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2013年7月19日 (金)

佐々木俊尚「レイヤー化する世界─テクノロジーとの共犯関係が始まる」(2)

第1部 中世─多くの民族がともに栄えた帝国の時代

第1章 かつてヨーロッパは辺境の地だった

20世紀型の世界システムをつくったのは、ヨーロッパ人たちでしたが、ヨーロッパはずっと世界の中心だったわけではありません。中世までは単なる辺境の地、世界の最果てでしかなかったのです。「なぜヨーロッパ人がそれほどまでに強く大きくなれたのか」ということが不思議に思えてきます。

古代のギリシャとローマの文明はヨーロッパ文明ではなく「地中海文明」です。古代ギリシャ文明のルーツはいまのトルコのあたりで、ヨーロッパとは何の関係もありません。そして、ギリシャとローマの文明が滅びた後も、世界の中心は地中海から中東、インド、中国へと連なるユーラシア大陸南部地域でした。ヨーロッパが中世の暗黒時代になっていようがいまいが、それとは関係なしにこの地域は最近までずっと繁栄し続けていたのです。経済だけではありません。ギリシャ・ローマの古代文明を保存し、後世に伝えたのは、イスラムでした。

中世の真っ最中には、イスラムから見たヨーロッパは辺境の未開の地で、蛮族の地域でしかありませんでした。このころのヨーロッパ人たちのよりどころはキリスト教でした。4世紀にローマ帝国の国教となって、だから帝国がなくなった後は、国教だったキリスト教がローマ帝国を思い出させる拠り所となっていたのです。だから、ヨーロッパ人たちは、キリスト教の聖地エルサレムへと旅行しました。当時のエルサレムはイスラム帝国の領土であり、その経済や文化にかれらは圧倒されます。そして当然のように、かれらは野蛮人扱いされ、その屈辱とイスラムに対する羨望が鬱屈し、この屈折した感情が「キリスト教の聖地エルサレムをイスラムから奪い返すのだ」という意志へと変わっていきます。これが十字軍に結実します。

一方、イスラム帝国の側からみると、未開のヨーロッパから突然やって来た十字軍は迷惑以外の何ものでもありませんでした。この時代の中心はイスラムであり、イスラム帝国には科学と文化の真髄が集まっていました。その文明の国の人たちにとっては、ヨーロッパの十字軍は「無教養で野蛮な者たちが突然意味もなく襲ってきた無気味な出来事」としか映らなかったということなのです。これはまるで21世紀の今のイスラムと欧米の立場をちょうど180度逆転させているかのようです。こういうイメージは、どっちが「中心」で、どっちが虐げられた「周辺」なのかという関係の結果生まれるイメージにすぎないということなのです。

ドミニク・モイジという現代フランスの政治学者によれば、今の世界は様々な感情によって分けることができると言います。「希望」「恐れ」「屈辱」という三つの感情です。中国やインドは、いろんな問題は起きているけれども経済は成長し、「希望」でいっぱい。イスラムは、中世までは世界の中心でヨーロッパ人をバカにしていたのに、今は遅れた場所と虐げられて、そういうことに対する「屈辱」で溢れていると言います。そしてヨーロッパは、今かつての力を失いつつあって、これまでの豊かな生活がなくなるのじゃないかという「恐れ」に包まれています。振り返ってみれば、中世に周辺の辺鄙な土地だったヨーロッパは、近代になって、中世までの世界のシステムをつくり替えました。日本もアメリカもその他の多くの国も、基本的にはヨーロッパが作った世界のシステムに基づいて政治や社会や経済の制度をつくっています。しかしそのおおもとのヨーロッパが「恐れ」に慄いている中で、いつまで近代の世界のシステムが存続するのかはもうはっきりわからなくなってきました。

それにしても、それほどまでに壮大な文明を作り、世界の最先端をいっていたはずのイスラム(あるいは中国)が、なぜ「屈辱」に支配されるほどまでに落ちぶれてしまったのでしょうか。古代の終わりから中世にかけては色々な帝国が栄え、興亡を繰り返しました。しかし世界のシステムは一貫しています。たいへん大雑把に言ってしまえば、当時の世界システムには二つの要素がありました。

第一には、帝国は多民族国家だったということ。

第二には、帝国と帝国を結ぶゆるやかな世界の交易のネットワークがあったということ。

このうち、帝国が多民族国家だったというのは、今のように「ひとつの民族がひとつの国」ではなく、複数の民族が集まってひとつの帝国のもとで暮らしていたのです。これは21世紀の国家のあり方とは、まったく違っています。今の「ひとつの民族がひとつの国」は「国民国家」と呼ばれます。国民国家は17世紀以降のヨーロッパで出来上がってきた考え方です。中世まで遡れば「ひとつの民族がひとつの国」という考え方は一般的ではありませんでした。中世の帝国のころは、たくさんの民族が共存して暮らしていたのです。そもそも「国」という概念でさえ、ほとんどなかったのではないかとも言えます。

ローマ帝国、イスラム帝国、ビザンチン帝国、オスマントルコ帝国、モンゴル帝国、ムガール帝国、中華帝国。古代から中世まで、帝国は世界中に広がっていました。様々な帝国が現われては消え、たくさんの栄枯盛衰がありました。しかし何千年もの間、帝国が世界の基本システムだったことに変わりはなかったのです。この「帝国」はどのように定義されるのでしょうか。ゆるやかに定義すれば、「複数の民族やエリアをひとつに治めている国が帝国」ということになります。では、帝国が複数の民族をひとつにまとめているとして、何を基準にまとめていたのでしょうか。これだけの長い期間にわたって国を成り立たせるためには、何か軍事力以外に求心力が絶対に必要です。近代の国民国家なら、それは民族という求心力です。それは求心力とともにウチとソトを分ける「境界」にもなっています。国民国家が民族によって国のウチとソトを分けているように帝国のウチとソトを分ける何かの境界があったはずです。例えばローマ帝国は、ラテン語やギリシャ語ということばが境界になっていました。ローマ人は共通語であるラテン語とギリシャ語をしゃべる人がローマのウチの人間であり、しゃべらない人間はローマのソトにいる野蛮人とみなしていたのです。またイスラム帝国では、境界は宗教でした。イスラム教を信仰する人はイスラム帝国のウチの人間であり、異教徒は帝国のソトの人だったのです。そもそも帝国というのは領土を広げ、様々な民族を包んでいく国ですから、ウチソトの境界が絶対に必要というわけではありませんでした。境界のない帝国もありました。アケメネス朝ペルシャやモンゴル帝国です。このような境界を定めず、無理にウチソトを分けないやり方であれば、帝国の領土は無限に広がっていくことができます。これが帝国の平和だったのです。一旦帝国に支配された内側では平和が続きました。帝国というのは、何がウチソトを分ける境界になるのかというその考え方が、いまの国民国家と違っていただけとも言えます。

帝国の二つ目の要素についてです。中世には帝国と帝国を結ぶゆるやかなネットワークがあって、それらはユーラシア大陸を中心に形成されていました。様々な帝国が興亡し、帝国の内外を結んで交易のネットワークが整備されていた─そういう政治と経済が、中世の世界システムだったと言えるでしょう。この巨大な世界システムを支配できると考えている者は殆どいませんでした。ほとんどすべてを支配したのは、13世紀のモンゴル帝国だけです。だから中世の帝国システムの時代には、共存と忍耐が世界の常識でした。お互いに依存し、時には腹を立てながらも我慢し、この世界システムに参加していたのです。その意味で、中世はとても強靭で、しなやかな世界システムだったと言えます。

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