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2013年7月 7日 (日)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(5)

終章 ローマ帝国の衰亡とはなんであったか

5世紀の初めに、軍事的な劣勢のみならず、帝国を実質化していた不可欠の構成要素も喪失して、ローマは事実上帝国であることをやめた。国家の変容は4世紀を通じて徐々に進んだが、それが負の面を顕在化させたのは、4世紀も終わりころのことであり、その後の短期間に、ローマ帝国は、単に軍事的に敗退しただけでなく、国家の意義をも失ったことを確認しなければならない。

言うまでもなく、ローマ帝国は「ローマ人」の築いた国家である。その歴史はティベリス河畔の一都市に始まり、「ローマの元老院と人民」という国家の呼称は、イタリア、中でもローマ市に結びついていた。直接支配する領土が拡大して、「ローマ人」の内実は故地ローマ市からもイタリアからも遊離したが、広大な最盛期の帝国にまとまりがなかったのではなく、しっかりと国家は統合さていた。その基軸となった思想は、一般に「ローマの理念」と呼ばれる、故地ローマ市を抽象化して普遍的な価値を持つとする考え、と説明されることがある。この説明はローマ帝国の後世への影響という観点から重要であるが、第1章で述べたように、私はより具体的に、ローマ帝国に統合を与えていたのは、「ローマ人である」というアイデンティティと考えたい。ローマ帝国とは、広大な地域に住む多様な人々を、「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下にまとめ上げた国家であった。異なった文化や歴史的背景を持った、まったく見ず知らずの人々にも、このアイデンティティが「私たちローマ人」という自覚を共有させていた。ラインやドナウのフロンティアで、また寒風吹きすさぶブリテン島で守備に就く兵士たちも、「ローマ人である」「私たち」のために戦っていたのである。「ローマ人である」ことは抽象的な概念ではなく、その内実は、軍隊や生活様式など具体的要素であった。しかし実際には、「ローマ人である」というアイデンティティは国家を統合するイデオロギーとして作用した。しかも暮らしに密着した具体性を備えていたから、ローマ帝国に参加することによってより良い状況になれるという期待を保証するものだった。それゆえ、周囲の人々を帝国に招き寄せたし、とりわけ有力者たちの利害に合致していた。その結果、ローマ帝国は魅力と威信を持つ、「尊敬される国家」たり得たのである。

しかし、4世紀の後半、諸部族の移動や攻勢の前に「ローマ人」のアイデンティティは危機に瀕し、ついに変質した。そして、新たに登場した「ローマ」を高くかかげる思潮は、外国人嫌いをともなう、排斥の思想だった。つまり、国家の「統合」ではなく「差別」と「排除」のイデオロギーである。これを私は「排他的ローマ主義」と呼んだが、この思想は、軍事力で実質的に国家を支えている人々を「野蛮」と軽蔑し、「他者」として排除する偏狭な性格のものであった。この「排他的ローマ主義」に帝国政治の担い手が乗っかって動くとき、世界を見渡す力は国家から失われてしまった。国家は魅力と威信を失い、「尊敬されない国」へと転落していく。

 

中間の事実関係の経過は些末になる恐れがあるので省略しました。この本の核心は、ローマ帝国を領域も実態も曖昧な存在と捉え、人々のアイデンティティが実質的に支えていた世界帝国であったという捉え方です。また、西ローマ帝国を滅亡に導いたゲルマン民族という概念も含めて、私が学校で習った歴史が19世紀の国民国家のイデオロギーにいかに歪められていたか、ということがよくわかりました。多分、ペルシャやイスラムの帝国や中国といった近代以前の帝国というのは、ローマ帝国に通じるようなところがあったのではないか、と思われるところがあります。それは、最近のネグリらの主張する「帝国」と相通ずるものだったように思います。そうなったとき、近現代の国民国家という政治システムの歴史を通して見た時の奇形性ということが浮き上がってくるかもしれません。

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