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2013年8月 8日 (木)

大野麥風展「大日本魚類画集」と博物画にみる魚たち

Oono朝のうちに雨が降り、その湿気が日中に残る蒸し暑い日でした。熱中症を心配して水分を多分に摂ったところ冷房の利いてセミナーの室内では尿意を覚え、講演に集中できませんでした。冷房の利きすぎた室内でのセミナーが終わり、表にでると蒸し暑さが堪えたため、東京駅ちかくのステーションギャラリーに逃げるように飛び込んだという次第です。

東京ステーションギャラリーは東京駅の丸の内駅舎を大改修する前に、よく寄っていました。そんなに広くはないスペースでしたが、“山椒は小粒でピリリと辛い”とでも言うのでしょうか、気の利いた面白い企画が多かったので、改札を出てすぐという地の利もあって、都心に出たついで寄ることが多かったのでした。今回は、駅の大改修によってステーションギャラリーも場所が移り、リニューアルしてからは、初めて寄ったことになります。

やっていたのは「大野麥風展「大日本魚類画集」と博物画にみる魚たち」と大野麥風という日本画家の作品を中心にして、本草学という江戸時代の博物学に挿絵というよりは図、今でいう図鑑の標本図、とくに魚を描いた作品を展示したものでした。魚の絵(魚だけでなく、貝、海老、蟹といった水中生物)を集めたという美術展としては面白そうな企画でした。

それで、実際に作品を見た感想ですが“二兎を追う者は一兎をも得ず”とでもいうようなものでした。男の子というのは、小さい頃に昆虫とか植物とか魚類とかいった図鑑をよく見るものです。私の場合は昆虫図鑑でしたが、ポロポロになるまでページを繰っては眺めていたものです。そこであった標本図が刷り込まれているせいかもしれません。展示されている作品では魚の形態の違いがよく分らない、正確さを欠いたものと私の目には映りました。一方、それを絵画作品として見るとどうかというと、一つの作品を単独に取り出しても、それだけで興味深いとか、魅かれるというほどのものではない、中途半端なものと感じました。

Oono2今回の展示のメインである大野麥風の作品を見ていると、日本画の花鳥画の伝統的手法というのでしょうか、一種の記号化したパターンの影響のせいか、魚の絵のパターンとして鯉はこのように描かれるものというお約束が、大野麥風の眼に眼鏡を掛けさせ、一種のフィルターとなっているような感じがしました。それぞれ、鯉とか鯛とか魚の名前があって、それぞれに関して、こうあるべきものというお約束に従って(そうでないと日本画にならない)、大野麥風は実際の鯉や鯛を見ていたのでしょうが、そういうフィルターをかけてしか見ることができなかった、というのが作品に出ているようでした。鯉と鯛の形態が違うのは、骨格が違ったり、環境に適応していたり、身体のパーツの機能や性能が違っていたり、といったような理由の結果であるはずです。そこに形態の違いの本質的な意味があると思うのですが、大野麥風の作品には、そういう本質的な違いを理解した上で描かれているようには見えませんでした。(特に、斜め上から魚を見下ろすアングルが多かったようですが、そのアングルで見ると魚の形の違いが分かりにくいのです)それは、描かれた魚のポーズが形態を明らかにするというよりは、日本画のパターンに準拠した、標本図としては魚の形態が掴みにくいものが見られたことにもよるものです。一方、形態がみえなくても、実際の生態を生き生きと描いたのかというと、そうでもなく、あくまでも記号としての鯉とか鯛らしく見えるというような描かれ方で描かれているように見えました。それは、特にディテールの描き方によく表われていて、鱗とかヒレの細かいところは、図鑑の図としてはマニアックな人なら追求したいところだとおもうのですが、大野麥風の場合は日本画の繊細でイメージ的な省略によって筆遣いの妙義を見せるというような描かれ方になっていました。そもそも、本草学と生物学は似てはいますが別の学問で、生物学マニアの視線で大野麥風の作品をみるのは見当違いと思われるかもしれません。

しかし、そこで考えていただきたいと思うのですが、魚しか描かれていない絵を何十枚もまとめて出版して、それを喜んでみるという人は、画家である大野麥風のファンか魚が好きな人ぐらいではないでしょうか。魚にそれほど興味のない人からみれば、魚の絵はどれも同じように見えてしまって、それが何十枚もあると、終いには飽きてしまうのではないかと思います。そこで、飽きずにそれぞれの魚の違いを愛で楽しむことができるのは、よほど魚が好きで、なおかつ違いを見分けられるほどの知識を持った人ではないかと思うのです。それは、生物学者ではなく、日本画家である大野麥風には無理だといわれればそれまでです。しかし、この展示の片隅にそういうニーズを満たして余りあるような奇跡的な作品を見てしまったのです。これについては、後でまとめて述べさせていただきます。

もう一方で、これらの魚の絵のひとつひとつを、魚を描いたひとつの絵画として見るということについて。何十枚もある作品のうち一つを取り出して、一つの絵画作品として見る言う場合に、それほど魅力的かということです。大野麥風の作品で、「大日本魚類画集」以外の作品、例えば魚を描いた掛け軸や屏風もありましたが、それを単独で見ていたいと思うほど魅力的に見えませんでした。それは、大野麥風の特徴的な魅力を見つけられなかったからです。この人と他の人の絵との違いは、単に魚の絵をたくさん描いたということだけなのでしょうか。それはそれで、マーケットにおいて他の画家と差別化する際には一目でわかる特徴として良い選択だとは思います。ただ「それだけ?」と思ってしまうのです。

Oon3大野麥風の作品に関しては、魚をたくさん描いて珍しい、というだけ、という否定的な感想となってしまいました。実は、展覧会を見ていた最初の頃は、そういう感想ではなかったのですが、会場の片隅に数点の展示があった杉浦千里の甲殻類を描いた作品を見るまでは。で、見てしまったからなのです。

ここに、貼り付けた画像を見ただけでは伝わりきれないと思いますが、まずはフォルムが完璧と思わせる整った造形。種としてのカニの理想的な姿形、まるでアリストテレスのいう存在の本質としての形相を取り出したかのようです。そのポーズは標本のような甲羅の背の部分を真正面から見て、足をそれぞれの方向のシンメトリカルに配置した格好です。まるで写真のようにという形容が紋切り型で適当ではないかもしれませんが、理想の形相を取り出しながらも、リアルな印象なのです。それは正面からのアングルで精緻に描き込まれているにもかかわらず、決して平面的にならず、カニの立体的な胴体の感じが分かるのです。そして、不思議なことに生き生きしている。死んだ標本ではないのです。描かれたカニには生命感が漲っているのです。それは多分色彩にも寄るのでしょう。普通、実物のカニの標本というのは死体ですから、生きていた時のは鮮やかだった甲羅の色は褪せてしまっています。普通は標本をそのように見ていますが、杉浦の絵では、生きている時は、こんなように鮮やかなのだろうという色彩で描かれています。それだけでなく、実際にカニは海中で生きているわけですから、そこで瑞々しく海水が陽光に反射して輝くような錯覚さえ抱かせるように描かれています。

細部に目を凝らして見ると、甲羅に生えている産毛の一本一本が細かく丁寧に引かれていて、それが生き生きとした感を牽き立たせ、リアル感がさらにつのります。

そして、ここまで列記したことをまとめてそれ以上のこととして、カニってこんなに美しいものだったのかという、作品自体の美に魅せられてしまうものでした。かつて、古代ギリシャの彫刻が人間の理想の姿、真善美を形にしたもの、とかいうような議論がありましたが、杉浦千里の作品を見ていると、そういう理想がカニの姿に体現しているように見えたのでした。この展覧会は杉浦千里の数点の作品に出会えたということだけで十分意義かあるもので、あとは余計だったと思えるほどでした。

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