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2013年7月 5日 (金)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(3)

このようにローマ帝国の拡大や「国境」の意味を理解するに当たっては、イギリスの学者ホイタッカーの教えられるところが大きい。帝国の中枢から遠く離れたアルプス以北の地域は、英語の研究書では「フロンティア」と呼ばれている。要するに国の領土の縁、辺境地帯のことである。ホイタッカーは、フロンティアを「線」、特に「文明」と「野蛮」とを分かつ境界線と見る考え方は、ヨーロッパが近代の植民地戦争で、またアメリカ合衆国が西部開拓で経験してきたところから来た見方であって、ローマ帝国の場合は「線」ではなく、ローマ軍駐屯地域やその周辺に様々な人々が混ざって生活する「ゾーン」と見るべきとする。ローマ帝国のフロンティアは軍が進軍を停止したところに形成されたが、それはいわゆる「軍事境界線」ではなく、広い範囲にわたる移行地帯で、曖昧な性格のものであった。産業が農耕から牧畜に変わる地域は実際は相当するが、統治や経済活動に支障をきたす限界の地域に設けられたという意味が大きい。そのため、重要な課題は、軍事行動そのものよりも、駐屯する軍隊への物資の供給であった。ローマ帝国は、商人を統制したり援助を与えたりしつつ、各地で物資を集めて軍隊への供給を行ったが、この措置やそれに伴う商人の活動は軍隊駐屯地付近に大きな影響を与えた。物資が行き渡って民間に大きな市場ができ、都市や村落を発展させたのである。そればかりではなく、物資は軍隊駐屯線の外側からも集められたため、外部世界にも影響が及んだ。ホイタッカーの説明は、辺境を軍事境界線とみなす解釈を否定し、軍隊への物資の補給など、社会的・経済的な観点からなされている。私は、ローマの軍事活動が経済的な要因のみで説明できるとは考えないが、ローマ帝国の辺境を高度な文化が存在しない場所、文明と文化が存在しない場所、文明と野蛮の境界線と見てきた従来説に対して、活力あめ地域と捉え直した彼の学説の意義は大きいと見ている。

では、こうしたフロンティアを抱える属州では、人々はどのように暮らしていたのだろうか。新たにローマ帝国領となった地域では、ローマ市民権を持つ人々の植民活動や移住ばかりでなく、ローマの征服活動に協力的であった先住部族の長らにローマ市民権が与えられるなどして、被征服地をローマ市民の居住地としていく措置が取られた。先述した補助軍への徴募などを通じて、被征服地の民をローマ帝国の正式な構成員とする回路も整備されていった。その結果、ローマ市民権保持は増大して、アルプスの北側の広大な地域にも、都市的な居住地を中心に著しく市民の数が増えた。イタリアなどの地中海周辺地域ではなく属州出身の人々であった。ローマは、このように市民権とその授与の点で、居住者の出自などに区別を設けなかった。そもそも歴史の初期から、ローマ国家は拡大とともに周囲の集団を受け容れて、自らの市民団の新しい力としてきたのである。見方を変えれば、最盛期の帝国の担い手たる「ローマ人」とは実に曖昧な存在だ、ということができる。ローマ人はたいへん寛大であった。ローマ国家の約束事に従い、その伝統と習慣を尊敬する者なら誰であろうと「ローマ人」になれたのだ。新しくローマ市民社会の一員となった者たちの中には、その後、ローマ帝国の社会的なヒエラルヒーの階段を上って、支配階層にまで達する者も出て来た。

ローマ社会は人々やその集団を出自によって固定させてしまうカースト的な社会ではなく、流動性があった。そのため、奴隷に生まれても、主人の遺言などの方途で奴隷の境遇から解放され、解放奴隷となり、更にその者の子孫は都市の有力者となって都市参事会員として活躍し、さらに実力と幸運に恵まれて騎士身分に上昇、元老院議員まで上り詰めるなどという可能性もあったし、実際そうした家族の上昇例は多かった。属州に生まれたローマ市民でない者も、外部世界から属州に入って市民権を得た者も、実力と幸運に恵まれれば、社会の最上層まで到達できたのである。帝政期に入って、元老院議員身分家系には跡継ぎを残せず断絶する家が相次いだため、皇帝は帝国統治の要員を確保するうえで、また貴族しか担当できない国家宗教の担い手を確保するためにも、元老院議員を減らすことはできず、欠員が出れば次位の騎士身分から補充しなければならなかった。同様に騎士身分はその下位の身分から補充された。そのため、ローマ市イタリア都市の古くからの議員家系が減少して、イタリアの地方都市や属州都市の新興家系出身者が次第に元老院の構成員の中の多数を占めるようになっていく。一世紀の後半には、帝国統治の重要な担い手に、イタリア地方都市や属州都市の出身議員が数多く見られるようになる。ローマ史研究の大家サイムは、台頭してきたこうしたエリートを「新しいローマ人」と呼んだ。

以上に述べてきたことから分かるのは、ローマ帝国は国家として硬直した存在ではなかったということだ。担い手である「ローマ人」は法の民であり、法に基づく国家の制度を持ち、奴隷制と身分制を備えた社会に生きていた。ローマ人とは、まずは市民権を基盤とする法的なカテゴリに属するものだった。しかし、制度の運用も含めて帝国の実際を観察すると、ローマ人とは先に見たようなきわめて柔軟なそんざいであって、排他的な性格を有していないのは明白である。従って、外部世界から属州に入ってローマ人になることは、相対的に難しくない。しかも、その外部世界から属州に入るところのフロンティアが、厳格な国境「線」ではなく、これまた曖昧な「ゾーン」になっていた。ローマ国家が統御しているが、外部世界の者を排除するのではなく、穏やかに管理しコミュニケーションを確保しているに過ぎない。帝国の「境」は、地理的にも社会構成的にも明確ではなかった。

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