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2013年8月31日 (土)

「速水御舟─日本美術院の精鋭たち─」展(2)~写実に基づく細密描写

山種美術館のホームページで次のように紹介されています。“御舟の約40年という短い人生における画業は、伝統的な古典学習、新南画への傾倒、写実に基づく細密描写、そして象徴的な装飾様式へと変遷しました。一つの画風を築いては壊す連続は、型に捉われない作品を描き続けた、画家の意欲の表れといえるでしょう。”速水御舟はこういう画家というコメントは、これだけでした。う~ん、“伝統的な古典”?“新南画”?分からない。日本画のことを勉強しないと分かりそうもありません。それでは、と常にはないことですが、ウィキペディアを覘いてみました。“従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。”とあります。こっちの方が具体的で、実物を見ながら検証していくことができます。

それで写実と細密描写ということから作品を見ていこうと思います。写実的な絵画ならば、先日、アントニオ・ロペスの展覧会を見ましたが、それと比較してみると、同じ写実と言っても、二人の写実は内実が全く異なることが分かります。

Hayamikaki『柿』(左図)という1923年を見てみましょう。柿の枝を細かく精緻に描写している一方で、柿の実はたらしこみの技法で描いた作品と解説されていました。この作品とロペスのスケッチ(右下図)を試しに比べて見ることにしましょう。まず、『柿』の枝の重なりの前後が分かりにくいことがあげられます。枝の1本を追いかければ分かりますが、パッと見て奥行を立体的に見ていないため、枝を立体として捉えていない。そして、葉や柿の実とのつながりがちぐはぐです。それぞれのパーツの表面は描かれているようですが、全体としての関係やバランスに写生したとは思えない。パーツをみれば、葉が不自然で歪んでいるように見えます。日本画の知識がない私の目は、先入観がありますが、それでも、この作品を見ていると、そもそもデッサンそのものができていない、という印象を抱きます。悪いけれど、デッサン力という点で見れば、速水はロペスと比べるほどでもないのは明白です。ハッキリ言って下手です。これで精緻な写実といったら、日本画の写実というのはこんなものなのか、と呆れてしまいます。

Ropezroseでは、これを写生と言えるのは、そもそも、写生という概念が、ロペスの場合と違うということしか考えられません。そこで、展覧会場で速水の絵を友人が評した言葉として「君の絵は理想化することが強く、君は絵を作りすぎる。桜に花を咲かす。爛漫とした趣のみを君は描こうとする。が実在はもっときたなくて垢がある。」というのが掲示されていました。おそらく写実というのは、こういうことなのではないか。多分、日本画の花鳥画というのは、記号のようなパターンの組み合わせで趣向を競う一種のパズルのようなもので、パターンが尽くされれば、種が尽きてしまうことになる。実際、限られた愛玩者である上級武士や自社仏閣は明治には没落して、西洋から文明開化と一緒に西洋絵画か入ってきた。安定していたマーケットが崩壊しそうな時に日本画自体のパターンが尽きていたのを自覚した画家の一人に速水がいたということでしょうか。その時に、パターンのネタである花鳥風月の決まったパーツ以外のパーツを補充しようとしたというのが、写実ということのように思えます。新しいパーツを補充するには、パーツの倉庫を探し回って新たなパーツは見つけられることはなく、素材を探さなくてはならない。そこで、柿を実際に見た、というのがこの作品ということなのではないか、と思いました。例えば、柿を理想化して完璧なかたちとして描くのではなくて、傷んでいたり、虫が喰っていたりするパターンが加われば、柿を描くパターンは増えることになります。

そして、『柿』を見ていると、立体的に見る視点がない、ということや柿の存在感とか実体としての重みのようなものは、目的としていない、日本画の特徴である平面的なものになっているのが分かります。そこには、ロペスにあるような、ものの存在をじっと見つめることで、世界を視る視点を獲得していこう姿勢は感じられません。だから、日本画の天才画家であり、メジャーネームである速水には悪いのですが、『柿』を見ても、驚かされることはないし、そこから感動がうまれるという経験を、私は体験できませんでした。色々な理屈をこねずに正直な感想として、『柿』の葉や実は、葉や実に見えない代物です。これは、そういうお約束で、そう見るものだといわれて、そのように見てはじめて、そう見えるものです。これは、習作期のもので技量が伴わない?ということを差し引いても、そう見えてしまうのです。

何か、若書きの作品をあげつらって因縁をつけているように見えるかもしれません。しかし、速水の展示されている作品を見渡しても、ことさらに写実と言えるほどのものがあるのか、というのが日本画に不案内な者の正直な感想なのです。逆説的な言い方をすれば、これが写実とことさらに言わなければならない日本画というのはスケッチなどという概念がない世界なのかと思ってしまうのです。かりにも、美術館という西欧の文化をペースにした文化施設で、そこでは西欧の絵画という概念に基づいているからこそコンセプトに基づいて展示ということをしているわけです。そこで、日本画というジャンルに籠るにしても、美術館で学芸員という絵画という西欧文化のもとでやっているわけですから絵画の一つのジャンルとして位置付けられるはずです。そこでは当然、絵画の概念が通用していなければならない。そうでなければ、美術館という文化施設ではなくて、個人が骨董を愛でるとか、美術館とは異質な文化装置を使うのがまっとうなところではないかと思います。しかし、それでは日本画は生き残れなかった、ということなのではなかったのか。それなら、現在のグローバリゼーションと同じではないですか。そこで速水が天才的な画家であるなら、グローバルに打って出るべく、限定された日本画という枠ではなくて、絵画というグローバルスタンダートに上で、速水の価値を積極的にアピールしていくのが、美術館なり、学芸員の本来の使命ではないか。そのとき、速水の作品をグローバルスタンダードで写実とは言えないのではないかと思います。そのときに、速水のグローバルな売りを提示してみせるのが、このような美術展の意義ではないか、と思いました。だから、ここで文句を言っているのは、画家の速水に対してではなくて、私には怠慢にしか思えない、美術館や学芸員に対してです。かなり生意気なことを無責任に言っています。

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