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2013年7月13日 (土)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(4)~ごちゃごちゃした細密画

Makinotouいままで、自画像とか裸婦像といった作品を取り上げてきましたが、これらは牧野邦夫の作品のミクロの部分に焦点を合わせると目立つ特徴と思います。これに対して、マクロの視点から、主に牧野の大画面の作品を見たときに、大きな特徴として、真っ先に飛び込んでくるのは、大きな画面いっぱいに、それこそはみ出さんばかりに人物やら様々なものが細密に描かれているということです。それは、偏執狂とも言えるほど凄まじい印象を受けます。そして、それらの描かれた細部、例えば、人物の一人一人が前回までの自画像や裸婦像で見た特徴を備えて、それぞれが1人でも一枚の肖像画のテーマになるくらいに徹底して描かれているということです。その反面、画面のメリハリがなくて大画面でも奥行を感じられることなくスーパーフラットな漫画やイラストのような構成になってしまっています。

Makinotou2それでは、いくつか作品を見ていきたいと思います。まず、『未完の塔』(左上図)という作品です。最晩年で未完の作品であるにもかかわらず、今回の展示の最初に置かれ他作品です。小さな作品なのですが、構想の大きさと牧野の集大成的な作品であるということでしょうか。この作品の経緯とか、未完の理由などはテレビやウェブ等、ほかのところで盛んに紹介されているので、そっちを見てほしいと思いますが。下半分の大方完成している部分の人々が様々に描かれているのは、ブリューゲルの「バベルの塔」を想わせます。

Makinojurian_kitisukeごちゃごちゃした細部が今にも溢れ出してきそうというのなら『ジュリアーノ吉助の話』(左図)という芥川龍之介の小説に題を取った作品では、隠れキリシタンである主人公が左上に描かれ、死んだ後で口から花が咲いているさまが描かれていますが、その他の部分を占める人々の姿は、そんなことと、まるで無関係なようにそれぞれの動きをしているように見えます。それが、どれもこれもひとひとつ細かく丁寧に、それぞれが単なる部分とか背景とかいうのではなく、それぞれが自己主張しているかのように描き込まれています。それらがひとつひとつ集まって、異様な画面の活力を生み出しています。その反面、全体としてどうなのかという構成が感じられない。ヨーロッパの絵画で歴史画のような大画面で多数の人物が画面に登場するような作品の場合は、何を主題としてのかがはっきりしています。例えば、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠」という多数の人々が教会に集まって、その中で、ナポレオンが戴冠を受ける場面を描いた大作ですが、中心の描かれているナポレオンは小柄な人物ですが、それを取り囲む多数の人々の中に埋もれておらず、際立って、誰が見ても、中心がナポレオンであることが分かります。これは、あきらかに、中心とナポレオンと、それ以外の人々の存在感がまるで違うからです。かといって、人々の描写がお座なりで省略されているというのではありません。そこにダヴィッドという画家の巧みな構成が見て取れるわけです。そして、写実的っぽい描き方が見る人にリアリティを感じさせ、このようなナポレオンの存在感が現実に際立っていると見る人に納得させてしまうような巨大な説得力を生み出している作品になっています。これに対して、『ジュリアーノ吉助の話』では、左上の主人公と、それ以外の人々の間で、構成上の配慮が為されているようにみえず、みんな同じように丁寧に描かれているため、ジュリアーノ吉助は、ここで描かれている人々の中のone of them でしかありません。ダヴィッドの作品にあるようなメリハリや、ナポレオンが恰も最前列にいて、それ以外の彼を取り囲む人々が背景として、奥行を、これは教会のなかという空間の奥行というだけでなく、ナポレオンという傑出した人物とかれの周囲の人々の関係やそれらを絵画の平面に定着させるときにつくられる奥行です。そういう画面全体の秩序のようなものは牧野の作品には存在しないと言っていいでしょう。その代わりあるのは、奥行とか秩序がないので、画面の中が平等でそれぞれに前景と背景というような階層がないため、それぞれの部分が勝手に存在を主張しているような、一種混沌としたような、ダヴィッドにはないアナーキーなパワーが漲っていると思いますだから、牧野の作品は、作品全体として何を描いているというような一種距離をおいて眺めるというよりは、画面に近づき、ここに描かれたものを見て、こんな奴がいるというように個々を見ていくという多少画面に入り込むように主観的な接し方が似合っているのかもしれません。

Makinohitoそういう特徴が、もっと濃厚に出ていて、見ていて特定のテーマに絞り込むことができず、混沌とした状態そのものをみせているのではないかと勘繰りたくなるようなのが『人』(右下図)という作品です。牧野は『人』というタイトルで何点かの作品を越していますが、印象は似たような感じで、ここに描かれた人物たちは『ジュリアーノ吉助の話』以上に、ここに独立して好き勝手に存在していて、相互に関係があるようには見えません。秩序が全く感じられないのです。おそらく中央に描かれた裸の男性を中心に様々な人の場面が描かれたということにはなっているのでしょうが、その関係が私には分らず、むしろ裸体の女性のエロチシズムに括目したり、中央の男性の左の化粧した顔の目だっているところに目が行ったりというという方か、強いです。おそらく、牧野は最初は、ダヴィッドの場合と同じように、テーマや構成を考えて、スケッチをしたり下書きまではやっていたのではないかと思います。牧野の作品の設計を何も考えずに、闇雲に描いたとは思えません。最初は、構想した構成に従って描き始めたところ、個々の人物の描写に自然と力が入ってしまって、いつの間にか細部に執着して、どんどん描き込んでいってしまった、という出来上がり方をしたのではないかと想像します。牧野という人は、描き始めると止まらなくなるというタイプの人ではなかったか、これらの作品をみていると、そんな「ものがたり」を妄想してしまうのを抑えきれません。それは、幼児にお絵かきをさせて、その描いた絵に対して、部分を質問したりすると、最初はその説明を回答してたものが、もっと突っ込んでいくと、次第にものがたりを追加してつくりだして、しまいには、絵を描き足していくようなことがあります。牧野は、もしかしたら、こういう作品を描きながら、そういう自問自答を繰り返し、どんどん細部の「ものがたり」を付け加えいいって、細部の描写をエスカレートさせていったのではないか、作品をみていて、そういう「ものがたり」を捏造したくなります。

Makinoumiそして、もしかしたら牧野自身が、そのような自己の資質を意識して、それを認めたうえで制作したのが『海と戦さ』(左下図)という作品ではないかと思います。そこでは、ここの場面の「ものがたり」が生まれてくるのを最大限に生かして、それらを並列的にならべて、見る人がそれらから「ものがたり」を紡ぐに任せることができるように全体の画面構成が余裕を創り出しています。そして、全体して海での戦という大雑把なイメージが漠然と浮き上がってくるような「ものがたり」を創り出しているようにみえます。そこには、ダヴィッドの場合とは全く違う秩序、ダヴィッドより、もっと自由で融通無碍な秩序を感じます。そのおおきな理由は、ダヴィッドの作品ナポレオンのような絶対的な存在というのか、中心がいない点です。牧野の作品の中でも、前に見た二つの作品では中心となるテーマを具現するような中心的な存在がありましたが、この作品では、それがありません。つまりは、部分の集積が全体を構成するような設計が為されているという作りを、意識してつくったのではないか。そこで、牧野本人も制約を感じることなく、個々の部分を好きなように執拗に描き込むことができて、作品をつくることができたのではないかという「ものがたり」を捏造してしまいました。

さて、ここから、今回のシリーズ?で恒例?としている妄想の「ものがたり」の捏造による、まとめに入ります。前回の裸婦像を見たときに、牧野は現実には存在しないとされている様々なものを実際に見ていたのではないかという「ものがたり」をつくりました。ここでは、そうものが画面から溢れんばかりの作品に触れてきて、捏造した「ものがたり」です。牧野が現実に見えないものを見たとしても、それは日常的に常時見ていたというのではなく、実際にそうだとしたら、現実の社会生活を送るのは不可能で、狂人となってしまう他はありません。彼が、そういうものを見ていたのは、描くという行為、しかも、描くという行為に没頭して我を失ってしまうようなときに、ふっと現実世界の壁をすり抜けて異次元の風景を見ることができたのではないか、ということです。異次元と言っても、彼の作品を見れば特別に遠い所にあるのではなく、すぐ手の届くところにあって、いまの場所に腰を落ち着けていても触れることのできるような身近なところに、実はあるようです。しかし、現実という壁があって、我々は、普通はその壁に囲まれて、その向こうを垣間見ることもできない。しかし、牧野の描くという行為は、おそらく彼自身の作品構想を裏切ってしまうほど、本能的というのか感覚的、あるいは身体的なもので、客観的にものごとを距離を置いて測定するという理性を超えた、理性の機能をストップさせて、目の前の現実を現実として見ることを止めて、時間とか空間といったカントがいうような現実をみる物差しを放棄したところに、主観的に没入して触れられるものだったのではないか、そのときに牧野は描くという行為に没入することで、そういうことになっていたのではないか。だからこそ、今日、見た牧野の作品は、細部を描いているうちに筆が独りでに動き始めるかのように、どんどん細密な描写を始めてしまった、というものではないか、と思えるのです。よく小説家が、作品の中の登場人物が、作者の意図を超えて、ひとりでに動き始めてしまい、それを追いかけるのに苦労したというコメントをすることがあります。牧野の作品の場合は、比喩ではなくて、実際にそういうことが起こって、その挙句の果てに、現実には普通は、見えないはずのものが、描かれてしまった。そうでなければ、あれほど細密に、写実的に描かれるはずがありません。

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