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2013年7月11日 (木)

「牧野邦夫─写実の精髄─」展(2)~自画像

Makinoseif4この展示の中で、自画像が多い、それもかなりの点数でした。牧野という画家がどの程度の作品数を遺したのかは分かりませんが、今回の回顧展がほとんどの彼の作品を集めたものであろうと想像できるので、牧野という人は多量の自画像を描いた人であると思います。

前回、牧野の作品を見ていると「ものがたり」を詮索しも語りたくなるような誘惑に駆られることを述べましたが、この自画像が大量に描かれていることについても、ナルシストだったではないか、とか孤高とか言われているが自分だけ取り残されているような疎外感が実はあって自分を鼓舞するために敢えて自画像を描いたのだ、とか様々な「ものがたり」を捏造することができると思います。前回の私の述べ方もそうだったのですが、そういう「ものがたり」を不用意に捏造してしまう傾向に対して、警戒感をもっていました。しかし、その後、牧野の作品を眺めながら考えているうちに、そういう「ものがたり」がいかにも背後に隠されているように感じられて、観る者が「ものがたり」を作ってしまいたくなるようなことが、実は牧野の特徴であり魅力なのではないか、と思い始めています。前回でも述べましたように、ある程度その誘惑に乗って、今回は、牧野の特徴と思われる大量の自画像について語ってみたいと思います。

自画像を多く残している画家にレンブラントがおり、牧野はレンブラントに憧れ、尊敬していたといいます。しかし、両者の自画像を見比べて見ると、共通点よりも相違点の方が目立ちます。もっとも、尊敬しているからこそ、安心して違ったように描けたのかもしれません。

Makinoseifb_2Makinoseifaレンブラントは50点とも60点いわれる大量の自画像を残し、その中では学者に扮したり、ターバンを巻いたりと扮装をしたものも何点か残しており、そういう点は牧野に通じているとも思われます。しかし、レンブラントは生涯の各年代にわたって描かれていて、それぞれの年齢や境遇を反映した、若者の若々しい姿から晩年の老いた姿まで姿が変遷していますが、牧野の場合は、レンブラントとどうように各年代の時期に描かれていますが、描かれた姿はレンブラントの場合のような変化があまりなく、若者から中年にかけての力強い姿が一様に描かれています。レンブラントの23歳と63歳の自画像を見ていただくと、年齢を重ねて若年から老年になったという変化もあり画家本人が大きく変容しているのがハッキリわかります。これに対して、ここに何点か見られる牧野の自画像は描いた時点の画家の年齢はまちまちですが、そこに描かれている画家本人の顔にほとんど変化がありません。ここで見られるのは、二人の画家の本質的な違いと、私には思えるのですが、レンブラントは画家本人が変化しているのに対して、牧野の場合ほとんど変化が見られないのです。これを敷衍して考えてみると、レンブラントは描かれる対象である画家本人の本質が変容していることを捉え、それを画面に描いているといえます。これに対して、牧野の場合は、画家本人の本質が変わっていないのか、あるいはレンブラントのような本質的な変化をリアルに描くことを、実は牧野という画家はしていないのかもしれない、という疑問が生まれてきます。これは、この後、自画像以外の作品を見ていく機会があると思いますが、そこで描かれている人物というのが、意外なほど狭く限定されているのです。そこには牧野の意図的な選別が働いていると思います。それが、自画像でも働いていのではないかと思います。この美術展のサブテーマが“写実の精髄”とされていますが、その写実という対象を写す前に牧野はかなり対象を意図的に選別しているのではないかと、私には強く思えるのです。自画像に限れば、レンブラントのような老年の衰えた姿というのは、牧野は注意深く避けているように、私には見えます。

Makinoseif2むしろ、牧野の自画像を見ていると、自画像の対象となっている牧野自身がキャンバスの前で無理して演技していると思えるほど、年齢による衰えは見せていないし、とくに、表情がどの自画像をとっても、意志的に正面を強く見つめ、口を真一文字にして、こちらに迫ってくるような表情を一様にしているのです。なにか意気がっているのかと言いたくなるほどです。それは、穿って「ものがたり」を捏造していえば、レンブラントは自身の本質が変容しているのを冷めた視線で、冷徹に描いているのに対して、牧野の場合は自画像といいながら、描かれる自身がモデルとなっていることを意識して、こう描かれたいと演じてしまっているのを写している、いわば対象に対してレンブラントのような突き放した距離感がなくて、混同してしまっているように見えます。そこにリアリズムはあるのか、とちょっと問いたくなりますが、そういう自分への甘えを装うことなく正直に表わしてしまうというのは、別の意味でリアルなのかもしれません。ただし、そこに私はプロフェッショナルとしてのプライドを感じることはできません。それはアマチュアの感覚です。ちょっと暴走しました。それは、多分、牧野自身の境遇が孤高とかなんかいっても他者との交わりが希薄で、しかもユーザーとの交わりが限定されていたことで、独りよがりに陥りやすい環境であったということかもしれません。また、最初にもちょっとだけ書きましたが、孤高とか言っても、独り取り残されているような疎外感のようなものがなかったとは言えず、そのとき、自分はこれでいいのだ、と自らを鼓舞させるためにも意志的で初志を貫いている自分というのを確認してアイデンティティを維持させていくために、自画像をこのように描いて、描かれた自身をそこで確認するという作業が必要だったのかもしれないと思ったりしました。そこでは、どうしても孤高でもめげず、意志的に力強く、戦いに臨むような自己の姿が必要だったのかもしれません。「ものがたり」を騙ってしまいました。

Makinoseif3そんなことを考えていると、画面が厚塗りになって、色彩も暖色系が比較的顔に多く用いられ、暑苦しいほどになっているのも、頷ける気がします。ある意味で、岸田劉生の強い意志の伝わってくる自画像にも通じるところがあるのではないか、とちょっと似ていると思いました。もしかしたら、これも「ものがたり」の続きですが、牧野にとって自画像をえがくという作業自体が大切だったのかもしれないと思いました。

そういう自身の姿を確認する作業として自画像が描かれていたのだとしたら、画家本人の顔という本質を変えることはできません。その一方で、まるでコスチュームプレイをするように様々な扮装をして、様々な場面を背景にしています。それは、時に非現実の世界だったりします。それは、裏を返せばそういう環境や、身にまとう扮装がどんなに変わっても本質である画家自身は変わらないという牧野の願望の表われ、ということもあるでしょうし、自他にむけてのマニュフェストと考えられるかもしれません。そうであれば、背景や扮装は一種の装飾として、様々な変化があった方が、変わらない本質がそれだけ強調出来ることになります。それなら、装飾は突飛な方がインパクトの強くものとなり、これ比例して、保ち続けている本質がより力強く見栄えがします。それが、どんどんエスカレートして、まるで心理学の病的な兆候例のサンプルのような服に顔をグロテスクに描いてみたりというような妄想のポーズをとらせたというように考えると、「ものがたり」的な筋道が立ってきます。牧野の幻想的風景については、あとでまとめて考えてみたいと思いますが、そういうことを描く動機のひとつとして、このようなことが考えられてもいいのではないかと思います。

Makinoseif7そして、自画像について、最後に言えることは、牧野自身、自画像を見る限りでは。けっこうカッコいい人だったように見えます。レンブラントのような醜男にちかい容貌とは違って、美男子とは言えないまでも、それなりの容貌にみえます。牧野本人も、そのことを自覚していたのではないか。下世話なですが、牧野が自画像を数多く描いたのには、その点も原因していたのではないか、とこれまで「ものがたり」的に考えてきた筋道、というか牧野像から、想像できることです。

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