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2013年7月 4日 (木)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(2)

第1章 大河と森のローマ帝国─辺境から見た世界帝国の実像

ローマ人は、イタリア半島の中部、ティベリス(テヴェレ)河畔の小さな都市から出発してその国を発展させ、周囲の諸族を征服して、前3世紀にイタリア半島を統一した。さらに南フランスやイベリア半島南部へも勢力を広げて、西地中海地域を支配するフェニキア人の都市国家カルタゴと対立する。三度にわたるポエニ戦争でこれを殲滅したローマは、シチリア島や北アフリカの地中海沿岸を支配下に収めた。また、西地中海地域の制覇と並行して東のギリシャ文化圏へも進出し、前2世紀後半にはギリシャ本土や小アジア(現トルコ)をも事実上支配下に入れる。その後もローマの拡大は続き、前64年にはシリアも領有、前30年にはプトレマイオス朝エジプトも滅ぼして、地中海を内海とする巨大な国家を形成するに至った。こうして、ローマ人は地中海を「われらの海」と呼ぶようになった。しかし、彼らは地中海周辺地域を支配下に入れたにとどまらなかった。故地であるローマ市やイタリアとは気候風土の異なる地域へも進出し、地中海を離れた土地も自分たちの領土に包摂しようとしたのである。この点は、大植民活動を行って都市を建てても、海に近い地域を離れることのなかったギリシャ人とは決定的に異なる。ローマ人は、太陽が輝き明るくて暖かな沿岸部だけでなく、寒くて陰鬱な空模様の多い内陸地域にも支配領域を広げていった。そして、地中海から離れた森や河川、湖や沼沢地などの多い地域を、自分たちの世界に新たに加えたのである。その大きな一歩を成したのが、ユリウス・カエサルであった。

新しくローマ帝国に加わったライン川以西の地域とブリテン島、そしてヨーロッパ中央部のドナウ川以南の地域には、もともと先住者が生活する小規模な村落が散在していた。そこに都市的な生活様式を伝えたのは間違いなくローマ人である。ローマは先住者たちに旧来の部族ごとの生活を継続することを認めたが、部族の有力者には税徴収や新兵の補充などの用務を担わせ、また部族の民がローマに対して反抗的態度をとらぬように監視させて、支配の一翼を担わせた。同時に、有力者にローマ市民権など多くの特権を与え、ローマ市民団の一員へと導き、旧来の部族の生活集団・組織あるいは部族国家と呼んでよいものを統治の基本単位としてまとめあげた。

属州における新しい都市の生成と発展には、ローマ軍も大きな役割を果たした。ローマの征服軍が要塞を構えると、要塞の周辺には軍に関係する民間人の定住地カナバエができた。帝政期の比較的早い時期から、境界地帯での移動を前提としていた正規軍団は、次第に一定の基地を得て長く駐屯するようになる。そして、軍を退役した兵士は故郷に戻らず、在勤中に非公式に設けていた養子とともに基地の近くに定着し、カナバエから発達した町で暮らし、その有力者となる者も出て来た。町は大きくなり、都市的外観も組織も備えるようになった。さらにいえば、軍隊は新しく「ローマ人」を生み出す回路としてもきわめて大きな役割を果たしている。「ローマ人」を生み出す回路としてもきわめて大きな役割を果たしている。「ローマ人」とは、今日の感覚とは「国民」のようにイメージを持たれるかもしれないが、まずはローマ市民権を持つ「ローマ市民」のことであり、故地ローマ市と結びついていた。新しくローマ市民となった者は、ローマ市のどこかの地区に登録された。「ローマ人」であるためには、ローマ市民権の取得が前提であった。皇帝政府は、このローマ市民権を持たないために正規軍団に入隊できない部隊の男性を、補助軍(アウグシリア)として組織した。補助軍といってもローマ人指揮官の下、正規軍団とともにローマ軍の一翼を担ったから、指揮命令系統や訓練はローマ式になされる。そのため、ローマ市民でない者にとっては、ラテン語や、ローマ式の軍隊生活と戦術を学ぶ場となった。無事兵役を勤め上げて退役するとローマ市民権が与えられ、その者の子はローマ市民として正規軍団に入隊することができ、ローマ社会の階梯を上がっていくことができた。こうしてローマ帝国は辺境において、兵員を確保するたけでなく、ローマ帝国に対する忠誠心を期待できる人材を養成してもいたのである。

アルプスの北の広大な属州では次々とローマ風の都市的定住地が生まれ成長し、また新しいローマ市民が誕生・活躍するようになっていったが、こうした帝国領は、ライン川やドナウ川といった大河や人工的に築かれた防壁に沿って守られており、領内の安寧が保たれていた。こうした軍隊が駐屯する最前線をローマ帝国の「国境線」と見ることが一般的だが、軍隊駐屯線をローマ軍が外的と対峙する軍事境界線と解し、その内側と外側を峻別する考え方は、きわめて近現代的な発想に基づいた見方である。実際のローマ帝国とその外側の世界との関係は、近現代的な国境線とは異質のものである。

そもそも共和制の時代以来、ローマ人の領土は「限りない帝国」という考えが存在した。ローマ人の領土は人の住みうる世界のどこまでも広がるというイデオロギーである。ローマ人にとって、ライン川の東側、ドナウ川の北側の広大な土地も、帝国の支配する、そして支配してよい地域であった、いわゆるローマ帝国領とは、その中でも属州に組織したほうが都合のよい地域に過ぎなかったのである。「限りない帝国」は同時に「国境線なき帝国」を意味した。ローマ軍が駐留する人工の防壁も自然国境を成すと見られる大河も、実際には至るところで外の世界に開かれており、平時には防壁を越え大河を渡って人と物が行き来していた。考古学的な調査によれば、人工の防壁や大河は、その外の世界と内とを遮断するために使われたのではない。例えば、ライン川の彼岸にもローマの砦や拠点が作られたことを見てもわかるように、人と物の行き来をローマ帝国の管理下に置くために存在ないし利用されており、その役割はむしろ行き来を促進するものといってよかった。決して「ローマ人」と国境外の「蛮族」とを分かつために存在しているわけではなかったのである。

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