「自分たちのことは自分たちで決めるんだ」という植民地独立の気運とつながって行きます。しかし、これはヨーロッパの国民国家が帝国主義と植民地支配を生み出し、そして国民国家から生まれた民主主義が、今度は植民地の独立を促したということになります。だったら、そもそも国民国家なんか生まれなければ、植民地にされることもなかったし、苦しい独立運動をする必要もなかったということになりませんか?おまけに植民地が独立し、ヨーロッパを真似て国民国家になるというのも、それぞれの地域の実情を無視していることが多くて、かなり無茶な選択でした。

そしていま、このヨーロッパの世界システムは衰えて滅びようとしています。三つの要因を考えてみましょう。

先ず第一。そもそも国民国家なんて、歴史の必然で生まれたものではありませんでした。ヨーロッパという特殊な地域のちょっと変わったシステムが、色々な偶然の積み重ねによってそのまま世界に普及してしまっただけなのです。だからこの「国民国家から始まった民主主義」というヨーロッパの世界システムは、永遠に正しい摂理であるとはいえません。

第二。産業革命による経済成長も、決して未来永劫に続くものではありませんでした。19世紀の後半に始まった「第二の産業革命」は1970年頃まで長く続きましたが、21世紀になったいまは、すでにその効果を失ってしまっていて、もはや経済成長を後押しするエンジンは存在していません。

そして第三。いま起きている「第三の産業革命」は、これまで先進国がウチに留めていた仕事を、ソトであるアジアやアフリカなどの新興国に分散しています。これは、近代ヨーロッパの世界システムの重要な要素だった「ウチとソトを分けることによってウチかせ繁栄する」という原理を、破壊しようとしています。

これに対して、政治的イデオロギー、経済政策での対策は通じませんでした。

あるIR担当者の日記~7月24日(アナリストと経営者)

昨日、取り上げたN社の説明会でのことて、別の話題です。説明会の質疑応答で、楽天がアナリストのレポートに対して抗議の文書を公開し、そのアナリストに対して、出入り禁止を宣言した事件の感想を、社長に聞いた人がいました。これに答えて、当の批判されたアナリストのレポートは、分かっていないのが一目瞭然で、酷いものだという評価をまずして、だからといって、会社の文書にして公表したり、出入り禁止にするのは適切でない。その理由は、アナリストが理解していないのであれば、理解してもらう努力をすべきだ。経営者は、アナリストを育てることも、心がけるべきだ。経営者とアナリストが、向上しなければ、日本の市場は強くなれないと言います。それはタテマエとして反論できない正論で、そういう市場全体を視野に入れる見識は、さすがにトップ経営者だと思いました。しかし、気になったのは、その内容ではなくて口調でした。どこか、アナリストを見下している感じがしました。経営者とアナリストは相互に高め合うという発言に対して、アナリストから学ぶことがあるのか、という質問に対して、社長は、あると答えました。が、それは、アナリストが見当外れなレポートを書いた時に情報開示の方法を見直す契機になる、というものでした。そして、説明会の最前列に居並ぶアナリストたちを指さし、彼らは私の弟子だ、というような発言をしていました。半分冗談で、この社長得意のパフォーマンスではあるでしょう。しかし、そこに、本音が含まれているのは明らかでした。ビジネスの厳しい現場で常にトップの立場で長年戦ってきた人から見れば、年下のアナリストは青二才と映るのは無理のないことで、社長の発言には悪意はなく、彼らへの親しみすら感じられるものでした。しかし、それは、全面的に正しいとはいえないと思います。投資する人の側にいるアナリストと、信頼されて経営を任される経営者とでは、立場が違うし、求められるものが違うはずで、同じ物差しで比較できるものではありません。だから、仮に戯れでも、アナリストを弟子だというのは失言といってもいいと思います。そして、そのことに対して、居並ぶアナリストたち、アナリストの業界でいえば錚々たるメンバーたちのはずですが、そこで笑っているだけでした。それを見ていて、とても情けない思いをしました。彼らの笑い、追従を感じてしまったわけです。私もサラリーマンを長年続けているので、それを単純に悪いということはできませんが、せめて、一人ぐらいは毅然としたところを見せてほしかったと思いました。彼らは、別の、もっと規模の小さい企業の経営者やIR担当者には、頭ごなしに直言することもあるのだろう。そういう人たちに、今の姿を見られていたとしたら、どうするのだろうか、と考えてしまいました。

2013年7月24日 (水)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(6)

第4章 「民主主義」という栄光

さまざまな権威が消え、「自分たちのよりどころは自分達自身だ」という考えに達したヨーロッパ。これこそが近代の始まりでした。この何もないというところから、一歩一歩自分の足もとを確かめるようにつくられてきたのが民主主義という政治のシステムです。ヨーロッパでは、ブルジョワジーと呼ばれる中流階級が生まれてきます。そしてこのブルジョワジーたちが大きな経済力を持つようになって、それまで政治を独占していた王や貴族に対して「私たちも」政治に参加させろと求めるようになりました。そこから民主主義が始まったのです。

そして19世紀の終わりごろになってくると、ついに労働者階級が政治への参加を強く求めるようになってきます。産業革命が進んできたからです。この産業革命で、人口の移動が起きました。農業から工場へと産業が変化していき、それに伴って、農村に住んでいた人たちが工場のある都市へと移動していきます。人々は空気も水も汚いし狭苦しい場所に住み、劣悪な労働条件の工場で働かされるようになります。これはやがて、大いなる怒りを引き起こします。この労働者の怒りのパワーを、政治に繋げようと考えたのがマルクス主義でした。このころヨーロッパの多くの知識人は、「たぶんブルジョワジー中心の市民社会はもうすぐ終わってもどこの国でもマルクス主義が勝つことになるだろう」と予測していました。ところがそうはなりませんでした。最も大きな理由は、労働者の収入が、豊かになってきたということです。これは19世紀から始まった「第二の産業革命」で、さらに工業化が加速して経済が成長したということが原動力になっていました。皆が中流階級になり、生活が安定すれば、暴力的な革命など誰も望まなくなります。そしてヨーロッパの国々は安定した社会へと進んで行ったのです。都市で増え続けていた労働者の数も落ち着いてきました。生活が安定すると、生まれる子どもの数は減っていきます。働き手を増やして生活苦を乗り越えようとは考えなくなるからです。これによって仕事の奪い合いは少なくなり、ますます生活は安定していきます。そして労働者は社会をひっくり返して革命を起こすことよりも、自分たちが勝ち取ったと富や権利を維持して思考と考えるようになったのです。そして、労働者階級にも選挙権か与えられるようになり、普通選挙が始まりました。これで労働者たちは正式に国民国家のメンバーとなり、ここから「全員が政治に参加する」という民主主義が実質的に始まりました。これが成り立つのは「出来るだけ多くの人が幸福になっていく」というのが可能な社会だからです。そしてヨーロッパでは、この幸福を、産業革命が支えてくれました。

一方、産業革命でヨーロッパの経済が成長してくると、生産のための原材料を調達し、生産されたものを売る先をつくるため、アジアやアフリカ、中東を植民地支配するという「帝国主義」が加速しました。ヨーロッパは中心として豊かさを楽しみ、植民地は周辺として、不平等を押し付けるようになります。つまり帝国主義は、世界全体をヨーロッパとそれ以外に分けたのです。これは国のウチとソトを分ける国民国家の考え方を、ヨーロッパというウチとアジアやアフリカというソトに分けるという考えにまで拡張したものです。

つまりはヨーロッパの民主主義というのは、ソトに不利を押し付けることで成り立ってきたと言わざるを得ないということなのです。ヨーロッパが作った近代の世界システムは、四つの要素から成り立っています。

国民国家であること

国民国家のウチの結束を固め、強い軍隊を持つこと

国民国家のソトを利用し、経済を成長させること

そして国のウチでは、民主主義で皆で国を支えていくこと

これは、ソトがあるからこそ成り立つシステムたったのです。国民国家というシステムは、このソトの発明こそが真髄だったと言えるでしょう。中世の帝国には明確な境界はなく、ソトを持ちませんでした。帝国は無理にウチとソトを分けず、帝国の領土を無限に広げていくという考え方で成り立っていたシステムだったからです。

そしていま、この地球上においてソトは消滅しようとしています。グローバリゼーションが地球を覆い、すべての国のすべての国民を、ウチへと招き入れているからです。

あるIR担当者の日記~7月23日(N社の野望?)

「あるIR担当者の雑感」のシリーズ100回以上書き込みしてきましたが、ある程度以上のボリュームで、考えていることをまとめる形となってきたため、書き込みしている本人にとっても少し重くなってきてしまいました。もう少し、気楽に書き込みもしたいと思い、別にシリーズとして、日記のような形ではじめていきたいと思います。なお、「あるIR担当者の雑感」の方も、別に続けていくつもりです。

というわけで、第1回を始めます。

今日は、ある方のご厚意で本日第1四半期の決算発表のあった電子部品メーカーの決算説明会に行ってきました。創業者である名物社長の力強いプレゼンに触れ、勉強させられ、また元気づけられてきました。昨年の第2四半期の際に、世間では震災の復興が云々されている中で、閉塞状況をいち早く察知し、構造改革として事業のポートフォリオを組み直しと大規模な事業再編で効率化を宣言しました。そのため、前期の業績は売上が伸びず、利益率が落ち込みました。それでも、N社長は力強くV字回復を熱く語っていました。それが、この第1四半期で結果がでてきた。四半期売上では最高のものとなり、利益はV字回復し、さらに業績予想の上方修正を決算と同時に発表しました。説明会では、その実績と、今後の展開について、説明と質疑応答が熱く交わされていました。

ここからは、私の勝手な想像です。ここまで、何度か説明会に出席して社長の話を聞いて、こうではないかと考えたことです。もともと、ノートパソコンの冷却ファンで用いる小型モーターを主力製品として事業を成長させてきました。しかし、パソコンというものの成長余力が残り少なくなってきた。そこで、新分野に展開し、自動車のワイパーやパワステ等の様々なモーター、あるいは家電や機械で使われるモーターに進出して、パソコン頼みから、複数の主力事業の並立する事業構成というのが、説明された方針です。しかし、N社はモーターという部品のメーカーからモーターを基幹としたユニットとかシステムとか、あるいはモジュールを提供するメーカーに変わろうとしているのではないか、と強く感じました。その理由として大きく考えられるのは中国などの新興諸国で進んでいる、モジュール化と垂直分裂というビジネスモデルです。例えば、日本のメーカーが電気製品や自動車等の製品を垂直統合といって基幹部品は自社の内部で生産して、他社との差別化をはかります。これに対して、中国の自動車メーカーは最も基幹的で会社の特徴を出せるエンジンを自社生産しないメーカーが数多いのです。内製はコストがかかることと目まぐるしく変化する市場についていくには身軽な方がいいからだと言います。その代り、エンジンはモジュールのように規格化され、複数のメーカーで競争して生産し、自動車メーカーはその競争を利用してコストをかけない仕組みになっています。電化製品でもエアコンでは最も重要なコンプレッサーを購入で済ましてしまうといいます。実際の日本の電機メーカーは中国でエアコンは売れなくても、コンプレッサーは大いに売れているといいます。それが、参入障壁を低くし、起業を促し経済の活性化を促したといえます。そして、N社が進出しようとしているのは、まさにこの部分ではないかと思うのです。実際、このビジネスモデルは中国から中東にも伝播しているとN社長は説明していました。

そして、これらの分野は、たんに軽量で高性能のモーターを動かしていればいいというものではなく、モーターの制御も必要になってくる。そのときに単にモーターを単体として売るのではなくて、モーターの制御も含めたユニットとして売れば付加価値の高いものとなる。それ以上にモジュールとして売ることによって、エアコンのコンプレッサーで日本の電機メーカーが儲けたようなことができます。さらに、自転車の分野でシマノという自転車は作らないのですが、ブレーキや変速機や駆動部が一体となったユニットを生産して自転車の世界を支配しているメーカーがありますが、あるいは、マイクロプロセッサーでインテルがパソコンを支配したように、N社はモーターを基幹としたモジュールで自動車や電化製品の世界を支配できるのではないか、それを狙っているのではないか。

かなり無責任な個人的妄想です。しかし、考え方としてありうると思うのです。N社長の力強い説明を聞いていて、そんな可能性を夢想してしまいました

2013年7月23日 (火)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(5)

おまけに国民国家は、戦争を引き起こしやすいシステムでした。なぜなら小さな国が乱立する国民国家は、帝国と違って国と国とのあいだで争いが絶えなかったからです。特にヨーロッパのようにどこまでも地続きの土地では、国境線をどこに引くのかでつねにもめごとが起きます。隣国との間で「ここからここまでが我が国」と定めても、今度はそのなかにいる人間が全員同じ民族とは限らないということが起こってきます。国と国との争いだけでなく、民族と民族の争いが起き、少数民族が独立を求めて戦うような小さな内線もしょっちゅう起きるのです。つまり国民国家は、つねに戦争の危険をはらんでいて、実際に繰り返し戦争を引き起こしてしまうシステムでした。振り返れば中世の帝国の時代は、おおむね平和の時代でした。帝国は多くの土地に武力で侵入し、支配するけれども、いったん支配におさめた土地には長い平和が約束されていました。これに対して、国民国家は戦争を引き起こしやすく、そして戦争にも強い。戦争に強くなるから、さらに戦争は引き起こされやすくなる。これこそが、国民国家というヨーロッパの特殊なシステムが内側に秘めていた、大いなる矛盾だったのです。

さらに国民国家は「国民」がひとつであるということを維持するために、ソトに敵を作りたがります。「外部に敵がいる。一致団結しよう」と言い続けることで、愛国心をあおり、それによって国民国家を維持するという仕組みが開発されたのです。つまりは国のウチとソトを厳密に分けることで、ウチの団結心を高めようと考えたのです。

この国民国家のウチとソトの発想は、植民地という悲劇にもつながっています。近代ヨーロッパがさかんにアジアやアフリカを植民地にし、富を奪い取ったのは、経済的な理由からだけでなく、国民を鼓舞し、国家を維持するためという精神的な動機もありました。植民地というソトをつくることで、国のウチソトを分け、ウチである自国民を豊かにし、団結する。そのためにソトの他国を侵略し、他国から富を奪ってくる。19世紀に入ってヨーロッパの国民国家が海外進出し、次々とアジアやアフリカを植民地に召し取るようになっていったのはそういう背景がありました。さらに言えば、植民地を作ることによって、国内の格差が顕在化するのを避けることも出来ました。植民地からの富と、植民地というソトを見出すことによって、労働者階級の不満も抑えることができました。一方、そうやって侵略された植民地の側も、国民国家への熱狂にあおられていきます。「われわれも国民国家にならなければ、植民地にされてしまう」と焦るようになり、アジアやアフリカの国々も、次々と国民国家としての独立を急ぎました。これが19世紀末から20世紀にかけての世界のありさまでした。ヨーロッパから始まった国民国家というウィルスのようなものが世界中へと感染し、強い軍隊と植民地化という「毒」で侵され、ドミノ倒しのように次々と国民国家へと脱皮させられていったのです。

国民国家の誕生で、文化も大きく変わりました。国民軍を鍛え、維持し、戦争に駆り立てるためには「我々は同じ国民だ」という愛国心を燃やさなくてはなりません。この熱意が世界中の国民国家政府を駆り立てました。愛国心教育が生まれ、国歌が作られて行きます。文学も民族の伝統も映画も、国民国家のイメージを植え付けるために利用されるようになりました。これは日本でも同じでした。江戸時代の普通の日本人には、日本人という概念なんてありませんでした。藩や郷土の意識ぐらいしかなかったのです。なぜなら江戸時代は鎖国し、日本のソトを意識する必要など全くなかったからです。そのような社会では、「自分は日本人だ」と考えるこつなどありません。さらに言えば天皇に対する見方も今の日本人と、江戸時代では全く違っていました。しかし、明治維新政府は富国強兵を進めるに当たり、「国を強くしよう」「兵隊に行こう」とただ呼びかけるだけでは、日本人という意識がまだ薄かった当時の国民は動いてくれそうにありません。大日本帝国という国家のもとに、国民全体が結集して力を尽くすというようなイメージ作戦が必要でした。そこで明治政府は、京都にひっそりと暮らしていた天皇家を引っ張り出し、新しい日本の元首になってもらうと考えたのです。しかし単に新しい元首というだけでは、国民は納得してくれないかもしれません。そこで古代の天皇家のことを調べ、古い儀式や式典をつくり直して、古代から今までずっと血筋の続いている「万世一系」をうたい、天皇家のイメージを高めたのでした。近代が進む中で、ヨーロッパでも日本でも同じようなことが行われました。そこで国民国家という、それまでは存在しなかった新しいシステムが育てられていったのです。

これまで見たように、外へ外へと侵略し、内側では民族の結束を固めるのが国民国家というシステムです。それはウチとソトを厳密に分けることで、国を成り立たせています。これは境界を決めず、無理にウチとソトを分けない帝国のシステムと真逆でした。このウチとソトを分けるというやり方には、マイナスの面とプラスの面がありました。マイナスの面は、植民地支配ということが盛んになってしまったことです。しかしプラスの面もありました。それは国民国家が「民主主義」を生み出したということです。ヨーロッパでは教会の権威が失墜し、王も消え、権威が何もなくなってしまいました。そこで仕方がなく「国民という権利」をこしらえ、「同じ民族の自分たちひとりひとりが結束していることこそが、最大のよりどころなんだ」という考えをつくりました。権威は神様や王様のなかにではなく、自分たちのなかにあるのだ、という考え方です。でも一方で、そうやって「自分たち自身」を信じることは、不安でもあります。怖いことです。なぜなら、頼るべきものがなくなってしまったからです。いままで立派なお父さんに頼って生きて来た少年が、急にお父さんがどこかに行ってしまい、「あなたは自分自身を頼ってこれからは生きていくんですよ」と言われたようなものです。そう言われてしまった少年は、どうすれば自分一人で生きていけるでしょうか。もう他に頼る人がいないのであれば、答えは一つしかありません。自分の心の中に「立派な自分」を想像し、その「立派な自分」から外れないように、自分をきちんと律して生きていくのです。その「立派な自分」こそが、近代ヨーロッパの哲学で考えられた人々の「理性」でした。そうやって自分の中に「立派な自分」を作り上げることで、無秩序になり混乱してしいがちな人間の生き方をなんとかコントロールしていきましょう、ということ。それが近代ヨーロッパの哲学の基本的な理念になっているのです。そしてこのような理念は、神様に頼るのではなく合理的に自分たちで真理を発見していこう、という気運につながって行きます。この考え方が近代科学の出発点でした。

2013年7月22日 (月)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(4)

第2部 近代─私たちが「国民」になった時代

第3章 「国民」は幻想からやってきた

なぜヨーロッパは、中世の帝国を蹂躙し、侵略し、世界のすべてを支配するような強い軍隊を持っていたのでしょうか?

それは、国民が団結できたからです。中世の帝国には、国民の団結などというものはありませんでした。そもそも「国民」などという概念さえありませんでした。あったのは、世界ネットワークを利用しながら自由に動き回って生きていた、さまざまな「民族」だけだったのです。しかし近代ヨーロッパの国々は、「自分たちは同じフランス人なんだ」とかいうような団結を強く意識し、国民は自らの国旗のもとにはせ参じて軍隊に入隊し、これが強い武力の源になったのです。

国民という概念が生まれたのは、実はヨーロッパという地域が持っていたきわめて特殊な性格が原因になっています。ここで、国というものの意味を国民の視点からとらえ直して見ましょう。国というのは、国民である私たちにとっては最終的な「よりどころ」のようなものです。現実的には、生活のよりどころであり、警察による治安だったり、外国の侵略から守ってくれるなどの現実的なよりどころと、帰属意識をもつことでアイデンティティをもてる精神的なよりどころ、でもあります。

古代のヨーロッパでは、現実的にも精神的にもローマ帝国が最大のよりどころでした。しかし、ローマ帝国が衰え、よりどころでなくなった時に、人々の心の空白を埋めたのがキリスト教でした。キリスト教が以前の宗教と大きく違っていたのは、神様が道徳を語り「人を愛せよ」と教えたことでした。その教えは、疫病が流行し、何もかもが信頼できなくなった時に、自分の哀しみを癒してくれるなぐさめとなり、キリスト教は力を持ち続けました。とくに、ローマ帝国が滅亡した後、ヨーロッパは小国家が乱立したままになり、現実的なよりどころは消滅してしまいました。ユーラシア大陸の中心から見れば、ヨーロッパは辺境の「忘れられた土地」になりました。ヨーロッパは辺境のその代わりにキリスト教が精神的なよりどころとして君臨し、ヨーロッパ人の心を占め続けたのです。「忘れられた土地」であるヨーロッパに住む人のあいだでは、「自分だけのキリスト教聖地」みたいなものをつくって、心の隙間を埋めようという動きまで現われました。

このように教会が人びとのよりどころになったことは、ヨーロッパをたいへん特殊な状況に置きました。中世ではたいていの場合、精神的なよりどころと現実的なよりどころの両方を帝国という大きな国が担っていたのですが、ヨーロッパではこのふたつのよりどころが分離してしまったのです。現実的なよりどころである「俗」の世界は、封建制度でした。これは今の国家とは違い、国王と領主等の関係があくまでも個人と個人の関係だったということと、法律とか制度とか組織とか、そういう枠組みのようなものが全然なく、この関係は領地についてだけの話だったということです。そこでの領民は単なる「領地のおまけ」にすぎなかったのです。一方で、精神的なよりどころである「聖」のキリスト教会は、「俗」の世界ではオマケでしかない人々の心を支配していました。誰もが教会に属していました。ある教会の教区で生まれたら、幼児の時の洗礼から結婚、葬儀までの一生が教会によって管理されたのです。それはまるで人間のからだのようなものだったと言えるでしょう。無数の細胞があって、それぞれは勝手に生きているけれど、その無数の細胞をキリスト教という「生命」のようなものが有機的に結び付けてもひとつのからだを維持している。そういう構造です。中世ヨーロッパというからだは、キリスト教という大きな生命に支配され、ひとつの身体をつくっていたのです。

これに対して「俗」の小国に細かく分かれた状態が常態化し、現実の帝国が不要であることをヨーロッパの王族たちは実感したのです。強大な帝国が出て来るよりは小国が乱立したままの状態にして、バランスを保った方がいい。それぞれが同盟関係をつくり、互いに外交官を常駐させ、国家間の利害を調整しよう。そういう動きがだんだん現われて来ます。このような中世の帝国とは違うシステムが成立し、いまの「国際社会」の原型となりました。このヨーロッパをモデルとした国際社会のあり方が、20世紀に入ると世界全体にいきわたり、ひとつの民族がひとつの国家をつくり、それらの国家が集まって国際社会を形成するという今のようなシステムへと成長していったのです。そして、中世の終わりから近代に始めにかけて、キリスト教会の失墜がおこり、精神的なよりどころを失ってしまうのです。

キリスト教会失墜の原動力となったのは「印刷」の発明でした。印刷は人々の信仰を大きく変えました。それまで聖書といえば、修道院や大学の図書館のような特別な場所にしかなく、しかも一冊一冊手書きで書き写された写本でした。羊皮紙にインクで描かれた写本の美しい聖書は、図書館の壁に鎖つきで保管されているほどの高級品だったのです。さらに聖書は、ローマ帝国の公用語であるラテン語で書かれていました。ラテン語は中世ヨーロッパの知識人たちだけが使う共通語で、普通の人には全然読めませんでした。だから聖書を読めるのは神父様などの知識人に限られていて、これが教会の権威のもとにもなっていたのです。

そこに現われたのが、マルティン・ルターです。境界と対立を深めたルターにとっての武器は、その頃普及しはじめていた印刷技術でした。聖書を民衆が理解できるようにわかりやすいドイツ語に訳し、これを印刷して出版したのです。これがしゅぅきょぅ改革の発端となり、キリスト教は多様になり、ローマ教会の権威は相対的にだんだん低くなっていったのです。でも、これはヨーロッパの人々に危機をもたらしました。「聖」という精神のよりどころが衰えると、精神の支えがなくなってしまうからです。絶対王政がこれに代わろうとしましたが、相次ぐ革命で王の権威も失墜します。

フランス革命で国王を処刑した人々は、その王の財産を「フランス人の全体が王の財産の相続者だ」ということに至ります。ここではじめて、「フランスという国民が国を作っている」という新しい考えが生まれました。これこそが「ひとつの民族がひとつの国」という国民国家のスタートに他なりません。つまるところ国民国家というのは、帝国の権威が消え、キリスト教会の権威も衰え、王の権威も革命で消え、権威が何もなくなってしまった後に、無理矢理「国民という権利」をこしらえたということだったのです。

そして、この「ひとつの国民がひとつの国」という国民国家は、たいへんな副効用がありました。それは、国民国家はめっぽう戦争に強かったということです。なぜ戦争に強いのでしょうか?それは国民兵が「同じ国民」として強く団結して戦えたからです。フランス革命で祖国フランスを防衛するために募られた義勇兵は、近代ヨーロッパの国民皆兵制度の始まりとなりました。この国民の軍隊はとても強く、おまけに加減を知りませんでした。中世までのヨーロッパの戦争は、「ほどほどに、決着をつけずに戦う」というのがおおかたのルールでした。殺し合いは少なく、お互いの被害は最小限に、話し合いの余地は残しておこうという戦いだったのです。しかし、フランス革命の熱狂の中で集められた国民兵たちは、そのルールを無視しました。国が総動員され、国民すべてが兵士になり、敵を殲滅するという近代の戦争は、ここから始まったのです。 

2013年7月21日 (日)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(3)

第2章 なぜ中世の帝国は滅んだのか

15世紀ごろから、世界は大きく変わり始めました。それまでの中世帝国の世界ステムが段々と衰え、その代わりに信仰のヨーロッパが台頭するようになったのです。この明快な理由は分かっていませんが、ヨーロッパを世界の中心へ押し上げるために起きた要素を、並べて見ることはできます。

先ず第一に、中世帝国の世界システムが衰退してしまったこと。第二に、アメリカ大陸にヨーロッパ人が到達し、金などの豊富な資源を入手できるようになったこと。第三に、ヨーロッパはそれぞれの国の国民が団結し、強い軍隊も持っていたこと。

これを順番に見ていくことにして、中世帝国が衰退した原因ははっきりしていません。

第二の要素、アメリカ新大陸への到達。実はヨーロッパの人々は、大西洋に出ていくことを運命づけられていたのです。ヨーロッパ人だけ立派な開拓者精神があったからではありません。彼らが出ていける先は大西洋しかなかったから、大西洋に舟を漕ぎ出したのです。なぜなら彼らは、中世の世界システムの中心となっていた交易ルートから外れていたからです。イスラムや中国、インドの帝国は、大西洋や太平洋のような大海原には大して興味を持っていませんでした。彼らは、互いの資源や生産物を交易ネットワークで売買して、それで十分に満たされていました。わざわざ危険を冒してまで、悪魔の住んでいそうな大西洋や太平洋を横断し、どこかに行ってみようとは考えなかったのです。しかしヨーロッパ人たちはそうではありませんでした。世界の中心から疎外され、貧しかった彼らは、果敢に大西洋へと漕ぎ出して行ったのです。こうして開拓した新大陸は銀が豊富でした。ヨーロッパ人たちは大量の銀を母国に持ち帰り、この銀をアジアとの交易に使うようになります。それまで交易ネットワークから外れていたヨーロッパ人たちは、大量の銀を持ち込んだことでようやく「正式メンバー」として交易に大手を振って参加し、帝国と同等に振る舞えるようになったのでした。ヨーロッパ人は新大陸の銀を使い、陶磁器や茶、綿花、スパイスなどを買いまくりました。その結果、ヨーロッパは豊かになって行きました。

新大陸がもたらしたのは、銀だけではありません。広大な土地には開拓地を求めて多くの移民が渡り、農地を開き、街を作っていきます。そうして新大陸はヨーロッパのものを買ってくれる巨大市場にもなってきます。ヨーロッパは新大陸から銀を運び、農産物を輸入し、ヨーロッパで生産したものを今度は逆に新大陸に輸出する。その繰り返しでどんどん豊かになっていったのです。

そしてヨーロッパにはさらに決定的なことが起こります。それが18世紀の終わりからの産業革命です。イギリスから始まった生産量を増やすための革命です。それまでの手工業では、作れる量には限りがありました。これを機械化し、一気に生産量を増やそうとしたのが、産業革命の本質でした。なぜ生産量を増やす必要があったのでしょうか。そこに大きな市場があって、生産されたものを売ってくれるのを待っていた。イギリスにとってはこれがアメリカ大陸とインドでした。そして新大陸から大量に流れ込んでくる銀などの富。この二つの背景があって、イギリスは産業革命を起こす必要があったのでした。この産業革命による生産力によってヨーロッパはアジアを圧倒していき、世界の中心の地位を奪っていきます。新大陸の発見で、世界の中心はヨーロッパと新大陸を結ぶ大西洋になりました。中心がユーラシア大陸という「陸」から、大西洋という「海」へと変わったのです。古代から中世にかけての世界システムは、すべて「陸」の時代でした。一方、陸を全て支配されてしまい、大西洋という広大な「海」に出ていくしか選択肢のなかったヨーロッパは、大航海時代に入って海を自在に操るようになり、海の国となりました。ここから海の時代が幕を開けたといえるのです。

しかしまだ疑問はあります。なぜヨーロッパは世界の中心になるだけでなく、世界を支配するようになったのでしょうか。中世システムが衰え、新大陸の発見と産業革命でヨーロッパは世界の中心の位置を占めるようになりました。しかしヨーロッパは中心の位置だけでは満足しませんでした。さらに時代が進んで19世紀から20世紀になってくると、世界中を植民地にして支配し、圧政下に置くようになったのです。それは、ヨーロッパに圧倒的に強い軍隊という武力があったからです。これがヨーロッパが世界システムを作り上げた三つ目の要素です。

ヨーロッパのそれぞれの国の国民が団結し、強い軍隊も持っていたということ。この強い軍隊の出現から、近代ヨーロッパの夜明けが始まったのです。

2013年7月20日 (土)

プーシキン美術館展 フランス絵画300年

Pu6月に定時株主総会が終わり、3月決算の上場会社は一区切りがつく。とくに会社法や株主総会の担当者は最大かつ最重要なイベントが終わったということで、ひと段落となる。そこで、上場企業の株式担当者のヨコの組織である株式懇話会は7月に総会の反省会とメンバーの慰労を兼ねた部会を開催している。今年の部会は、あるメンバー企業の横浜近くの工場見学と勉強会、そして夜の親睦パーティという企画だった。

何で、美術展と関係ないことを説明したかというと、丁度その日、勉強会が終わり、夜のパーティまで1時間30分の時間が空いたので、近くの横浜中華街で自由時間となり、中華街を各自散策することになった。しかし、中華街というのは、いうなれば飲食店街で、あとでパーティで食べることになっていることを考えると、見てもしょうがない。実際の、ほかのものは何もないので、私には食べる目的がなければ退屈な場所でしかなくて、そこで時間を過ごすのも苦痛だ。ということで、少し駆け足になるが、近くの横浜美術館に行くことにしたというわけだ。そこで、ちょうどプーシキン美術館展をやっていた。だから、これが目的で訪れたというわけではない。たまたま寄ったらやっていたというものだ。実際、パーティの集合時間に間に合わせるために、30分という時間制限が課せられることになったが、30分で十分の薄味の美術展だった、というのが正直な感想。

Pu2展示点数は66点とそれほど少なくはなかったのですが、とにかく展示されている者が散漫というのか、フランス絵画300年というサブタイトルでしたが、その期間のフランス絵画をただ並べましたというものでした。プーシキン美術館が貸してくれた作品を並べただけというのが正直な印象です。プーシキン美術館から作品を借りるというのは大変な作業で、きっと交渉に全精力を使い果たしたのでしょうか。だから、とにかく借りることができたのを並べて、そこに有名な作品があるので、どうだ凄いだろうと、その程度の感じではないかと思いました。だから、この集められた諸作品の、これを見せたいというようなメッセージが何も伝わってこないものでした。

例えば、そこで集められた作品の中から特徴的な傾向をポイントとして抽出して、関連した作品とか比較できるような作品をコレクションや国内の他の美術館から借りて、プーシキン美術館の傾向を際立たせるとか、何かあったのではないかと思ったりしました。私は、美術館を見るのは嫌いではないですが、絵画に関する知識は少ないので、有名な作品というのはよく知りません。だから、この作品が来るから、見に行こうというようなことはありません。たいていは、その美術館で開かれる企画展全体を見るので、その企画ということも含めてです。

Pu3そして、作品の好き嫌いとか良し悪しの評価等というものは、たいては絶対的なものではなくて、相対的なものであることが多いと思います。その作品に固有のものではなくて、他の作品と見比べてどうだという具合のものです。たから、その作品の良し愛とか好き嫌いは、その作品自体によることもあるのですが、その作品の隣にどんな作品があったなとか、どのような構成の並び方で、その作品があったかなどにも強く影響されるものです。しかし、今回の展示を見ていると、そういう配慮がなくて、ただ年代順に並んでいた。悪く言えば放ったらかしのような印象でした。

だから、並べられている展示作品をなぞるようにひと通り眺めて、それでおしまい。少し、引っ掛かったのは、アングルの『聖杯の前の聖母』とジョゼフ・ペリニオンの『エリザベータ・バリチャンスカヤ公爵夫人の肖像』という作品くらいでした。こんな書き方は絵画に対して失礼かもしれませんが、展覧会じたいが、その企画に愛がないもので30分の暇つぶし程度のものだったので仕方がないというかんじでした。

2013年7月19日 (金)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(2)

第1部 中世─多くの民族がともに栄えた帝国の時代

第1章 かつてヨーロッパは辺境の地だった

20世紀型の世界システムをつくったのは、ヨーロッパ人たちでしたが、ヨーロッパはずっと世界の中心だったわけではありません。中世までは単なる辺境の地、世界の最果てでしかなかったのです。「なぜヨーロッパ人がそれほどまでに強く大きくなれたのか」ということが不思議に思えてきます。

古代のギリシャとローマの文明はヨーロッパ文明ではなく「地中海文明」です。古代ギリシャ文明のルーツはいまのトルコのあたりで、ヨーロッパとは何の関係もありません。そして、ギリシャとローマの文明が滅びた後も、世界の中心は地中海から中東、インド、中国へと連なるユーラシア大陸南部地域でした。ヨーロッパが中世の暗黒時代になっていようがいまいが、それとは関係なしにこの地域は最近までずっと繁栄し続けていたのです。経済だけではありません。ギリシャ・ローマの古代文明を保存し、後世に伝えたのは、イスラムでした。

中世の真っ最中には、イスラムから見たヨーロッパは辺境の未開の地で、蛮族の地域でしかありませんでした。このころのヨーロッパ人たちのよりどころはキリスト教でした。4世紀にローマ帝国の国教となって、だから帝国がなくなった後は、国教だったキリスト教がローマ帝国を思い出させる拠り所となっていたのです。だから、ヨーロッパ人たちは、キリスト教の聖地エルサレムへと旅行しました。当時のエルサレムはイスラム帝国の領土であり、その経済や文化にかれらは圧倒されます。そして当然のように、かれらは野蛮人扱いされ、その屈辱とイスラムに対する羨望が鬱屈し、この屈折した感情が「キリスト教の聖地エルサレムをイスラムから奪い返すのだ」という意志へと変わっていきます。これが十字軍に結実します。

一方、イスラム帝国の側からみると、未開のヨーロッパから突然やって来た十字軍は迷惑以外の何ものでもありませんでした。この時代の中心はイスラムであり、イスラム帝国には科学と文化の真髄が集まっていました。その文明の国の人たちにとっては、ヨーロッパの十字軍は「無教養で野蛮な者たちが突然意味もなく襲ってきた無気味な出来事」としか映らなかったということなのです。これはまるで21世紀の今のイスラムと欧米の立場をちょうど180度逆転させているかのようです。こういうイメージは、どっちが「中心」で、どっちが虐げられた「周辺」なのかという関係の結果生まれるイメージにすぎないということなのです。

ドミニク・モイジという現代フランスの政治学者によれば、今の世界は様々な感情によって分けることができると言います。「希望」「恐れ」「屈辱」という三つの感情です。中国やインドは、いろんな問題は起きているけれども経済は成長し、「希望」でいっぱい。イスラムは、中世までは世界の中心でヨーロッパ人をバカにしていたのに、今は遅れた場所と虐げられて、そういうことに対する「屈辱」で溢れていると言います。そしてヨーロッパは、今かつての力を失いつつあって、これまでの豊かな生活がなくなるのじゃないかという「恐れ」に包まれています。振り返ってみれば、中世に周辺の辺鄙な土地だったヨーロッパは、近代になって、中世までの世界のシステムをつくり替えました。日本もアメリカもその他の多くの国も、基本的にはヨーロッパが作った世界のシステムに基づいて政治や社会や経済の制度をつくっています。しかしそのおおもとのヨーロッパが「恐れ」に慄いている中で、いつまで近代の世界のシステムが存続するのかはもうはっきりわからなくなってきました。

それにしても、それほどまでに壮大な文明を作り、世界の最先端をいっていたはずのイスラム(あるいは中国)が、なぜ「屈辱」に支配されるほどまでに落ちぶれてしまったのでしょうか。古代の終わりから中世にかけては色々な帝国が栄え、興亡を繰り返しました。しかし世界のシステムは一貫しています。たいへん大雑把に言ってしまえば、当時の世界システムには二つの要素がありました。

第一には、帝国は多民族国家だったということ。

第二には、帝国と帝国を結ぶゆるやかな世界の交易のネットワークがあったということ。

このうち、帝国が多民族国家だったというのは、今のように「ひとつの民族がひとつの国」ではなく、複数の民族が集まってひとつの帝国のもとで暮らしていたのです。これは21世紀の国家のあり方とは、まったく違っています。今の「ひとつの民族がひとつの国」は「国民国家」と呼ばれます。国民国家は17世紀以降のヨーロッパで出来上がってきた考え方です。中世まで遡れば「ひとつの民族がひとつの国」という考え方は一般的ではありませんでした。中世の帝国のころは、たくさんの民族が共存して暮らしていたのです。そもそも「国」という概念でさえ、ほとんどなかったのではないかとも言えます。

ローマ帝国、イスラム帝国、ビザンチン帝国、オスマントルコ帝国、モンゴル帝国、ムガール帝国、中華帝国。古代から中世まで、帝国は世界中に広がっていました。様々な帝国が現われては消え、たくさんの栄枯盛衰がありました。しかし何千年もの間、帝国が世界の基本システムだったことに変わりはなかったのです。この「帝国」はどのように定義されるのでしょうか。ゆるやかに定義すれば、「複数の民族やエリアをひとつに治めている国が帝国」ということになります。では、帝国が複数の民族をひとつにまとめているとして、何を基準にまとめていたのでしょうか。これだけの長い期間にわたって国を成り立たせるためには、何か軍事力以外に求心力が絶対に必要です。近代の国民国家なら、それは民族という求心力です。それは求心力とともにウチとソトを分ける「境界」にもなっています。国民国家が民族によって国のウチとソトを分けているように帝国のウチとソトを分ける何かの境界があったはずです。例えばローマ帝国は、ラテン語やギリシャ語ということばが境界になっていました。ローマ人は共通語であるラテン語とギリシャ語をしゃべる人がローマのウチの人間であり、しゃべらない人間はローマのソトにいる野蛮人とみなしていたのです。またイスラム帝国では、境界は宗教でした。イスラム教を信仰する人はイスラム帝国のウチの人間であり、異教徒は帝国のソトの人だったのです。そもそも帝国というのは領土を広げ、様々な民族を包んでいく国ですから、ウチソトの境界が絶対に必要というわけではありませんでした。境界のない帝国もありました。アケメネス朝ペルシャやモンゴル帝国です。このような境界を定めず、無理にウチソトを分けないやり方であれば、帝国の領土は無限に広がっていくことができます。これが帝国の平和だったのです。一旦帝国に支配された内側では平和が続きました。帝国というのは、何がウチソトを分ける境界になるのかというその考え方が、いまの国民国家と違っていただけとも言えます。

帝国の二つ目の要素についてです。中世には帝国と帝国を結ぶゆるやかなネットワークがあって、それらはユーラシア大陸を中心に形成されていました。様々な帝国が興亡し、帝国の内外を結んで交易のネットワークが整備されていた─そういう政治と経済が、中世の世界システムだったと言えるでしょう。この巨大な世界システムを支配できると考えている者は殆どいませんでした。ほとんどすべてを支配したのは、13世紀のモンゴル帝国だけです。だから中世の帝国システムの時代には、共存と忍耐が世界の常識でした。お互いに依存し、時には腹を立てながらも我慢し、この世界システムに参加していたのです。その意味で、中世はとても強靭で、しなやかな世界システムだったと言えます。

2013年7月18日 (木)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(1)

プロローグ現代─第三の産業革命が起きている

インターネットやコンピュータを使った様々な情報技術(IT)の革新が進み、これはいま「第三の産業革命」と言われています。過去には、二回の産業革命がありました。ふたつの産業革命は、私たちの生活を一変させました。

「第一の産業革命」は18世紀の終わりに始まりました。蒸気機関と鉄道が発明され、長距離をすばやく移動することが可能になりました。紡績機械で衣類を大量生産できるようにもなりました。「第二の産業革命」は沢山の発明品を生み、自動車や電化製品など、今の私たちの生活の基礎になっています。この二つの産業革命を経て、ものを製造する仕組みも変わりました。「大量生産」と呼ばれる仕組みの登場です。それまでは家や小さな仕事場で職人たちが集まって少しずつものをつくっていたのですが、産業革命の後には、巨大な工場に沢山の人が集まって、機械を使って大量にものをつくるようになったのです。GPT(General Purpose Technology)「汎用技術」という言葉があります。社会を進化させるような影響の大きな技術ということで、人類の歴史が始まってから今までには、たくさんのGPTがありました。GPTの技術は、最初から「これがGPTだ」と決まっているわけではありません。たいていの場合、その技術が社会にどんな影響を与えるのか最初は殆ど理解されません。例えば、電気。そして、産業革命は、大量生産という仕組みをつくっただけではありませんでした。欧米や日本と言った当時の先進国、国のあり方そのものを変えたのです。

大量生産によって、ものはいくらでも生産できるようになりました。しかしそうやって生産を増やしていくと、工場の設備はまだまだ生産を増やせる余力があるのに、ものをつくるための原材料や燃料が足りなくなり、作ったものを売る先も不足してきました。そこで、最初に産業革命に成功したヨーロッパの国々が考えたのは、アジアやアフリカを植民地にすることでした。これが「帝国主義」と呼ばれた政策でした。大量生産を続け、ものの輸出を増やすために、他の国々を侵略し植民地にするという政策。つまり、ヨーロッパが常に中心にあって豊かさを楽しみ、植民地は資源を輸出しものを買わされるだけの周辺の国として、不平等を押し付けられるということです。帝国主義は、世界全体をヨーロッパとそれ以外に分け、「中心」と「周辺」というふたつに分離することに成功しました。ここから世界を先進国というウチと、それ以外の途上国などの地域というソトに厳密に分断していく構図が生まれてきます。

国内の体制も、ウチとソトを分断する政策に合わせて強化されました。他の国との熾烈な競争に勝ち抜くためには、国内の会社同士で競争している場合ではありません。だったら国内の会社どうしの競争をなくしてしまえばいい、という考えになり、会社の合併が進められました。会社は国を代表する巨大企業に統合されて、国の力を背景にして海外に進出していくようになります。どこの国でも、生産を担う工場の従業員を一生懸命養成するようになります。教育に力を入れ、「同じような単純作業を、皆と協力してきちんとこなす」という人材を、国を挙げて育てるようになったのです。教育された人々は巨大企業の工場の従業員になり、そこそこの給料をもらって生活は豊かになり、従業員たちみずからが、巨大企業のつくるさまざまな大量生産のものを買いまくるようになりました。人々が豊かになることで、政治も安定してきました。民主主義が成熟し、全員の投票で政治家を選んで議会政治を行い、貧しい人達には福祉制度で富を分け与え、できるだけ多くの人々が不幸にならないようにする。これこそが、20世紀のシステムでした。

この20世紀のシステムは、おおむね1970年ごろには完成したとされています。しかし、完成したと同時に、システムは衰え始めました。理由はふたつありました。ひとつめは「第二の産業革命」の影響がだんだん薄れはじめたことです。1970年代ぐらいになると、画期的な技術は新規に出なくなりました。もう一つは人口ボーナスが終わったことです。そうして20世紀のシステムがもう終わりかと思われていたころに、次の産業革命がやってきました。それが「第三の産業革命」と呼ばれているものです。1990年代ぐらいから始まったこの革命は、情報の革命です。IT革命という言い方もあります。要するに、コンピュータとインターネットです。このふたつは、おそらく次の時代のGPTになるのではないかと考えられています。

これにより、アマゾンや楽天のようなオンラインショッピングで、自宅にいても買い物ができ、音楽や映画や面白い文章をパソコンやスマートフォンで読めるようになり、遠くに住んでいる友人ともフェイスブックやツィッターやラインで気軽に繋がれるようになりました。しかも、これらのサービスの多くが無料なのです。この無料であることそのものが、実は第三の産業革命を、以前の第一と第二の産業革命とはある一点で、まったく違うものにしています。それは無料で動画や音楽や文章が伝わり、人間関係がつくられるというだけでは、富が増えないという点です。例えば、一つの国の富はGDPという数字で測られます。スマホやパソコンを買えばGDPは増えますが、頻繁に買い替える機械ではなく、いったん買ったそれらの機器を使って、どれだけインターネットを使いまくっても時間を消費しても、GDPは増えない。つまり経済は成長しないということになるのです。

そしてもっとひどいことに、第三の産業革命は、働き口を増やしません。インターネットの産業の一番の担い手である、アメリカの巨大ネット企業をみると、ものすごく社員数が少ないのです。時代の先端を進んでいる企業は、世界中どこでも人を雇わなくなっています。しかし、実は、働き口は増えています。例えば、アップルはアメリカ国内では人をあまり雇っていませんが、その代わりにアジアで仕事をたくさん増やしています。アップルはアメリカ国内では、iPhoneやiPadを製造していません。製造しているのは、中国の企業です。どうしてそんなことをしているかと言えば、中国人の方がアメリカ人よりもずっと安い給料で雇えるからです。いま先端的な企業は、皆同じようなやり方をしています。母国の本社にあるのは、頭脳部分だけ。そのかわりに世界中に部品や完成品を運ぶネットワークをつくり、そのネットワークを使って部品を組み立て工場に集め、その工場から完成品を世界に向けて配達します。だから製造業の会社なのに、社員数がとても少ないということが起きるのです。そういう仕組みを多くの先端企業が作り上げた結果、母国からは働く仕事が失われてしまっているというのが21世紀の今の現実です。でもその仕組みによって、部品を作っている国や組み立てを行っている国には、逆にたくさんの仕事が回ってきます。つまり仕事が、世界中に散らされているということ。先進国である母国の国民にとっては不幸なことが、これまで貧しかったアジアや南米の国にとっては幸せになっているのです。

20世紀型の世界のシステムでは、仕事は巨大企業に集められていました。だからこそ企業の成長はその会社のなかで働く人たちの幸せに直結していたのです。しかし21世紀型のシステムは、仕事は企業の内側から外側に散らされ、企業のなかに幸せな人をたくさんつくる代わりに、世界中に幸せな人を作っています。この「集める」から「散らばる」への変化が、世界中で起きているのです。組み立てや部品の製造だけではありません。もっと専門的な仕事も、世界中に分散しています。クラウドソーシングというシステム等がそうですが、インターネットには、こういう「散らばる」仕組みが、次々と登場しています。そして多くの人たちがそれらの仕組みを使い始めています。

産業は世界中に散らばり、そして同時にお金も散らばっています。でも大量生産システムが終わり、巨大企業が人をたくさん抱えなくなってくると、組織の仲間意識は薄れていきます。仕事や富が世界中に散らされることによって、企業の中や国の中の結束もだんだんと弱まっていきます。だから民主主義の土台が揺らいでいるということなのです。これは20世紀の世界システムを、逆回転させてしまっています。

2013年7月16日 (火)

「生誕250周年 谷文晁」展(2)

Tanirenzan展覧会チラシを見ると、谷文晁という人は様々な流派の画法を学び折衷に努めて一家を成したと解説されていますが、狩野派とか土佐派とか言われてもピンと来ないので、取敢えず最初に展示してあった『連山春色図』を見てみましょう。私のような素人でも山水図というのがもともと禅の思想的な表現で、単に風景を写したというのではなくて、そこに虚構的な仕掛けが施された約束事があること程度の知識はあるつもりですが、ここでは、その世俗化とみていいのか、山水画の構図に見立てて、描かれているようです。実際に、ここで描かれているような山稜が日本に現実に存在するかと言えば、私は見たことがありません。私は学生時代、国内の山岳をけっこう登って回りましたが、これに似た山も見たことがありません。つまり、これは現実の山ではなくて、山水画のお約束で「山というのはこうして描きなさい」という作法に基づいて描かれた、言うなれば、山ということを示す一種の記号です。だから、そこに描き手がユニークな解釈を施すことができず、山という記号が伝わることが優先されます。記号の代表的なものは文字ですが、文字を独自の解釈でユニークな形にアレンジしたら読むことができなくなってしまいます。ここでの山は、それて似たようなものでしょう。そうしたら、記号として伝わることが優先されるとしたら、それに支障がない範囲で装飾を加える程度の趣向というところで、描き手は個性を出すしかない、ということになります。言うなれば小手先です。こういうのは谷文晁が始めたのか、分かりませんが、例えば中世の雪舟に見られるようなゴツゴツした描線から醸し出される山稜の厳しさのようなものはなくて、山脈は岩稜ではあるものの、細い線で繊細に描かれ、たおやかな印象を受けます。左側の山稜が屈曲しながら画面手前のこちらに向かって途切れることなく連なってくるのは禅画の作法のよるものでしょうか。手前の森林の緑と奥の岩稜の土色がそれぞれ地味な色ですが、そのぎらでーションを使って遠近感と空気感を感じさせると言ったらいいのか。これは、その諧調を愛でて楽しむという類のものではないか。つまり、趣向です。山ということなら、例えばセザンヌのように山そのものの存在感を本質と捉え、それを画面に定着させるにはどうしたらいいか、というようなことはなく、山らしく描いてみせて、あとは、それを見立てて描き方の趣向やテクニックを愛でるということになるでしょうか。セザンヌの立ち位置で悪意で言えば、一種の退廃です。何を描くかという本質的なところは、取敢えず問わずに、巧く、うけるような描き方を工夫するということになるわけです。だから、このような美術館に展示して、真面目に鑑賞するというのではなくて、強いて言えば、部屋に飾って親しい友人と、これを眺めるでもなく、深山の風景に思いを馳せて一献傾けるのに御誂え向き、といったものなのではないかと、想像します。それを考えると、構図とか線の引き方とかよりも、薄ぼんやりとした空気の感じが淡い色調のグラデーションでうまく出ているのが、雰囲気を醸し出しているように見えます。

Tanikannon実際に、石山寺縁起絵巻を復興させたりしていますが、きっと器用な人だったのではないかと思います。だからこそ、そういうことができた。今回の展示でも、これがひとつの目玉となっていたようですが、私は見てても、ちっとも面白くなかった。多分、(西洋)絵画という概念に毒されているからかもしれませんが、谷文晁は器用に巧みに絵巻を復興、再現していますが、お手本を見倣って、うまく写したという程度にしか見えませんでした。少なくとも、画家谷文晁ではなくて、優秀な職人の業績というものではないか、と思い、ここで美術館として展示する意義がどこにあるのか、谷文晁の世界というのか画家としての視野というよりも、手先の器用を生かしたアルバイト程度ではなかったのか。その証拠に、この絵巻の視野とか世界観とか技法とかいったものが、谷文晁の描くものにどのように影響していったのか描いたものに、どのように現われているかの検証するような展示がなかったからです。

Tanil_2もう一つ見てみましょう、『慈母観音図』というものですが、山水画とは全然別の仏画です。同じようなものが2点並んでいますが、この2点の区別がつくでしょうか。私は、区別がつきませんでした。左側が酒井包一、右側が谷文晁の描いたものです。二人の絵師は交友関係にあったらしいですから、相互影響もあったのかもしれませんが、ここまで同じような作品を遺すとは、驚きました。なお、今回の展示では酒井のものは展示されていません。たまたま、ネットを見ていたら見つけてしまったのです。これだけから即断するのもどうかと思いますが、慈母観音像のお約束があって、二人とも、それに忠実に従った結果が、このようなものになったのではないか、と思います。

今回の展示されたものの中に谷文晁が模写したものが少なからずありました。その点でも、器用さという点で秀でていたのは分かります。しかし、ここで西洋の油絵の模写をしていますが、遠近法という視野、世界観、あるいは輪郭を線で捉えるのではなくて面とか立体として捉える空間把握というような本質的な絵画思想のようなことは、模写することによって谷文晁の作品世界に影響があるかというと、それは全く見られない。それは、構成の明治維新政府が西洋の知識や技術を熱心に輸入に努めた時の和魂洋才、つまり、小手先のテクニックの速効的な導入に努めたことの先駆けかもしれません。

そのようなところで谷文晁の特徴として、私が見出したのは、描くということは記号的な戯れとして、お約束の文法に乗って、その中で趣向という、テクニックを追求するということで、そのテクニックの細かな差異が彼の特徴であるとして愛でるということではないかと思います。そのためには、自分でも多少は絵筆をとって嗜む程度の知識と経験がないと、かれのテクニックがどのようなものであるかは、理解できないという、好事家とか、大名のような当時の知識人という閉じた世界のなかで戯れるには最適のものだったのではないか、と思いました。かなり揶揄的な書き方になってしまっていますが、しかし、ここでもちいた言辞は、二十年ほど前に一世を風靡したポストモダンの論客たちが好んで用いたタームを意識して流用してみました。というのも、小手先の細部の差異に戯れるというようなことは、まさにポストモダン的なものそのものだったからです。こんな言葉を使って、すごく懐かしい気がしましたが、谷文晁の描いたもの、描き方というのが、そういうものと親和的ではないか、とつよく感じました。もし、20年前だったら、谷文晁とポップアートを並べて見るといかいった企画があり得たかもしれないなどと思いました。

2013年7月15日 (月)

「生誕250周年 谷文晁」展(1)

Tanipos例年より半月以上早い梅雨明け。いわゆる梅雨明け10日のドピーカンの続く中、気温はうなぎのぼりで35度を越える猛暑。株主総会も終わり、少し息抜きをしつつ、第1四半期の決算発表までの狭間の時期、機関投資家をまわってミーティングを毎年行っているが、今日は、この猛暑、資料を抱えての大荷物、しかも上着も離せないという格好で過ごすのは、暑い。ミーティングは神経を消耗するし、節電のためか、室内の冷房はどこも抑えている。という暑さから逃避したい、ということと、ようやく決算期末から株主総会を終わり、多少の息抜きのつもりで、ミーティングが終わったあと、一番近い美術館ということでサントリー美術館を訪ねた。

やっていたのは江戸時代の文人画家である谷文晁の回顧展。骨董品の世界では大人気の人であろうけれど、実際に会場を回って展示をみて、あまりの難解さに、自分は、一体何をしにここに来たのかという、強い後悔に捉われました。入場者が比較的多かったのですが、皆さんは興味深げに鑑賞していた様子だったので、難しさに途方に暮れているのは、私だけかと、たいへん疲れました。

話は少しそれますが、私は音楽を聴くのも好きでジャンルなどには拘らずに聴いていますが、その中には西洋のクラシック音楽の楽曲も好んで聴く曲の中にあります。その中で、モーツァルトというクラシック音楽の代名詞ともいえる大メジャーな作曲家がいます。私はクラシック音楽に接し始めて20年以上になりますが、今以ってモーツァルトとハイドンの作品は難解で、何度聴いてもよく分らないのです。クラシック音楽好きな人に、その話をすると信じられないという顔をされますが、マーラーとかパレストリーナとかは大好きで長時間聴いていても疲れることはないのですが、モーツァルトの曲、例えば有名な「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とか交響曲とか、何が何だか分らないのです。そこで感じている難しさと、似たものを今回の展示を見て感じました。ともっともらしい理屈を捏ねていますが、本当に分らない。

よく芸術は分かったとか分らないとか、理屈で理解するのではなくて、無心に接してみて、良いか悪いか感じればいい、というようなことを言う人がいます。小林秀夫とか吉田秀和とか著名な評論家の先生は、往々にしてそういうことを言っています。そういうのは、自分が分っているから言えるのであって、それを分らない人に、分っていたうえでやっていることを強いるのは、傲慢でしかありません。むしろ、「オレは分っているからいいんだ。オメエらは分かんねえだろう」という自慢の心の声が聞こえてきるようで、そういう評論家に限って、無心(と自分で思って)に作品に触れるときの、自分の感性の構造をみずから検証しないでいて、じぶんと違った感性の存在が分からず、感性の違う人に対して、どのような説明が理解してもらえるかという視点が全くないため、フォロワーしか彼の評論を理解できないということが往々にしてあります。例えば、吉田秀和が時折漏らす本音。「それが分からない人は、最初から(クラシック)音楽など聴かない方がいい」。それを誤解して、難しくて高尚だとかいって高い評価を受けている評論家の先生が沢山います。絵画に対しても、そういう権威ある先生がいると思います。なんか、自分が分らないということで醜いやつあたりをしてしまいました。

何が難解かというと、本来、こんな議論はおかしいはずで、分らないから難解なので、何が分からないか分っていれば、難解とは普通は言わないはずです。何が分らないかも分らない、ちんぷんかんぷんだから難解というわけです。上で、八つ当たりの啖呵を切った手前、多少でも、私がそんなことを言ったということを、腑分けしなくてはいけないと思ったものですから。すいません、もしかしたら、谷文晁展はどんなだったかを知りたいと思って、検索で辿り着いた方、谷文晁と全く関係ないことを延々と綴っています。もし、そういう目的ならば、申し訳ありませんが、他を当たって下さい。このずっと後で、谷文晁について触れますが、きっと参考になるようなことはないと思いますので。

そもそも論から始めることにします。美術館とか博物館、これをまとめて英語ではMUSIUMと言いますが、このひとつのルーツはヨーロッパ王家のコレクション、クンストカマーと呼ばれるものであったと言います。例えばベルリンのミュージアムはホーエンツェルン家、ウィーンのはハプスブルグ家といった具合に。例えば、ハプスブルグ家はオーストリアやスペインの王家、その前は神聖ローマ帝国の皇帝を輩出していた家系です。もともとはヨーロッパの中央部の小国の領主で財力も武力もなかったといいます。それが、なぜ大国の王家となって行ったかというと、政治力と結婚政策を巧みに利用したらしいです。つまり、当時の大国同士が睨み合って勢力が均衡している時に、その大国のいずれかが国王になるとバランスが崩れてしまうので、小国であるハプスブルグ家がキャスティングボードを握り神聖ローマ帝国の皇帝になってしまう。そして、その地位を利用して大国の一族との婚姻し、相続によって領地を引き継いで行ってしまう。しかし、そこに武力のような実質的な力の裏付けがないため、支配をするためには権威だけが頼りとなる。その一つはローマのカトリック教会です。いわゆる王権神授説といって、神様が正統性を認めるというので、王冠の戴冠式で王冠を授けるのは聖職者なのはそのためです。しかし、中世が終わると教会の権威は少しずつ失墜していきます。そんな中で、ハプスブルグ家はギリシャやローマ時代の莫大なコレクションを築き上げ、それを広く公開します。これにより、王家がギリシャ・ローマから綿々と続いている正統的な家系であって、それが権威の源であるということを強く印象づけるというわけです。例えば、ある程度の年配の方なら、高校の世界史の教科書の記述がギリシャ・ローマの記述の後、ゲルマン民族の大移動の後中世が始まるように書かれていると思います。それを読むと、ヨーロッパはギリシャ・ローマから中世の暗黒時代を経て近代へと連綿と繋がっているように見えます。しかし、よく考えてみれば、ギリシャは地図で見ればヨーロッパというよりはトルコに近い小アジアです。ローマ帝国といっても当時のラテン人というのはギリシャ人やフェニキア人(今の中東の人々)と一緒に競っていたのですからアジア人に近いと言えなくもありません。また、ヨーロッパの文化のルーツが古代ギリシャやローマといわれても、いったん断絶したのをイスラムを経由して得られたものです。でそれを、あたかもヨーロッパの祖先のごとく扱った歴史が教科書で教えられると、現代のヨーロッパはローマ帝国や古代ギリシャを祖先として、それが続いてきたような誤解をしてしまいます。オリンピックの競技会だって、聖火と称して古代ギリシャの遺跡で火を起こして、それをわざわざリレーして会場に点火するセレモニーをしますが、あれだって、ヨーロッパは古代ギリシャの子孫である支配の正統性をアピールしている場に他なりません。(だから私は、オリンピックは近代ヨーロッパの文化帝国主義政策の一環であると思っています。)ミュージアムとは、そのような政治的な支配の正統性の片棒をかついだものとして機能していたことは否定できません。だから、西洋絵画のヒエラルキーで歴史画は高い地位にあるのです。

そういう機能で美術展というものを考えた時に、谷文晁の美術展に何らかの意義があるのか、つまり、そもそも、谷文晁というのは本質的に美術館で取り上げるべきものなのか、ということなのです。なんか、アナクロで、現代のアート市場ではそんなことは通用しないといわれそうですが、それこそ現代のアート市場でコンセプトが重視されるのは、そういう正統性というタテマエがもともと期待されていたためです。そして、この理由が、私にはまったくわかりませんでした。これは谷文晁さんには何ら責任はなくて、主催者、企画者がコンセプトを説明してくれていないので、無知な私は知りようがないのです。

そして、第二に、これもそもそも論ですが、こういう美術展で日本の絵画を取り上げるというのは、西洋絵画というものが明治維新後、日本に入ってきて、それまでなかった芸術とか絵画という概念とか機能がなかったところで、それに対抗するいみで日本画という概念が急遽でっち上げられたものが、その後、づるづるべったりで続いているものだということです。だから、美術展ということと、日本の絵画というのがそもそも異質で、美術館の壁にズラっと並べて展示されるということが谷文晁の作品(作品という概念も、この場合に適切でないかもしれません)にそぐわないのではないかという違和感を強く抱いて、終始拭うことができませんでした。これは、私がこういう日本の絵画の美術展というが初めてで、そういう文法とか作法とか慣習に通じていないせいなのかもしれませんが。

そして、第三に、上のところで私がクラシック音楽の中でモーツァルトの音楽に対して抱いた難解さの印象に通じることです。端的に言えば、谷文晁の描いた絵が、例えば、他の画家の描いた絵と区別がつかないし、谷文晁の作品の中でも並べられたそれぞれの作品の違いが判らず、同じ見えてしまうのです。これが谷文晁だとか、これが谷文晁の何々という作品であると特定ができないのです。西洋絵画(一応、便宜上このような言い方をします)では、画家が他の画家と同じということになれば、個性がないということで評価の対象にすらならないでしょうから、最初の作品が成り立つ前提として、だれもがいまさら言うことのほどでもないのです。しかし、私が当時の絵画の知識がなく、そういうものに対する感覚的な土壌を欠いているためかもしれませんが、谷文晁の描いたものは、そういう基準を満たさない、規格に当てはまらないのです。だから、私からすれば、それは絵画ではないということになります。そういうものを理解できるか、理解できません。だから難解なのです。

と、一応、それらしく分析の振りをしてみました。なんかわざとらしいですね。これ以上、自分に対してコメントするのは野暮ですから、これ以上のことは、ここまで我慢して付き合って下さった方のご想像にお任せします。

いままで、好き勝手なことを書いてきましたが、ここまで読んで下さった方は、私が、谷文晁の描いたものに対して、何か感想を言うとしても、決して展覧会をこれから見に行くときの参考にならないこと、あるいはすでにこの展覧会に言ってきた方が、自分の印象を反芻する際の参考にしならないことは、明白だと思います。

実際、未だ一言も谷文晁の描いたものに対してコメントしていませんしね。

2013年7月14日 (日)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(5)~拾遺

Makinofuukei前回までで、牧野邦夫についておおよその印象をまとめてみました。しかし、そこから擦り落ちてしまったものが、結構あって、これを黙っているのはもったいないと思って、とくにまとめることを考えずに、ここに印象に残った作品を取り上げて、順不同でお話ししていきたいと思います。

まず、風景画といえるのか『近衛師団司令部跡』という作品です。左半分はきっちりと描かれた建築画のように見えますが、右に視線を移すにしたがって、建築的な造形は歪み、左側の直線的な造形が曲線に歪み、顔やら非現実なものが現われて来ます。レンガ造りの建物の廃墟を見たということを強調しているともとれなくはないですが、これまで「ものがたり」を話してきた身としては、牧野は、この廃墟に現実と幻想の境目を見たのではないか、と思いたくなります。牧野は風景画をあまり残していないようですが、『東寺』という作品も、そういう印象が残ります。

Makinotojiまた、牧野は少ないながら静物画も、といっていいのか、残しています。Still Lifeという言葉の通りの静物画とは趣を異にしますが、人物が描かれていない小品とでも思っていただくと、画像はありませんが『虫の墓』とか『死んだ雀』という作品を見ていると、対象を描写する能力の高さの凄さに、感じ入ってしまいます。真に迫っているというまさに迫真的であることも凄いですが、これだけの小品でありながら、それを見ていて、何かあるのではないかと、背後に「ものがたり」を想像させてしまう何かがあるように思います。今回の展覧会は「写実の精髄」とうたわれていますが、私の感じた牧野の魅力は、この「ものがたり」を想像させてしまう何か、であり、それは具体的な形にはできないものだろうと思います。

Makinoraruそして、一度裸婦像のところで触れましたが、彼のある種の作品にある猥褻といっていいエロチシズム。こんな余所行きの言葉ではなく、もっと直接的にエロ本と見紛うばかりのものを臆面もなく堂々と見せてくれるというところです。そういうところは、彼は無頓着だったのか、分かりません。しかし、エロチシズムを感じるとか、そういうものを作るというのは、屈折したところが絶対必要なので、道徳的なものに反するという場合、道徳的なことを正しく把握していなければ、それに何がどの程度反するかということは、分らないのです。そこを意識して、敢えて反するというためには、道徳的なことを踏まえていなければなりません。エロチックなものをつくるというのは、本来、そのような知的な作業を要するもので、そのような回りくどいことを敢えて試みるのは、精神的な屈折を持っているような人でないと、できません。牧野という人に、そんな回りくどいことができるのか、たんに、本能的に思いついて作品にしてしまったのか、芥川龍之介の『奉教人の死』を取り上げた作品など、どうして隠れキリシタンの殉教の話が2人の女性のヌードになるのか、しかも、肉感的なヌードであることなどから、説明ができません。『落城』という作品では裸の女性に尻を向けさせ、あたかも男性が襲いかかろうとするようなエロ本の設定のようなポーズに見えます。『砂道氏の肖像』という作品では、二人の裸婦に尻を向けさせるポーズをとらせていたりします。そとて、裸婦像のところでも言いましたが、西洋絵画でのお約束、陰毛は描かないということは無視して、細密に写実的に描かれています。かつての日本国内のわいせつ規制から考えても、これほどあからさまに描いているのはふしぎですらあります。もともと、無理に格好つけても、実は、そういうところで今さらエロ本を購入して眺めるするかわりにも写真以上に肉感的で、猥褻的なポーズを描いてくれる牧野の作品に、本当は、そういうところを喜んで惹かれているのかもしれません。Makinohoujyounin


2013年7月13日 (土)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(4)~ごちゃごちゃした細密画

Makinotouいままで、自画像とか裸婦像といった作品を取り上げてきましたが、これらは牧野邦夫の作品のミクロの部分に焦点を合わせると目立つ特徴と思います。これに対して、マクロの視点から、主に牧野の大画面の作品を見たときに、大きな特徴として、真っ先に飛び込んでくるのは、大きな画面いっぱいに、それこそはみ出さんばかりに人物やら様々なものが細密に描かれているということです。それは、偏執狂とも言えるほど凄まじい印象を受けます。そして、それらの描かれた細部、例えば、人物の一人一人が前回までの自画像や裸婦像で見た特徴を備えて、それぞれが1人でも一枚の肖像画のテーマになるくらいに徹底して描かれているということです。その反面、画面のメリハリがなくて大画面でも奥行を感じられることなくスーパーフラットな漫画やイラストのような構成になってしまっています。

Makinotou2それでは、いくつか作品を見ていきたいと思います。まず、『未完の塔』(左上図)という作品です。最晩年で未完の作品であるにもかかわらず、今回の展示の最初に置かれ他作品です。小さな作品なのですが、構想の大きさと牧野の集大成的な作品であるということでしょうか。この作品の経緯とか、未完の理由などはテレビやウェブ等、ほかのところで盛んに紹介されているので、そっちを見てほしいと思いますが。下半分の大方完成している部分の人々が様々に描かれているのは、ブリューゲルの「バベルの塔」を想わせます。

Makinojurian_kitisukeごちゃごちゃした細部が今にも溢れ出してきそうというのなら『ジュリアーノ吉助の話』(左図)という芥川龍之介の小説に題を取った作品では、隠れキリシタンである主人公が左上に描かれ、死んだ後で口から花が咲いているさまが描かれていますが、その他の部分を占める人々の姿は、そんなことと、まるで無関係なようにそれぞれの動きをしているように見えます。それが、どれもこれもひとひとつ細かく丁寧に、それぞれが単なる部分とか背景とかいうのではなく、それぞれが自己主張しているかのように描き込まれています。それらがひとつひとつ集まって、異様な画面の活力を生み出しています。その反面、全体としてどうなのかという構成が感じられない。ヨーロッパの絵画で歴史画のような大画面で多数の人物が画面に登場するような作品の場合は、何を主題としてのかがはっきりしています。例えば、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠」という多数の人々が教会に集まって、その中で、ナポレオンが戴冠を受ける場面を描いた大作ですが、中心の描かれているナポレオンは小柄な人物ですが、それを取り囲む多数の人々の中に埋もれておらず、際立って、誰が見ても、中心がナポレオンであることが分かります。これは、あきらかに、中心とナポレオンと、それ以外の人々の存在感がまるで違うからです。かといって、人々の描写がお座なりで省略されているというのではありません。そこにダヴィッドという画家の巧みな構成が見て取れるわけです。そして、写実的っぽい描き方が見る人にリアリティを感じさせ、このようなナポレオンの存在感が現実に際立っていると見る人に納得させてしまうような巨大な説得力を生み出している作品になっています。これに対して、『ジュリアーノ吉助の話』では、左上の主人公と、それ以外の人々の間で、構成上の配慮が為されているようにみえず、みんな同じように丁寧に描かれているため、ジュリアーノ吉助は、ここで描かれている人々の中のone of them でしかありません。ダヴィッドの作品にあるようなメリハリや、ナポレオンが恰も最前列にいて、それ以外の彼を取り囲む人々が背景として、奥行を、これは教会のなかという空間の奥行というだけでなく、ナポレオンという傑出した人物とかれの周囲の人々の関係やそれらを絵画の平面に定着させるときにつくられる奥行です。そういう画面全体の秩序のようなものは牧野の作品には存在しないと言っていいでしょう。その代わりあるのは、奥行とか秩序がないので、画面の中が平等でそれぞれに前景と背景というような階層がないため、それぞれの部分が勝手に存在を主張しているような、一種混沌としたような、ダヴィッドにはないアナーキーなパワーが漲っていると思いますだから、牧野の作品は、作品全体として何を描いているというような一種距離をおいて眺めるというよりは、画面に近づき、ここに描かれたものを見て、こんな奴がいるというように個々を見ていくという多少画面に入り込むように主観的な接し方が似合っているのかもしれません。

Makinohitoそういう特徴が、もっと濃厚に出ていて、見ていて特定のテーマに絞り込むことができず、混沌とした状態そのものをみせているのではないかと勘繰りたくなるようなのが『人』(右下図)という作品です。牧野は『人』というタイトルで何点かの作品を越していますが、印象は似たような感じで、ここに描かれた人物たちは『ジュリアーノ吉助の話』以上に、ここに独立して好き勝手に存在していて、相互に関係があるようには見えません。秩序が全く感じられないのです。おそらく中央に描かれた裸の男性を中心に様々な人の場面が描かれたということにはなっているのでしょうが、その関係が私には分らず、むしろ裸体の女性のエロチシズムに括目したり、中央の男性の左の化粧した顔の目だっているところに目が行ったりというという方か、強いです。おそらく、牧野は最初は、ダヴィッドの場合と同じように、テーマや構成を考えて、スケッチをしたり下書きまではやっていたのではないかと思います。牧野の作品の設計を何も考えずに、闇雲に描いたとは思えません。最初は、構想した構成に従って描き始めたところ、個々の人物の描写に自然と力が入ってしまって、いつの間にか細部に執着して、どんどん描き込んでいってしまった、という出来上がり方をしたのではないかと想像します。牧野という人は、描き始めると止まらなくなるというタイプの人ではなかったか、これらの作品をみていると、そんな「ものがたり」を妄想してしまうのを抑えきれません。それは、幼児にお絵かきをさせて、その描いた絵に対して、部分を質問したりすると、最初はその説明を回答してたものが、もっと突っ込んでいくと、次第にものがたりを追加してつくりだして、しまいには、絵を描き足していくようなことがあります。牧野は、もしかしたら、こういう作品を描きながら、そういう自問自答を繰り返し、どんどん細部の「ものがたり」を付け加えいいって、細部の描写をエスカレートさせていったのではないか、作品をみていて、そういう「ものがたり」を捏造したくなります。

Makinoumiそして、もしかしたら牧野自身が、そのような自己の資質を意識して、それを認めたうえで制作したのが『海と戦さ』(左下図)という作品ではないかと思います。そこでは、ここの場面の「ものがたり」が生まれてくるのを最大限に生かして、それらを並列的にならべて、見る人がそれらから「ものがたり」を紡ぐに任せることができるように全体の画面構成が余裕を創り出しています。そして、全体して海での戦という大雑把なイメージが漠然と浮き上がってくるような「ものがたり」を創り出しているようにみえます。そこには、ダヴィッドの場合とは全く違う秩序、ダヴィッドより、もっと自由で融通無碍な秩序を感じます。そのおおきな理由は、ダヴィッドの作品ナポレオンのような絶対的な存在というのか、中心がいない点です。牧野の作品の中でも、前に見た二つの作品では中心となるテーマを具現するような中心的な存在がありましたが、この作品では、それがありません。つまりは、部分の集積が全体を構成するような設計が為されているという作りを、意識してつくったのではないか。そこで、牧野本人も制約を感じることなく、個々の部分を好きなように執拗に描き込むことができて、作品をつくることができたのではないかという「ものがたり」を捏造してしまいました。

さて、ここから、今回のシリーズ?で恒例?としている妄想の「ものがたり」の捏造による、まとめに入ります。前回の裸婦像を見たときに、牧野は現実には存在しないとされている様々なものを実際に見ていたのではないかという「ものがたり」をつくりました。ここでは、そうものが画面から溢れんばかりの作品に触れてきて、捏造した「ものがたり」です。牧野が現実に見えないものを見たとしても、それは日常的に常時見ていたというのではなく、実際にそうだとしたら、現実の社会生活を送るのは不可能で、狂人となってしまう他はありません。彼が、そういうものを見ていたのは、描くという行為、しかも、描くという行為に没頭して我を失ってしまうようなときに、ふっと現実世界の壁をすり抜けて異次元の風景を見ることができたのではないか、ということです。異次元と言っても、彼の作品を見れば特別に遠い所にあるのではなく、すぐ手の届くところにあって、いまの場所に腰を落ち着けていても触れることのできるような身近なところに、実はあるようです。しかし、現実という壁があって、我々は、普通はその壁に囲まれて、その向こうを垣間見ることもできない。しかし、牧野の描くという行為は、おそらく彼自身の作品構想を裏切ってしまうほど、本能的というのか感覚的、あるいは身体的なもので、客観的にものごとを距離を置いて測定するという理性を超えた、理性の機能をストップさせて、目の前の現実を現実として見ることを止めて、時間とか空間といったカントがいうような現実をみる物差しを放棄したところに、主観的に没入して触れられるものだったのではないか、そのときに牧野は描くという行為に没入することで、そういうことになっていたのではないか。だからこそ、今日、見た牧野の作品は、細部を描いているうちに筆が独りでに動き始めるかのように、どんどん細密な描写を始めてしまった、というものではないか、と思えるのです。よく小説家が、作品の中の登場人物が、作者の意図を超えて、ひとりでに動き始めてしまい、それを追いかけるのに苦労したというコメントをすることがあります。牧野の作品の場合は、比喩ではなくて、実際にそういうことが起こって、その挙句の果てに、現実には普通は、見えないはずのものが、描かれてしまった。そうでなければ、あれほど細密に、写実的に描かれるはずがありません。

2013年7月12日 (金)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(3)~裸婦像

Makinociho牧野邦夫は、自画像と並んで裸婦を数多く遺したようです。たんに裸婦像というだけでなく、この後で見ていこうと思っていますが、群像や物語の場面を描いた大作のなかにも多くの裸婦を登場させていますので、牧野の作品の中に裸婦の登場するケースは非常に多いと思います。

Makinosiroikabeまずは、着衣ではあるのですが『白い壁の前』という作品です。このポーズ、このシチエィション。正直言って、芸術の格調とかそういうのではなくて、濃厚なエロチシズム、もっと卑近な言葉で言えば、エロ本でよく見る扇情的な写真と何ら変わるところのないものを感じました。この作品を、いわゆるエロ本、しかも一般に販売していない、秘密趣味の多少倒錯的でマニアックな粗悪な地下出版のような猥褻図書の中に入っていても、違和感はないでしょう。白い壁を前に目のはっちりした童顔に近い、それだけ無垢さが強く感じられる少女が、これまた無垢の色である白いブラウスを着て、そのブラウスがロマンチックというのかフリルといういかにも少女趣味の飾りがあるもので、少女はこちらを真っ直ぐにみて、こころもち微笑んでいるように見える。しかし、着衣は上半身だけで、下半身は裸です。そこには意外なほど豊かな臀部の広がりと、何よりも少女には不似合いなほど濃厚な陰毛の茂みが描かれています。それは、背後の白い壁、少女の着ている白いブラウス、そして少女自身の白い肌と対照的に黒々と、それだけ観る者の視線をそこに集めるかのようです。そしてまた、少女の着ている白いブラウスが薄絹でその下の少女の小さな乳首が透けて見えています。その乳首が透けて見えるためなのか、意外なほど濃い色をしていて、それも観る者の視線を引き寄せるようです。それは、いわゆる伝統的な西欧絵画の裸婦像の約束事、猥褻に見せないために、陰毛は描かないとか、乳首は皮膚に近い淡い色で描くとか、隠せるなら隠すなどして、なるべくそういう性を連想させる部分を、それと意識させない、ということと正反対の書かれ方をしています。これは、牧野が意図的に、何らかの効果を狙ったものなのか、本人が助平だったので、その嗜好に従ったものなのかは、分かりません。

私の場合は、現代で、男性週刊紙のヌードグラビアや時にはアダルト雑誌の写真を目にしたり、AVなども容易に見ることできる環境にいて、それなりの恩恵をうけている男性としては、西欧絵画の裸婦像をみていて、それはそういうものだろうけれど、物足りなさというのか、もっと踏み込んでいえば、もどかしさ、嘘くささを感じるのを抑えきれない人です。そういう私にとっては、牧野のこの作品はストレートで、嘘くささをかんじさせることはありませんでした。が、逆に、ここまでやっていいのか、という疑問も生じました。そういう猥褻なものと同じなら、別に敢えて絵画として描く必要がどこにあるのか。ということです。牧野という人は、どうやら商売気のなかった人らしいですから、自分が描きたいから、というのが純粋な動機かもしませんが。

Makinorafu2『白い静物のある裸婦』はそういう牧野の裸婦の中で比較的穏やかな?作品になっています。しかし、この身体をみても扇情的と感じます。身体つきは日本的なたおやかな女性とは違って、むしろ逞しさすらあるメリハリの利いた(出るところは出た)ものです。日本人の描く抒情性とか道具立てとしての耽美性というような薄いベールがかかっていることはなく、女性の身体の迫力そのものが迫ってくるような直接的な官能性が強く感じられるものになっています。西洋絵画でいう裸婦の形状というよりも人間の身体が息づくという感じで、形状が完璧とかいのではなく、筋肉によってできた身体の筋肉の筋が細かな陰影を形作り、その陰がたまらないエロチシズムを醸し出し、筋すじの弾かれんばかりの弾力性が石膏の形状スケッチのような裸婦像とは違って、触れば柔らかく弾き返すような肉体の瑞々しさを想像させるのです。もし、私が思春期の発情しているような年代の青少年であったとしたら、この作品は強い刺激となったに違いないと思います。

Makinotoruso『トルソー』という作品がありますが、題名の通り、古代ギリシャーやローマの遺跡から掘り出された一部が破損した人体彫刻で、しかもその部分が理想的な姿となっているため、そのまま作品として残されているものトルソーというものです。この作品では、そういう手足が破損して胴体部分がのこったトルソーに擬して、女性の身体が描かれています。通常、こういう作品では身体の形状の理想的な姿の現われとして表現されます。それは、例えば、アリストテレスが存在の本質は形相にありといったような、かたちにものの本質を求め、中身といった実質は一段劣るものとみなします。トルソーはそういう形相を表わしたものとして、その形を写し取ることが最優先されることになっていたわけですが、牧野はそういう形状を写し取ることと同じくらい、その肉体性というもの、『白い静物のある裸婦』で述べたような筋肉の描写に力を注いでいます。だからこそ、陰毛や勃起した乳首が生々しく見るものに迫り、官能性を掻き立てるのです。

さて、ここで、今回はこうれいとなってきている「ものがたり」を始めましょう。前回の自画像のところで、牧野は自らの姿をコスチュームプレイをするかのように様々な扮装をしながら、自身の本質である顔とその表情は一貫して変えなかったのは、自己のアイデンティティを保つ作業だったのではないか、ということを述べました。しかし、それだけでは、衣装に顔を描いたり、幻想的な背景を描き込んでいることの説明にはなりませんでした。そこでまた、「ものがたり」を騙り始めます。それは、牧野の裸婦像をみていると、かれは裸婦を単に人間の基本的な形状として描くということができなかったのではないか、と思われる節があります。美術学校で裸婦のデッサンが学習過程で為されますが、あれは対象を客観化して形状を客観的に写し取るパターンの練習であると思います。それを牧野は対象を突き放して客観化して形状を抽出するという描く前の作業ができなかった、あるいは苦手だったのではないか、と私には思えてしまうのです。牧野は対象と適当に距離を置くことが苦手であるために、モデルに外見以上のものを見てしまったのではなかったのか。だから、彼の描く裸婦というのは、人間の外形の抽象化された形状というだけでなく、男として女性の裸の姿を目の前にして自然と湧きあがる官能的な心身の動きを切り捨てることができなかった。それも一緒に裸婦像の中に描き込んでしまった。そして、彼は、実際にそれができMakinorafu
たわけです。彼の卓越した描写力がそれを可能にしたわけです。というよりも、それを描くために彼は描写力の研鑽を積んだと言えるかもしれません。そして、そういう描写力を身につけていったことで、ますます、そういう見る力が伸びていった。つまり、西洋絵画の形状を抽出するのではなく、色々な要素を切り捨てずに見るということをさらに強めていったのではないと思うのです。その行き着くところが幻想です。つまり、彼の作品のある幻想的なものというのは、彼の目には見えていたのかもしれない、と突飛な意見ですが、私には思えるのです。卑近な例ですが、妖怪とか幽霊などは現代では非科学的で迷信と片付けてしまいますが、江戸時代の人々には実在と見えていたのではないか、それは今の視点でいえば妄想なのかもしれませんが、その妄想を現実として捉えるということが社会で認められていた。だからこそ妖怪が後世に伝承として残ったのではないかと思います。それと同じように牧野個人は妄想を実際に見えていたのではないか、と思えるのです。それは、私の場合だって多感な思春期の年代では、目の前に存在するものをそのものとして客観的に突き放して見るだけでは満足できずに、この意味というような過剰に見ようとすることがありました。そこで妄想を見たのかもしれないのです。見たのかもしれないという書き方をしたのは、今、そういう見方をしていないため、その時見たかもしれないものを、今は見ることができないからです。だから、牧野が見たかもしれないものを作品に描いたとしても、今の私は幻想とか非現実としか見ることができないのです。この美術展のサブテーマは「写実の精髄」となっていますが、牧野は何を見て、何を写そうとしたのか、という写実の前段階、写すべき実とは何か、ということを牧野の作品は、私に問いかけているようにも思えるのです。

Makino『化粧する女』の周囲で彼女にまとわりつくように取り囲む人物たちのような幻想は、実際に裸の彼女を目前にして、その官能的な姿に妄想してしまった末に見えてしまったものかもしれないのです。また、『天使のT子』は、彼女を天使に見立てて描いたというよりも、実際に天使の羽を見たのかもしれないし、その羽根に邪な視線を入れざるを得なかったところに牧野の実感、正直な思いがそこに表われていないか、と私には感じられるのです。

そして、これはちょうどこれらが描かれた同時代に少女マンガの世界で、物語の語りについて小説で言う地の文に相当する客観的な語りと登場人物のせりふと、人物だか作者だかの内面の思いの区分の境界を曖昧にして、それらか渾然一体となった、現実の客観的世界と少女の内面の思いが相互侵入を果たすという、幻想とも現実ともつかない濃密な少女の世界を描く革命的な作品が登場しだす時期と重なっているように思えます。

2013年7月11日 (木)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(2)~自画像

Makinoseif4この展示の中で、自画像が多い、それもかなりの点数でした。牧野という画家がどの程度の作品数を遺したのかは分かりませんが、今回の回顧展がほとんどの彼の作品を集めたものであろうと想像できるので、牧野という人は多量の自画像を描いた人であると思います。

前回、牧野の作品を見ていると「ものがたり」を詮索しも語りたくなるような誘惑に駆られることを述べましたが、この自画像が大量に描かれていることについても、ナルシストだったではないか、とか孤高とか言われているが自分だけ取り残されているような疎外感が実はあって自分を鼓舞するために敢えて自画像を描いたのだ、とか様々な「ものがたり」を捏造することができると思います。前回の私の述べ方もそうだったのですが、そういう「ものがたり」を不用意に捏造してしまう傾向に対して、警戒感をもっていました。しかし、その後、牧野の作品を眺めながら考えているうちに、そういう「ものがたり」がいかにも背後に隠されているように感じられて、観る者が「ものがたり」を作ってしまいたくなるようなことが、実は牧野の特徴であり魅力なのではないか、と思い始めています。前回でも述べましたように、ある程度その誘惑に乗って、今回は、牧野の特徴と思われる大量の自画像について語ってみたいと思います。

自画像を多く残している画家にレンブラントがおり、牧野はレンブラントに憧れ、尊敬していたといいます。しかし、両者の自画像を見比べて見ると、共通点よりも相違点の方が目立ちます。もっとも、尊敬しているからこそ、安心して違ったように描けたのかもしれません。

Makinoseifb_2Makinoseifaレンブラントは50点とも60点いわれる大量の自画像を残し、その中では学者に扮したり、ターバンを巻いたりと扮装をしたものも何点か残しており、そういう点は牧野に通じているとも思われます。しかし、レンブラントは生涯の各年代にわたって描かれていて、それぞれの年齢や境遇を反映した、若者の若々しい姿から晩年の老いた姿まで姿が変遷していますが、牧野の場合は、レンブラントとどうように各年代の時期に描かれていますが、描かれた姿はレンブラントの場合のような変化があまりなく、若者から中年にかけての力強い姿が一様に描かれています。レンブラントの23歳と63歳の自画像を見ていただくと、年齢を重ねて若年から老年になったという変化もあり画家本人が大きく変容しているのがハッキリわかります。これに対して、ここに何点か見られる牧野の自画像は描いた時点の画家の年齢はまちまちですが、そこに描かれている画家本人の顔にほとんど変化がありません。ここで見られるのは、二人の画家の本質的な違いと、私には思えるのですが、レンブラントは画家本人が変化しているのに対して、牧野の場合ほとんど変化が見られないのです。これを敷衍して考えてみると、レンブラントは描かれる対象である画家本人の本質が変容していることを捉え、それを画面に描いているといえます。これに対して、牧野の場合は、画家本人の本質が変わっていないのか、あるいはレンブラントのような本質的な変化をリアルに描くことを、実は牧野という画家はしていないのかもしれない、という疑問が生まれてきます。これは、この後、自画像以外の作品を見ていく機会があると思いますが、そこで描かれている人物というのが、意外なほど狭く限定されているのです。そこには牧野の意図的な選別が働いていると思います。それが、自画像でも働いていのではないかと思います。この美術展のサブテーマが“写実の精髄”とされていますが、その写実という対象を写す前に牧野はかなり対象を意図的に選別しているのではないかと、私には強く思えるのです。自画像に限れば、レンブラントのような老年の衰えた姿というのは、牧野は注意深く避けているように、私には見えます。

Makinoseif2むしろ、牧野の自画像を見ていると、自画像の対象となっている牧野自身がキャンバスの前で無理して演技していると思えるほど、年齢による衰えは見せていないし、とくに、表情がどの自画像をとっても、意志的に正面を強く見つめ、口を真一文字にして、こちらに迫ってくるような表情を一様にしているのです。なにか意気がっているのかと言いたくなるほどです。それは、穿って「ものがたり」を捏造していえば、レンブラントは自身の本質が変容しているのを冷めた視線で、冷徹に描いているのに対して、牧野の場合は自画像といいながら、描かれる自身がモデルとなっていることを意識して、こう描かれたいと演じてしまっているのを写している、いわば対象に対してレンブラントのような突き放した距離感がなくて、混同してしまっているように見えます。そこにリアリズムはあるのか、とちょっと問いたくなりますが、そういう自分への甘えを装うことなく正直に表わしてしまうというのは、別の意味でリアルなのかもしれません。ただし、そこに私はプロフェッショナルとしてのプライドを感じることはできません。それはアマチュアの感覚です。ちょっと暴走しました。それは、多分、牧野自身の境遇が孤高とかなんかいっても他者との交わりが希薄で、しかもユーザーとの交わりが限定されていたことで、独りよがりに陥りやすい環境であったということかもしれません。また、最初にもちょっとだけ書きましたが、孤高とか言っても、独り取り残されているような疎外感のようなものがなかったとは言えず、そのとき、自分はこれでいいのだ、と自らを鼓舞させるためにも意志的で初志を貫いている自分というのを確認してアイデンティティを維持させていくために、自画像をこのように描いて、描かれた自身をそこで確認するという作業が必要だったのかもしれないと思ったりしました。そこでは、どうしても孤高でもめげず、意志的に力強く、戦いに臨むような自己の姿が必要だったのかもしれません。「ものがたり」を騙ってしまいました。

Makinoseif3そんなことを考えていると、画面が厚塗りになって、色彩も暖色系が比較的顔に多く用いられ、暑苦しいほどになっているのも、頷ける気がします。ある意味で、岸田劉生の強い意志の伝わってくる自画像にも通じるところがあるのではないか、とちょっと似ていると思いました。もしかしたら、これも「ものがたり」の続きですが、牧野にとって自画像をえがくという作業自体が大切だったのかもしれないと思いました。

そういう自身の姿を確認する作業として自画像が描かれていたのだとしたら、画家本人の顔という本質を変えることはできません。その一方で、まるでコスチュームプレイをするように様々な扮装をして、様々な場面を背景にしています。それは、時に非現実の世界だったりします。それは、裏を返せばそういう環境や、身にまとう扮装がどんなに変わっても本質である画家自身は変わらないという牧野の願望の表われ、ということもあるでしょうし、自他にむけてのマニュフェストと考えられるかもしれません。そうであれば、背景や扮装は一種の装飾として、様々な変化があった方が、変わらない本質がそれだけ強調出来ることになります。それなら、装飾は突飛な方がインパクトの強くものとなり、これ比例して、保ち続けている本質がより力強く見栄えがします。それが、どんどんエスカレートして、まるで心理学の病的な兆候例のサンプルのような服に顔をグロテスクに描いてみたりというような妄想のポーズをとらせたというように考えると、「ものがたり」的な筋道が立ってきます。牧野の幻想的風景については、あとでまとめて考えてみたいと思いますが、そういうことを描く動機のひとつとして、このようなことが考えられてもいいのではないかと思います。

Makinoseif7そして、自画像について、最後に言えることは、牧野自身、自画像を見る限りでは。けっこうカッコいい人だったように見えます。レンブラントのような醜男にちかい容貌とは違って、美男子とは言えないまでも、それなりの容貌にみえます。牧野本人も、そのことを自覚していたのではないか。下世話なですが、牧野が自画像を数多く描いたのには、その点も原因していたのではないか、とこれまで「ものがたり」的に考えてきた筋道、というか牧野像から、想像できることです。

2013年7月10日 (水)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(1)

Makinoposまずは、展覧会ポスターを見ていただきたいと思います。画家の自画像が配されているのですが、何とも言い難い濃さ、暑苦しさ、尋常のなさが一目で感じられて、興味を覚えました。たいていは、私が美術館を訪れるのは、都心に仕事の都合で出かけて、帰社できない時間になった時の隙間に、ちょっと寄るというパターンなのです。しかし、今回は、場所が都心から少し外れた練馬区立美術館ということもあり、休日である土曜の午後に、わざわざ出向いてみました。

牧野邦夫という画家の名前は、私には初めて聞く名前だった(とは言っても、私は日本の画家は歴史上のピッグネーム以外の名前は殆ど知らず、疎いので、名前を知らない画家が多いのですが)ので、展覧会チラシにある紹介文を転載します。

“牧野邦夫(1925~86)は、大正末に東京に生まれ、1948年に東京美術学校油画科を卒業しますが、戦後の激動期に次々と起こった美術界の新たな潮流に流されることなく、まして団体に属して名利を求めることなどからは遠く身を置いて、ひたすらに自己の信ずる絵画世界を追求し続けた画家です。高度な油彩の技術で、胸中に湧き起る先鋭で濃密なイメージを描き続けた牧野の生涯は、描くという行為の根底に時代を超えて横たわる写実の問題と格闘する日々でした。レンブラントへの憧れを生涯持ち続けた牧野の視野には、一方で伊藤若冲や葛飾北斎、河鍋暁斎といった画人たちの系譜に連なるような、描くことへの強い執着が感じられます。また、北方ルネサンス的なリアリズムと日本の土俗性との葛藤という点では、岸田劉生の後継とも見られるでしょう。生前に数年間隔で個展を開くだけだった牧野の知名度は決して高いものではありませんでしたが、それは牧野が名声を求めることよりも、自分が納得できる作品を遺すことに全力を傾注した結果でしょう。”

と、紹介文も熱いものになっています。ただ、この文章を読んでいて、なんとなく孤独な天才が名利を求めず、ひたすら芸術に精進していた、いわゆる孤高の天才という「ものがたり」にぴったりと当てはまるものになっているということが、気になりました。以前は、日本人が好きな画家という必ず上位にランクされる、ゴッホがそういう「ものがたり」の典型として、作品よりも「ものがたり」を有難がって、作品に過剰に思い込みをいれて精神性とか高い境地とか訳のわからない形容で持ち上げるような随筆が乱発されていたことがありました。私も、どちらかと言えば。文字を読むことが好きなタイプの人間で「ものがたり」に過剰に反応するところがあって、絵画を見る時には「ものがたり」という雑音を払いのけることが出来ないタイプの人間です。だから、ここの紹介文から、上述のような「ものがたり」を抽出して、作品をその「ものがたり」を補完する手段のように見てしまいがちなところがあります。殊に、牧野邦夫の場合は、そういう私の志向性にハマりやすいことが直観できました。

これから、具体的な作品に触れていく前に、今言った、この画家の変なところについて、少しだけ触れてみたいと思います。具体的なことは後で触れますが、この画家の作品を見ていると、私の普通の常識的な感覚、あるいは様々な美術作品を眺めてきた美術史に対する常識では、変だ、可笑しいという点が、多分画家は生真面目に正面から取り上げていることがあります。例えば、女性のヌードの描き方とか題材とか。それは、時代の雰囲気が知らず知らずのうちに牧野の画業に反映しているのかもしれないし、牧野という人がちょっとズレたところのある人だったのかもしれないし、原因は分かりませんが、軽薄ともいえる要素が大真面目に作品に反映しています。これは、大衆芸能?商業芸術?では、よく試みられていたことで、例えば、歌謡曲にはアメリカやヨーロッパの流行のポップスの形式やメロディが臆面もなくバクられて、こぶしを回す歌手の唱法が浮きまくっていたり、映画では時代劇の立ち回りのシーンのバックミュージックに三味線でラテンのリズムを演らせたりとか、長唄や常磐津に振りをつけていた日本舞踊がポップス調の歌謡曲を踊り、歌手のバックダンサーに進出するとか、今のカッコいい言葉にすればコラボとでも言うようなことでしょうか。そういうことを、作品に取り入れてしまう軽薄性が、牧野にはあったように思います。だから、彼の作品は美術館に展示してあるから芸術として見られている、というところがあって、実は、もっと下世話な、銭湯の大浴場にある富士山の風景画や映画館や見世物小屋の看板絵、あるいはさいとうたかおや辰巳ヨシヒロたちの劇画、あるいは小松崎茂のようにプラモデルの箱絵などのようなものに近い感覚があると思いました。そして、それこそが牧野という画家の面白さであるように、私には思えます。だから、美術館なんぞよりも、サブカル系のオタクたちにもっと評価されてもいいのでしはないかも思ったりもしています。

最後に、追加としてことわっておいた方がいいでしょう。これまで書いてきたことと矛盾していると思われるかもしれませんが、本音のところで、書かざるを得ない思います。

私が好んで見る絵画は主に近現代の西欧絵画作品で、それらのひとつひとつの作品は完結したひとつの世界のようなものが結実したものとして、それ自体が独立したものとして見る、というもので、私はそういう見方をしています。例えば、画家が実際に経済や社会生活をしている中で描かれたとしても、出来上がった作品は、そうこうことから独立したものとして見られる、という見方です。だから、画家の伝記的なエピソードなどといった「ものがたり」は単なる雑音として、虚心坦懐に出来上がった作品の画面だけを堪能すればいい、という見方です。だから、美術展に出掛けても、最初に掲示してある画家の解説や紹介文に人が群がっているのを素通りしてまず作品を見ていますし、レシーバーによる音声の作品解説は借りたこともありません。ここで展示の感想を書き込むときにカタログやチラシの解説文を引用することがありますが、それは、あくまで言葉に置き換える時の補助手段として利用しているだけです。だから、何某という画家の展覧会といったとき、画家というのは個々の作品のイメージを取りまとめるためのブランド程度にしかとらえておらず、画家の伝記とか人となりとかといったことは作品とは別のことでしかなく、単なるゴシップ的なことでしかないとして興味が湧くというとはありませんでした。ただ、それはある限定した範囲の中でのみ通用することであることくらいのことは、分っているつもりです。だから、ここで美術展の感想を書き込んでいますが、日本画の展覧会のことは全くと言っていいほどありません。そういうものとは異質のものであることが、何となく分っているからです。また、日本国内で洋画の大家と言われる人たちにも、そういうところが(雑音)が多分に感じられて、はっきりいって魅力を感じていない(見に行く気も起らない)のです。

そういう私にとって、今回見た牧野の作品は、雑音が多い作品でした。本来ならば、それで、ここで取り上げる可能性もなく、忘れてしまうべきものだったといってもよかったのです。しかし、牧野の作品に対して、散々なことを言いながら、ここで取り上げているのは、そういう「ものがたり」を語るという、本来の私の志向からすれば避けたいことが、ここでは実は、我知らず楽しんでいるということに気が付いたからでした。それが、いったいどうしてなのか、今の私には分かりません。そこで、これから私自身、それを追求しながら、しばらく「ものがたり」の快感に身を委ねてみたいと思います。

しかし、そのように見てしまうと、掌で掬った水が、指の間からみるみる零れ落ちてしまうように、(掌の残された少しだけの水が精髄であるという見方もありますが)多くの魅力的なところが見えなくなってしまう。とくに、この画家の変なところが、孤高の画家という「ものがたり」のイメージと合わないで、切り捨てられてしまうだろうから、それだけは避けたいと、「ものがたり」の陥穽に陥らないように注意しながら感想を書いて行きたいと思います。

2013年7月 9日 (火)

あるIR担当者の雑感(126)~改革と日々の改善

かつて、小泉純一郎が首相だったころ「改革なくして景気回復なし」というスローガンが声高に語られたとき、蓮実重彦が、そういうことを平気に口に出来る政治家や、それを臆面もなく伝えることのできる報道はものごとをスタティックにした見ることのできない視野の狭さを、恥ずかしげもなく晒していると語ったことがありました。

どういうことかというと、財政や経済の改革が必要というのは、そのシステムが時代遅れになり現代にマッチしなくなっているから、とよく説明されます。しかし、状況というのは一瞬にしてガラっと一転してしまうものではなくて、徐々に変化してきて、ある程度の期間が過ぎて以前とは違うものになってしまったというものだと思います。その時にシステムなり、制度なりが、その時に応じて徐々の変化に対応して変化してこなかったので、状況との開きが大きくなってしまった、というものです。つまり、システムや制度の運営、つまりは政府や官庁が変化をさぼっていたと、変化させるという考えがなかった、ということになるはずです。そのとき、そういう変化させていくという発想がないというのは、変化して動くものだという考えが元々ないと言えます。制度は動かない、つまりダイナミックな視点がないということになります。日常的な制度やシステムの手直しをさぼっていて、現実との格差が広がり、その辻褄をあわせるために「改革」といって大規模な制度やシステムの再構築という大きな手間をかける必要が生じたということです。

だから、改革が必要だという言う前に、なぜその前に日々の手直しが為されなかったのか、という大いなる反省が本来は必要なはずで、そうなってしまった自分たちの責任を問うことから始めるのが本来の筋道であるはずです。しかし、そんなことに顧慮することもなく、あたかも将来への変革の旗手として臆面もなくマニュフェストすることに対して、そうではないと違和感を表明したのでした。このようなことは、再び繰り返されることになります。かりに改革が成功したとしても、その新しい態度が、日々の手直しが行われずに固定したものとしたものとなってしまえば、早晩、現実とのズレが生じて、また当たらに改革をしなければならなくなります。

そして、日々の手直しを都度にやっているときは大したコストも手間もかからないので、やっていることは、それほど目立ちませんが、あとで、まとめて改革をする場合には、多大なコストと派手で目立つことになります。で、実際に改革が成功した場合には、成果が称えられるということになるわけですが、今までの考えでいえば、そもそも日々のさぼりの結果の辻褄合わせで、マイナスからのスタートをゼロに戻しただけです。しかし、マイナスにしない日々のさぼらないことは称えられることはありません。しかし、そういう視点で制度やシステムを考えるということは、通常、あまり為されていないように見えます。

似たようなことは、企業活動でもたくさんあります。例えば、有名なトヨタ・システムは一時的な改革というよりも長い期間を掛けて現場で目の前の事態にその都度対応してきた積み重ねが結果として、効率的な生産システムに結実したものと思われます。当然そこには、大野氏という卓越した経営者が長年にわたり指導しリードしてきたことがあるわけですが。安定した財務基盤をつくるとか、トータルな事業効率の向上などということは、単年度の施策というのではなく、現場での日々の改善努力を長期間続けることでだんだんできてくるものです。そういうものは、目に見える成果としてあがって来るものではなく、ある担当者が手直しをしたとしても、その成果はその担当者から引き継いだ次代の担当者のときに現われるかもしれない。だから、現場でも経営者でもそういうことに消極的になっている、あるいはしなければならないのに先延ばしにしているケースが多い。現時点でうまく動いているものに手を加えるということは、場合によっては一時的には摩擦を起こして、システムがうまく動かなくなるリスクもあるからです。そして、経営者がその気になっても現場が本気にならなければ絶対に動かない。だから、このようなことが継続的に、目立たないところで行われているというのは、企業の本当の実力のバロメーターかもしれないと、と企業内部の人間は思うことが多いです。

しかし、そういう企業の努力は、単年度の決算や施策を中心に説明する通常のIRでは、なかなか伝わりにくいのです。具体的な成果を説明しにくいし、成果があったとしても、それを生み出した努力と成果の間に距離があるのです。そのためには、最低限5年とか10年のスパンで企業を注意深く見て、徴候的な変化を追いかけて初めて外部の人も一部を知ることができると思います。トヨタ・システムの成立をリアルタイムで追いかけた学者もジャーナリストもいないでしょう。このような人たちは、システムが出来上がってから、後追いで昔のことをインタビューなどで経過を再構成するのがせいぜいのところだと思います。そして、おそらく、当時のトヨタの現場の人たちも当初は自分たちが、そんなすごいものを作っていることに気付かなかったのではないかと思います。そう考えると、本当に強い企業はそういうことが日々の現場でさりげなく続けられているはずで、多分、自慢するわけではないですが、私の勤め先でもそういう動きはあると思います。そういうもの、さきに言ったように企業の本当の強さの源泉であると思うので、そういうものを、例えば長期的な投資をしている投資家やアナリストといった市場のひとたちに伝えて、理解してもらえることはできないか。そういうIRはできないかと思います。実は、そう思いつつ、IR担当者でも、企業内のそのような動きを全部把握しきれないということもあると思います。私の勤め先は中小企業ですが、現場の日々の動きの変化というのは現場を知り尽くしていないとなかなか分らないし、それを外部の人に説明することは尚更です。そして、たんに日々の個別の事象というのではなくて、企業のシステム全体への目配りと経営へのインパクトも測らなくては、外部のひとも理解できないので、それをしなければならない、ということになれば、経営者と同じこと、労力だけをとってみれば、それ以上のことが必要でしょう。

そして、一番大きな問題は、既存のIRには、そういう説明の枠組みというのがないので、説明する方もされる方も、分らないということではないかと思います。

そこで、私の勤め先では今回の決算説明会で、5年間という期間で長期的な改善の軌跡を説明することを試みてみました。これに対する出席者の感想は聞けませんでしたが、この試みは続けたいと思っています。

2013年7月 8日 (月)

あるIR担当者の雑感(125)~アピールすることと理解してもらうこと

私の勤め先は、ここで何度もお話ししているようにB to Bの事業をしている中小の機械メーカーです。いわゆる新興市場に上場し中小型株にあたる市場では地味な会社です。メーカーでとくに一般消費者向けでなく、それなりの歴史もあり業績も比較的安定しているため、市場では安定した会社ということで一定の評価を得ているという会社です。そのため、会社の伝的な姿勢でもあり、決算発表と同時に次期の業績予想を発表する場合には、堅実な予想数値を公表しています。好評というのは、前期の実績をベースに営業等の現場で細かく積み上げた確実性の高いデータが基になって作られているということです。ただし、単なる積み上げデータではなくて、そこに会社の方針や経営者による手が入り、最終的な予想数値がつくられます。その結果出てくる数値は、1年後の実績が出るときに達成される可能性が高いもので、予想数値を見る人にとっては、信頼性の高いものです。それが、投資する側としては、逆に面白みがないと映ることもありますし、辛口の人であれば、そこで何かのプラスをつけていくのが経営であるのに、それがないというような叱咤をしたくなるような物足りなさを感じる人もいるようです。

実際のところ、予想数値を出してみて、実績がそれを達成できなかったとか、途中で達成が難しいので業績予想を修正しなければならなくなる、という場合にはその理由を説明しなければならないし、課題を達成できなかったという感じもするため、実現可能性の高い予想数値を出す傾向があります。逆に、実績が予想数値を大きく上回ってしまった場合、その理由も説明することになりますが、そういう説明はむしろ誇らしい、と。私の勤め先も例外ではありません。だから、IRの場においては、予想数値の説明をする際には、前期実績をもとに今後にむけての予想数値を説明する時の関連性のロジックを精緻に構築することになります。実現可能性の高いことを前期実績をベースに理解してもらうということになるため、ロジックを組み立てて筋道を理解してもらう必要があります。だから、場合によっては会社と側と説明を聞く側との間で、予想をめぐっての細かな数字の確認作業を繰り返すこともあります。それはそれで大切なことです。

しかし、このようなことをIR担当者が言うのは、よくないことですが、結局、将来のことは、その時になってみないと分からないものです。それを恰も確定しているかのように細かく数字を詰めていくということ、そして実績がそれをほぼ達成するというようなことを安定した経営だとして続けていることについて、まるで未来が決まってしまっているかのように知らず知らず振る舞っていることに対しても、ちょっと大げさですが、ハイデガーという哲学者の“頽落”という言葉を思い出すことがあります。通俗的な解説をすれば、将来というのはどうなのか分らないから、人間はどうしても不安になってしまう。不安というのは対象が特定できず漠然としたものだから、それに備えるということはできず、宙ぶらりんのような状態に立たされるということになる。そこで人間は何か確かなもの、例えば明日は今日と変わらずに来る、昨日から今日も来たのだからきっとそうなるというような確かそうなものに縋る、そうすれば不安を忘れることができる。そうしているうちに不安を忘れてしまう。その時に、本来ならば不安な未来に向けて自己を投げ出して切り開いていくというような、本来的な姿勢を忘れていってしまう。それは、傍から見れば疎外されたような状態ではないか。というようなことを“頽落”という言葉で言ったと思います。かなり捩じ曲げた通俗的な解釈ではありますが。企業で言えば、そこまで細かく数字が作りこまれて、確実に行けそうだというようなことになっているのなら、極端な話、そこに必要なのは経営ではなくて管理ということになってしまいます。

そういうことを意識すると、毎回のIRの決算説明会で、毎回同じパターンを繰り返すということは、本来あり得ないと考えます。但し、説明会に出席する人は、企業の変化を見たいわけでしょうから、前回と比べて何が変化したかを知るためには、前回と同じような情報が継続して知らないと分かりません。だから、全く変えることはできない。しかし、それを口実に毎回同じバターンを繰り返す会社の説明会も少なくないと聞きます。それこそ、“頽落”してしまったものでしょう。あるとき、あるIR支援業者の人と話をしていてIRはクリエイティブの要素があるからと話したら、きょとんとされたことがあります。

さてもこのような話をしたのは前振りで、ここからが本題です。実は、上で話したような私の勤め先が、今回の決算では、厳しい状況の1年でしたが売上は予想値に届かなかったものの、営業利益は大きく予想を上回るというまずまずの結果だったのを受けて、企業の将来を展望して、かなりポジティブな業績予想を打ち出したのです。そのことについて、企業カルチャーが変わったかという人や、堅実な予想をする会社なので今回の予想には何らかの隠された根拠があるに違いないと詮索する人も、いらっしゃいました。これらの人たちは、私の勤め先を何年かウォッチしてくれている人たちです。そういう人たちで、こうなのですから、そうでない人の場合には、どうなるのか。

実は、今回の予想数値の決め方は従来の各営業による見込み客の積み上げをベースに算出していたのですが(もちろん、そのままの額ではありません)、今回は社長からこれだけはやらなくてはならないという事前にある程度の数字を出してきたというボトムアップからトップダウンの決め方に替わったといえます。社長は、現時点ではこのくらいところまで実績が行くだろうという見込は持っていたと思います。昨年まででしたら、それは終わりだったのです。しかし、今回は、会社が将来に向けて成長していくような、強い企業力を持つためには、昨年公表した中期3ヵ年計画を達成することが必要。そのためには、この1年で、ここまで伸ばさないと、3ヵ年計画の目標には届かなくなってしまう。という会社の将来を見据えて、そのためにこうしなければならない、というのが大きく働いたのでした。だから、予想数値の作り方も昨年までとは違って、粗っぽいものになってくるわけです。確度の高い積み上げではなくて、不確定な部分を多く含んで予想数値を出してきているわけですから。出している数字にはふり幅が生まれています。それをそのままストレートに説明しても、数値の整合性がないとか、ひどい場合には根拠の薄いところでセンセーショナルに煽っていると、受け取られてしまうおそれもあります。数字というのは、客観的で、どんな場合にも決まった価値、内容であると思われがちですが。同じ数字でも、受け取られ方が全く違ってきます。

実際には、会社を見ていただいている人たちにも、そういう会社の姿勢の変化を理解してもらって、予想数値の見方を少し変えてもらうのがベストであると思います。従来のパターンとは違った方向に行こうとする場合、そのことをアピールするのはいいのですが、理解してもらうことは難しい。試行錯誤を続けています。

ここ数回の雑感は、手探りの渦中で書いているので、分かりにくく、読みにくいかもしれません。

2013年7月 7日 (日)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(5)

終章 ローマ帝国の衰亡とはなんであったか

5世紀の初めに、軍事的な劣勢のみならず、帝国を実質化していた不可欠の構成要素も喪失して、ローマは事実上帝国であることをやめた。国家の変容は4世紀を通じて徐々に進んだが、それが負の面を顕在化させたのは、4世紀も終わりころのことであり、その後の短期間に、ローマ帝国は、単に軍事的に敗退しただけでなく、国家の意義をも失ったことを確認しなければならない。

言うまでもなく、ローマ帝国は「ローマ人」の築いた国家である。その歴史はティベリス河畔の一都市に始まり、「ローマの元老院と人民」という国家の呼称は、イタリア、中でもローマ市に結びついていた。直接支配する領土が拡大して、「ローマ人」の内実は故地ローマ市からもイタリアからも遊離したが、広大な最盛期の帝国にまとまりがなかったのではなく、しっかりと国家は統合さていた。その基軸となった思想は、一般に「ローマの理念」と呼ばれる、故地ローマ市を抽象化して普遍的な価値を持つとする考え、と説明されることがある。この説明はローマ帝国の後世への影響という観点から重要であるが、第1章で述べたように、私はより具体的に、ローマ帝国に統合を与えていたのは、「ローマ人である」というアイデンティティと考えたい。ローマ帝国とは、広大な地域に住む多様な人々を、「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下にまとめ上げた国家であった。異なった文化や歴史的背景を持った、まったく見ず知らずの人々にも、このアイデンティティが「私たちローマ人」という自覚を共有させていた。ラインやドナウのフロンティアで、また寒風吹きすさぶブリテン島で守備に就く兵士たちも、「ローマ人である」「私たち」のために戦っていたのである。「ローマ人である」ことは抽象的な概念ではなく、その内実は、軍隊や生活様式など具体的要素であった。しかし実際には、「ローマ人である」というアイデンティティは国家を統合するイデオロギーとして作用した。しかも暮らしに密着した具体性を備えていたから、ローマ帝国に参加することによってより良い状況になれるという期待を保証するものだった。それゆえ、周囲の人々を帝国に招き寄せたし、とりわけ有力者たちの利害に合致していた。その結果、ローマ帝国は魅力と威信を持つ、「尊敬される国家」たり得たのである。

しかし、4世紀の後半、諸部族の移動や攻勢の前に「ローマ人」のアイデンティティは危機に瀕し、ついに変質した。そして、新たに登場した「ローマ」を高くかかげる思潮は、外国人嫌いをともなう、排斥の思想だった。つまり、国家の「統合」ではなく「差別」と「排除」のイデオロギーである。これを私は「排他的ローマ主義」と呼んだが、この思想は、軍事力で実質的に国家を支えている人々を「野蛮」と軽蔑し、「他者」として排除する偏狭な性格のものであった。この「排他的ローマ主義」に帝国政治の担い手が乗っかって動くとき、世界を見渡す力は国家から失われてしまった。国家は魅力と威信を失い、「尊敬されない国」へと転落していく。

 

中間の事実関係の経過は些末になる恐れがあるので省略しました。この本の核心は、ローマ帝国を領域も実態も曖昧な存在と捉え、人々のアイデンティティが実質的に支えていた世界帝国であったという捉え方です。また、西ローマ帝国を滅亡に導いたゲルマン民族という概念も含めて、私が学校で習った歴史が19世紀の国民国家のイデオロギーにいかに歪められていたか、ということがよくわかりました。多分、ペルシャやイスラムの帝国や中国といった近代以前の帝国というのは、ローマ帝国に通じるようなところがあったのではないか、と思われるところがあります。それは、最近のネグリらの主張する「帝国」と相通ずるものだったように思います。そうなったとき、近現代の国民国家という政治システムの歴史を通して見た時の奇形性ということが浮き上がってくるかもしれません。

2013年7月 6日 (土)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(4)

では、ローマ帝国という国家には確たる実体がなかったのか。そうではない。ローマ帝国が「幻想の共同体」でなかった第一の要素は、軍隊の存在である。ローマ人は征服地に自治を認めながら、軍事力は取り上げて自分たちが独占すると同時に、治安維持を自らの義務とした。ローマ帝国を国家として実質化させていたのは、この軍隊である。しかし、それはただ、軍隊が周辺地域で帝国領を守っていたという意味ではない。自分たちが「ローマ人である」との自己認識を持つ兵士たちがそこに存在し、彼らによって守られた軍隊駐屯線が、曖昧な帝国を実質化していたのである。正確に言えば、ローマ帝国を実質化していたのは、軍隊そのものではなく、「ローマ人である」という兵士たちの自己認識である。フロンティアに駐屯する兵士にとって、相手が「敵か、味方か」の決定的な分かれ目は、相手がどの部族・民族に属するかということではなく、「ローマ人である」という自己認識を持つか否かであった。

次に重要な帝国実質化の要素は、「ローマ人」としての生き方である。これは実際には、ラテン語を話し、ローマ人の衣装身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践することといってよい。属州の民や外部世界から属州に入って生きていこうとする者は、まずこれらのことを実践しなければならなかった。しかし、それはきわめて難しい要件というわけではなかった。もし人々がエリートたろうと思えば、ローマ人の教養学科を学ぶ必要もあった。こうしたローマ人としての要件を満たすには、まずは都市に暮らすことが条件となる。ただ、都市は、こうした生活様式の実践の場であるだけどなく、他にも帝国にとって重要な役割を果たしていた。この都市がローマでは統治に重要な機能を果たす。

さらにローマは、フロンティアのゾーンやその彼方の地域においても、有力者と結びつき、彼らを取り込んで自らの力とした。外部世界の族長や王との間にも信義関係を結んで利用した。ローマ帝国を実質化する要素の第三は、まさにこの有力者たちとの共犯関係であった。現代人の目からすれば、国境線もはっきりせず、また主たる構成員の定義も曖昧な巨大国家が「幻想の共同体」にならなかった要因は、このように、「ローマ人である」自己認識を備えた軍隊、「ローマ人である」ために相応しい生き方の実践、そして都市をはじめとする在地の有力者たちとの共犯関係にあった、と私は考える。

これらのうち、ローマ人たるに相応しい生き方、生活様式やものの見方などは、周囲の人々にとって魅力的と感じられなければローマ支持の力とならない。ローマ人の価値観、生き方を共有を共有できなければ、人はローマを支持しない。

要するに、ローマ帝国とは、広大な地域に住む、それぞれ固有の背景に持つ人々を、「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下にまとめ上げた国家であった。このアイデンティティやそれによる支配は、各地の有力者の支持に基づいていたが、同時に彼ら有力者や新たに帝国に参入した者にとっても、新しいアイデンティティは支配と上昇の力となったのである。

個々で再認識しておくべきことは、帝国の「外部」と接する属州にあっては、「ローマ人である」というアイデンティティは、出身部族や居住地、あるいは宗教などを理由として誰かを「排除」するものではなく、むしろ多様な人々を「統合」するイデオロギーとなったことである。そしてこのことは、「ローマ人である」というアイデンティティにとって、むしろ本質的なことであった。

 

ゲルマン人がローマ帝国に大挙移動して、帝国西半を滅ぼしたと考えられている。ローマ人対ゲルマン人という二項対立の図式は、ローマ帝国衰亡過程の説明基軸になっており、この対立図式は、そのまま「文明」対「野蛮」の図式的理解にも一致している。しかし、「ローマ人」が特定の民族を示すものでないのと同様に、「ゲルマン人」「ゲルマン民族」といった集団の括り方も、今日の歴史学研究の水準からすれば大きな問題を孕んでいる。そもそも「ケルト人」や「ゲルマン人」という呼び方はすべて他称であり、自分たちをそう呼んだ人々は古代にはいなかった。そして、古代ギリシャ語やラテン語の文献に見られるこれらの呼称は、地中海周辺地域に暮らす人々から見て、単に「北に住む野蛮人」を意味することが多かった。ローマ人は、ヨーロッパ内部を支配下に入れるに当たり、そこに住む人々を「民族」によって差別することはしなかった。それは当然である。ローマ人の間には、「民族」という区分の観念が存在しなかったからである。属州内内とその外の世界に暮らす先住の人々は、それぞれ個別の集団の名でもって識別され、それらをまとめて定義する上位の概念は存在しなかった。あったのは、敵対する人々を「蛮族」と見なす意識のみである。つまり、外部から攻撃を受ける戦時にあっては、ローマ帝国の指導者やフロンティアの兵士たちは敵対する人々を、「他者」として位置付けた。単に「ローマ人である」ことを確認し、高度な文明を持つ国の民というアイデンティティをかくりつするためでもあった。

それでは、「ゲルマン人」という概念はどのように生まれてきたのだろうか。古代に用いられたギリシャ語やラテン語の「ゲルマニアの人」という呼称は、特定の民族集団を意味するものではなかった。しかし、19世紀に入り、ドイツ統一など国民国家形成の時期になって、その研究はナショナリズムの影響を正面から受けることになる。ローマ帝国領内に移動し、部族国家を形成した人々、いわゆる「ゲルマン人」はスカンディナヴィアなど北の故郷を離れて長い移動の末に、ローマ帝国領に入り、帝国を滅ぼして自分たちの王国を建設したと考えられ、彼らの移動後も最初の種族的なつながりを保持したと想定された。そして、そのことを立証するために、文献学や言語学だけでなく考古学研究の成果も大いに用いられた。やがて、「ゲルマン人」「ゲルマン民族」は研究から切り離されて政治的イデオロギーへと移ってしまい、ドイツ民族の起源として重んじられ、特にゲルマン民族至上主義を奉じるナチ党の道具となっていった。

2013年7月 5日 (金)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(3)

このようにローマ帝国の拡大や「国境」の意味を理解するに当たっては、イギリスの学者ホイタッカーの教えられるところが大きい。帝国の中枢から遠く離れたアルプス以北の地域は、英語の研究書では「フロンティア」と呼ばれている。要するに国の領土の縁、辺境地帯のことである。ホイタッカーは、フロンティアを「線」、特に「文明」と「野蛮」とを分かつ境界線と見る考え方は、ヨーロッパが近代の植民地戦争で、またアメリカ合衆国が西部開拓で経験してきたところから来た見方であって、ローマ帝国の場合は「線」ではなく、ローマ軍駐屯地域やその周辺に様々な人々が混ざって生活する「ゾーン」と見るべきとする。ローマ帝国のフロンティアは軍が進軍を停止したところに形成されたが、それはいわゆる「軍事境界線」ではなく、広い範囲にわたる移行地帯で、曖昧な性格のものであった。産業が農耕から牧畜に変わる地域は実際は相当するが、統治や経済活動に支障をきたす限界の地域に設けられたという意味が大きい。そのため、重要な課題は、軍事行動そのものよりも、駐屯する軍隊への物資の供給であった。ローマ帝国は、商人を統制したり援助を与えたりしつつ、各地で物資を集めて軍隊への供給を行ったが、この措置やそれに伴う商人の活動は軍隊駐屯地付近に大きな影響を与えた。物資が行き渡って民間に大きな市場ができ、都市や村落を発展させたのである。そればかりではなく、物資は軍隊駐屯線の外側からも集められたため、外部世界にも影響が及んだ。ホイタッカーの説明は、辺境を軍事境界線とみなす解釈を否定し、軍隊への物資の補給など、社会的・経済的な観点からなされている。私は、ローマの軍事活動が経済的な要因のみで説明できるとは考えないが、ローマ帝国の辺境を高度な文化が存在しない場所、文明と文化が存在しない場所、文明と野蛮の境界線と見てきた従来説に対して、活力あめ地域と捉え直した彼の学説の意義は大きいと見ている。

では、こうしたフロンティアを抱える属州では、人々はどのように暮らしていたのだろうか。新たにローマ帝国領となった地域では、ローマ市民権を持つ人々の植民活動や移住ばかりでなく、ローマの征服活動に協力的であった先住部族の長らにローマ市民権が与えられるなどして、被征服地をローマ市民の居住地としていく措置が取られた。先述した補助軍への徴募などを通じて、被征服地の民をローマ帝国の正式な構成員とする回路も整備されていった。その結果、ローマ市民権保持は増大して、アルプスの北側の広大な地域にも、都市的な居住地を中心に著しく市民の数が増えた。イタリアなどの地中海周辺地域ではなく属州出身の人々であった。ローマは、このように市民権とその授与の点で、居住者の出自などに区別を設けなかった。そもそも歴史の初期から、ローマ国家は拡大とともに周囲の集団を受け容れて、自らの市民団の新しい力としてきたのである。見方を変えれば、最盛期の帝国の担い手たる「ローマ人」とは実に曖昧な存在だ、ということができる。ローマ人はたいへん寛大であった。ローマ国家の約束事に従い、その伝統と習慣を尊敬する者なら誰であろうと「ローマ人」になれたのだ。新しくローマ市民社会の一員となった者たちの中には、その後、ローマ帝国の社会的なヒエラルヒーの階段を上って、支配階層にまで達する者も出て来た。

ローマ社会は人々やその集団を出自によって固定させてしまうカースト的な社会ではなく、流動性があった。そのため、奴隷に生まれても、主人の遺言などの方途で奴隷の境遇から解放され、解放奴隷となり、更にその者の子孫は都市の有力者となって都市参事会員として活躍し、さらに実力と幸運に恵まれて騎士身分に上昇、元老院議員まで上り詰めるなどという可能性もあったし、実際そうした家族の上昇例は多かった。属州に生まれたローマ市民でない者も、外部世界から属州に入って市民権を得た者も、実力と幸運に恵まれれば、社会の最上層まで到達できたのである。帝政期に入って、元老院議員身分家系には跡継ぎを残せず断絶する家が相次いだため、皇帝は帝国統治の要員を確保するうえで、また貴族しか担当できない国家宗教の担い手を確保するためにも、元老院議員を減らすことはできず、欠員が出れば次位の騎士身分から補充しなければならなかった。同様に騎士身分はその下位の身分から補充された。そのため、ローマ市イタリア都市の古くからの議員家系が減少して、イタリアの地方都市や属州都市の新興家系出身者が次第に元老院の構成員の中の多数を占めるようになっていく。一世紀の後半には、帝国統治の重要な担い手に、イタリア地方都市や属州都市の出身議員が数多く見られるようになる。ローマ史研究の大家サイムは、台頭してきたこうしたエリートを「新しいローマ人」と呼んだ。

以上に述べてきたことから分かるのは、ローマ帝国は国家として硬直した存在ではなかったということだ。担い手である「ローマ人」は法の民であり、法に基づく国家の制度を持ち、奴隷制と身分制を備えた社会に生きていた。ローマ人とは、まずは市民権を基盤とする法的なカテゴリに属するものだった。しかし、制度の運用も含めて帝国の実際を観察すると、ローマ人とは先に見たようなきわめて柔軟なそんざいであって、排他的な性格を有していないのは明白である。従って、外部世界から属州に入ってローマ人になることは、相対的に難しくない。しかも、その外部世界から属州に入るところのフロンティアが、厳格な国境「線」ではなく、これまた曖昧な「ゾーン」になっていた。ローマ国家が統御しているが、外部世界の者を排除するのではなく、穏やかに管理しコミュニケーションを確保しているに過ぎない。帝国の「境」は、地理的にも社会構成的にも明確ではなかった。

2013年7月 4日 (木)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(2)

第1章 大河と森のローマ帝国─辺境から見た世界帝国の実像

ローマ人は、イタリア半島の中部、ティベリス(テヴェレ)河畔の小さな都市から出発してその国を発展させ、周囲の諸族を征服して、前3世紀にイタリア半島を統一した。さらに南フランスやイベリア半島南部へも勢力を広げて、西地中海地域を支配するフェニキア人の都市国家カルタゴと対立する。三度にわたるポエニ戦争でこれを殲滅したローマは、シチリア島や北アフリカの地中海沿岸を支配下に収めた。また、西地中海地域の制覇と並行して東のギリシャ文化圏へも進出し、前2世紀後半にはギリシャ本土や小アジア(現トルコ)をも事実上支配下に入れる。その後もローマの拡大は続き、前64年にはシリアも領有、前30年にはプトレマイオス朝エジプトも滅ぼして、地中海を内海とする巨大な国家を形成するに至った。こうして、ローマ人は地中海を「われらの海」と呼ぶようになった。しかし、彼らは地中海周辺地域を支配下に入れたにとどまらなかった。故地であるローマ市やイタリアとは気候風土の異なる地域へも進出し、地中海を離れた土地も自分たちの領土に包摂しようとしたのである。この点は、大植民活動を行って都市を建てても、海に近い地域を離れることのなかったギリシャ人とは決定的に異なる。ローマ人は、太陽が輝き明るくて暖かな沿岸部だけでなく、寒くて陰鬱な空模様の多い内陸地域にも支配領域を広げていった。そして、地中海から離れた森や河川、湖や沼沢地などの多い地域を、自分たちの世界に新たに加えたのである。その大きな一歩を成したのが、ユリウス・カエサルであった。

新しくローマ帝国に加わったライン川以西の地域とブリテン島、そしてヨーロッパ中央部のドナウ川以南の地域には、もともと先住者が生活する小規模な村落が散在していた。そこに都市的な生活様式を伝えたのは間違いなくローマ人である。ローマは先住者たちに旧来の部族ごとの生活を継続することを認めたが、部族の有力者には税徴収や新兵の補充などの用務を担わせ、また部族の民がローマに対して反抗的態度をとらぬように監視させて、支配の一翼を担わせた。同時に、有力者にローマ市民権など多くの特権を与え、ローマ市民団の一員へと導き、旧来の部族の生活集団・組織あるいは部族国家と呼んでよいものを統治の基本単位としてまとめあげた。

属州における新しい都市の生成と発展には、ローマ軍も大きな役割を果たした。ローマの征服軍が要塞を構えると、要塞の周辺には軍に関係する民間人の定住地カナバエができた。帝政期の比較的早い時期から、境界地帯での移動を前提としていた正規軍団は、次第に一定の基地を得て長く駐屯するようになる。そして、軍を退役した兵士は故郷に戻らず、在勤中に非公式に設けていた養子とともに基地の近くに定着し、カナバエから発達した町で暮らし、その有力者となる者も出て来た。町は大きくなり、都市的外観も組織も備えるようになった。さらにいえば、軍隊は新しく「ローマ人」を生み出す回路としてもきわめて大きな役割を果たしている。「ローマ人」を生み出す回路としてもきわめて大きな役割を果たしている。「ローマ人」とは、今日の感覚とは「国民」のようにイメージを持たれるかもしれないが、まずはローマ市民権を持つ「ローマ市民」のことであり、故地ローマ市と結びついていた。新しくローマ市民となった者は、ローマ市のどこかの地区に登録された。「ローマ人」であるためには、ローマ市民権の取得が前提であった。皇帝政府は、このローマ市民権を持たないために正規軍団に入隊できない部隊の男性を、補助軍(アウグシリア)として組織した。補助軍といってもローマ人指揮官の下、正規軍団とともにローマ軍の一翼を担ったから、指揮命令系統や訓練はローマ式になされる。そのため、ローマ市民でない者にとっては、ラテン語や、ローマ式の軍隊生活と戦術を学ぶ場となった。無事兵役を勤め上げて退役するとローマ市民権が与えられ、その者の子はローマ市民として正規軍団に入隊することができ、ローマ社会の階梯を上がっていくことができた。こうしてローマ帝国は辺境において、兵員を確保するたけでなく、ローマ帝国に対する忠誠心を期待できる人材を養成してもいたのである。

アルプスの北の広大な属州では次々とローマ風の都市的定住地が生まれ成長し、また新しいローマ市民が誕生・活躍するようになっていったが、こうした帝国領は、ライン川やドナウ川といった大河や人工的に築かれた防壁に沿って守られており、領内の安寧が保たれていた。こうした軍隊が駐屯する最前線をローマ帝国の「国境線」と見ることが一般的だが、軍隊駐屯線をローマ軍が外的と対峙する軍事境界線と解し、その内側と外側を峻別する考え方は、きわめて近現代的な発想に基づいた見方である。実際のローマ帝国とその外側の世界との関係は、近現代的な国境線とは異質のものである。

そもそも共和制の時代以来、ローマ人の領土は「限りない帝国」という考えが存在した。ローマ人の領土は人の住みうる世界のどこまでも広がるというイデオロギーである。ローマ人にとって、ライン川の東側、ドナウ川の北側の広大な土地も、帝国の支配する、そして支配してよい地域であった、いわゆるローマ帝国領とは、その中でも属州に組織したほうが都合のよい地域に過ぎなかったのである。「限りない帝国」は同時に「国境線なき帝国」を意味した。ローマ軍が駐留する人工の防壁も自然国境を成すと見られる大河も、実際には至るところで外の世界に開かれており、平時には防壁を越え大河を渡って人と物が行き来していた。考古学的な調査によれば、人工の防壁や大河は、その外の世界と内とを遮断するために使われたのではない。例えば、ライン川の彼岸にもローマの砦や拠点が作られたことを見てもわかるように、人と物の行き来をローマ帝国の管理下に置くために存在ないし利用されており、その役割はむしろ行き来を促進するものといってよかった。決して「ローマ人」と国境外の「蛮族」とを分かつために存在しているわけではなかったのである。

2013年7月 3日 (水)

あるIR担当者の雑感(124)~広報というものの変質

IRのことを投資家向け広報ということに対して、私は、この場で、そうではないのではないか、ということを再三述べてきました。

最近、その広報とか広告ということ自体が、変質しているという議論に触れる機会がありました。それによると、テレビ広告費の増減は名目GDPの動きとリンクしていると言います。テレビ広告とは消費喚起システムであり、かつてであれば、人々は消費に対して前向きで、給料が出たらおいしいものを食べ、ボーナスが出たら新しい家電やクルマを買い、長期休暇には海外旅行に出かけた。そうするものだと思い込んでいたし、消費こそが人生の楽しさだと思っていた、いいます。それが、長引く不況や、そのとどめのリーマンショック、そして東日本大震災を経験して、前述のような消費、字の通り、費やして消えてしまう、何も残らないような虚しいことは、しなくなってしまった。

では人々は、どうなってしまったのか。その議論では、人々は生きようとしている、と言います。つまり、彼らはもう、90年代までのようにどんどん消費しようなんて思わない。お金を使う一回ごとに真剣に考える。検討する。比較する。話しあう。そういう人たちに向かって、消費を煽るだけの広告が有効なはずがない。つまり、従来の広告ということ自体が、崩壊してきているということになります。

ということは、IRを広報として捉えたとしても、広報ということ自体が変質してきている。広報は、手許にあるわずかな現金ですら、真剣に考え、検討し、比較して、慎重に使おうとする人たちに向き合わなくてはならなくなってきている、ということです。いまどき、そんな会社はないでしょうが、お金をかけて広告を打ったり、単に人を動員した説明会を何度も開いて、知名度が上がったとか言っているような脳天気な、投資家向け広報というのは、その広報ということ自体が、時代に通用しなくなってきている、ということではないでしょうか。

この議論に戻りますが、もはや消費者とは呼べない、そうした人々に対して、何が有効かというと、双方向のSNSのようなメディアではないか、と提案しています。もとより、その議論をしている人たちは広告業界の人たちですから、自分たちの基盤を否定するような議論をしているわけです。それだけ、彼らは切羽詰まった危機感を持っているということになると思います。IRを広報であるとして、さまざまなコンテンツを販売している業者の人たちには、果たして、そういう危機感というのか展望がどこまであるのか。

私の勤め先のような地味な中小企業に対して、そういう業者の人が決まって言うことが「知名度を高めましょう」ということです。そのために、色々なところに企業名を露出させるということを勧め、その露出の場とかコンテンツを売り込むというのが、よくある売込みのパターンです。ところが、上のような議論を踏まえると、知名度があることと、実際に買ってくれることの間に深い溝があって、企業の側からは、それを容易に越えられなくなってきている、ということになります。つまり、買ってもらうためには、まず知ってもらう必要がある。そのために知名度をあげるというこが有効とされていたわけです。ところが、知名度があがることと、買ってもらうことの間に関係がなくなるということになれば、知名度をあげる必要性がなくなるわけです。ということは、IRコンテンツを販売する業者の売り込んでくるものは、企業にとっては何の意味もないものになってしまっている、と考えられるわけです。

だって、知ってもらわないで他にどうするの、というような声が聞こえてきそうです。ひとつ考えられるのは、企業名を取り敢えず知ってもらうことだけが、企業に近づいてもらう入口とは限らないということではないかと思います。つまり、トヨタ自動車とかソニーというような企業名に触れて、その企業の存在を認識するというだけでない、ということです。さまざまな切り口で企業をリストアップできるようなデータベースは巷に溢れています。例えば、ニッチ市場の銘柄だけを抽出するとか。要は、名前という単一ではなくて、様々な切り口があるわけですから、そのうちの多くにリストアップされるような多彩な企業情報を市場に出して、様々な切り口や階層での情報の網に引っ掛かりやすくすることを、もっと考えてもいいのではないか、と思います。ちょっと、抽象的すぎるかもしれませんが。

それは、さっきの議論にありましたが、SNSを通じてあらたに交わされるコミュニケーションにも通じているのではないかと思います。会社員としての私が勤め先の取引関係で、主に人間関係が形成されるリアル世界の関係に比べて、SNSで呟かれるのは、趣味だったり、食事の好みだったり、地域だったり、様々な切り口で関係が作られます。例えば、フェイスブックでは投資と餃子を愛する人たちのグループがネット上でできていたりするのです。そのとき、ある人がという言う関係に参加できるには、いかに多くの切り口をもっているか、それをネット上に明らかにしているか拠ることになるわけです。それは、その人の知名度とか肩書とか貧富とかいうものとは別のものです。

私の勤め先のホームページへのアクセスを解析してみると、投資家向けの説明ページに関しては正面入り口というのか、IRトップページからインデックスを経由して入ってくる人に対して、検索サイトを通じて特定の検索ワードで直接、ある事項の説明ページに入ってきて、その周辺をついでに見るというパターンの人が増えてきています。ということは、検索にヒットするような様々な事項に対しての説明を充実させて、そういうページを増やして、検索で企業名とは関係なくページ直接入ってくる人たちに対応しているうちに、投資対象銘柄として認識してもらう、というホームページの活かし方は、今後有効性が増していくのではないか、考えています。

このような人と投資の対象である企業が全く同じとは言えないかもしれませんが、これから企業がIRということをしていくに際して、参考になることだけは確かであると思います。

2013年7月 2日 (火)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(1)

序章 21世紀のローマ帝国衰亡史

ローマ帝国は3世紀に入ると全般的な危機に見舞われる。政治的混乱と経済的活動の衰退、帝国の外に住む諸部族の攻撃と領内での分裂がローマ帝国を苦しめた。この危機を克服した3世紀末以降の後期ローマ帝国では、それ以前の国家と異なり、皇帝による独裁的な政治体制が強化された。また、急増した軍隊と官僚を維持するべく財政至上主義的な政策がとられたため、重税を課された人々は、次第に職業選択や移動の自由を失うようになった。この間、宗教においても伝統的なギリシャ・ローマ風宗教が衰退して、迫害を凌いだキリスト教が帝国の国教の地位を得た。一時安定していたローマ帝国は、4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動によって「蛮族」の侵入に悩まされ、混乱の中で395年に東西に二分された。410年には「永遠の都」ローマ市もゴート族に占領・略奪されるに至る。そして、東の帝国は後にビザンツ帝国として新たな発展を見、15世紀半ばまで続いたが、西の帝国は、ゲルマン民族の移動と部族国家建設の嵐の中で、476年に最後の皇帝がゲルマン人の傭兵隊長に廃位されて、ついに消滅した。以上が。ローマ帝国の衰退の経過に関する伝統的で一般的な説明である。

ところが1990年ごろから新しい解釈が有力となってきた。古代の終焉期に関する新しい研究においては、ローマ帝国の「変化」よりも「継続」が、政治より社会や宗教が重視されるようになり、「ローマ帝国の衰亡」を語るのではなく、「ローマ社会の変容」が問題とされるようになった。こうした新しい研究傾向と並行して、ゲルマン民族の大移動の破壊的な性格を低く見積もり、移動した人々の「順応」を強調する学説が提唱されるとともに、ギリシャ人、ローマ人以外の古代世界住民の歴史と文化をより重視しようとする動きも見られた。

本書において、私の独自の考えで「衰亡史」を語ることにする。「独自の考え」とは、衰亡の過程の史実に関する創見を意味するものではなく、ローマ帝国の本質に関する見方のことである。長らくローマ帝国の最盛期を研究してきた成果を踏まえて、衰亡史を書いてみたい。その考えの特に重要な点は、次のことである。

ローマ帝国は、イタリアに発し、地中海周辺地域を征服して帝国となった。そのため、ローマ帝国は一般に「地中海帝国」と理解され、性格付けされている。また、ローマ帝国の歴史著述の中心はイタリアやローマ市に置かれており、衰亡史もまた、ローマ市がゴート族に劫略され、イタリアに残った西ローマ帝国の皇帝権が消滅していく過程を主軸にして描かれてきた。しかし、本文で詳しく述べるように、国家生成期はともかくとして、最盛期以降の帝国をも「地中海帝国」とみなせば、ローマ帝国の重要な歴史的性格を見誤ると私は考えている。イタリアや地中海周辺地域だけでなく、アルプス以北の広大な帝国領念頭に置く必要がある。イタリアに中心を置く立場からは辺境と呼ばれたようなこの地域こそが、最盛期から終焉期にかけて、ローマ帝国の帰趨を決めるような歴史の舞台になったところにほかならない。

2013年7月 1日 (月)

村上隆「想像力なき日本─アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」」(5)

第5章 「インダストリー」としてのアート業界

現在のアート業界でいちばん力があり、活況を呈しているのはアドバイザーと呼ばれる人たちです。アドバイザーは、世界中で行われているオークションのデータをなどを含めて、アーティストの動向や市場の動きと言ったすべての情報を押さえています。そして世界中のアーティストのもとを回って関係性をつなげて、“自分にとって有用なシェフ”を探しています。アーティストに支払う額を決めるのがアドバイザーであれば、コレクターに売る額を決めるのも、市場での価値を操作するのもアドバイザーです。

アート業界に対してはいろいろなイメージがあるかもしれませんが、精神的なもろさがある人、打たれ弱い人は、入って来るべきではない世界と言えます。画商、エージェント、キュレーター、アドバイザーといった海千山千の人間たちとやり取りしながらやっていかなければならないのがこの世界です。そうした人達とのやり取りを避けていたのでは、アマチュア画家として終わるだけです。この世界で生き残っていくために求められるのは覚悟と継続力だということは、これまでも繰り返し書いてきました。そのために必要になるのが、対人関係も含めての積極性と打たれ強さです。もちろん、この世界においてどのような位置を目指したいかによっては重点が置かれる部分は違ってきます。この世界に長くいることを目指すのであれば、まずは精神力が試されます。中間層あるいはその上を目指して行きたいというのなら、周囲の空気を読みながらうまく立ち回っていく器用さが必要になります。精神力や礼儀作法が大切になるのは、どの位置にあっても同じことですが、ある程度の位置に自分の居場所をつくっていきたいのだとすれば、それだけでは不十分です。そういうときには社交性やご機嫌取りといった要素の重要性が増して行きます。そして、本当の意味でのトップに立つためには、徹底的に練り上げられた戦略が必要になってきます。

「芸術にもルールはある」というのは先に書いたことですが、すべてのルールを知っていてこそ、本当の意味で自由になれるのも確かです。ルールを知らないうち、あるいは把握しきれていないうちこそ、束縛は最も強くなります。例えば絵を鑑賞する側の立場であっても、ルールは知っておいた方がいいのは間違いありません。ルールなどとは関係なく直観的な好き嫌いをすべてとするのもいいですが、ルールを知ればまた違った楽しみ方ができてしまいます。ピカソの絵を見たときに「なんだかよくわからない」と拒絶する人もいるはずですが、ルールを知ったうえで鑑賞すれば、その魅力に気が付きやすくなります。ルールをよく知り、ピカソの絵のもつ意味というものが理解できたうえで「やはり嫌い」というのなら、それはそれで構いません。そうした意味においても、ルールを知ったほうが自由度は広がります。ピカソの絵に関していえば、ぼく自身、個人的好みとしてはあまり好きではないのが事実です。では、ピカソの絵は欲しくないのかと言えば、そんなことはありません。もちろん欲しいです。なぜかと言えば、ピカソの絵はアート界の最高位の“ブランド”になっているからです。経済的価値の問題だけではなく、これだけのブランドになった絵の価値は絶対的です。そんなことを考えても、世界で勝負していく上では、自分の絵、そして自分自身をブランディングできているかどうかが問われてくるわけです。芸術の世界でもIT企業でも、他のビジネスでも同じだと思います。いかに注目を集めても、自らの価値を高めるかを考えることが大切です。それに成功してこそ、自由度が高まります。そうなれば新しい事業や新しい作品を手掛けられ、そこでもまた結果をだすことができていきます。

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