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2013年7月 3日 (水)

あるIR担当者の雑感(124)~広報というものの変質

IRのことを投資家向け広報ということに対して、私は、この場で、そうではないのではないか、ということを再三述べてきました。

最近、その広報とか広告ということ自体が、変質しているという議論に触れる機会がありました。それによると、テレビ広告費の増減は名目GDPの動きとリンクしていると言います。テレビ広告とは消費喚起システムであり、かつてであれば、人々は消費に対して前向きで、給料が出たらおいしいものを食べ、ボーナスが出たら新しい家電やクルマを買い、長期休暇には海外旅行に出かけた。そうするものだと思い込んでいたし、消費こそが人生の楽しさだと思っていた、いいます。それが、長引く不況や、そのとどめのリーマンショック、そして東日本大震災を経験して、前述のような消費、字の通り、費やして消えてしまう、何も残らないような虚しいことは、しなくなってしまった。

では人々は、どうなってしまったのか。その議論では、人々は生きようとしている、と言います。つまり、彼らはもう、90年代までのようにどんどん消費しようなんて思わない。お金を使う一回ごとに真剣に考える。検討する。比較する。話しあう。そういう人たちに向かって、消費を煽るだけの広告が有効なはずがない。つまり、従来の広告ということ自体が、崩壊してきているということになります。

ということは、IRを広報として捉えたとしても、広報ということ自体が変質してきている。広報は、手許にあるわずかな現金ですら、真剣に考え、検討し、比較して、慎重に使おうとする人たちに向き合わなくてはならなくなってきている、ということです。いまどき、そんな会社はないでしょうが、お金をかけて広告を打ったり、単に人を動員した説明会を何度も開いて、知名度が上がったとか言っているような脳天気な、投資家向け広報というのは、その広報ということ自体が、時代に通用しなくなってきている、ということではないでしょうか。

この議論に戻りますが、もはや消費者とは呼べない、そうした人々に対して、何が有効かというと、双方向のSNSのようなメディアではないか、と提案しています。もとより、その議論をしている人たちは広告業界の人たちですから、自分たちの基盤を否定するような議論をしているわけです。それだけ、彼らは切羽詰まった危機感を持っているということになると思います。IRを広報であるとして、さまざまなコンテンツを販売している業者の人たちには、果たして、そういう危機感というのか展望がどこまであるのか。

私の勤め先のような地味な中小企業に対して、そういう業者の人が決まって言うことが「知名度を高めましょう」ということです。そのために、色々なところに企業名を露出させるということを勧め、その露出の場とかコンテンツを売り込むというのが、よくある売込みのパターンです。ところが、上のような議論を踏まえると、知名度があることと、実際に買ってくれることの間に深い溝があって、企業の側からは、それを容易に越えられなくなってきている、ということになります。つまり、買ってもらうためには、まず知ってもらう必要がある。そのために知名度をあげるというこが有効とされていたわけです。ところが、知名度があがることと、買ってもらうことの間に関係がなくなるということになれば、知名度をあげる必要性がなくなるわけです。ということは、IRコンテンツを販売する業者の売り込んでくるものは、企業にとっては何の意味もないものになってしまっている、と考えられるわけです。

だって、知ってもらわないで他にどうするの、というような声が聞こえてきそうです。ひとつ考えられるのは、企業名を取り敢えず知ってもらうことだけが、企業に近づいてもらう入口とは限らないということではないかと思います。つまり、トヨタ自動車とかソニーというような企業名に触れて、その企業の存在を認識するというだけでない、ということです。さまざまな切り口で企業をリストアップできるようなデータベースは巷に溢れています。例えば、ニッチ市場の銘柄だけを抽出するとか。要は、名前という単一ではなくて、様々な切り口があるわけですから、そのうちの多くにリストアップされるような多彩な企業情報を市場に出して、様々な切り口や階層での情報の網に引っ掛かりやすくすることを、もっと考えてもいいのではないか、と思います。ちょっと、抽象的すぎるかもしれませんが。

それは、さっきの議論にありましたが、SNSを通じてあらたに交わされるコミュニケーションにも通じているのではないかと思います。会社員としての私が勤め先の取引関係で、主に人間関係が形成されるリアル世界の関係に比べて、SNSで呟かれるのは、趣味だったり、食事の好みだったり、地域だったり、様々な切り口で関係が作られます。例えば、フェイスブックでは投資と餃子を愛する人たちのグループがネット上でできていたりするのです。そのとき、ある人がという言う関係に参加できるには、いかに多くの切り口をもっているか、それをネット上に明らかにしているか拠ることになるわけです。それは、その人の知名度とか肩書とか貧富とかいうものとは別のものです。

私の勤め先のホームページへのアクセスを解析してみると、投資家向けの説明ページに関しては正面入り口というのか、IRトップページからインデックスを経由して入ってくる人に対して、検索サイトを通じて特定の検索ワードで直接、ある事項の説明ページに入ってきて、その周辺をついでに見るというパターンの人が増えてきています。ということは、検索にヒットするような様々な事項に対しての説明を充実させて、そういうページを増やして、検索で企業名とは関係なくページ直接入ってくる人たちに対応しているうちに、投資対象銘柄として認識してもらう、というホームページの活かし方は、今後有効性が増していくのではないか、考えています。

このような人と投資の対象である企業が全く同じとは言えないかもしれませんが、これから企業がIRということをしていくに際して、参考になることだけは確かであると思います。

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