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2013年7月 6日 (土)

南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」(4)

では、ローマ帝国という国家には確たる実体がなかったのか。そうではない。ローマ帝国が「幻想の共同体」でなかった第一の要素は、軍隊の存在である。ローマ人は征服地に自治を認めながら、軍事力は取り上げて自分たちが独占すると同時に、治安維持を自らの義務とした。ローマ帝国を国家として実質化させていたのは、この軍隊である。しかし、それはただ、軍隊が周辺地域で帝国領を守っていたという意味ではない。自分たちが「ローマ人である」との自己認識を持つ兵士たちがそこに存在し、彼らによって守られた軍隊駐屯線が、曖昧な帝国を実質化していたのである。正確に言えば、ローマ帝国を実質化していたのは、軍隊そのものではなく、「ローマ人である」という兵士たちの自己認識である。フロンティアに駐屯する兵士にとって、相手が「敵か、味方か」の決定的な分かれ目は、相手がどの部族・民族に属するかということではなく、「ローマ人である」という自己認識を持つか否かであった。

次に重要な帝国実質化の要素は、「ローマ人」としての生き方である。これは実際には、ラテン語を話し、ローマ人の衣装身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践することといってよい。属州の民や外部世界から属州に入って生きていこうとする者は、まずこれらのことを実践しなければならなかった。しかし、それはきわめて難しい要件というわけではなかった。もし人々がエリートたろうと思えば、ローマ人の教養学科を学ぶ必要もあった。こうしたローマ人としての要件を満たすには、まずは都市に暮らすことが条件となる。ただ、都市は、こうした生活様式の実践の場であるだけどなく、他にも帝国にとって重要な役割を果たしていた。この都市がローマでは統治に重要な機能を果たす。

さらにローマは、フロンティアのゾーンやその彼方の地域においても、有力者と結びつき、彼らを取り込んで自らの力とした。外部世界の族長や王との間にも信義関係を結んで利用した。ローマ帝国を実質化する要素の第三は、まさにこの有力者たちとの共犯関係であった。現代人の目からすれば、国境線もはっきりせず、また主たる構成員の定義も曖昧な巨大国家が「幻想の共同体」にならなかった要因は、このように、「ローマ人である」自己認識を備えた軍隊、「ローマ人である」ために相応しい生き方の実践、そして都市をはじめとする在地の有力者たちとの共犯関係にあった、と私は考える。

これらのうち、ローマ人たるに相応しい生き方、生活様式やものの見方などは、周囲の人々にとって魅力的と感じられなければローマ支持の力とならない。ローマ人の価値観、生き方を共有を共有できなければ、人はローマを支持しない。

要するに、ローマ帝国とは、広大な地域に住む、それぞれ固有の背景に持つ人々を、「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下にまとめ上げた国家であった。このアイデンティティやそれによる支配は、各地の有力者の支持に基づいていたが、同時に彼ら有力者や新たに帝国に参入した者にとっても、新しいアイデンティティは支配と上昇の力となったのである。

個々で再認識しておくべきことは、帝国の「外部」と接する属州にあっては、「ローマ人である」というアイデンティティは、出身部族や居住地、あるいは宗教などを理由として誰かを「排除」するものではなく、むしろ多様な人々を「統合」するイデオロギーとなったことである。そしてこのことは、「ローマ人である」というアイデンティティにとって、むしろ本質的なことであった。

 

ゲルマン人がローマ帝国に大挙移動して、帝国西半を滅ぼしたと考えられている。ローマ人対ゲルマン人という二項対立の図式は、ローマ帝国衰亡過程の説明基軸になっており、この対立図式は、そのまま「文明」対「野蛮」の図式的理解にも一致している。しかし、「ローマ人」が特定の民族を示すものでないのと同様に、「ゲルマン人」「ゲルマン民族」といった集団の括り方も、今日の歴史学研究の水準からすれば大きな問題を孕んでいる。そもそも「ケルト人」や「ゲルマン人」という呼び方はすべて他称であり、自分たちをそう呼んだ人々は古代にはいなかった。そして、古代ギリシャ語やラテン語の文献に見られるこれらの呼称は、地中海周辺地域に暮らす人々から見て、単に「北に住む野蛮人」を意味することが多かった。ローマ人は、ヨーロッパ内部を支配下に入れるに当たり、そこに住む人々を「民族」によって差別することはしなかった。それは当然である。ローマ人の間には、「民族」という区分の観念が存在しなかったからである。属州内内とその外の世界に暮らす先住の人々は、それぞれ個別の集団の名でもって識別され、それらをまとめて定義する上位の概念は存在しなかった。あったのは、敵対する人々を「蛮族」と見なす意識のみである。つまり、外部から攻撃を受ける戦時にあっては、ローマ帝国の指導者やフロンティアの兵士たちは敵対する人々を、「他者」として位置付けた。単に「ローマ人である」ことを確認し、高度な文明を持つ国の民というアイデンティティをかくりつするためでもあった。

それでは、「ゲルマン人」という概念はどのように生まれてきたのだろうか。古代に用いられたギリシャ語やラテン語の「ゲルマニアの人」という呼称は、特定の民族集団を意味するものではなかった。しかし、19世紀に入り、ドイツ統一など国民国家形成の時期になって、その研究はナショナリズムの影響を正面から受けることになる。ローマ帝国領内に移動し、部族国家を形成した人々、いわゆる「ゲルマン人」はスカンディナヴィアなど北の故郷を離れて長い移動の末に、ローマ帝国領に入り、帝国を滅ぼして自分たちの王国を建設したと考えられ、彼らの移動後も最初の種族的なつながりを保持したと想定された。そして、そのことを立証するために、文献学や言語学だけでなく考古学研究の成果も大いに用いられた。やがて、「ゲルマン人」「ゲルマン民族」は研究から切り離されて政治的イデオロギーへと移ってしまい、ドイツ民族の起源として重んじられ、特にゲルマン民族至上主義を奉じるナチ党の道具となっていった。

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