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2013年7月14日 (日)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(5)~拾遺

Makinofuukei前回までで、牧野邦夫についておおよその印象をまとめてみました。しかし、そこから擦り落ちてしまったものが、結構あって、これを黙っているのはもったいないと思って、とくにまとめることを考えずに、ここに印象に残った作品を取り上げて、順不同でお話ししていきたいと思います。

まず、風景画といえるのか『近衛師団司令部跡』という作品です。左半分はきっちりと描かれた建築画のように見えますが、右に視線を移すにしたがって、建築的な造形は歪み、左側の直線的な造形が曲線に歪み、顔やら非現実なものが現われて来ます。レンガ造りの建物の廃墟を見たということを強調しているともとれなくはないですが、これまで「ものがたり」を話してきた身としては、牧野は、この廃墟に現実と幻想の境目を見たのではないか、と思いたくなります。牧野は風景画をあまり残していないようですが、『東寺』という作品も、そういう印象が残ります。

Makinotojiまた、牧野は少ないながら静物画も、といっていいのか、残しています。Still Lifeという言葉の通りの静物画とは趣を異にしますが、人物が描かれていない小品とでも思っていただくと、画像はありませんが『虫の墓』とか『死んだ雀』という作品を見ていると、対象を描写する能力の高さの凄さに、感じ入ってしまいます。真に迫っているというまさに迫真的であることも凄いですが、これだけの小品でありながら、それを見ていて、何かあるのではないかと、背後に「ものがたり」を想像させてしまう何かがあるように思います。今回の展覧会は「写実の精髄」とうたわれていますが、私の感じた牧野の魅力は、この「ものがたり」を想像させてしまう何か、であり、それは具体的な形にはできないものだろうと思います。

Makinoraruそして、一度裸婦像のところで触れましたが、彼のある種の作品にある猥褻といっていいエロチシズム。こんな余所行きの言葉ではなく、もっと直接的にエロ本と見紛うばかりのものを臆面もなく堂々と見せてくれるというところです。そういうところは、彼は無頓着だったのか、分かりません。しかし、エロチシズムを感じるとか、そういうものを作るというのは、屈折したところが絶対必要なので、道徳的なものに反するという場合、道徳的なことを正しく把握していなければ、それに何がどの程度反するかということは、分らないのです。そこを意識して、敢えて反するというためには、道徳的なことを踏まえていなければなりません。エロチックなものをつくるというのは、本来、そのような知的な作業を要するもので、そのような回りくどいことを敢えて試みるのは、精神的な屈折を持っているような人でないと、できません。牧野という人に、そんな回りくどいことができるのか、たんに、本能的に思いついて作品にしてしまったのか、芥川龍之介の『奉教人の死』を取り上げた作品など、どうして隠れキリシタンの殉教の話が2人の女性のヌードになるのか、しかも、肉感的なヌードであることなどから、説明ができません。『落城』という作品では裸の女性に尻を向けさせ、あたかも男性が襲いかかろうとするようなエロ本の設定のようなポーズに見えます。『砂道氏の肖像』という作品では、二人の裸婦に尻を向けさせるポーズをとらせていたりします。そとて、裸婦像のところでも言いましたが、西洋絵画でのお約束、陰毛は描かないということは無視して、細密に写実的に描かれています。かつての日本国内のわいせつ規制から考えても、これほどあからさまに描いているのはふしぎですらあります。もともと、無理に格好つけても、実は、そういうところで今さらエロ本を購入して眺めるするかわりにも写真以上に肉感的で、猥褻的なポーズを描いてくれる牧野の作品に、本当は、そういうところを喜んで惹かれているのかもしれません。Makinohoujyounin


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