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2013年9月

2013年9月30日 (月)

「竹内栖鳳─近代日本画の巨人」展(6)

新たなる試みの時代として、1909~1926年は、竹内が画壇での地位を確立した、後進の指導もしながら意欲的に作品を生み出して行った時期と解説されています。しかし、私がみた竹内の特徴は、繰り返しになりますが画面を構成しようとする強い意志が溢れていて、作品世界の設計と画法のテクニックが相互影響しながら(弁証法的と言いたい)強い緊張感をもって作品を生み出しているよう見えるところです。この時期では、そういう緊張感に漲った作品は一部にとどまり、大胆な構図をとりながらもフォルムは堅固で、大胆になろうとする方向性とフォルムを保とうとする方向性のぶつかり合いのような緊張感が、日本画の記号的なパターンへの方向性と西洋絵画の写実の方向性とのぶつかり合いにも置き換えられるようで、それを画家が強い意志で統御している、というのか作品画面から火花が散っているようなヒリヒリする緊張感を、例えば獅子図などからは強く感じられたものでした。しかし、この時期以降、そういう作品は減っていきます。

Takeameこれは、竹内の作品に対する好みの違いではないかと思います。たとえば、この時期以降フォルムが崩れた作品が増えていきますが、それを自由闊達の境地として関係する人もいると思います。たしかに、一部では挑戦的なことをしているのは分かるのですが、それよりも長いものには巻かれろということで平面的でのっぺりした日本画の中に埋没してしまったような作品が増えてきます。とくに人物画がそうです。そして、晩年に入ると体力の衰えのせいでしょうか、急速に腑抜けたような作品が増えてゆきます。竹内の老境に入ってからの作品を見ていると、日本画を描くには体力が必要不可欠だったことが分かります。考えてみれば、床や台に敷いた紙や布に筆をもって描くのですから、しかも筆先は柔らかく墨や絵の具は伸びたり、流れたり滲んだりする。そうすると筆先が紙に触れる微妙な感触を腕力をつかってコントロールしなければならないわけです。描いている間、筆を浮かせ続けるには二の腕の筋力を大分必要とすることになるでしょう。そうしなければ線が引けない。体力の衰えた老人にはキツいことになるでしょう。この展覧会の第4章の展示で見られる作品は、そういう点で明らかに線に気力が感じられないし、線を引くのを諦めたように見える作品が多く見られます。これは、あくまで私の個人的感想です。一般的に竹内の老境の境地というのは評価は高いようですから。

Taketurna『雨』(右図)という1911年の作品では、墨の濃淡と滲みを生かして雨で風景がけぶっている情景を描き出しています。雨で全体が薄ぼんやりして、ものの輪郭がぼけてしまうのはターナーの晩年の風景画(左図)を連想するのはこじつけかもしれません。竹内は、そのなかでも右下に小さく笠をした人物をくっきり描いたり、木のはが雨に打たれて揺れ動くのが見えて来るかのような細かいところが見えてくるように描いています。全体に靄がかかっている中で、細かいところがくっきり見えることで実在感が感じられる、非常に緊張感の高い作品になっていると思います。

Takee竹内という人は、このような風景画や動物を配した場面を描く場合、大胆で画面構成を行い画面全体がリアルな世界を作り上げていますが、人物画は苦手だったのではないかと思わせるところがあります。例えば『絵になる最初』(右図)という作品を見てみます。モデルが裸体になるのを恥じらう一瞬を描いたとのことで、けっこう有名な作品だそうです。これ一枚を竹内の作品と考えないで単独に取り出せば、女性を描いた日本画ということで、それなりに見ることもできるでしょう。しかし、このような竹内の回顧展で、かれの一連の作品が並べられているところで、彼の他の作品と並べてみると、まず人物がぺっちゃんこで厚みと重量をもった物体になっていない、前回見た『富士』であれほどゴツゴツした山の重量感を非揚言していたのに、です。また人物の背景も薄っぺらな書き割りで、風景画ではあれほど空間設計に気を配ったのに、まるで何も考えていないかのようです。私の思い込みかもしれませんが、竹内ならば裸体を恥ずかしがる少女の恥じらいと、その一方で女性としての見事な肉体を備えているという、一人の人物のなかでの相異なる要素の対立と矛盾を表わすことだってできたはずです。しかし、悪意に見れば、人体がぺっちゃんこなので、来鯛を恥ずかしがるのは身体が貧弱だからなのだと勘ぐってしまうのです。どうしてなのか、そのヒントは天女図のための裸体スケッチが展示されていたものにありました。それらを見ると、西洋絵画の裸体デッサンの場合のような人体の骨格や筋肉の付き方を解剖学的に正確に把握しようというものではなく、天女図の天女の様々なポーズをとらせて、そのシルエットをとるために輪郭を線でなぞっているようなものでした。たぶん、人物を描くということに対しては、別の考えがあったのか、竹内本人がそれほど強い意欲を持っていなかったのではないかと思います。

この後の時期以降、竹内の作品は急速に魅力を減じていきます。あまり、つまらないを連発するのも気分がいいものではないし、とくに感想を書く気も起らないので、これが竹内栖鳳展のかんそうです。なお、重要文化財に指定された有名な『斑猫』は展示替えの関係で見ることができませんでした。

2013年9月29日 (日)

「竹内栖鳳─近代日本画の巨人」展(5)

Takefuji今まで述べてきたのは、西欧の風景を題材にしたものなので反則に聞こえるかもしれません。それで、近代以降の日本画でも取り上げられることの多い富士山を題材とした作品を見ていきたいと思います。1893年の『富士』(右図)という作品を見てみましょう。竹内の初期の作品ですが、横山大観の切手にもなった作品『富嶽飛翔』(左図)と比べてみると、竹内の特徴がよく分ります。横山の成熟した著名な作品と比べると巧拙の差はあるかもしれませんが、一番の違いと感じられるのは、横山の富士は洗練された線でスッキリと秀麗に描かれているのに対して竹内の富士はゴツゴツした感じで、線は重なり、輪郭もスッキリしない正反対の印象だということです。横山の描く富士は、一般的な日本人がイメージするステレオタイプに合致する、というよりも、彼の一連の作品が富士のイメージを定着させる役割を果たしたのかもしれませんが、成層火山のスッキリとした秀麗な姿で、その姿の美しさを表わしています。ただし、私のような日本画の素養のないものが見ると、銭湯の壁に描かれた富士山とおんなじという感じで、横山が作った富士の象徴的なかたちが独り歩きしてしまって、富士山型という山の形象を描いているようで、実際の山の存在感はあまり感じられないというのが正直な印象です。

Takefuji2笑い話ですが、チャーリー・チャップリンという喜劇映画スターは、チビでちょび髭にダブダブの背広上下にシルクハットとステッキでガニマタで歩くスタイルがトレードマークでしたが、ある時、彼のそっくりさんコンテストを開いて、当の本人が参加者の中に内緒で紛れ込んだらしいのですが、本人はコンテントで入賞することもできなかった、というオチがついた話があります。悪意で言えば、横山の描く富士は、そういうところがあります。綺麗ごとすぎるというのでしょうか。よく言えば理想としての姿です。これに比べて、竹内の作品はでは山の重量感というのが感じられます。このゴツゴツしたところは、こじつけかもしれませんが、セザンヌが故郷のサン・ヴィクトワール山を描いた作品(下図)を彷彿とさせるところがあります。竹内の富士には、山の理想的な形というよりも、彼が実際に見た富士の立体感とか重量感のような目の前の存在を描こうとしているように思えるところがあります。それが、うまくいっているかどうかは別として、富士を対象化している竹内の主観は明確に推し測ることができると思います。むしろ、この後で竹内本人を含め多くの富士を描いた作品がありますが、この作品以上に、モダンな作者の意志を感じさせる作品にあまり出会ったことはありません。Takefuji3_2


2013年9月28日 (土)

「竹内栖鳳─近代日本画の巨人」展(4)

TakeromeTakerome2_2私は竹内の特徴を画面構成による世界構築への強い意志に見ます。そのような彼の特徴が最もよく発揮されているのが風景画だったのではないかと思います。それも掛軸に描く山水画にも表われているのですが、こんな窮屈なところでチマチマ細部に工夫を凝らすというのではなくて、少なくとも屏風くらいのスケールで描かれるものに本領が発揮されるように見えました。多分、世界のひろがりへの視線というのか、風景をダイナミックに捉えようという、近代西欧の風景画にあるのと同じ視線を感じることがあるのです。それでは、何ことだか抽象的すぎますよね。例えば、18世紀から19世紀にかけてのドイツロマン派の画家フリードリッヒに『海辺の僧侶』という作品があります。圧倒的な大画面に描かれているのは薄暗くどんよりと曇った空の下、鉛色のあれた海と砂浜が荒涼と広がっている光景で、左隅にちいさくポツンと一人の質素な僧侶が海の方を向いて、ということは背中だけが描かれているので表情を窺い知ることができない、配されている、という作品です。その人物を配置したことにより、対比的に、あるいはその人物が対峙しているような構成となって、荒涼とした空や海、そして砂浜が画面という枠を越えてずっと伸びていくような印象を与えています。これは、風景がたんなる背景の書き割りのようなものではなく、それ自体意味をもったものとして、それだからこそ、広がったり、深まったりという動きを内包しているように見えてくるのです。Ki

比較的似ているところを見易い作品から見ていきましょう。竹内の渡欧の際に見た風景を描いた『羅馬之図』という作品です。横長のパノラミックな画面に、対象の大小や色彩の濃淡といった表現を組み合わせて遠近法的な効果を持たせて、拡がりと奥行きのある作品になっています。さきに風景画の例として紹介したフリードリッヒに『雪の中の修道院の墓地』という作品がありますが、これと竹内の『羅馬之図』は構図がよく似ている作品です。多分、竹内は、この作品を知って描いたのではないと思いますが、横長の画面で、廃墟が朽ちるように奥に配されて、その前景には草木が対称的に生命感溢れるように繁茂している。フリードリッヒの場合には、横長の画面がまさにその草木の繁茂の成長が動きとして画面から広がっていくようなダイナミクスを内包しています。そして、朽ちていくような廃墟が奥におかれていることで、対比的にそのダイナミクスが強調されるように映っています。多分、朽ちた修道院の廃墟には何らかの象徴的な意味合いがあるのでしょうが、それはここでは措いておいて、竹内の『羅馬之図』ではフリードリッヒのような過剰な意味づけや対比は試みられていませんが、フリードリッヒの作品にあるのと同じような広がりを感じさせる作品になっていると思います。そして、フリードリッヒと竹内の大きな違いは、その空気感の表現でしょうか。フリードリッヒは暗く鬱蒼とした森で冬の凍てつくような透明な空気の中でどこまでも明晰に描き込まれていますが、竹内の作品では奥の廃墟は靄がかかったようにぼんやりとしています。これは、フリードリッヒの場合には森の暗さで奥行感を出していたのに対して、竹内の場合にはもっと開けた空間で、前景の木々との間にもやをいれることで奥行を間接的に感じさせているようです。それに加えて、廃墟が薄ぼんやりしていることにより、幻想性を加味させ、空間的な広がりにとどまらず、時間的な過去に遡るような幻想性を加味させる効果を出している。つまりは、空間と時間のダイナミクスを含ませているように見ることができます。しかも、セピア色のような色遣いが、ノスタルジックな味わいを加味させ、時間的な位置を曖昧にしていることが、そのような想像を煽っています。

Photo_4_2このように風景を描くには、風景という客観的な対象が目の前に在るということを認識する、という現在の私たちには当然のことですが、そのことを前提にしていなければならないはずです。それが在るということが前提されていなければ、在るがままに写そうという写生とか写実という発想は出てきません。それは、近代西欧でいえば、デカルトによって確立された主観と客観の二元論的な世界観です。自分と違うものが実在していると認めるから観察という発想が出てくるわけで、その観察した結果を正確に写そうとして写実ということが生まれてくるわけです。しかし、例えばアニミズム的に木に神が宿っているとみれば、奉ることはあっても、物体として客観的にみるという視点は成立しません。つまり、対象を客観的に認識するためには、それを認識する側である人が主観として確立されていることが必要となります。絵画で用いられる遠近法の基本的なかたちである投射遠近法では消失点という一点に向けてだんだん描かれるサイズが小さくなっていきます。それで遠近感を出しているわけです。その消失点こそがその画面の遠近感をだす視点、つまりはそれを見ている主観の位置に他なりません。それがはっきりしていなければ、遠近法は成立しないのです。そして、近代の日本画をみていると、それができてないで、画家が苦心している例が見られる。ところが、竹内の場合にはそれがキッチリ確立している。竹内の風景画を見るとよく分ります。そのことが、竹内の作品から感じられるモダンさの理由です。

シニアだってけっこうやってる

私は1960年生まれで、現在53歳。ウィンドウズ95というOSの発売が事件のように報道されて、マウスとかアイコンとかが一般化したのはそれからでした。それ以前にも、マッキントッシュでは独自のマウスやアイコンが使われていましたが、日本では圧倒的に利用者が少なく(パソコン自体も少なかったですが、当時はデスクトップ1式で100万円以上していました)、デザイナーとかクリエイターとかエディターとか横文字職業のマニアックな人々がこだわって使っていました。それ以外では、IBM系のDOSVとかマイクロソフト系のMSDOSとか、今のウィンドウズとは違って、真っ暗な画面にコマンドといって文字による命令を打ち込んで操作していました。今ではすっかり忘れてしまいましたが。多分、50代60代でパソコンに若いころに触れた人はそのころからのユーザーで、会社勤めしていて、当時若かったので職場で覚えさせられた人は、ずっと離れないでいると思います。そういう人の特徴は、当時は説明書も整備されておらず、当時はインターネットなどなかったので、手探りでパソコンをいじって覚えた人が多いということです。今では想像できないでしょうが、OSやパソコン自体も不安定だったので、よくデータをお釈迦にしたり、ソフトを壊してしまったりしました。だから、そういう人は興味と必要があればマニュアルなどなくても勝手にパソコンをいじって何かしでかします。そういう人たちは、やっていれば何とかなるということを経験的に知っている人たちで、こういうのがあるよということを知ると、放っておいても勝手に自分で試して行きます。とくに女の人でそういう人が多いです。こんな人は、全体の何割かは分かりません。

多分10年前くらいで、一定規模以上の会社や役所ではパソコンが普及したので、その時に触れた人は後でリタイヤしたとしても、スキルは持っていると思います。それを考えると60代なかばまでは半分くらいはパソコンに触れたことはあるのではないかと思います。その後は、どっちか極端に分れるのではないかと思います。今でも、某大企業でペーパーレスを進めるために役員会でタブレット端末を使用することになったそうですが、年寄りの役員たちは扱い方を知らず、というよりもタブレット端末とは何かを理解できず、システム関係の部署の社員がマンツーマンで使い方を教えるのに数日を要したという笑い話があります。旧財閥系の有名企業の総務課の人から聞いた話です。

冗談はさておいて、私の友人関係ではとくに女性は子供や友達、あるいは学校との連絡はメールのやりとりが主流なのでメールは常時使っているし、男性もそうですから、50代の大半は若い人とほとんど変わりないでしょう。60代も準じるのではないか。60代、70代でブログに興味を持つのは、それなりに下地があるのではないでしょうか。

2013年9月27日 (金)

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(4)

私たちは17世紀迎えると、まるでテレビ画面が入れ替わるように、私たちは日ごろよく知っている近代科学の認識が直ちに無抵抗にヨーロッパ全体に広まった、と思いがちであるが、それは大きな誤解である。18世紀末まで、アリストテレスの自然哲学をスコラ学者たちが一定の権威をもって大学で教えていたのである。これを壊して、近代科学が一般の知的世界において完全に主導権を握るのは、18世紀末に始まった産業革命の結果である。実際、スコラ哲学が突如として権威を失って知的世界から消滅するのは19世紀である。

例えば、古代より西洋の人々は天体の世界に魅了されてきた。その証拠のひとつが星占いてある。星占いはメソポタミア文明の所産と考えられるが、古代ギリシャ文明もユダヤ民族の歴史も、メソポタミア文明を母胎ないしは母胎の一つとしている。そのためか、ギリシャ哲学の伝統においても、日中の太陽を含めて、夜空を彩る星の世界は美しい魂の故郷であり、真理に満ちた世界を美しく永遠的に現出しているものだと考えられていた。つまり、天体の世界は最も心理に近く、神に近い実像だった。神々も諸真理も天の世界に位置づけられるのだが、その「天の世界」が太陽や星空の世界を直接につくりだして、私たちにその実像を垣間見せていると考えられていた。中世の人々にとって、悪魔の攻撃にさらされている地上世界と比べれば、天空はまさしく神と天使たちの世界だった。夜空は実際に見た目にも、砂粒のようなダイヤモンドを黒い紙の上にばらまいたように瞬いた。

当時、一般的に北極星を中心とする天球から、月の天まで九つの天が数えられた。天というのは目に見えない球で、そこに天体が張り付いて動いている。そしてこの天を動かしているのは、神に仕えている天使であると考えられていた。天体は永遠的な変化のない運動を続けているので、それを動かしているのが天使であるとすると、天使は現代で言えば、オートメーションの機械の操作をやらさせている労働者のようなものである。だとすれば、あまり自由などありそうではない。しかし、天のような神に近いものを動かしているものを、天使のほかに想定できそうもない。そこにどういう具合に天使がかかわっているとしても、実質的に点を動かしているものは天使でなければならなかった。この場合、天使は神が作った世界の秩序維持に働く忠実な従者であり、尊重されるべきものと考えられていた。そこでは自由は問題にされない。天が見せる永遠的な秩序は、キリスト教会が設定する人間社会の秩序と重ね合わされた。そして天体の整然とした運行の様子は、天使が見せる永遠的な神への従順であり、それは人間がもつべき美徳のあるべき姿と見られていた。つまり、中世の学者たちも天体の運行は必然的なものと見ていたが、それは神の指示を正確に実行する天使の従順さが生み出していた必然なのである。神は絶対者なので、その命令は強制的な必然である。しかし同時に、神が設定した秩序はそれ自体で自然なものであり、、それに従ってこそ天使を含めて各々が生きることができる。

 

私たちは、天上の世界や人間の原初の姿などについて彼我の違いがあることを見てきた。もう一つ、中世を理解するうえで知っておかなければならないことは、哲学にとって周縁的なことであるが、社会を構成する人間についての理解である。

ギリシャ・ローマの古典の世界では、社会は市民階級と奴隷によって構成されていた。市民階級が支配階級であり、奴隷が支配される階級である。市民階級の中で、とくに祭司が権勢をふるうということはなかった。それに対して、当時ギリシャ・ローマの北方にいたケルト民族の世界では、市民階級と奴隷階級という構図は見られず、戦士と祭司が支配階級を構成し、商人や農民などの平民が支配される階級であった。さらにケルト社会は、祭司が戦士階級より上位の支配的な階級であった。ケルト社会の祭司はドルイドと呼ばれた。ドルイドとなるためには、ときに20年に及ぶ修練が必要であったと伝えられている。つまりかなりの専門知識を必要とした。ちょうどキリスト教の司祭が多くの修練と専門知識を必要としたのと同じである。中世のヨーロッパがキリスト教の支配に服したのは、もともとケルト社会が一般的に祭司階級を支配階級に仰ぐ社会であったから、ということが基本にある。もちろんキリスト教の教皇権が強くなったのは、戦士階級の権力基盤が度重なる民族移動などによって安定しなかったことも原因ではあるのだが、祭司階級の支配者性がもともと社会の構図としてあって、それがために宗教権力の世俗的支配が可能になったことも否めない。西ヨーロッパにおけるキリスト教の布教は、結局のところ、この祭司階級をドルイド教の祭司からキリスト教の祭司に置き換えることだったともいえる。中世には、このケルトの地域に、ゲルマン民族の移動・侵略があったがケルトの文化は彼らにも影響を与えた。このケルトの文化が祭司階級を重んじる文化であったのを、キリスト教会がそれを利用することで社会の中で高貴な知的階級を持つことができた。支配者側は、この権威性を借りて、西ヨーロッパ世界を「森に覆われた世界」から見通しのきく広々と開放された世界へと変えていった。すなわち、西ヨーロッパ世界がキリスト教世界として成立していくとき、西ヨーロッパはケルト人の故郷であった森を切り開き、しだいに農地として広げていった。それは西ヨーロッパをローマ流に文明化していくことであった。支配者たちは農耕を社会の基盤として力をつけていった。このとき大きな力を発揮したのが修道院であった。修道士は祈りのクラス、つまり祭司階級に属していたが、祈るだけでなく耕地を耕したのである。農耕の先兵である修道士が労働を神への奉仕としていたことによって、ローマ時代のように労働は奴隷の仕事ではなくなり、神への奉仕となっていったのである。農耕的生活とは、集団的に時間を守って労働に従事する、という生活習慣である。農耕は季節変化と太陽の巡りに本質的に依存するからである。西ヨーロッパが一日のうちで時刻を限った生活習慣を取り入れたのは、修道院の共同生活を通してであった。修道院が時刻を示すために鳴らした鐘が、一般庶民に「共同の時間」を教えたのである。

2013年9月26日 (木)

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(3)

第2章 天使と秩序世界

天使については私たちの想像は愛らしいものになっているが、それはヨーロッパの中世人が思い描いた天使の姿とは全く違っている。中世キリスト教世界の天使は、まず男性的な姿を持つ天使である。日本人から見て異様なのは、天使の背中についている羽根が、鷲か雁の翼のような大型の鳥のがっしりとした羽根だという点である。彼らは神の使い、言い換えると、神の手足になって動くものたちである。聖書のある個所では、神の軍隊として天使の群れが描かれている。天使は神の言葉を特定の人間に伝える役割をもつこともあるが、神に味方して戦う「力強い戦士」として描かれることもある。

しかもキリスト教では、なんと天使の一部が堕落して悪魔になり、有名な「創世記」の一節にあるように悪魔が蛇の姿を借りて、最初の人間アダムの妻エバを誘惑したと考えられている。つまり人間が善人と悪人に分けられるように、天使も、本当の天使と悪魔に分けられるのである。旧約聖書では悪魔は神の目を盗む程度である。それがキリスト教の歴史とともに中世になると悪魔は本当に悪いものにされ、神にすら反逆されるものと考えられるようになった。いうまでもなくキリスト教の神は絶対的な力をもっている。したがって、神に反逆できる悪魔の存在、あるいは悪魔の能力は、理屈に合わず矛盾めいていて、私たちには想像しにくい。

さらに古代の教父たちの聖書解釈によれば、わたしたち人間も実は天使の一種である。天使の一部が堕落したのが悪魔の誕生である。古代の教父によれば、神は悪魔を懲らしめたあと、数が減少した忠実な天使を補うつもりで、代わりに人間をつくったという。それゆえ人間を堕落した天使の替わりとなる存在として、いわば天使の一種のように扱うストーリーが作られた。そんな人間も、結局、悪魔の誘惑に負けてしまった、というのがアダムとイブのストーリーなのである。堕落した天使=悪魔については、神は救いの手を伸ばさなかった。それに対し、天使の替わりにつくった人間については、堕落した時、神は特別にキリストを人間世界に送って人間をすくうわざを実施した。つまり人間は、悪魔の誘惑に負けて罪を犯し、源氏用のようになっている「不完全な天使」である。この不完全な天使は、神の救いのわざに答えて信仰を持つことによって、完全な天使と等しい価値を持つことができる。この世界観においては、人間は動物の一種ではなく天使の一種なので、動物や植物とは大きく隔たったものとして理解される。これこそがヨーロッパのキリスト教信者が見ていた世界である。

アウグスティヌスによれば、プラトン学派は、宇宙の全体が一つの生き物であるかのように考えていた。しかし正規のキリスト教世界では、宇宙を統一的に動かしているのは神であり、天使が神に仕えて天体などを動かしている、ということになる。すなわち、宇宙は一つの生き物のように動いて見えているが、それは宇宙全体が実際に一つの生き物だからではなく、むしろそれは無生物であり、ただ、宇宙をこのように動かしている魂をもつ霊的な被造物がいて、かれらが一つの神に仕えているからである。つまり、直接には神ではなく天使が宇宙全体を動かしていると考えるのがキリスト教世界観であり、宇宙それ自体を生き物のように見るのがアウグスティヌス時代のプラトン学派である。ただし、キリスト教世界は必ずしも霊肉の二元論ではない。神が世界を動かしているが、その世界にあるそれぞれのものは生きていて、その霊と肉とは別々のものでありながら、分かれがたく結びついていると見られていた。

とはいえ、自然的宇宙や動物などについての考察は、13世紀に入ってアリストテレスの作品全体が中世の知的なひとたちに知れ渡るようになって、はじめて中世の知的世界を構成するようになる。もちろん、それもひどく抽象的で、近代に見られたような多様な博物学的知識の裏付けがあるものではなかった。

 

2013年9月25日 (水)

「竹内栖鳳─近代日本画の巨人」展(3)

最初のあいさつにもありましたように、竹内は1900年に渡欧しました。彼は、その体験から日本美術のあるべき方向を講演しているそうで、その要点は“①西洋美術の制作の基本である実物観察を通して、対象の形態を把握すること。日本の絵画は実物から離れすぎてしまっている。②光が対象に当たった時にできる陰影を取り入れること。③②とも関連して、微妙な階調による色彩表現を研究すること。④日本の水墨表現は「是非保存」すること。西洋美術にある形態把握の方法と結組み合わせることで、西洋美術よりも「妙趣」ある作品が生まれる。⑤日本の絵画では、表現に「種々の感覚を含める」こと、すなわち「写意」を得意とする。ここに①の形態把握の手法を合わせることで、西洋の人々を驚嘆させる作品が生まれるだろう。こうした栖鳳の理念は、晩年まで一貫して作画の根底をなすものとなった。形態把握のためのスケッチ、「写意」を表すための抑揚豊かな筆線および濃淡に富んだ墨、さらに展開して色彩の使用が、この理念を実践に移すための手法である。”と解説されています。

Lion3それを、何種類も展示されていた獅子(ライオン)を描いた作品に見ることができると言います。当時は、それまでに様々な画家が獅子を描いていたわけですが、実際のライオンを見て描いたということはなく、渡欧して動物園で生きたライオンをスケッチして本物のライオンの姿を描いたというのは、当時の人々にとって新鮮だったのではないかと思います。参考として狩野永徳の『虎獅子図』(左図)を見てもらうと、実際の虎やライオンとは別の生き物に見えます。このような獅子の画を見ていた人々にとって、竹内の獅子図は新鮮どころか驚きを以て迎えられたのかもしれません。今回の展示では、5種類の獅子図が展示されていましたが、もの珍しさもあってニーズが高かったのではないかと思います。

Lion1_2その中から『虎・獅子図』(1901年)(右図)は、6曲1双の横長の大きな画面を利用して、中央に頭部を位置させた横から見た姿の胴体を左側に身体を伸ばした姿で描き、その右上がりの傾きに対して中央部を境にして線対称のように右下がりの線を獅子が乗り越えようとしている岩を配置している。このようにシンメトリーという発想は、ヨーロッパの美意識のよう、です。しかも、獅子の毛皮の柔らかな触感をおとなしい繊細な線で、これに対して倒木は墨痕鮮やかさを利用して、大きな筆で大胆に一気に太線を引いています。中央を境にして、形態も対称的であるだけでなく、肌触りとか描く書法、線を対照的にして画面が構成されています。それを生かした下地になっているのが、金地に墨で描いたという描き方です。金地であるためか1本1本の線に見られる墨のたまりが生々しく残って、とくに岩の筆線の存在感が強い印象を残します。

Lion2『大獅子図』(1902年)(左図)は4曲1双で正方形に近い画面で遠近を強調して、胴体の後ろ腰の部分を大きく後退させたように小さくしながら足先の指は前後の足で同じ大きさにしてデフォルメすることによって、獅子の身体の大きさと、どうして右半分に偏ってしまう画面のバランス構成を考えているように見えます。大きな顔の部分と鬣に胴体が隠れてしまうポーズで、横たわり後ろ足を伸ばしている姿になっています。右側の画面の大きな部分を占める鬣の毛のふわふわした柔らかさをぼかした線であらわし、それ以外の部分、とくに顔の部分は線の抑揚を抑えてカッチリ描線をひいて、分厚く陰影を塗り分けている。これにより、鬣をはじめとした獅子の毛に覆われた柔らかな体表と体全体の存在感や重さが見て取れます。

このように、獅子を描いた作品は描き方(技法)とそこから生まれる表現効果が異なる。このことは、次のように解説されています。“この違いとは、主に筆線の違いによるものである。つまり栖鳳は、これらライオンのシリーズにおいて、一貫して、筆線の違いにより毛の柔らかさ、動きの力強さといったライオンの様々な特徴を描き出そうとしていたのである。こうした特徴を表すことは、栖鳳が渡欧後に語った絵画理念にある広い意味での「写意」に含まれる。このことから一連のライオンの作品には、実物観察により対象を描くというだけでなく、筆致による「写意」の表現の研究という目的があったということができる。”今回の展示を見て、私が竹内の作品の特徴であると感じたのは、目の前の対象、というよりは世界という広がりに対して、それを画面に構成しようという主体的な意志、なんか小難しくなってしまいましたね、世界を表そうという強烈な思いのようなものとでも言ったらいいでしょうか。その構成のさせ方、いわば、画面という世界の作り方で、描く技法であらわされるものが様々に変わってくるということが大きく影響されるのを、竹内が意識的だった、ということなのではないかと思います。そう考えると、当時においては日本画とか西洋画とかを問わず、かなりモダンな人だったのではないか、と思いました。

Zouそういう、竹内の特徴を考えると、そのような彼の方法論に最も適していたのは風景画ではなかったか、と考えます。実は、獅子図についても、風景画として、それがあたかも風景画であるかのように見ることができると思うのです。ライオンの構成要素をひとつひとつ分解して、そこから描くべきところを取捨選択し、画家の切り口で選択したパーツを構成してひとつのまとまりにして、その筋道を通した結果が作品となる。風景全部を描くことはできませんから、自然とそうなりますが、獅子に対してもそれだけで完結したものとは見ずに、切り取られるべき世界と見て描いている、というように見ることはできると思います。後で触れますが、竹内の人物が少なく、あったとしても面白くないのは、そういう方法論のゆえではないかと思います。

2013年9月24日 (火)

「竹内栖鳳─近代日本画の巨人」展(2)

美術展でよく見る風景として、展示されている作品よりも、その説明のプレートの方に多くの人が群がっている情景によく遭遇します。“虚心坦懐に作品に触れる”ということの裏に隠された階級制、つまりはイデオロギーを思えば、あまり無責任なことは言えないのですが、それでも“説明なんか後回しにして、とりあえず見てみたら”と余計なお節介を言いたくもなります。私の場合は、まずは展示作品を見て、良い方面でも悪い方面でも印象に残ったものは、タイトルを確認したいので、そこを見ます。それは、不思議とこれを読む人は少ないようですが、最初に展示されている主催者のあいさつは必ず読むことにしています。ここには、その展示のコンセプトが、主催者がその画家をどのように捉えているか、という考えが明示されているからです。そのことを理解したうえで、展示を向かうと、作品を見ることもありますが、展示ということもみることができるからです。私が、いままで結構批判的なコメントをしていた展覧会は、大体の場合、このあいさつがおざなりだったり、形式的で主催者の肉声が籠っていなかったりした場合です。

Take1今回のあいさつでは、竹内を次のように説明していました。「栖鳳は積極的に他派の筆法を画に取り入れる一方で、定型モティーフとその描法を形式的に継承することを否定し、画壇の古い習慣を打ち破ろうとしました。その背景には、明治33年(1900年)のパリ万博視察のために渡欧がありました。現地で数々の美術に触れ、実物をよく観察することの重要性を実感したのでした。しかし、やみくもに西洋美術の手法を取り入れたのではないところに栖鳳の視野の広さがありました。江戸中期の京都でおこった円山派の実物観察、それに続く四条派の軽妙洒脱な筆遣いによる情緒の表現は幕末には形式化が進み、定型化したモティーフとそれを描くための筆法だけが残りました。栖鳳は実物観察という西洋美術の手法をもとに、西洋と肩を並べられるような美術を生み出そうという気概で、これら伝統絵画の根本的理念を今一度見つめ返そうとしたのです。」

Take2念のために、上のあいさつでは栖鳳と名前のほうで画家を示していますが、私の場合は竹内と苗字(ラストネーム)で示しています。それは、単に他人をファーストネームで気楽に呼ぶ習慣を持たないためです。カンディンスキーのことをワシリーとは呼びません。それと同じです。

さて、竹内は師匠について修行を続け1892年に『猫児負喧』という作品を出品したという時期から、彼の画家として独立したと見なしているようで、当の『猫児負喧』は現存しないとのことですが、この時期から期を画して展示を始めます。その初めのころ、1895年の作品として『百騒一睡』という屏風です。私は、日本画の屏風の作品を知っているわけではないので、どうしても最近みた速水御舟の描いた屏風と比較してしまいます。私は、絶対的な審美眼とか美意識のようなものは持っていない素人なので、作品を見るときは、どうしても他の諸作品と比べてみて、その違いからその作品の特徴とか好き嫌いを判断していきます。だから、その時に、どのような作品と比べるかということが実は私の作品を見るときの決め手となることがあります。たまたま連想した比較作品によって、私の中での作品評価が決められてしまうので、ここで私が書いている感想がいかに場当たり的でいい加減であるかということは、お分かりいただけると思います。さて、『百騒一睡』にもどれば、例えば、速水御舟の『翠苔緑芝』(右下図)と比べてみると、速水のが図案とかデザイン画あるいはイラストであるのに対して、竹内のは明白に絵画です。竹内の作品には作者がいて、そこに視点が存在しているのが明らかです。そして画面全体が空間として設計されています。だから、速水のポストモダンとこじつけられるスーパーフラットな画面に対して、いわゆる絵画(西洋画)を見慣れた眼、あるいは映画のような映像作品に慣れ親しんだ眼にもすんなりと入って行ける画面になっています。ということで、以前に見た速水よりも、竹内は遥かにモダンであるというのが私の第一印象でした。例えば、上側の4匹の犬が描かれているところ、空間的な奥行きが意識され、4匹の空間での位置関係が明らかになるように、画面での上下位置や背景の描き方に工夫がなされているのです。またまた比較するようですが、速水の作品では、平面的な形象が重なりをさけて並べてあるので、平面に同列に並んでいるようにしか見えません。竹内という人は、このような立体的な、(西洋)絵画的な空間設計を日本画の画面の中で違和感なくはめ込んでしまうことができるわけですから、構成力が卓越していたのではないか、と思ってしまいます。それが竹内の大きな魅力になっていると思います。つまり、この後も竹内の作品を見ていきますが、とくに屏風のような大規模な作品において、大胆でしかもすんなりと納得させられてしまうような画面構成に感心してしまうのが常でした。それが、31歳のときの『百騒一睡』ですでに完成されていたと言えると思います。

Hayamineko例えば上側の4匹の犬のうち親犬が目を閉じてうつむいている姿は、微睡んでいるようにも見えます。そこには平和な静けさを表しているようにも見えると言います。これに対して下側の刈田に落ちた稲藁に集まって争うようにこぼれた粒を啄む雀の群れはいかにも騒がしげです。この4曲1隻を左右に並べて置くと、左右で向かい合うように騒がしさと静けさが対照的に対置され、親犬が眠ったふりをしているのか、これから眠りを覚ますのか、それとも雀の騒がしさにも動かされず眠っているのか、様々な物語を喚起しています。細かいところを見ると、様々なことが言えますが、それは他の作品のところでも適宜触れていきたいと思います。

 

2013年9月23日 (月)

「竹内栖鳳─近代日本画の巨人」展(1)

2013年9月12日(木) 東京国立近代美術館

都心でセミナーがあって、その空き時間に急いで行ってきました。このところ、速水御舟だの大野麥風だのと日本画の美術展に続けざまに行っています。本来は、日本画に疎いため積極的に出かけようは思わない美術展ばかりです。しかも、今回も、よく知らない画家で、しかも都心でも交通の便があまり良くない近代美術館にわざわざ行って見る、というのは自分でも不思議な気がします。このところ、仕事環境で変化があったり(未だに環境に適応できないでいますが)、体調を一時崩したり、私自身の変化を促すようなことがあったためかもしれないし、馬齢を重ねたことにより(齢をとってマルくなった)若い頃には見向きもしなかったものに親しめるようになったかもしれない(若いころは大嫌いだった漬物が今は大好物になった)し、などと理由はいくらでもデッチあげられます。まあ、直接的な理由としては、先日たまたまみた「谷文晁展」に並べられていたブツがあまりにも難解で、ちんぷんかんぷんだったので、感じること以前で唖然としたまますごした経験(例えば、私の目の前でブロンクス訛りの英語を早口で捲くし立てられ、果たして私に対して言葉が発せられているかも分らず、呆然としているような状態)による、ということにしておきましょう。その後に見た速水御舟にしても大野麥風にしても、これは絵画なのだと自分に言い聞かせながら、絵画である証拠を探しみつけながらようやく見ることができた、という有り様でした。会場に沢山の老若男女が詰め掛けるように来ていましたが、その中で、こんなに戸惑っているのは私だけなのだろうかと(それはそれで、快感であることも、あるのですが)、寂しく思ったりもしました。そういえば、歴史の教科書で見た日本画に魅力を感じたことはなかったかもしれないなどと思い始め、そういうものへの回路がないのか、私は日本人なのに、とか訳の分からない感慨に陥ったり、とまあ、複雑な事情があって行って見たというわけです。

Takepos行列ができるほどではありませんが、館内は比較的混んでいました。速水御舟展のときもそうでしたが、年配の鑑賞者(とくに男性)が多く、一方学生なのか若い人も意外といて、私のような中年が少ないという鑑賞者の年齢に偏りがあるようです。

で、竹内の作品の印象ですが、これが見られたのです。違和感なく。不思議なことに。なんか、不遜な言い方ですが、まあ良いでしょう。ちゃんと自腹で入場料を支払っているんだし…。竹内さんとは利害関係は何にもないんだし…。冗談はさておいて、速水御舟や大野麥風の作品に比べると、サマになっている、というのが正直な印象です。どうしてと、きちんと説明するのは難しいのです。絵として見ることができるのは。それは、JR東日本の駅のホームの発車のしらせのチンタラリンが音楽ではない理由の説明が難しいのと同じです。ひとつ、副次的な理由ですが、速水の時のような居間の床の間に飾ってお茶や酒の肴にして愛でるためのツールというような感じはなくて、それ自体が「見ろ!」とでもいうように存在を周囲に主張している、極端な言い方ですが、速水の作品が骨董品として画商ではなくて古物商に扱われるものなら、竹内は画商が扱うという違いでしょうか。説明になっているか分りませんが。もっと直接的にいうと、速水の作品には解説本で説明されているような写実とか近代性とかいったことはついぞ感じられなかったのに対して、竹内の作品は自然とそういう要素が感じられたということです。その辺りのこと考えながら、具体的に作品を見ていきたいと思います。展示は次のような章立てで行われていました。

第1章 画家としての出発

第2章 京都から世界へ

第3章 新たなる試みの時代

第4章 新天地をもとめて

 このほか、特集展示として

  美術染色の仕事

  旅

となっていました。このうち第1章は習作期のお手本の模写やスケッチで竹内のお勉強をしたい人にはいいのでしょうが、それに感想でもないので割愛し、第3章の後半あたりから竹内が老境に入ったあとの作品は私には急速につまらなくなるので(ただ、そこで、なぜつまなくなったと思うかの理由を考えていくと、竹内の作品の魅力を逆照射できることになると思うので、割愛はしないで、つまらなくなった竹内も少しだけ見ていきたいと思います)、そこは駆け足ということで、第2章のところを中心的に見ていくことになると思います。

2013年9月22日 (日)

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(2)

中世哲学を理解するために、もう一つ注意しなければならないことがある。それは哲学理解についての変遷である。この場でもプラトンとアリストテレスが古代の終わりから中世にかけて、どのように受け取られてきたかについて、簡略に触れておく必要がある。まずプラトンのイデア論であるが、重要なポイントと思えるのは、プラトンは概念の理想型としてイデアを考えているが、人間の側の知性ないし精神が把握すべき対象ではあっても、イデアが知性と「一つ」になる、という考えは、プラトン自身はもっていない。知性という認識する側の役割と、イデアという見られる側の真理は、端的に別々の存在である。恐らくプラトンにとって、生きているものは生々流転のうちにあり、「一定の真理」という概念で理解できるものでは絶対にないと考えていたのだろう。要するにプラトンのイデアは、動かない不変の「真理対象」であって、変化のただなかにある生き物ではない。アリストテレスの存在論では、真理解釈が微妙になる。アリストテレスの存在論(形而上学)は、根源的に「実体論」である。実体とは、アリストテレスにとって究極存在であり、すべての存在の基礎にある何かである。つまり偶然的なもの、あるいは、それにとって本質的でないものを取り去ったのちに残るものである。それはプラトンのイデアのような「精神の対象」という視点の規定ではなく、「世界の構成要素」は何か、という視点からの規定である。そしてアリストテレスは、プラトンとは異なって、「精神」を世界のきわめて重要な構成要素と見なしている。すなわち、精神は世界を構成する重要な「実体」である。むしろ精神ないし生命主体は、世界を構成する実体の基本である。

ところで、アリストテレス自身はプラトンの弟子でもある。そのため、イデアないし形相は、アリストテレスにおいても実体論の研究に用いられる。そして実体の本質は実体を構成している形相にある視点の概念である。したがって完全には一致しない。しかし、この相違は視点の相違から来るものであり、そうであるなら、それぞれは互いに補完する概念と見て、両者を統一する見方が生まれてくるのは避けられない。新プラトン主義もそういう考えから生まれたものだ。新プラトン主義と、プラトンとアリストテレスの哲学の大きな違いはどこかといえば、新プラトン主義には、最高のものである「一者」から下がっていく視点がある、ということである。プラトンもアリストテレスも、周囲の普段見慣れている世界、あるいは感じている世界から、上昇する志向はもっているが、最高位から下に向かう視点は持たない。

ここで、いかにも唐突に思われるかもしれないが。ヨーロッパの中世絵画を思い起こしてもらいたい。中世の絵画といえば、聖母マリアや教皇、天にいるキリストや天使など、どれも別世界にいて縁遠く見えてしまうものばかりだ。しかし、最近、その縁遠さが解消できる場所を見つけた。それは広く開放されたエスカレーターである。広いテラスの間の開放された空間に設置されているものだ。そこを降りてくる人たちを、下から見ていたらそこに見える光景が、中世の絵画のキリストや聖母マリアの光景に重なって見えた。高いところから下りてくるという事実が、中世の絵画に描かれたキリストや天使のような見上げるものに重なった。彼らはこちらに向かい時に「下りてくる」立場にいる。つまり「上から下りてくる」という点が重なるのだ。中世絵画が描こうとしているものは、地上にあるものではなくて、どこか高いところにあるものである。私たちと同じ地平にある喜怒哀楽ではなく、畏れ、見上げるべき歓びである。ただし、下から見上げているのは、心の中の視線であって事実ではない。

したがって、中世の精神世界は、下向きのエスカレーターがつくめ世界と同じである。中世哲学では、神や天使が当然のように出てくる。中世の人々は、それらを見上げ、それらが下りてくるのを待っている。人々はそれを考えるために、上にある「言葉」を借りてきて考えた。上にある神の言葉を聞き、それを使って論じなければならない。だから、中世の哲学者たちにとって、「言葉」(概念)も、実は「上から下にやってくる」。そういう想定が、中世の哲学者たちにある。そのために、抽象された言語が多用される。それが新プラトン主義の哲学が中世で生きている姿なのである。だとすれば、中世の精神世界が異質なものに見えても、そこに生きている人たちは、私たちと大して変わらない。彼らが私たちと違っているとすれば、彼らはよく上を見上げているせいで、見えているものが私たちの日常とは少し違う、ということである。

新プラトン主義の哲学も、それと同じである。すなわち、新プラトン主義では、最高の「一者」の次の段階に「知性」が置かれ、この段階で知性と対象の区別が生じてくる。つまり第二の段階で、知性と対象は分かれるが、しかし同じレベルに置かれるので、それらは二つであるが、同一のレベルとしてお互いが相手の端くれであるという観念が残る。つまりイデアと知性は、プラトンやアリストテレスの時よりも一体化する傾向を強める。次の段階で人間身体に入る霊魂が生じる。人間ばかりでなく、天体や動物や植物の霊魂としても、それぞれの体をもつ。天体も動物もそれぞれに相応しい霊魂を持つ生命体なのである。ここから存在が流れ落ちる先にあるのが物体であり、それは霊魂から区別されて、生命を失って完全に物体となり、存在の最低段階に到達する。新プラトン主義には、上からの流出と下からの還流という流れの観念を組み込んで、上下の秩序の間に一体性を生み出し、精神性と物体性の上下関係を残しながら、二元論ではなく、一元論の説明を可能にしているのである。そして世界全体を上下の流れでとらえるために、その全体は生命的なものとして理解させられる。こうしてプラトンがもっていたイデア同士の乖離、イデアと知性の乖離は、生命的観念や流れの観念のなかで見失われる。

キリスト教にとっては、新プラトン主義の哲学が、もっともよくキリスト教哲学に適合するものであったので、アウグスティヌスを通じて中世に知られたプラトン主義は、一般に新プラトン主義だった。したがって、プラトンの哲学が純粋にそれ自体で理解されたことはほとんどない。

名選手は名コーチにあらず

色々あって、今新しい担当者に引き継ぎを始めています。その人は他の会社でIRをやっていたという人なので、会社の内容と、私の方針と方法論を伝えれば、あとは彼がそれを咀嚼して、継承するなり、路線変更をするなり彼のやり方を出していけばいいと思っていました。

しかし、そうしようとしたら、それがいかに困難であるか、ということに気づきました。まず、言葉が通じないのです。対話が成立しないのです。同じ日本人同士で言葉が通じないという言い方はおかしいですね。でも、正直なところ、そういう実感で、同じ言葉を話しても、私と彼では意味が全然異なるし、そもそもこの言葉がどうして出てくるのか、という前提が全然違うのです。例えば、IRに対する基本姿勢を彼に尋ねると、セミナーのテキストに書かれてあるような一般論のようなタテマエが当然のことのように返ってくるのですが、それは借り物であるのが明白で、本音はどうなのとか、具体的な戦略は、となると何を聞かれているのか分からないような顔をしてフリーズしてしまう。そして、もっと驚いたのは、そのことは当人は気にしている風はなく、あっけらかんとしている。彼の見えているものと、私の見えているものとは、全く別物ではないのか、そういうギャップを感じることが大きくなっています。

例えば、スポーツの世界で、「名選手は名コーチにあらず」ということを聞くことが多いです。例えば、プロ野球のかつての名プレイヤーである長嶋茂雄が野球の各プレイについて語ると、何を言っているのか分からない、とよく言われました。一般の人には難解かもしれませんが、長嶋氏本人にとっては至極論理的で筋の通ったものだったのではないかと思います。多分、身体感覚だとかそういうところで野球のプレイの感じ方が一般の人とは違って、それに応じた言葉を話しているだけなのだと思います。しかし、一般人は、長嶋氏の身体感覚を共有することはできないので、その言葉の前提としている世界というのか文化を理解できない、というよりもそういうものが存在することすら分からない。私は、自分がIRの名プレイヤーであるなどという自惚れはないつもりですが、私が感じている問題点や危機意識のようなものは、新担当者氏には、その存在することすらわかっていないところで、どのように会話を成立させていくかに悩んでいます。

今までは、多少、言葉が通じないことはあっても、私が熱心にやっていれば、引きずられるようにしてコミュニケーションが成立していたので、印刷会、動画配信、説明会の手配その他いろいろな関係する担当者の人々とは、最初は多少の戸惑いはあっても、積極的に加担してくれて、この人々からたくさんのことを教えられました。

今のところは、コミュニケーションの糸口を探して、下手な鉄砲も数撃てば当たる、とでもいうようにメッセージを発し続けるしかないのか。少しずつ徒労感が募ってきていると同時に、ややもすると私自身の意欲を維持させているのに精一杯の状態で、こんな無力感にとらわれてしまうと、投げやりになってしまいそうでもあります。

今回は、見苦しい愚痴を書いてしまいました。

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(1)

1部 中世とは何か

1章 ヨーロッパ中世世界

専門的な訓練を受けていない一般の人たちが、中世哲学の本を読んでみようと思いながら実際には読み通せない何かを感じるのは、おそらく決して根拠のないことではない。遠慮なしに言えば、キリスト教がそれ自体は万人に開かれた世界宗教であったとしても、ときに、あるいは、ある種の人たちによって、カルト的性格を持つことがたしかにあるからである。カルト的性格というのは、「自分たち」は「彼らとは違う」という意識を、一般の人々のうちに流す行為である。

キリスト教の教会の建物の内部を思い起こしていただいてもよい。ローマ帝国時代に迫害を受けていたキリスト教の信徒たちが、隠れて祈ったカタコンベ(地下墓地)の歴史を受け継いでいる。つまり、外部に迫害者(怨敵)の姿を想像している信徒の集団意識が、あの大聖堂に受け継がれているのである。人々はそこに入り込んで、自分たちの救いを求めて、祈り、歌う。したがって、そこにあった音楽も、教会という閉鎖空間に響く音楽として発達している。私たちは、ヨーロッパは開放的で明るい文化を築いてきたと思いがちであるが、それは少し遠い歴史を見直してみると間違いであることに気付く。

本来的には、キリスト教は純粋な信仰においては怨念を振り払うものである。よく知られているように「敵を愛せ」と教えたのは、ほかならぬキリスト教なのだから。しかし、ヨーロッパの歴史において、中世に限らずどの時代にも、有象無象の欲望が世界を動かし、そこでは、哲学という知的な吟味すら表面を飾るために働いていた、という側面もなきにしもあらず、である。

 

ヨーロッパの中世に知的世界を生み出すにあたって、もっとも重要な思索を残したのはアウグスティヌスである。彼は、自身の著作の中で、イエス・キリストが現れたあとの時代を人類最後の時代とみなしている。どうやら、彼は、自分が生きているときを、もう終わりの時代、もうすぐ世界の終末が来て、神の審判があり、天国に行ける人と地獄に落ちる人が決められる、その時が迫っている、思っていたらしいのである。

彼が死んだ後、ヨーロッパは私たちが「中世」と呼んでいる時代を迎える。しかしそれでも、彼の歴史観は時代遅れのものとして廃棄されず、むしろそのまま中世の人々の間で一般化した。つまり相変わらず人々は「最後の時代」を自分たちは生きていて、終末がもうすぐやってくるに違いない、考えていたのである。

例えば、ヨーロッパの中世をつくりだした重要な基盤として修道院をあげなければならない。修道院を通して西ヨーロッパはキリスト教社会に変わっていったからである。その修道院では、日中ばかりか夜中にもろうそくの炎のもとで神への祈りが捧げられた。修道士たちはゆっくり休むことを許されなかったからである。中世の修道士たちは、キリストの「目覚めていなさい」という声を聞くかのように、夜中に起き出して祈り続けた。その祈りは、惰眠のうちにサイゴノときを迎えることがないように、というキリストの精神を中世の人々に伝えていたのである。

キリスト教は、本来「終末を予定している宗教」であって、決して進歩を予定している宗教ではない。他方、現代の人々は日々の進歩を信じている。いくらかの挫折はあっても、社会は進歩して暮らしやすい世の中がやってくる、と人々は「進歩改善を予定」している。したがってそれは来ないことはありえないと思っている。近代科学技術の進歩史観と呼べるもの、これも一種の予定思想であり、宗教だと言えるかもしれない。それに対して中世においては、社会が進歩するとはだれも考えていなかった。自分たちの見ている世界は、キリストが見ていた世界と本質的に同じであり、変化はあっても些末なことがらにおいてでしかない、思っていた。そして世の中はこのまま変化することなしに、終末を迎えると考えられていた。そうでなければ生きていられないと思える世界を生きていたのである。現代の人々に時間軸を書くように言えば、一様に直線を引くだろう。時間はまっすぐに進んでいると誰もが思っているからである。ところが同じ質問を中世の人間にしたら、例えば、トマス・アクィナス、彼は直線ではなく、円を描くのである。つまり彼は、人間は同じことをし続けていると理解している。社会も同じことをし続けていると見ている。したがって時間は経過しているが、何かが進んでいるとは考えない。春は新たにめぐってきても、繰り返しめぐってきているのであって、そこに進歩がありうるとは考えない。

2013年9月19日 (木)

カンディンスキー展(6)~モスクワ1918~1921年─絵画と社会

カンディンスキーは10月革命後のモスクワで、次第に公的な仕事に創作時間は少なくなっていたと。しかも、ミュンヘンのような表現主義というような人間個人の内面性を重視した象徴主義的な文化があまりなかったということで、そういう文化伝統を糧にしていたカンディンスキーの芸術は主観主義、観念論といった批判を受けたらしいです。社会主義リアリズムなどという紋切型を簡単にイメージするつもりはありませんが、前衛芸術でもマレーヴィチのようなパターン化を極限まで突き詰めていったようなものと比べて見ると、カンディンスキーの作品は外形性という方向性はあまりなかったのが、受けなかったのかもしれない、と思います。

Kandinskyovalsそして、今までは触れませんでしたが、カンディンスキーが抽象絵画というのを始めて、それが今日では広く人口に膾炙して、彼が創作を続けることができたというのは、彼の作品を受け入れ援助する多数の人々がいたからです。カンディンスキーも人間ですから、食べて生活していかなければならない。彼は生活の糧を作品を販売することで得ていたわけですから、彼の作品を購入する人々がいた、つまりは彼の作品のマーケットがあった。当然、彼はそのマーケットに受け入れられなければならないわけで、芸術関係の人はこういう言葉は嫌うでしょうが意識的にか無意識のうちにかマーケティングをしていたと思います。そして、そこで彼はどういう人たちをターゲットとしてマーケティングをしていたか、つまりは、どのような層を対象として、作品が受け入れられることを考えていたか、ということです。まず、もう彼の時代には産業革命が進行し大衆というものが形成されつつあった。そこに大衆社会の消費文化が形成されつつあった。では、カンディンスキーは、そこを成長性の高い市場だからと、そこに売り込んでいったかというと、彼の作品はそういうところには受け入れられにくいものだったと思います。高尚とか難解とか言われて、敬遠されたということは想像かつきます。多分、彼の作品はハイカルチャーとして、大衆から差別化された芸術という枠組みの中でも、前衛的とか芸術意識の高いという人々、つまりはスノッブというような人々が主な対象だったのではないかと思います。従来の芸術の主要なパトロンであった王侯貴族や教会は、パトロンとしては突出してものではなくなり、しかも、カンディンスキーの作品のような作品は政治的なアピールに資するところが少ないのは明白です。そうすると、裕福なブルジョワで、芸術文化の最先端にいるというポーズをとりたい人々が、前衛的な彼の作品を所有していることで、エリート意識をくすぐられるというのが、カンディンスキーの作品の売り込まれ方として、商売上は適していたのではないか。富を手にしたプルジョワが文化とか教養とか精神とか、一見高尚っぽいものを手にしたがる、それで更なる箔付けをするときにハイエンドの芸術として前衛絵画はうってつけだった。本人は意識していなかったかどうか、分かりませんが、カンディンスキーの絵画は、それにうまく媚びるところがあったからこそ、されは作品自体もさることながら抽象画という最先端の芸術のコンセプトだったりするわけです。

そういうものを、社会革命で労働者の政権というタテマエとなった革命政府で、評価して受け入れることができるか、ということは火を見るより明らか、というのは単純化した議論ですが。西欧帰りのカンディンスキーは、そういう目でみられていなかったということは、あり得ないと思います。たとえば、音楽の世界で、パリを中心に前衛的な作品を多数作曲したプロコフィエフはソ連に帰国後、自己批判した上で、作風を大きく変えてしまいました。

そういう状況を考えると、カンディンスキー本人は、大きな屈折を抱えることになったのではないか。そのような状況で、ミュンヘン時代の「コンポジション」のような勝手気ままな制作は出来なくなって、作品にも影響が出て来るのではないか、と外部の人間は考えたくなります。どうしても、そういう目で見てしまうのです。たとえば、前回に見た『灰色の楕円』のような作品の暗さをみると、そういうことを考えてしまいます。

『ふたつの楕円』(右図)という作品を見てみましょう。1mサイズの大きさは決して小さいとは言えませんが、『コンポジション』に比べると小さいものです。で、上に書いたようなものがたりを前提に見ると、そのように見える可能性もあります。しかし、そういうものがたりてきな情報を締め出して、この作品と『コンポジション』を見比べてみて、大きさの違い以外に、顕著な違いを見分けることができるでしょうか。私は素人の好事家ですから、そんな知識も見識もないので、見分ける能力がないのでしょうか。だから、大きさの違いというのは、実はかなり大きな要素を占めているのではないか。『コンポジション』は大きいということで見る者を圧倒することができましたが、1m程度のサイズでは、それはできない。そこでどうするか、私には、上で書いたような物語よりも、こっちの方がしっくりきます。だって、『ふたつの楕円』と『コンポジション』を比べて見ても、HOWに基本的な変化が見られないからです。上述のものがたりが本質的なものだったならば、HOWがもっと変化していたのではないか、と思います。で、カンディンスキーは、どう対処したかということは、前回で見た作品にも表われていましたが、たくさんの要素が画面から溢れるほどだったのを、画面に納まるようにしたということです。そこで、外向きの広がりという方向性から、画面がまとまり内向きに充実するように感じる方向性に転換した。前回見たものは、その行き方をコントロールできず、行き過ぎもあって閉塞感を感じされるものが出来てしまった、ということです。それで。『ふたつの楕円』を見てみる、ひとひとつのパーツが細かく小さく描き込まれています。『コンポジション』では、その描き込まれる密度に差があって、細かい所と、大雑把なところが画面上で割り振られていて、それが対照とかリズムとかを醸し出していました。しかし、反面、統一感ということでは、品質が一定したことで『ふたつの楕円』の方に感じられるようになったように思います。そして、また、『ふたつの楕円』では、そのパーツがはっきり描かれたので、統一感とあいまって、作品を見る時に見るべき対象が絞られた感じがします。『コンポジション』の場合は、そのサイズに圧倒され、しかも様々な要素が画面から跳び出さんばかりなので、正直言ってどこから見ていいか分らくなって、作品の前で呆然としてしまうところがありました。しかし、『ふたつの楕円』の場合は、そういう意味では、手がかりを得やすくなっています。

それを、上述のものがたりに当て嵌めてみると、観念的な作風から脱皮して、より広く人々に訴える、完成度の高い作品となっていった、とかいえると思います。

Kandinskypoints『尖りのある絵』(左図)という作品では、画面上の要素が減って、より整理された感じを受けます。よく見てみると、要素自体は、それほど減ったわけではなくて、中央に集められたので、そう見えたのです。多数の要素を、中央に集めると、どうしても、各々の要素が相互に重なり合うことになるので、それぞれの要素がハッキリ描かれることになります。そして、重なることにより重層感が得られるようになりました。前回も触れましたが、『コンポジション』には平面的に広がる感じが強くありましたが、その代わりに平面的で奥行などは感じられませんでした。これに対して、『尖りのある絵』では、要素を重ねて重層的な感じをだすことで立体的に感じられることで奥行が生まれた。その結果、納まりの言い絵となっている。それが、見る人には充実したという印象を与える。

というわけで、カンディンスキーの作品を見てきました。最初にも書きましたように、カンディンスキーの作品は、抽象画といわれるジャンルで他の画家と比べてこうだ、という差別化された個性が見分けられない、ということについて、今回の展示を通して見て、そういう個性が見つけられたかというと、見つけられませんでした。何かの枠に当て嵌めようとすると、その枠からすり抜けてしまうというのか。ただ、かりに、私が絵筆かクレパスを持たされて、抽象画にチャレンジしてみようと促されて、とにかく何かキャンバスなり紙の上に描いたものは、結果的にカンディンスキーの作品をなぞったようなものが出来上がる可能性が高いのではないかと思います。絶対にモンドリアンのようなものは描かないと思います。そういうものなのかもしれません。逆に考えると、そういうところにとどまって、ずっと勝負し続けたところにカンディンスキーという画家の凄いところがあるのかもしれない、と思いました。一見した差別化の個性が見分けにくいところで、あえて戦い、スタンダードとしてのスタンスを維持し続けた。多分それがなければ、他の、後進の画家がぞくぞくと続くことができなかったと思います。

2013年9月18日 (水)

カンディンスキー展(5)~モスクワ1914~1917年─内なる故郷

Kandinskymoscowカンディンスキーはロシア人であったため、第1次世界大戦の勃発により、ミュンヘンを離れ、故国のモスクワに帰国します。最初はお勉強です。帰国後の10月革命を挟むモスクワでの7年間は、物心両面での困難、革命政権下での公職の多忙等が重なり、油彩作品の数は大幅に減少し、水彩画が増えることになります。カンディンスキー独自のこだわりのないおおらかな画面作りが、この時期は抑制され、緊張しながら様子を窺っているような趣を帯びる。線は震え、色彩は禁欲的となり、ミュンヘン時代の作品にあった開放感は、やや神経質に揺れ動きながら内に籠っていく自閉の感覚に取って代わられる。多数のモチーフが折り重なりながら畳み掛けるという点では以前と同じなのだが、ミュンヘン時代には、無尽蔵なエネルギーのストレートな発露と感じられたこの性格が、モスクワにあってはむしろ内なる衝動ののざわめきの抑えがたく不安な増殖を感じさせる。『コンポジションⅦ』が、崩壊の予感が影を差していたというものの、未だ帝国主義的ヨーロッパの体制がその豊かさを支えていた19世紀以来の精神風土に根差し、その世界の終焉の時に最後の炎の輝きのように生まれたのと対照的に、社会の瓦解を現実に目のあたりにし、行くべき道もいまだに定まらない混沌の中で描かれたロシア時代の作品では、沈潜する内向性とその切迫感に強いリアリティがあり、そこに見られる緊張と不安、そして慎ましげな希望への模索がある。

まず『モスクワⅠ』(右上図)を見ましょう。画像では分かりませんが、サイズは50×50㎝という、『コンポジション』に比べてかなり小さなサイズになり、キャンバスの地が透けて見えるほどに絵の具の塗りが薄くなっています。それを、上述の社会環境からの影響と見るか、ですが。また、建物や太陽の光、虹、群れをなして飛ぶ鳥などがそのものと分かるように描かれており、具象に後退してしまったのかとも考えられなくもないです。このように形象が描かれた作品を見ると、カンディンスキーという画家はデッサンの勉強はあまりしていなかったのか、と思えるほど下手なのではないか。悪いけど、この作品は、こういうのも描いたというものとして見ました。

Kandinskyblueそして『青い弧』(左上図)という作品。前述の『モスクワⅠ』に続いて、こっちは抽象画っぽいものに戻ってきた?ように見えますが、この作品でも中央に描かれているのは街の形であるような感じがあり、現実の形象を残しているような気がします。そのことを考えて、もう一度『モスクワⅠ』を見てみると、カンディンスキーは『コンポジションⅦ』を制作したことで、行き着くところまで行ってしまったというのと、ロシアという未だ芸術文化の異質なところで、一度原点近くまで戻って、もう一度抽象絵画を、異なった方向性で始めようとしたのかもしれないと、想像したりします。だから、『モスクワⅠ』のでは、中心は具象的な絵画というのではなくて、球を中心して建物を配置する構成にあったのであって、それを生かすために現実の建物を思わせる形象でないと、球体を取り囲んだ世界であることが見る者にわからない、そのために必要だったとも、考えられます。そうすると、具象であっても、抽象画の手法として具象の形態をパーツとして利用する。なんか面倒くさい考え方ですね。そう見ると、そういう方向から『コンポジションⅦ』とは、異なる方向の過程にある作品として『青い弧』を見ることもできるかもしれません。

Kandinskytasogare『暗鬱』(右下図)という作品です。この後、カンディンスキーは、よく似た傾向の作品を続けて制作しています。画面のサイズも『コンポジション』ほどの大作でなく、縦横1m前後のサイズになり、大きさで迫ることもなく、何よりも背景のグレーの色調が強く画面を支配して、『コンポジョン』にあったような様々な色彩が画面から跳び出さんばかりの緊張関係を示すということはありません。逆に、そういう活力というのがないまま、グレーを背景にして、それなりに色彩が配されていて、そういう飛翔がないだけに却って、『コンポジション』を見たものは閉塞感を感じるのではないでしょうか。暗いグレーの色彩と相俟って、不安な感じ、もっと言えば悲劇的な様相を感じさせます。全体として、『コンポジション』の広がりは宇宙的というのか、外へ拡がる方向性だったのに対して、この『暗鬱』という作品は、心理的というのか内面の感情の方向に向かっているように見えます。ただし、内面の深みへの思考はなくて、画面は平面的なのです。あまり、心理的な深読みのようなことはカンディンスキーには合わなかったのかもしれません。カンディンスキーという画家は徹頭徹尾、平面を制作し、平面でイメージした人なのかもしれません。だから、深みとか奥行といった感じは、彼の作品からは感じられません。

Kandinskygrey今回最後は『灰色の楕円』(左下図)という作品です。『暗鬱』以上に暗くて閉塞感があるのではないでしょうか。「灰色の縁取り」と作者自身が呼ぶ不定形の枠に閉じ込められているかのようです。しかも、色調はグレーに統一され赤や青も鮮やかさを失いグレーの混ざった鈍い色になってしまっています。鋭角的な形が重なり合い畳み掛けるような構成は、『コンポジション』には見られなかったもので、閉じられた空間で広がることができないと、ひしめき合うように折り重なるしかありません。しかも、重なりが立体的な深みに追求されることはなく、あくまで平面的に描かれているため、なおさら閉塞感が強まります。しかも、線は力強さがなく細身で、どことなく震えているように見えます。

こうしてみると、ミュンヘン時代の『コンポジション』から、モスクワに帰国してからのカンディンスキーは多かれ少なかれ方向転換をしたということは、確かなようです。最初のところで経済社会生活上の環境変化、あるいは文化状況の変化という環境変化のことを語りました。それ以外に、お勉強では『コンポジション』で行き着くところまで行ったので、別の方向を追求していかざるを得なくなったというようなことが言われているようです。それもあると思います。私がカンディンスキーの作品を見ていて実感として感じたのは、かれのイメージが徹頭徹尾平面的であるというのがまずあります。そのため、立体的な方向性というのが当初から考えられなかった。形状を重層的に描くという試みが為されていますが、それはあくまで表面的なところで行われているため、平面の閉塞感を助長させるだけの結果となり、奥行とか深みといった表現の広がりには至っていないという印象です。もともと画面の奥行というのは具象の世界で、奥行きのあるものを、そう見えるように平面であるキャンバスにらしく描くことで、見る者にそういう想像をさせることで生じる効果です。しかし、抽象画はそういうもととなる物体そのものを消失させてしまったので、もともと立体なのだからと観る者に奥行を想像させることは難しく、本質的に平面的にならざるを得ないところがあると思います。

それよりも、WHATということを否定して、HOWに特化したのが抽象画としたら、HOWという如何に描くかということは、実は、それ自体で独立していることではなくて、WHATという何を描くかということと不即不離にあるのではないでしょうか。描く対象があって、それをどのように描くかということがセットであるということです。このうちのWHATを取り払ってしまったことで、HOWの可能性もじつは閉ざされてしまったとも言えなくはないのでしょうか。というのも、カンディンスキー以外の抽象画家たち、例えばマレーヴィチはつきつめていって黒一色の作品というような絵画であることを自己否定してしまうようなものに行き着いてしまったし、モンドリアンはコンポジションの手法、つまりHOWをつきつめていきましたが、スタイル化してしまって、そのスタイルの目先を変えるという、悪く言えば手法に淫するようなものに至ってしまうわけです。抽象絵画というのは、始めた時点では画家にとって開放だったのかもしれませんが、伸び代というのか可能性を結果的に閉ざすような側面もあったのではないか。そこでの、WHATを最初に否定してしまったカンディンスキー自身も、画面のアイディアが際限もなく湧いてくるというわけでもないでしょうから、模索が始まるのは避けられないことだった。それがたまたま、モスクワという異なった環境に移った時期と重なったということではないでしょうか。これは、私の個人的な実感です。

2013年9月17日 (火)

カンディンスキー展(4)~コンポジション、大いなる総合

今回のカンディンスキー展の目玉の大作です。抽象的な絵画を描いた、彼以外の画家でも、モンドリアンやマレーヴィチなども『コンポジション』というタイトルの作品を遺しています。Compositionということばは“構成する”という意味ですが、音楽の用語で“作曲する”という意味もあります。おそらく、形を持たず、言葉のような明確な意味を持たない、音楽の抽象的なあり方に、一種の憧れがあったのかもしれません。

Benmondこれらの画家の作品とカンディンスキーの『コンポジション』との大きな違いは、単純なことですが、作品サイズの違いです。とくに、今回展示されている2つの作品はともに約2×3mという大きさで、美術館の展示でも広場を設けて広いスペースにベンチを置いていました。近くで見ても全体像が捉えられないし、それだけの大画面は短時間でパッと見ただけでは見切れないからと、長時間の鑑賞で疲れてしまわないようにベンチを設けたのでしょう。そして、二つ目の大きな違いは画面に様々なものが詰め込まれ複雑な様相を呈しているということです。これに対して、例えば、モンドリアンが多数描いた『コンポジション』(右図)のシリーズは私のウサギ小屋みたいな部屋の壁にも飾れる程度の小さな作品が多く、画面は黒い数本の直線と、その直線によって形作られた長方形が着色されたという極めて単純な構成です。もともと、抽象という言葉の意味には、現実の個々の事実はケースによってさまざまなことがあるので、一様にどういうものと言えないので、それらに共通しているようなことを本質的な要素として抽出して、単純なものとしてシンボライズして簡単な言葉にする、という意味が含まれています。学問で使用される抽象的なテクニカルタームは、その典型的な例です。つまり、抽象という言葉には、単純化するという意味が含意されていているといっていいので、モンドリアンの場合は、結果的にそうなったのかもしれませんが、抽象という概念に沿う作品となっています。

これに対して、展示されているカンディンスキーの二つの作品は単純化されたとは絶対に言えないものです。ゴチャゴチャするくらいに様々な要素が詰め込まれて、それらが相互に輻輳するかのように様々に絡み合っているようで、一目では何がどうなっているか分らない。それが巨大なサイズの画面に所狭しとある。そのような作品の前に立たされたものは、何がどうなっているのか、見てて把握できないので途方に暮れてしまいます。

同じように巨大なサイズでゴチャゴチャしたような作品を制作する人にジャクソン・ポロックがいますが、ポロックの作品は、一見ゴチャゴチャですが、それを構成する線とか絵の具の滴りが面となって表われたものの個々には存在感が希薄で、全体に対しての部分というものなので、部分に注目することは、あまりなくて、大きな画面全体を細部にこだわることなく見渡すことができるのです。そのため、一見複雑な作品は、全体の印象に重点を置いてシンプルに見ることができるのです。

しかし、カンディンスキーの作品は、細部の自己主張が強い。その結果、この巨大な画面の各処で細部が自己主張を始めて、相互に競うような様相を呈しています。全体を見ようとして、部分の存在感にひきつけられる結果、足元を掬われるように全体をみるパースペクティブを見失ってしまうことになってしまいます。私も、実際に、これらの作品の前で数十分間佇んでいましたが、何がどう描かれているかよく分りませんでした。そういう、量と質の両面で見るものが圧倒されてしまうところがある作品です。

もしかしたら、前回すこし述べましたカンディンスキーの不可視の何かがあるような気がしないでもありません。作品の前で圧倒されて立ちすくむしかない観衆が感じる、圧倒に迫られるということ自体、というのでしょうか。そこで、圧倒される人が感じる圧迫感、そして、一方的に受け身に立たされるような無力感というのか、その不安とまでは行かないまでも、どこか不安定な感じ、これに対して自らの小ささを目の当たりにさせられてしまう感じとか、がこれらの作品が、結果としてそうなっているというのではなく、ある程度、明確な意思をもってというのはないにしても、制作される際に、考えられていたのではないか、そう思わさせられるのです。

Kandinskycompviまず、『コンポジションⅥ』(左図)を見てみましょう。作品解説をカンディンスキー自身が行っているらしく、画家は作品の制作の経緯を語っています。「私はこの絵を、1年半も自分の裡に温めていたので、しばしば、自分がこれを完成しないのではないか、と考えずにはいられなかった。出発点はノアの洪水だった。」とカンディンスキーは、当初あくまで出発点に過ぎない「ノアの大洪水」という主題の外面的な表現に縛られてしまったが、やがて個々のモチーフの姿が色彩の渦の中に完全に溶け込み、そして、その色斑の上に、画面全体を自在に走り、大波や降りしきる雨の動勢を生み出す黒い線描が加えられて完成したと言います。「こうしてすべての要素、そして相互に矛盾し合う要素までも、完全な内面の均衡に変えられ、その結果、いかなる要素も優勢を獲得することなく、絵の成立の動機(ノアの大洪水)は解消されて、内面的な、純粋に絵画的で、独立した客観的な存在に変換されるのである。この絵がひとつの事象の描写であることほど誤ったことないだろう」と語りました。ということで、お勉強でした。

画面右手に黒い線で船の輪郭らしきものがあったり、中央上部の赤い線の山形はアララト山でしょうか、向かいに黒い線で鳩の嘴の形らしきものが見られます。描線が何本も並べて引かれているのは雨の形跡なのか。このように、「ノアの大洪水」のパーツらしきものの形跡が残されているとは想像できます。しかし、それも、そういうお勉強をして、そのように見て、こじつけのようにして見えて来るにすぎません。だから、ここから実際の大洪水とか、災害を意味するものと捉えることはないと言えます。このような様々なものらしき形が画面の中で、折り重なったり、ぶつかり合ったり、並んだりして、その有り様が絶妙なバランスのもとに相乗効果をうみだして、最終的に緊張感を保ちながら、ひとつの世界となってまとまっているというのがこの作品だということになるでしょうか。そのために、画面上で意図的に複数の中心的な部分、緊張感が高まる部分が作られています。画面右上の船のフォルム周辺は、黒い線を中心に赤と青とが柔和にバランスしているようであり、画面左下は対照的に鋭く対立しているようなダイナミックな感じです。そして、画面中央下側は、白を基調に様々な色が白に溶解しようとする混沌的な状態に見えます。ひとつひとつのパーツが織り成すこのようないくつかの中心が構成されて、画面全体の最終的な調和に結実しているといえます。しかし、どうでしょう、中央下の白を基調とした部分、一見静かな部分なのですが、左右の中心点と対照的にポッカリと穴の開いたような、その静けさが実は混沌の入り口で現実のフォルムが解けてしまうような様相は、大洪水に呑み込まれてしまうように、現実から非現実に連れ去られてしまうような疎外感を感じさせたりしないでしょうか。そこに底知れる空虚のようなものを感じられないでしょうか。私には、他の部分には様々なパーツがぶち込まれているのに、ここだけがそうでないところに、カンディンスキーの底知れる不安と過緊張をみてしまい、それが、この大作の捉えどころがないながら、緊張感を湛えている原因ではないかと思うのです。

Kandinskycompvii_2そして、次に『コンポジションⅦ』(右下図)です。まずは、お勉強から。『コンポジションⅥ』がノアの大洪水のモチーフから出発したように、『コンポジションⅦ』は黙示録のイメージから出発したと言われています。しかし、作品を見る限りでは黙示録との関連性が直接表わされているというわけではなく、画面では、様々な形、多数の色斑がゴチャゴチャにあるようで混沌への前兆を仄めかしています。しかし、全体としての画面はそれでも秩序を感じさせるものになっています。しかし、その混沌と秩序のせめぎ合いは画面に溢れんばかりの力感をあたえ、中央部では爆発しているかのようです。『コンポジョンⅥ』に比べて、特筆すべきは色彩の氾濫と言えるほどの豊かさと、その色同士の対立と緊張関係です。それは、まさに、これだけ大きな画面ではあっても、跳び出さんばかりの勢いに充ちています。そこにカンディンスキーの現実の具体的世界から飛翔して、現実をこえた世界、そこにはヨーロッパの黙示録的な考え方による神秘主義の傾向がベースにあるのでしょうけれど、現実では考えられない幻想世界に、自らの手が描くということによって、飛翔しようというカンディンスキーの姿勢が見えるような気がします。

抽象絵画という新たな土俵を作ってしまったカンディンスキーはスタンダードという宿命を負ってしまったが故に、後世からみると、彼の後を追った画家たちが彼を物差しにして自分たちの立ち位置の差別化を図ったために、特徴がハッキリしているのに対して、カンディンスキー自身がカンディンスキーであることを示すようなスタイルが定まっていないので、彼の特徴を一言で表すのは難しいと言いましたが、このような作品にあらわれている、現実からの飛翔という感じ、それは具体性がないので、具体的には「何か」とでも言うしかないものですが、それがカンディンスキーの作品の特徴なのでは、それが最も濃厚に表われているのが、この二つの作品ではないかと思います。

2013年9月16日 (月)

カンディンスキー展(3)~抽象絵画へ

ここから、いよいよ抽象絵画の世界へ足を踏み入れます。この展覧会の目玉である、大作『コンポジション6』と『コンポジション7』は、この後で集中的に展示されているので、ここでは、そこに至る作品を見ていきたいと思います。

Kandinskyst_g『聖ゲオルギウスⅡ』(右図)という作品です。聖ゲオルギウスはドラゴン退治の伝説で有名な聖人で、しばしば絵画の題材として取り上げられ、馬上で槍を持って竜を退治するする図像が定着しています。しかし、この作品では馬上から槍で竜を突いた瞬間のゲオルギウスを描写しているということは、下絵や習作を見て研究者たちが突き止めて分っているからいえることで、単に作品を見ただけではわからないと思います。槍を突いた瞬間のテンションというのか迫力が伝わると解説する人もいますが、果たしてどうなのか、それは何を描いたかを分って後でこじつけたようにしか思えません。中央を少し左に傾いて縦に画面を貫く緑色の細長いものが、そう言われればケルギウスの剣のように見えなくもない。しかし、そんなことは考えずに、緑の細長いものが画面を縦に貫くさまを、横に交錯する赤や茶が折り重なるさまを味わうというので、いいのではないかと思います。

前のところで、抽象画は具体的な対象を写生するということを放棄して、何かを描くというWHATの要素を制約と捉え、そこから解放されて、画家は如何に描くというHOWの部分だけを追求できるものとした、という私の捉え方を説明したと思います。ということになれば、私がここでカンディンスキーの作品を見る場合も、WHATを気にすることなく、例えば、ここの作品では『聖ゲオルギウス』といタイトルがありますが、聖人が描かれているとか、その象徴である剣を探すとかいうことは、抽象画にとっては、さほど意味のないことです。それよりも、作品がどのように構成され、色がどのように使われ、というような描かれ方を見ていくということになります。多分、画家の方では、何かを描くということを制約と考えていれば、その制約を取り払い、解放されたところで、思いのままに描くということができたのではないかと思います。だから、それを見る側は、何かが描かれているという、言うなれば意味を考えることなく、直観的に綺麗とか汚いとか、そういうところからみればいいということになる。と理屈では考えますし、そういう見方でしっくりくる画家もあります。しかし、カンディンスキーの作品は、そうではない。それだけでは説明しれない何かがあるような気がします。画面はこうなって、このように描かれている、ということから零れ落ちてしまうような何かが、この『聖ゲオルギウス』という作品も、描き方のきれいさとか、構成の見せ方の上手さとか、そういうHOWだけでは、他の画家に数多のすぐれた作品がありますが、それらに伍して、それらを超えて、見る者に訴えかけるような何か、があります。それが、おそらく、抽象画とか具象とかそんなジャンルのこととは関係なく、実はカンディンスキーの特徴で、私がカンディンスキーの作品を見る時に、一番ひきつけられ、しかも、言葉にできないものであると思います。

Kandinskyblackそして、『黒い色斑Ⅰ』(左図)という作品です。カンディンスキーの黒と言われる表現主義的な黒い色を中心に、色斑と言いますが、黒い太い曲線が植物の蔓のように屈曲したり張りめぐらされる様子は、生命的なものを感じさせもします。

『インプロヴィゼーション34』(右下図)という作品は、前の作品もそうですが1m近い比較的大きな画面に広がるように描かれていた水彩画のような絵の具の滲むさまが色が融合する印象を与える一方で、左右の黒の塊とそこから派生するような黒い線と、それに絡んだり、重なるような赤との対峙に青が空白を埋めるというように色の構成と動きを感じさせる画面になっています。

などと言葉で説明していますが、カンディンスキーの抽象画というのは、抽象画というのはそういうものなのですが、とくにカンディンスキーのは言葉による説明ができなくて、説明しようとすると言葉が出てこないということに陥ってしまうことが多いです。ここでの説明もそうなってしまっています。このカンディンスキー展について述べてきた最初のところで、抽象画を描いた画家というのはカンディンスキー以外にもいますが、そういう人たちとカンディンスキーとの違い、つまり、カンディンスキーの特徴については後述すると述べました。実は、それを、なかなか言葉に定着できないのです。他の画家ならば、モンドリアンなら構成の画家といえばそれで済みそうです。しかし、カンディンスキーは構成もありますが、それだけではありませんし、カンディンスキーならではの構成とか、そういうものがハッキリしません。カンディンスキーの自身はどうだったのか、多分、画家としての自分を売り込むためにも、他の画家とは違うということをまず、マーケットや消費者に理解してもらわなくては存在を認識してもらえないわけですから、自分の個性とか特徴ということは絶対意識していたはずです。近代以降の芸術は、作家の個性を重視しているはずですから。しかし、抽象画という、当時誰もやらなかったことに手を染め、いわば創始者となってしまったわけですから。他にこんな作品を描く人などいなかったのですから、抽象画を描くということは大きな特徴だったということでしょうか。他の抽象画家は、カンディンスキーと同年代の人もいますが、そうでない人も多く、そういう人は、カンディンスキーが創始した抽象画というジャンルに後から参入したということになるわけでしょうか。抽象画という土俵、枠組みをカンディンスキーがつくった。後から参入した人は、その土俵に乗って戦うことになるので、カンディンスキーとの違いを、自分はカンディンスキーではないことをアピールしなくてはならず、そこで個々に特徴を出して行かなくてはならなかった、ということでしょうか。コンピュータのソフトの世界で言えば、カンディンスキーはOSの立場、他の画家はそのOSに乗ってさまざまなソフトやアプリをつくる羽目になったということになるでしょうか。自分がスタンダードになってしまったということで、スタンダートとの距離とか、違いを意識する必要に迫られなかったというところでしょうか。

Kandinskyimp34カンディンスキーと違って、他の抽象画を描く画家たちは、好むと好まざるとに関わらず、カンディンスキーの作ってしまった土俵で戦わざるを得なかった。そのため、カンディンスキーの作った土俵の上で、自分の立ち位置を示す必要に迫られた。つまり、カンディンスキーとどこが違うのかとか、カンディンスキーに対してどうなのかといった具合です。そのため、後世から、私のような何も知らない人間が見れば、カンディンスキーの土俵で戦った人達は個性が分かりやすく見えてしまい、逆に土俵をつくったカンディンスキーは捉えどころがないように映ってしまうのではないかと思います。

2013年9月15日 (日)

コメントをキッカケにして~抽象画を見る

ここ数日、カンディンスキーの展覧会の感想を書き込んでいますが、その中で抽象画に対する私の個人的見解を少しく述べさせてもらいました。詳しくは、こちらを参照していただきたいのですが、簡単に言うと、例えば音楽をプレイしているとそのこと自体が楽しい、絵画を描くということも、そのこと自体が楽しいということです。幼児にクレヨンと紙を与えると、線が引かれることや色がつくということに新鮮な驚きを覚えて、線を引く、色を塗ること自体を楽しそうです。その時に、知ったかぶりをした大人が「何を描いているの」とか聞くことが多いのですが、抽象画はその問いかけを、その背後にある規制のようなものを取り払ったのではないか、そうすることで音楽をプレイしている楽しさを周囲で聴いている人々が感じたように、それまでの絵画では感じることができなかったものを感じられる、ということになっていったのではないか。カンディンスキーにしても、モンドリアンにしても抽象画を始めたという人の作品には、目で見えない、形にならない何かを表現しようというものが感じられるのです。

このことについて、コメントをいただいたのは、生け花のテキストにある「平面分割」を色分けするということで、沢山の線を書き込んだ後で、平面構成において、それらの線の中から大胆に不要と思われる線を消していくということだそうで、そこに抽象の始まりを見たということで、その線を消す際に、不要かどうかの判断は、その人の視点がなければできない、つまり、抽象に視点と言うものが存在する、という内容だったと思います。(私の視点(笑)で引用しました、間違っていたらごめんなさい)それは、私の書き込みに欠けていた、どのようにということから、なぜにということに踏み込んだ鋭い指摘でした。

実際、カンディンスキーの作品を制作年代順に見ていくと、最初は具象の風景画を描いていたのが、徐々に、そこから大胆にいろいろな要素を削っていって残ったものが結果的に抽象画といわれるような何が描かれているのか判然としないようなものになった、というストーリーをつくることも可能です。その時に、コメントで指摘されるようにカンディンスキーによる視点というのが存在していた。それはたしかにそうだと考えられるものでます。

確かに、人間の、というよりも個人の視点が作品と言う世界を作るというのは、当時の人々の考え方がベースとしてあって初めて可能になったと言えます。その人々の考えが突出して表われるもののひとつに哲学と言うものがあります。例えば、18世紀の哲学者にカントと言う人がいます。哲学史の教科書ではデカルトによって始められた近代哲学を一つの体系としてまとめたということになっています。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」ということから、神が全部の根拠ではなくて、我という人間がまず存在しているところから全てが始めようとした。でも、これでは、我が存在するというのは確かだと分かります。しかし、それ以外は?というときに、カントは主観と客観ということに分けて、我である人間が主観として、その人間が見たり聞いたりする対象が存在しているのを客観として、その二つによって世界があると設定して見せました。これは、絵画の世界で言えば、主観は絵を描く画家です。そして、描かれるものは客観で、これを見て、写すことで絵画をつくった、と言うことができる。ただし、カントは言います。客観は存在しているけれど、その真実を主観である人間は認識することができない。(それができるのは神だけだ)例えば私の目前に存在しているパソコンを見るにしても、私が目で捉えるのは一定波長の光(可視光線)であって、パソコンそのものを見ているのではなくて、パソコンに(太陽)光が反射したのを目が捉えているのを認識しているだけ。しかも、認識できる光は限られるので、人間が見えるものと猫が見えるものは違ってくる。ということで、私が見ることができるのは、仮の姿で、それを現象というというのです。だからこそ、そこに個人差も生まれ、画家は対象である客観を写そうとしても、それぞれの画家によって違う作品が生まれるのは、神と違って対象の姿を完全に捉えられない不完全な存在だから、ということになる。だからこそ、完全という理想を求めて画家が腕を磨くということも生まれた。例えば、アカデミーとかの階級もその結果の一つの表れといってもいいでしょう。

一方、19世紀になって、カントを批判的に継承したとされるフッサールという哲学者は現象学という哲学運動を始めます。現象学の現象とはカントが客観を捉えた仮の姿をそう呼んだ現象です。私が見ている現象で十分ではないかと。つまり、私の目の前のパソコンを見ていれば、それを使うことができるし、触ったりするにも不自由はしない。そこで認識できない真実の存在など何の意味があるのか。人間というものは、それぞれの見える範囲(視点)で存在を認識し、それを世界としてそこで生活をしている。つまり、18世紀は存在しているのを不十分ながら認識している、というのだったのを、認識しているから存在している意味があるというように考え方を全く変えてしまったのです。これを極端に推し進めれば、ある視点でとらえるから在りえる、ということになるのです。画家が写実しようとしていた客観の真実の姿なんか存在しない、ということに開き直ることを可能になったわけです。そこで、画家は自分なりに視点をもって作品という世界を創ってしまうこともできることになります。それが抽象画という対象を写すことをしない絵画を生む考えの上でのベースの一つになった。そんな考えを、ブログにいただいたコメントに触発されて考えるに至りました。

 

そして、さらに鋭いコメントをいただきました。引用させていただきますと、例えば、グループ展を企画するとします。 作業を進めながら幾度となくお互いの頭の中にある作品像が同じであるかどうか確認を繰り返します。そこで「横長の作品」を制作するとお互い納得づくで作業を始めても皆が同じ作品像を思い描いているかというと、案外そうでなかったりします。このように相互の認識にずれがあると、存在意義がなくなるということかもしれません。前回にもまして鋭い指摘をいただきました。

そうです、紹介したフッサールのいうような視点ということを強調すれば、個人の視点はそれぞれ違うのだから、みんながバラバラの視点をもてば、共通のものが無くなってしまうではないか。しかし、現実にはみんな共通の地盤の上で生活している。それは矛盾ではないのか、ということで、件のフッサールもその問題にぶつかって悩みに悩んで、それまでの自身の業績を全否定して、晩年の思想を一から構築することになります。ご指摘いただいたコメントはむ、作品の共同制作を例にしていますが、これは作品を作る人と鑑賞する人との間に、共通するものがなければ、たとえ誤解に基づくものであっても、共感とか感動とかいうものが生まれないことになりかねません。バルザックという19世紀フランスの小説家に『知られざる傑作』という作品がありますが、理想を追求して究極の作品を追い求めた画家の苦闘を周囲の芸術家仲間が見ると言う作品です。しかし、その画家が命をかけて残した作品を、周囲の人々が見たときに何だかよくわからないものだった、という懐疑的な結末になっていますが。では、話を戻して、件のフッサールは、どういうことを考えたかというと共同主観ということを言います。端的に言うと、それぞれの人が視点を、それぞれにぶつけ合って、そこに共通するものを見出したり、互いの違いを認識し合ったりする、その結果、生活のベースとなるような共通のものが生まれるといいます。ただし、これは一枚岩のようなものではなくて、様々な局面でそれぞれに形成され、様々な共通なものが様々に織りなすことによって形成されるのが共同主観だと言います。もともと、人間の視点というのは最初から個人の中で独自に形作られるものではなくて、人々との共同生活の中で育てられ作られるものだから、人々がそれぞれに全く違う視点を別々にもつということは実際上ありえない。

実際のところ、抽象画とかカンディンスキーとか言っても、難解だとかいって見向きもしない人もたくさんいます。ある意味、客観的な存在があって、それを人々が認識できるということをやめてしまったことから、すべての人に受け入れられるということは、絵画では考えられなくなったのかもしれません。それはそれで、様々な人が、それぞれの好みで、様々に絵画やその他を楽しんだり、差異を愛でるということで、私は共通していたり、違うところがあったりで、観る方は楽しんでいます。

また、視点というのは必ずしも固まったものではないと思います。最初にいただいたコメントのなかで、視点に基づいて不要なものを削っていくという話がありましたが、これとは逆に、視点によって新たな可能性が加わることもあります。例えば、音楽を聴くとき、視点によって聞こえなかった音が聞こえてくることがあります。私はクラシック音楽を聴くことが多いのですが、バッハの作曲したパルティータという鍵盤楽器のための曲集が好きで、よくCDをかけて聴いています。その曲集を演奏した中に、アンドラーシュ・シフというピアニストが若いときに録音したCDがあります。私は、ピアノの豊かな残響を捉えた響きの美しさを愛好していたのですが、ある人が、シフの工夫について教えてもらったところ、いままでその音が聞こえていなかったことに気が付きました。それは、パルティータ第1番の最後の部分で、たった2つの音によるフレーズを何度も繰り返して、そのリフレインが軽快なリズムを作り出して愉楽的な盛り上げをつくっていくところを、シフの演奏では、そのフレーズを単に繰り返すのではなくて、最初に出てきたところと、2回目に出てきたところではアクセントをずらしたり、フレーズとフレーズの間の休止の長さを少しずらしてみたりして、工夫をすることで、まるで、そのフレーズが何人かいて掛け合いをしているような弾き方をしているのです。そのことによって、単なるフレーズのリフレインによる機械的なリズムではなくて、複数の人がいて会話をしているような生き生きとした楽しい時間が作られているのです。それに気づくと、その部分を何度聴いても、その度に違ったように聞こえてくるのです。そして、シフというひとは、そういう工夫を至るところで行っていることに徐々に気づき始め、バッハの音楽の豊かな可能性を改めて発見することができました。ほんの些細なことなのですが、私は、その人に教えてもらうまでは、それを聴くことができなかったのですが、その人に視点を教えられることで、今まで聞けなかった音を聴くようになった。というわけです。

だから、このブログの中でも、絵画のことを書き込むときは、敢えて、この作品はこうなってああなってという説明を記述することにしています。見れば分かるという人もいますが、私には、こう見えていると見えている内容を記述することで、もしかしたら、私がアンドラーシュ・シフのピアノに今まで聞かなかった音を聴いたように、それまで、作品を目の前にしても見ていなかったものを見るキッカケにすることがあるかもしれない、と考えているからです。

 

ブログの書き込みにコメントをいただいたのが、ありがたくて、興が乗って、少しく生意気なことを書き連ねたかもしれません。私の読むのに疲れるブログの記事に辛抱強く付き合っていただいて、真摯なコメント何度もいただいた、ひつじさん、そのほか、おつきあいいただいたり、コメントを寄せてくださる方に、いつもありがとうございます。

2013年9月14日 (土)

カンディンスキー展(2)~始動と飛躍

ここで見たのは、抽象絵画というものをカンディンスキーが発明し、意識的にそういう作品を描き始める前の作品です。

Kandinskyguここで、断わっておきたいのは、カンディンスキーが抽象絵画を発明したというのは、彼が最初に抽象的な作品を描いたということではないのです。彼以前に、そういう絵画を描いた画家は沢山いたと思います。例えば、晩年のモネやターナーの風景画は形象が曖昧になって、すべてが靄に包まれ、色彩が散りばめられているのが目立つという、限りなく抽象画でした。しかし、それらの作品は抽象的な要素はあるけれど抽象画とは言われません。どうしてそうなのか、というと画家本人が、そう主張しなかったからです。(笑)モネやターナーは具象的な対象を描いているうちに結果的にそういう作品を描いてしまった。だから、本人には抽象画という意識がないのです。これに対して、カンディンスキーは結果としてモネやターナーと同じような作品を描いたとしても、それを抽象画として位置付け、そう主張した。それで、見る側も、そういうものとしてカンディンスキーの作品を見るようになった。いわば、抽象画という概念とか、それを特別なものとして見るということを、つまり制度を、カンディンスキーがつくったという、それが抽象画を発明したということです。少なくとも、私はそう考えています。

そうなると、カンディンスキーの軌跡、とくに抽象画の作品群を生産し始める前のカンディンスキーの作品に関しては、抽象画に辿り着く前に、様々な試行錯誤をしていくという位置づけが、この展覧会でもされていたようです。しかし、上のような考え方でいけば、すでにカンディンスキーが抽象画を描くことに辿り着く、というよりもすでに彼は、そういう要素の含み込んだ作品を描いていて、それを自覚して抽象画として意識するまでの軌跡ではないかと考えています。それは、そういう見方でも、ここに展示されている作品を見ることができるからです。というよりも、具象的な風景等を描いていた画家が、徐々に抽象的な作品に変貌して行ったというようなストーリーは、展示作品を見る限りでは、そのプロセスがハッキリしないのです。

.ミュンヘン1986~1907年─始動

Kandinskymoon最初は画家を志しミュンヘンに留学したときということで、習作に近い風景画と象徴主義的な版画が展示されています。一人の画家が描いたとは考えられないほど、別種の作品のように見えますが、習作期であることや、生活の糧を稼ぐということでしょうか。『グースリ弾き』(右上図)というロシアの民族楽器を弾く人物と、それを聴く女性という二人の人物の登場する版画は、アールヌーボー的な装飾がされていたり、ロシアのイコンのような様式化がされていたり、とくに上部の鳥は様式化されて装飾の中に埋もれてしまうように形象の存在が希薄化されています。また、『月夜』(左上図)という作品では、月夜というのに三日月は半分しか描かれておらず、暗い青で突き出た島の断崖と中央の海竜が影のように描かれ、それらが単純なパターンのようで、夜空の群青のなかで輪郭は融け込むように曖昧化され、群青の暗さのグラデーションの中で、星の黄色い点と島にへばりつくような建物の白い壁と竜の白い斑点模様と、月の光を反射して黄色く光る海面の図案化された対立関係ばかりが目立つ作品になっています。これらの作品は、カンディンスキーの習作期の作品だからとして見れば、なるほど後に抽象画を描くことになる萌芽が見られる、とみなすこともできます。しかし、そういう前以て、知識を持たずに見て、そういう画家が描いたものと判別することはできないと思います。そういう視点で探せば、慥かに、後世の萌芽の要素を見出すことは可能でしょう。しかし、とくにカンディンスキーの作品であると、他の画家の作品との際立った違いが果たしてあるのか、と考えると、この時点では、カンディンスキーに限らず、他の画家でも抽象画の元祖になり得る可能性を持っていた、と私には考えられるのではないかと思います。それが、この時期のカンディンスキーの作品を見て感じられたことです。

.ミュンヘン1908~1910年─飛躍

Kandinskymur2カンディンスキーはミュンヘン郊外のムルナウに腰を落ち着け、風景画を描き始めます。いわゆる「ムルナウの時代」です。その風景画に関して、カタログでは“以前、版画やテンペラで行っていた象徴主義的な表現と、戸外での油彩スケッチというふたつの系列を総合する試みであり、原色の、光を発するかのような鮮やかさと、対象の輪郭をなぞる黒との強いコントラストによって、あくまで実景描写でありながら、非現実感の漂う彼岸的な雰囲気を帯びている。黒は陰影としてではなく、独自の性格を帯びた色彩として用いられながら、画面を線遠近法的空間から解放し、平面上のすべての点の等価性を高める担い手となる。マティスの絵画に頻出する黒の意味深長さをも連想させる彼の黒い輪郭は、やがて黒い線として対象から離脱し運動し始め、その抽象絵画の形成においてきわめて重要な役割を担うことになる。”と難しく説明されています。

Kandinskymur1では、作品を見てみましょう。『ムルナウ─城の中庭Ⅰ』(右中図)という作品です。カンディンスキーはパレットナイフで絵の具を塗りたくったらしいのですが、絵の具が、しかも原色が厚く塗られているというよりも、絵の具のかたまりが置かれている感じです。その印象が強く、まるで塗り絵です。画面構成とか、スケッチとかは厚塗りの絵の具に隠れてしまった感じです。その代わりに絵の具の原色が目立って、その色と色の緊張が前面に出ています。こうなると、風景画とは言いながら、風景という題材に塗り絵をして、色の鮮やかさと、その対立で各色が際立たせられて鮮やかになっているのを見てくれ、とでも言っているようです。真ん中の黄色い三角形は、実景では奥に位置する城ではないかと思うのですが、奥行が感じられなくて、平面的に絵の具が塗りたくられ、城という感じもしなくなりました。単なる三角形に近い感覚です。城とみれば、城に見えてきますが、そういうものとして見なければ三角形です。というように見てみれば、抽象画に近い所にカンディンスキーが来ていると、抽象画家カンディンスキーを見に来た人は思ってしまうでしょう。もうひとつ、『夏の風景─ムルナウ』(左中図)という作品では、黄色と緑と輪郭の黒が厚く塗りたくられた塗り絵です。黄色と緑が目立ちたがり競争をしている中で、黒いが輪郭線を太く引いて領域区分をしているという作品です。強い陽光を連想させる黄色の存在感が「夏の風景」というタイトルと相俟って、夏という季節感を感じないこともないですし、構図も風景画としてスタンダードなものですが、風景なんぞは二の次というのか、色を強烈に配置することが第一で、そのための設計図として風景画の構図が援用されている、というと言い過ぎでしょうか。これらは、あのカンディンスキーの作品だから、という視点でみると、そう見られてしまいます。でも、カンディンスキーがこれらの作品に「インプロヴィゼイション」とか「コンポジション」とか言ったタイトルをつければ、そういうものとして見ることもできる作品ではあると思います。

Kandinskycrinolin『クリノリン・スカート』(右下図)という作品では、先に見た二つの作品が形象が単純化されて絵の具が塗りたくりやすくなっていたのに対して、シンメトリーな構図が様式化されていて、構図が絵の具の塗りたくりより目立つような印象です。それだけに、却って邸宅の庭園とそこでのパーティーに出席している婦人たちの存在は限りなく希薄で、その形象の輪郭だけになっています。一人一人の婦人個人が描かれているのではなく、婦人の輪郭が画面にあって、そこに別々の色が塗られているというものです。しかも、ここでは、先の二作品に比べて、色の選択が現実に捉われないで、画面を生かすために必要な色を選択することが優先されています。だから風景を連想される色から、画面を構成させる色へと、色彩の意味が変わってきていると言えます。

Kandinskyimp4そして、『インプロヴィゼーション4』(左下図)という作品です。インプロヴィゼーション(即興)というタイトルのつけ方からして、具体的に何かを描いたのではないということを伝えているではありませんか。即興的に描いてしまったのだから、後は見る方で勝手に想像しろというわけです。ジャズの即興演奏を聴いて、聴衆は自由気ままにしていればいい、というのに似ているかもしれません。こういうことを考えたカンディンスキーというのは、かなり戦略的に抽象画というものをアピールして定着させようと考えたのではないでしょうか。効果的なPR戦略ではないかと思います。とはいっても、この作品を見ていると、今まで見てきた風景作品と程度はかなり進んでいますが、基本線は先に見た作品と変わっていないのではないかと思います。この作品を見ていて、何となくもとの、現実の形を想像できてしまうのです。カタログでは“「インプロヴィゼーション」とは、作者自身、主に無意識的な、大部分は突然に成立した、内面的性格を持つ精神過程の表現であると言っている。しかし、その定義とは裏腹にカンディンスキーのインプロヴィゼーションは作者の内面的なイメージを素早く描きとめたものではなく、素描やスケッチなどの習作を通じて入念に仕上げられたものなのである。本作品では、対象の形態は、ほぼ完全に色彩に還元されており、黒い輪郭線で分節された色彩による構成の中に埋没している。しかし、カンディンスキーは、わずかにモティーフの痕跡を残すことによって、まさに抽象と具象とがせめぎあう緊張を画面に生み出した。垂直と水平を軸に組み立てられた堅牢な構図であるが、そこに動きを与えているのが、色彩がそこかしこで織り成す衝突と融合であり、また全体に施された絵筆のタッチなのである。”と丁寧に説明されています。例えば、真ん中の深い緑は樹木のようですし、右隅の真ん中は雲のようです。そう見るとペースは風景を現実とは関係ない色の絵の具を塗りたくって、しかも筆跡を大胆に残したりして変化をつけて、一見、何が何だか分らないようにしています。いかにも、何かを描写したのではないように見えるようにしている、というわけです。実際のところ、意識して何も描かないで絵画を描くというのは、それまでの常識的な画家の修業をしてきた人にとっては、その修行に疑問を抱いていたとしても、そう簡単にできることではないでしょう。でも、ここでカンディンスキーはインプロヴィゼーションと宣言するということで、自らを抽象絵画に押し出そうとしたのかもしれません。『インプロヴィゼーション7』(下図)という作品では、ベースとなるものが判別できなくなってきました。

Kandinskyimp


2013年9月13日 (金)

カンディンスキー展(1)

昨日まで、カンディンスキーが抽象画を始めるまでに焦点を当てた展覧会の思い出を書き込みましたが、続いて、2004年4月28日 東京国立近代美術館で見た、カンディンスキー展のことを思い出して書き込みます。

Kandinskypos抽象絵画というのを始めた人。今までなかった抽象的な画面を発明したとか創り出したとか、色々なレッテルがあって、難解とかいうことになっている人です。美術史では、すでにピッグネームに入っているはずなのに、西洋美術館ではなくて、近代美術館で展覧会が開かれる(別に、二つの美術館で棲み分けをしているわけではないでしょうが)というのも、何となく、カンディンスキーに対しての美術業界の一般的イメージがあると思います。かりに、同時代のピカソ展だったら西洋美術館で開催したのだろうなと思ったりします。

私も、それに引き摺られているところがないとは言えません。というわけで、ここで、ちょっと身構えて、抽象画に関する個人的見解を少しく述べたいと思います。

ひとつは、絵画と意味ということに関わることです。「意味」などというと、深く考えていくときりがかいので、取敢えず具象(この言葉は抽象絵画というものが生まれたことから、抽象絵画への対立概念として創り出されたものです。だから、抽象絵画が生まれる前は、だれもこんな言い方はしなかった。そもそも絵画は全部、具象だったからです)の作品を見る時に、そこに“何が描かれているか”ということを特に意識して考えることもなく、それを前提に見ると思います。そのことと思ってください。テーマとか題材とか、絵画鑑賞を真面目にするときに出てくる大層なタームまで行くものではありません。そんなものではなく、単に、“何の絵だ”というもので、人物が描かれているとか、風景画であるとか、そんなものです。幼稚園で、おえかきの時間に無心にクレヨンをはしらせる園児に話しかける時、「何を描いているの」などと、とくに考えるわけでもなく訊くと思います。だから、自然と絵画を見る時に、“何の絵だ”とか“何が描かれている”とかいうことが意識することもなく前提にしてしまっている、それを意味と、ここではいうことにします。これは、何も絵画を見るということに限ったことではなく、私たちが見るということをする時には、“何を見る”というように対象を特定します。だから、見るということをする時に、必然的についてまわることです。だから、絵画というのは意味ということと切り離すことはできない。というのが、普通の一般的な絵画の見方ではないでしようか。しかし、そうなると私たちが見るのは、全て意味ということになります。私たちは自分の外側を認識するのには主に目で見るということをしますから、そうであれば、私たちの周囲は意味で充満しているということになります。意味ばっかりです。普段は、そんなことは感じないかもしれませんが、いったん気づいてしまうと息がつまるような気がしませんか。そんな時に、目で見るのは別の感覚器官を考えてみて下さい。例えば耳です。耳は何かを聞くというのではなくて、ただ聞こえてくるのです。対象を特定しないしできないのです。ただ、聞こえてくる音を分析して、その中で“これは何の音だ”と認識することはあります。しかし、眼と違って対象を特定することはできないのです。それで耳で聞く芸術である音楽というのは、とくに“何の音”というのは音楽そのものを聴く前提にはならないのです。つまり、見るということについて回る意味というものがないのです。(但し、人によっては意味を求める人もいます。)だから、そこで流れてくる音楽に乗るとか浸るとかしてればいいのです。だから、疲れた人が音楽を聴くことでリラックスして、再生するということがよくあるのです。絵画に同じような効果を求めるということは、あまりしません。そういうことを考えたうえで、抽象絵画というものを見ていくとどうなるか。まず、意味“何の絵”であるかということが見る方は分かりません。多分、そのことが抽象絵画が難解だといわれることになるのでしょう。なぜなら、とこで普通は私たちは“何の絵”として見るのが、その何が分らないからです。しかし、ここで逆の発想として“何の絵”か分らないから、それを前提として見るということを放棄してしまったらどうでしょうか。つまり、さっき触れたような音楽のように接してみることはできないでしょうか。そのとき、私たちは周囲に充満する意味を切り離すことが可能となるかもしれません。かえって“何の絵”と意味づけるという重さから開放されて、気楽に、リラックスして見るという可能性が開けるかもしれません。

二つ目は、子どものお絵かき遊びで、特に“何の絵”というわけではなく、こともがクレヨンをもって白い画用紙の上を好き勝手に(たいていはゴチャゴチャ)に線を引いて、楽しそうにしていることがあります。子どもにどうして楽しいかを訊いても、本人も分らないでしょうが、こちらが考えてみると、そういう身体の動きをする、つまり運動をすること自体が快感であること、また、白い画用紙を汚すことが楽しいのかもしれませんし、線を引くことで白い画用紙が変化していくのが面白いのかもしれません。いずれにしても、“何を描く”ということとは無関係に線を引くとか描くというのは実は楽しいことかもしれないわけです。抽象絵画は、もしかしたら、そういう楽しさ、絵画鑑賞などといって切り捨てられてきた面白さを、取り戻すことができるのではないか。そして、この好き勝手に線を引いた子供が、出来上がったものを“何の絵”とはいえないですが“美しい”ということはできるのです。それは、先に触れた音楽もそうです。そうであれば、“何の絵”でなくても、単に眺めて美しいと思うことはできる。というよりも“何の絵”と意味で特定するというのは理性の働きです。その“何の絵”というのがなくて理性の働きというのが働かないと、あとは純粋に感性が働くだけです。つまり感覚的な世界、感覚的に快かどうかということだけです。そう考えると、抽象絵画は決して難しくはない。むしろ、理性を働かせて意味を特定しなければならない、具象の絵画の方が実は難しいということも可能です。私たちが、それを難しいと思わないのはいつもその作業をやっていた、その作業に習熟しているからです。いわば、みんなエキスパートだからなのです。

そして、三つ目です。これは、今までみたことと矛盾するようなことです。それは、カンディンスキーやその他モンドリアンとかロスコといった抽象的な作品を主として描いた画家たちの作品を見ていて、私が、強く感じたことです。このような画家たちは、普通に見えること以上のことを絵画の画面に入れ込もうとしたのではないかと、作品をみていて感じるのです。私たちの周囲には目で見えること以外にたくさんのことがあります。それは、感覚的なことで言えば、音、臭い、触れて分かること、味等が代表的なことです。それで感覚できる広大な領域があります。その他感覚できないもの空気とか雰囲気とか。それだけでなく、感覚できないもの、人の感情とか、思いとか、それ以上に人も分らないようなこととか。これらを、従来の絵画では目で見える意味というものに縛られて、そういうものを描くということはできなかった。これまでに、それを試みた画家は数多くいたと思います。例えば比喩的な手法を活用するなどしたとか。しかし、意味というものが足枷となって、どうしても比喩をうまく用いても副次的な効果を生むのがせいぜいのところです。さきにあげた画家たちは、それに飽き足らなかったのではないかと思います。そこで、たどり着いたのが足枷を外すということです。だから、この人達は神秘主義的な傾向が実はあったりします。そういう点では、作品の背後をいろいろ追求していくと、作品の表面に隠されたものがたくさんあって、それは具体的な形を持ったものでないので、こういうものだと明確ではないのですが、感覚で何となくそうかもしれないという何かがあるような雰囲気を感じることができるのです。こんなことをいうと誤解されるかもしれませんが、感性の宝探しのような面白さがあるのです。

以上3点が、私が個人的に抽象絵画を比較的好んでみるポイントです。

それで抽象絵画を好むことは分ったけれど、その中で、カンディンスキーはどうなのか。何も描かないということになるとカンディンスキーとモンドリアンの違いというのは、どのように表われて、でカンディンスキーはどうなのかということも、この後、述べなければならないことです。これについては、この後、追々作品に触れながら、カンディンスキーの特徴に交えて、お話ししていきたいと思います。

それを踏まえて、これから展示されたカンディンスキーの作品について述べていきたいと思います。

今回の展示は、カンディンスキーの軌跡に沿って次の6つの局面で為されていました。

.ミュンヘン1986~1907年─始動

.ミュンヘン1908~1910年─飛躍

.ミュンヘン1911~1914年─抽象絵画へ

.ミュンヘン1913年─コンポジション、大いなる総合

.モスクワ1914~1917年─内なる故郷

.モスクワ1918~1921年─絵画と社会

2013年9月12日 (木)

カンディンスキー&ミュンター 1901-1917展(4)

.カンディンスキー─抽象への道

Kmimp『インプロヴィゼーション6』(右図)という1909年から1910年にかけての作品です。カンディンスキー自身が「インプロヴィゼーション」という言葉について、「印象」や「コンポジション」とともに語っています。それによれば、「印象」は外的自然から受けた直接の印象が、素描的・絵画的な形態をとって現れるもの。「インプロヴィゼーション」は内面的な性格の事象が、主として無意識に、大部分は突然成立した表現。つまりは内面的な自然の印象。「コンポジション」は「インプロヴィゼーション」と似たような仕方で、極めて徐々に、作者の内面で形づくられる表現で、しかも作者が最初の構想に従って検討し、練り上げるものだということです。

制作年代をみれば、前回で見たムルナウの風景画と同じ頃のものです。つまり、カンディンスキーは、前回で見たように風景画を描いてから、更にもう一歩という段階を踏んで、抽象画に至ったのではないということです。このような抽象的な作品を描く、そのまた一方で抽象的な比重が高くなっている風景画を描く、その両方を同時併行で進めていたということになると思います。カンディンスキーは、はそれぞれで試しながら、表現を手探りで展開させていったということでしょうか。

この作品では、二人の人物と左背後の白い壁がそれと分かる形態を持っています。しかし、人物には表情はなく、どういう人なのかは分らないようになっています。左の人物の緑の頭と赤の顔、これに対して右の人物の緑の顔と赤い頭の対比。また右の人物の青い服と、左の人物のマントの裏地といった色彩の対比や二人の人物のあいだの曖昧な形のみられる融合のさせ方はかなり考えられている、という教科書的な説明でした。

このあと、カンディンスキーは、多数の「インプロヴィゼーション」を制作し、大作の「コンポジション」を制作、第1次世界大戦の勃発までの間、創作の絶頂期を迎えます。

この後の『コンポジション』等の作品は、後の国立近代美術館での「カンディンスキー展」で見ることができました

そして、第1次世界大戦により、カンディンスキーは、ロシアに帰国を余儀なくされ、ミュンターと別れることになります。

最後に、展示されていた中で、ミュンターの作品を数点貼り付けておきます。

Kmmeditation

2013年9月11日 (水)

カンディンスキー&ミュンター 1901-1917展(3)

.ムルナウとミュンヘン

カンディンスキーにとって、長い旅行からミュンヘンに戻り、その近くもムルナウという土地と出会ったことが大きな転機になったことが分かります。そこで、カンディンスキーは画風を大きく転換します。

Kmmurnaustreet『ムルナウ─村の道』(左図)という1908年のムルナウに居を定めて間もないころの作品です。ここでの大きな変化はペイティングナイフを絵筆に持ち替えたことだそうです。私などは、そう言われればそうかもしれない、という程度でしかないのです。この作品を見る限りでは、点描のように絵の具を置いていくような描き方がされていますが、ナイフではできなかったような、軽さと細やかさが生まれている一方で、建物の輪郭や窓が黒い線が伸びるように描かれているのは、絵筆を使ったが故に出来たかことかもしれません。しかし、それ以上に見た目にも、ハッキリわかる違いは、色彩が派手になったことです。この作品では、オレンジ色が基調となって、家の壁、道路、左手の木になっている実、そして雲までも、これと家の輪郭や影の黒と対照するように描かれていて鮮烈な印象を受けます。以前は曖昧にぼかされていた輪郭線が、むしろ力強く登場し、細部の単純化が進み、以前には残っていた陰影も単純化が進む中で次第に感じられなくなってきています。後世からの、今だから言えるという見方かもしれませんが、この時、例えば色遣いにしても、自然の事物に固有のものという考え方から徐々に離れていったようにみえる、つまりは、自然をありのままに写し取るという、という写生の姿勢から離れていった、多分彼ら自身の言葉で言えば、解放された、という言い方になるのでしょうか。そして、多分、彼らは、それ以上に、内なるものとか、事物の本質を感じ取るとかいう言い方をするのでしょうが、それへの一歩を踏み出し、それを自覚し始めたのではないか、ということなのです。

このとき、ムルナウで共に活動をしたアレクセイ・ヤウレンスキーという画家がゴーギャンやフォービズム等を紹介し、クロワゾニズムという、黒い輪郭線で取り囲んでモチーフを単純化し、その輪郭線で囲まれた中を平坦な色面にすることで画面を再構成して、対象を均一な色の平面に還元してしまう手法を、彼らに伝えたと言います。

Kmmurnaugarden1910カンディンスキーは、視覚で捉えたわずかな基本要素を画面に還元させることを追求し、自然の光景から次第に離れていくのが、この時期の風景画を見ていると、よく分ります。『ムルナウ─庭Ⅰ』(右図)という1910年の作品です。庭の地面と木々の茂みは、茶色と緑の、輪郭のハッキリしない色斑となって、画面の中央を占めています。それを取り囲むように、前景の左に小屋、右にヒマワリの花、遠景の左に家形、右に教会という比較的識別しやすいモチーフが描かれています。この中でも、左手の小屋は実際の色とは違って、画面構成の必要から緑、赤、青に塗り分けられ、全体として赤、青、黄、緑の鮮やかな色彩は、例えば赤と赤、あるいは青と青が、それぞれ画面の中心に対して点対称の関係を作るように配置され、それによって均衡が作られている、といいます。このように、形態と色彩の両面において、大胆な変形がくわえられ、もはや写生の姿勢は影をひそめ、彼ら自身の言う本質を追求していく方向が表われています。

Kmmurnauwithachurch1910『ムルナウの教会Ⅰ』(左下図)という1910年の作品です。さっきの『ムルナウ─庭Ⅰ』に描かれた城館と教会のある風景から出発して、大きな飛躍をどけた作品だそうです。最初に描きこまれたのは城館と教会の塔の輪郭を表わす線のうち、城の輪郭線が色斑の中にほとんど埋没してしまい、これに対して塔の輪郭線は残されて、この作品を貫く支柱としての役割を果たしている。その線は、引き伸ばされた塔の形態を際立たせ、やや右に傾いた強い上昇の力を示すことによって、画面全体に動きと緊張感を与えています。このような線のエネルギーと、それによって表わされた象徴的モチーフとしての塔は、境界があいまいで混沌とした色斑の群れに、精神的な次元で内容をもたらしている、といいます。まるで、教科書でお勉強しているようですね。そうでもないと、辛うじて何らかの形をしていると分かるのは中央右手の塔と左手の家形だけです。あとは色のかたまりが大小様々が斑点のようにあるだけ、という作品で、何が精神か、何が本質か、というところでしょう。だからこそ、色による画面構成のバランスに気を使っているのでしょう。その中で、塔の形が楔のように(まさに塔は楔の形にも見える)が具体的な形態を残していることで、周囲と異質な感じで、それぞれが相容れない感じを与え、異質な二つの要素が同居とした居心地の悪さが、見る者に「あれ?」と思わせる。そういうちょっとした違和感が、見る者を立ち止まらせ、なんだろうと考えさせる、と言ったら言い過ぎでしょうか。

そんな託宣を垂れるよりも、白と青の二つの色の流れを見ているだけ、なんとなく清々しい感じなる。こっちの方が、私の正直な感想です。そういう動きを想像させるところがカンディンスキーの魅力でもあるのです。

これはもう、ほとんど抽象画です。

2013年9月10日 (火)

カンディンスキー&ミュンター 1901-1917展(2)

.プロローグ─出会い

Kmachtyrkaカンディンスキーは1896年に画家として出発するためにミュンヘンに出てきます。1901年に「ファーランクス」を結成し、附属の美術学校の教師となりました。そこの生徒として、ミュンターは1902年にカンディンスキーの絵画教室に参加したといいます。このころ、カンディンスキーは、ペインティングナイフだけでミュンヘン郊外の風景を制作していました。「小さな油彩スケッチ」と彼自身が呼んだもので、『アクチョールカ─秋』(右図)という作品もその最初のころのものです。輪郭線を消し、ペインティングナイフを当てて絵の具をうず高く盛り上げてマチエールのように残していく技法は、例えばゴッホが燃えるようなひまわりの作品などで多用した技法です。筆で絵の具を塗った場合と違って、絵の具が厚く盛り上がり、それ時代の存在が主張される、つまりは単に画面の道具としての色ということから、絵の具時代が物質として存在している。また、絵の具で塗るような絵の具の伸びはないため、彩色がぶつ切りのようになった結果、色は「つぎはぎ」のようにポッテリした絵の具の塊が画面のあちこちに点在することになります。その結果一度描かれている対象がバラバラに解きほぐされるような印象になります。この作品でも手前の水草は縦の線でグリーン系統の絵の具が盛られ、それが水草の茎と葉を辛うじて連想させますが、グリーンの塊のようです。その上の部分の池の水面は横方向に絵の具が盛られ、というように、ペインティングナイフの盛る方向と刻み、そして色によって画面が構成されて、かろうじて風景で分かりますが、輪郭は曖昧になってきているのがわかります。

Kmsluice『水門』(左図)という作品では、手前の土手の緑と土の茶色水面の黒、奥の森の黒が、それぞれ色のブロックのように区分分けされて、そこを小刻みにナイフで絵の具を盛っていて、それが画面の陰影をつくり、風景であることが分かるようになっています。

この方式をさらに発展させていくと、後年のムルナウの風景画のようなものになっていくのが、あとの作品を見ているだけに想像できます。そういう意味で、これらの作品は、あくまでそういう作品に至るということが分かる資料的価値のほうが高いと思います。

.カンディンスキー─メルヘン的な絵画

カンディンスキーは「小さな油彩スケッチ」と並行してテンペラや水彩、そして多色木版による作品を制作し、自らそれらを「彩色ドローイング」と呼んだそうです。「小さな油彩スケッチ」が風景を題材としていたのと対照的に、「彩色ドローイング」はドイツやロシアの騎士道や民話的な題材をとりあげメルヘンチックな作品を制作しました。

Kmbride『花嫁』(右下図)もそのひとつで、褐色のボードの上に小さな色点や色斑をモザイクのように配しておいていくように絵の具を塗るのは、「小さな油彩スケッチ」で絵の具をナイフで塊のように置いていくのと、相通じる手法でしょう。色のかたまりのようにして、形態に色付けするというのではなくて、色じたいがひとまとまりとして独立して存在しているかのようなあり方です。花嫁の足もとの草花をまるで宝石のきらめきのように細かな色点を配し、花嫁の衣装の柄も大き目の色斑で構成させているのは、色の点の大きさだけで、草地と花嫁の衣装という二つの領域を区別しています。その上の中景は緑の横線で岡が描かれ、奥には教会が横線で構成されています。左端の縦欄の白樺、楕円の雲が浮かび、その余白を埋めるように空の青がべったりと塗られています。一見メルヘンチックですが、動きはないし、主役である花嫁に表情はなく人形のようです。全体として青系統の寒色が基調になってヒンヤリとした印象を受けます。タイトルで『花嫁』と言ってもらわなければ、そういう感じがしない、そういう作品です。

『商人たちの到着』は、『花嫁』の手法を精緻に徹底させたものです。まるで点描のような作品は、画面全体の平面的な印象、というのか色が前面に出てくる印象がさらに強まりました。絵画というよりモザイクに近いのでしょうか。何かを描いても、そのせいか、その何かが判別しにくくなってくる傾向を、そういう手法が促進させているかのようです。

.長い旅行

Kmmunterカンディンスキーは『ガブリエーレ・ミュンターの肖像』(左下図)を描いています。カンディンスキーも、こういう肖像画を描けるのだ、というちょっとした驚きはあります。カンディンスキーとミュンターのラブストーリーということに焦点をあてれば、意味ありげで、そういう興味をもって眺めることができるかもしれません。そういう視点で眺めることを否定するつもりはありませんが…。

2013年9月 9日 (月)

カンディンスキー&ミュンター 1901-1917(1)

かつて見に行った展覧会のことを思い出して書きたいと思います。

Kmbook1997年1月 セゾン美術館

かつて、池袋駅東口のパルコ・ブックセンターの建屋にセゾン美術館がありました。当時の西武百貨店はパルコを傘下に文化の最先端を牽引する存在で、パルコのテレビCMにウッディ・アレンが出たり、糸井重里の宣伝コピーが一世を風靡したり、渋谷駅周辺のパッとしない地区にパルコを建設して公園通りとして文化の発信地にしてしまったり、と。その一環としてセゾン美術館がありました。主として20世紀芸術や現代アートを中心に盛んに展覧会を開いていました。デパートの美術館というのは景気の良かった当時、高級イメージをアピールするのと客寄せの効果もあって各デパートにありました。といっても、セゾン美術館以外では人気のある印象派を中心に展示していました。それに対して、なじみの薄い現代芸術を中心にデパートが美術館を作ってしまったのですから、贅沢な時代だったと言えます。

当時の私は転職した会社にようやく慣れて、生活が安定し始めたころで、休日に美術館に出かける余裕が出てきた時期でした。

この展覧会は、“カンディンスキーが20世紀における最も偉大な芸術的成果といわれる「抽象絵画」の追求への道を歩み始め、『青騎士年鑑』を編集し、その主催による展覧会を組織するなど活発な活動を繰り広げたこの時期は、「ファーランクス」美術学校での教え子であり、のちに表現主義の画家となるガブリエーレ・ミュンターと行動を共にする時期と見事に一致します。カンディンスキーとミュンターは、ミュンヘンで出会い、何年にもわたるヨーロッパやアフリカへの旅行ののち、1908年にミュンヘン南方の小さな村ムルナウに落ち着きます。ことにその年から第一次世界大戦が始まり二人が引き離される1914年までの時期、彼らの芸術活動はお互いに、また友人たちからも刺激を受け、さらには同地のガラス絵などの民衆芸術から尽きせぬインスピレーションを得て、各々の個性を豊かに開花させました。本展は、出会いから別離まであたりの生活と画風の変遷に焦点をあて、相互の影響関係、その変貌の源泉、民衆芸術との関わりや抽象絵画誕生の背景を探ろうという展覧会です。”という主催者のあいさつにあるような趣旨です。カンディンスキーが抽象絵画を始める過程をミュンターをはじめとした周囲との影響関係から見せていくというものでした。

だから、展示は抽象画が出て来たところがゴールという構成で、カンディンスキーという名前だけは有名で、なんだかよく分らない絵画を描いた人がいるけれど、どうなのよ、というお勉強にはすごくいい展覧会だったと思います。それゆえに、ここで展示されていた作品は、それ自体を積極的に見たいと思うか、というとそれは別で、あのカンディンスキーが抽象画を描く前に、どのような作品を描いていて、それがどのようにして抽象画に至ったのかという視点があって、はじめて見るという類の作品だったと思います。

展示は次のような章立てで行われました。

.プロローグ─出会い

.カンディンスキー─メルヘン的な絵画

.長い旅行

.ムルナウとミュンヘン

.ミュンターの静物

.人物の表現

.カンディンスキー─抽象への道

.別れ

一応、カンディンスキーとミュンターという二人の画家がテーマの展覧会ですが、あくまでもカンディンスキーあってのミュンターで、(彼女もいい画家とは思いますが、正直言ってネームバリューから、この人だけを見たいとは思いません)感ディスキーを中心に見て行った感想を書いていきます。

ペースもどってきました

退院してから一週間。ほぼ毎日の検査に病院に通いつづけ、上から下から、隅から隅まで様々な検査を受けました。慣れない検査の連続に、なんかオモチャにされているような感じで、時には気持ち悪くなって、検査が終わってから病院の待合室ロビーで暫らくボゥっとしていたりしました。

結果は週明けに出る予定です。また、胸に通していた管の跡の抜糸も終わり、今日ようやく、その跡を石鹸でゴシゴシ洗うことができて、少し痒かったりしたのがサッパリしました。

取り敢えず、これで今までの日常の生活ペースに戻れそうです。

2013年9月 8日 (日)

スポーツは帝国主義?─つづき

グローバリゼーションということが盛んに言われています。金融や経済、ビジネスといった経済の世界では、急速にグローバル化が進み、会社勤めの私のような人間ですら環境変化の波が押し寄せてきています。これには、賛否両論があって、グローバル化をよしとしない人も多く見られます。端的な例は、TPP交渉に対する反対運動などは、明らかな例です。グローバル化とは、端的に言えば、主に欧米の慣行をベースにしたグローバルスタンダードという仕方の基準に従い、ローカルルールをやめるということです。

一方、オリンピックとかスポーツというものは一種のグローバリゼーションと言うことができます。しかし、これに対しては積極的に従おうとする風潮が強く、目だった反発の声は聞こえてきません。例えば、健康・健全な身体をつくるのに資するという考え方。古代オリンピックを創始した古代ギリシャでは、市民と奴隷の二つの階級があって、市民階級は奴隷に生活に関わるすべてをやらせて、豊かな余暇をポリスの市民活動や哲学・芸術あるいはスポーツに費やしたといいます。古代オリンピックはそのような有閑階級の人々によって担われ行われていた、と言います。その後、近代オリンピックは大ブルジョワや貴族などの有閑階級の人々によって始められたわけです。このような人々は、経済的な豊かさに裏打ちされた有り余る余暇の時間を持てた。だから、なんら経済価値を生み出さないことに身体を使って、楽しみとすることができたわけです。それが、健康のためとか、楽しみとしてのスポーツとして整えられた。それが産業革命を経て大衆社会が生まれたことで、先進国の中産階級にも広がっていったというものでしょう。ただし、この時の先進国の大衆社会は植民地からの収奪によってなされた側面もあるわけで、スポーツを楽しめる階級というのが世界基準であったといえます。スポーツのアマチュアリズムというのは、そのような階級を前提としていたものといえます。つまり、商売抜きにスポーツを楽しむだけの十分な経済的余裕がなければできないことです。日本では大正時代に大学対抗の箱根駅伝の大会で、ある大学の選手の中に人力車夫がいたため、アマチュアリズムに反するとして、その大学が失格になったと言います。その選手は苦学して人力車夫をして学費を稼いでいたといいます。(だから、例えば、オリンピックの商業化を嘆く声を聞くことがありますが、そんな一種の特権意識のようなアマチュアリズムに固執するのはどうかと思います)

さて、話題を戻しますが、欧米の一部の階級という一種のローカルルールであるスポーツというのが、一種のグローバルスタンダードになって、それをかつて搾取された植民地だった国の人々も、全く文化を異にする国の人々も迎合するように従っているように見えて仕方がありません。たとえば、駆けっこという走り比べをするのでも、実際にはありえない平坦に地面を人工的に作り出した競技場という特殊な環境の中で、100mだけを走る、とかスタートする、駆け引きするとか特殊な技術だけに特化するというのが、私たちの生活のなかで走るのが早いこととどれだけ結び付くのか、野山を駆け巡ることとは別のことではないか、ということが、スポーツの世界では世界一速いなどと言われてしまうのです。

だからどうした、と言われればそれまでです。しかし、私個人は、どこか引っかかるものがあります。しかし、今日のオリンピック開催地が東京に決定したことを手放しに喜んでいる人々の様を見ていて、スポーツとは別の経済的な効果を歓迎する人もいるのでしょうが、スポーツというものに対して違和感を少しも持たないのか、引っかかるものがないのか、と思ったりしています。

スポーツは帝国主義?

19世紀にポンドを基軸通貨とした通貨の流通が制度として成立し、各国の通貨が基軸通貨との交換レートをものさしとした。これは通貨の土台をポンドが支配することにつながり、19世紀を通じて英本国の貿易収支は赤字だったにもかかわらず、英国は世界の工場として経済を支配した。いわゆるパックス・ブリタニカ。だけど、この時の旧植民地は英連邦として英国と親密な関係を続けていて、言語とか教育とかは英国の実質的な強い影響下にあると言っていい。経済や政治的支配は終わったかもしれないが、文化的な支配は続いていると思う。これは英国だけでなく、ヨーロッパの旧宗主国にも共通して言えることだと思う。その典型的な例が、オリンピックだ。植民地支配に際して、ヨーロッパ起源の近代スポーツがどれだけ有効に機能したことかは歴史を見れば明らかで、例えばボクシングは支配地域の力自慢を引っ張り出して、体重制限と3分間1ラウンドという細切れの時間とポイント制という制限を設定して、そのようなヨーロッパ人に有利な土俵で戦わせて勝利することにより、精神的に屈服させる道具だった。オリンピックに取り込まれたヨーロッパ以外を起源とするものがスポーツとして大きく変質させられてしまったのも、そのためだろう。もともと植民地を経験していなかった日本が、ここまでオリンピックという欧米の文化支配に、取り入るように参加を求めるのは、明治以来の脱亜入欧の残滓を払拭できないのかもしれない。オリンピックって国際機関でもないし、単なる民間の私的な集まりに過ぎないはず。そんなところにも、ズルさを見てしまうのは、私だけなのだろうか。今日のニュースなどの騒ぎを見るにつけ、帝国主義というアナクロめいた言葉をどうしても想ってしまう。

2013年9月 5日 (木)

病は医師と患者による共作ストーリー

医者嫌いというわけではないのですが、十年以上の間、耐え難い痛みや顕著な症状のようなものなく、怪我をすることもなかったので、定期的に病院に通うということがありませんでした。また、勤め人生活を送っていると、病院にいって医師の診察を受けるというのは、受付で待たされ、医師に待たされ、会計で待たされ、薬局で待たされ、とほとんど1日を費やして無駄に時間をすごし、それでいて案外疲れてしまうというようなことが、往々にしてあります。そのため、多少の痛みがあったり、調子が悪かったりしても、あえて病院に行くのが億劫になり、その結果、足が遠いていました。そんな私が、それこそ十年以上のブランク(?)の後、病院に行って、医師の診察を受けた時に面白いことに気付きました。

私が受診したのは内科で、それ以外の外科などは違うのかもしれませんが、大きな病院の場合、検査は、例えばレントゲンとか、採血とかは、それぞれ専門の検査室と担当技師が行い、診察室には、パソコンでそのデータを見ながら、問診するというやり方になっていました。私の場合は、レントゲンを撮った時点で明らかに異常があり、その状態から速やかに普通の状態に戻すということが最優先されました。その措置は、定型的なパターンに沿って施せばいいことなので、すぐに着手ということになりました。それはいいのですが、その異常な状態の原因を明らかにしないと、また同じことが起きるかもしれないし、場合によってはこの状態は表面的な現われで実は背後にもっと重大なことがあるかもしれない、ということでした。それで、医師とのやり取りを何度かしました。

例えばこんな具合です。

医師「この状態について、本人は何かおかしいと異常を感じたことがありますか」

私「?(まず、異常に対する、普通の状態というのを日頃自覚していないので答えようがない)」

  「例えば、どんなことですか」

医師「そうですね。このような状態ならば、息苦しいと感じたことはありませんか」

私「息苦しい?(「息苦しい」と言う言葉は知っていても、それがどういう状態なのか実感したことがないので答えようがない)」

医師「息切れがするとかありませんでしたか」

私「そう言えば(医師に言われて、そんなことがあったかもしれないと、無意識の記憶をほじくり出す)、朝、駅の階段を上った時に息が切れたことがあります。(無理矢理それがあったことを思い出させた、何か医師にサービスしているみたい)でも、私も50歳を過ぎましたから、歳のせいではないかと思っていました」

医師「歳のせいかもしれませんが(失礼)、この状態の症状の可能性がありますね」

というような具合に、医師の誘導尋問のような(?)問いかけに対して、私がそれまで認識していなかったような些細なことを記憶の中の重箱の隅を突くように捻り出して、それに新たな意味づけをしていくことを繰り返したのでした。これで、私の場合、息切れは年齢的要因による体力の衰えから病気の症状に意味づけが塗り替えられたことになるわけで、そうなると体力の衰えもないかもしれないということになってきます。これを読んでいる人は、何か些細なことを針小棒大に書いているように思われるかもしれません。しかし、私が受けた診察は、このような細かいことをつついて、それを積み重ねていくと言う作業でした。それはまるで、最初に医師が選択肢という形で、視点を提示して、それに従って、私が自分の毎日や身体を捉え直してみて、新たな意味づけをしたり、時には、そこで捉え直されたものが最初に医師が提示した視点にそぐわない場合は、視点を修正するとか、別の視点を探すとかして、最終的には、それらを一つの筋(ストーリー)にまとめていく作業でした。

そして、大きな病院の場合、私を担当するのは一人の担当医師に限らずチームで対応しているので、そのまとめられた筋(ストーリー)に検討を加えて確認する作業をしているようで、次の診察のときに、まさに私との間で、その再確認の作業が行われました。

こうなると、病気とか症状というのは、客観的事実としてあったものを医師が確認するということではなくて、医師と患者が話し合いながら、ああでもないこうでもないと共同で症状というストーリーを共作で紡ぎ出すという作業に近いことを行っていたと思います。病気というのは、ものさしのように客観的な基準があって、いうなればチェックシートを消し込んでいく作業で白か黒かを切り分けていくとうのではなくて、白と黒の間の灰色の濃さを見て、白と黒のどっちに近いかを判断して行くようなものではないか。あるいは、白と黒という一系統の色に限られていなくて様々な系統の色が入り混じる中で、一番それらしい系統を選んで、その系統の中で濃淡を判断して行く、と言う作業に近いのではないか。その時に、機械的に判定できるような客観的基準があるのではなくて、医師と患者、医師のチームなどという様々な主観がつつきあって議論をすり合せていく、言わば共同作業で判断を作っていく、と言う作業に近いのではないか、と思いました。

実は、このことを学問として、大々的に論文として発表した人として、フロイトという人がいます。精神分析というフロイトの学問は、まさに患者との問答によって、無意識という存在を新たに作り出し、その無意識と理性的な意識の乖離から神経症の症状を創作して、それを精神分析という学問にしてしまったのでした。客観的な状態があって、それを分析するという姿勢から見れば、かなりいかがわしい代物と言えるのではないでしょうか。今では、フロイトの精神分析というのは一つの権威になってしまっているので、あまり変なことは言えませんが。

今回、医師の診察を受けてみて、そんなことを強く感じました。もっとも、このような診察を受けたのは私だけかもしれないし、もしそうでなかったとしても、このように感じるのは私だけかもしれません。ただ、こんなことを、ここで長く書いているのは、実はこのようなことは、企業の経営企画とか、あるいは私がここに何度も書いてきたIRの現場で、同じようなことがおこなわれているのではないか、と思ったからです。逆に、いつもそんなことを考えているところにいたから、医師にたいしても、そのように見えてしまったのかもしれません。

2013年9月 4日 (水)

追伸その二

今日、胸に管をつなげていた跡の傷ず塞がったのを確認し、抜糸しました。これで2週間ぶりに風呂に入れます。また、管をつないでいた付近の消毒やら管を固定していたテープの跡を石鹸で洗うことができます。

取り敢えず、気胸によってしぼんでしまった肺が、元の大きさに戻ったようなので、明日から職場復帰できることになりました。

このブログを読まれて、ご心配して下さった方々、ありがとうございました。

ただ、気胸の原因が不明なので(気胸は比較的若い人がなりやすいそうで、私のような初老の人間は喫煙の習慣のある人以外が気胸になるのは珍しいそうです。)、これから、原因を調べていくそうです。

「速水御舟─日本美術院の精鋭たち─」展(5)~夢としてのリアル

速水御舟という画家は、日本画の様々な技法を試み習熟していたテクニシャンだったと思いますが、あくまでも画家が何かを描くということに終始固執し続けた画家だったと思います。例えば、色とか線とかいった絵画の要素が独り歩きしはじめ、何かを描くということより、描かれたものが優先されるようなことには至らなかった。例えば、色がどんどん前に出てきて、何かを描くということから、色によって画面が構成されるとかいう方向に進むことはありませんでした。

Hayaminasu私が、今回の展示された速水の作品を一通り見た印象は、19世紀から20世紀にかけて、日本が西洋化、近代化を進めていく中にあって、対象を客観的に捉えようとして、対象を捉えるべき主体の確立、近代的自我の確立の必要性を認識しながら、そういうものがもともとない日本画の世界で、しかも自らも視点を無からつくっていかねばならない苦闘を続けた画家というイメージを強く持ちました。(同時に展示されていた他の画家、例えば、横山大観は、燕山の巻という巻物のような横に長大なパノラマのような風景スケッチをしていますが、能天気に描いた風景を横にダラダラとつなげていますが、その風景をどのように捉えて、描かれる空間をどのような構成させるかということが全く考えられていない、近代的な反省ということなど思ってもいないようなのです。いくら個々の描写が巧みでも、そういう作品は退屈でしかありません。)私の見る速水は、そのプロセスの中で、夢という主観的な視点を獲得し、別の穏便な言い方で言えば心象風景といったもので、対象をいったん主観の中に取り込み、自分の想うがままの世界に換骨奪胎したものを描いていくという、いわば正面切ってではなく、搦め手から私という視点を獲得していった。そのことによって、世界を描くということから、世界の一部を恣意的に切り取ったミクロの世界に対象をどんどん狭めていく結果にはなったものの、その閉じた世界の中で、精緻で密度の高い作品を生み出すに至ったという捉え方です。悪く言えば、マスターベーションと紙一重の世界です。しかし、一時的なものであったかもしれせんが、技巧の追求、リアリズムの追求に日本画の伝統的な趣味をバランスさせた、絶妙な均衡が一部の作品では達成されていたのではないかと思います。リアルで高密度でありながら、日本間の床の間に漫然とかけていても違和感のない作品が、とくに晩年の花鳥画であると思います。

『秋茄子』という作品は、墨を主体に滲みをきかせ、実や茎や葉は墨の濃淡で巧みに表現する一方で、花は紫で描いても違和感を感じさせません。

Hayamisumi『墨牡丹』と言う作品では、墨の濃淡や滲みによって牡丹の花びら一枚一枚がまるで独立してみたいに、まるで花びら一枚一枚を見ろとでも言いたげに描きこまれているが、全体として、かろうじて花の体をなしているようで茎や葉まで一体としての実体があまり感じられず、その浮ついた感じが、非現実感をそそり、墨絵のような花と緑の絵の具で彩色された茎や葉とのちぐはぐさが、なんとなく納得できてしまう。

これらの作品は、現実の草花を写したのではなくて、速水の主観に落とし込んで、彼自身の閉じた夢の極主観的な世界の中で再構成されたものと言えます。速水自身は、前回触れたマグリットのような言葉あそびのような世界の広がりと言う方向ではなく、縮み志向というのか細かく精緻にこだわっていくような志向があったのではないかと思います。それは、日本間の狭い空間で個人や親しい数人の間の親密な空間を演出するのに似つかわしいサイズだったのではないかと思います。その意味で速水の夢のスケールは、マーケットニーズのスケールに沿うものだったことから、人々に受け入れられることが可能となったと言えると思います。そういう点では、近代的と言う点では中途半端な速水の作品は、まさに当時のマーケットの消費する側も近代的な自我を持ちえなかったことから、その意味で人々の共感を得ることのできる要素となったのではないかと思います。その意味で、速水という人は過渡期に苦闘し、その過渡期にいるままで終わってしまった画家ではないかと思います。

2013年9月 2日 (月)

「速水御舟─日本美術院の精鋭たち─」展(4)~写実の向こうの非現実「炎舞」

Hayamiembuこれまで、速水御舟の作品の特徴として言われている写実に基づく細密描写、とりわけ写実ということについて見てきました。写実をリアリズムと捉え、速水の写実的と言われている作品を見ていくと、とうていリアルには見えないということから、単に、日本画のバターンが行き詰った時に意識的な画家が事物そのものへ立ち返り新しいパターンを見出し、それが日本画の領域を拡大してきたことと、速水は同じようなあり方をしようとした、と考えられる。ただし、速水の場合に特徴的なこととして西洋絵画の流入により、西洋絵画のいわゆるリアリズムも流入してきてしまったこと、このリアリズムは対象を確立した視点で把握するという近代的な自我を前提としたものだったということ。しかし、速水の作品を見れば、視点を固定して、統一的なパースペクティブのもとに画面を構成するというできておらず、それはとりもなおさず、近代的な主体意識というのを持てない、あるいはそれに見合った日本画の表現が確立できていないため、そもそも、リアリズムそのものを追求する土台を、速水を持ちえなかったと考えられる。そこで、同じような状況に追い込まれた日本の文学者たちが私小説という独特の手法に逃げ込んだのと、同じように、殊更に従来の画家が取り上げなかった事物の面を描いてみたり、細部を肥大させて執拗に細かく描いて見せた入りといった、奇を衒ったなかで、新しい可能性を探ろうとした、というように見える、というところまで述べました。そこまでは、何も速水だけに限ったことではなくて、速水と同時代の、危機意識を持っていた日本画の画家たちも同じようだったのではないか、と思います。そこで、そんな中で、速水が他の画家とは異なり、速水である所以の、つまりは、彼だけができたことを見ていくことによって、彼の特徴を見つけることができるのではないか。それが今回述べていく内容です。

今回の展示のメダマとして展示されていた『炎舞』という作品を取り上げてみましょう。この作品の展示は、別室の小さな薄暗い展示室でライトアップした照明で浮き上がってくるように見えるように展示され、作品の幻想的な効果を盛り上げていました。

速水の画業のピークをなす作品として評価が高いようで重要文化財にも指定されているということでした。焚き火の炎に群がり集まる蛾の姿を、タイトルの通り炎に舞うように描いています。我が身を容赦なく焼いてしまうような炎の輝きに引き寄せられ、蛾はまるで炎の美しさに同化するように舞い、その姿を炎が照らし出す。そして、炎は蛾を餌食として燃え上がることでさらに輝きを増す、とその輝きに新たな蛾が引き寄せられてくる。と、言葉にすると、神秘、幻想、象徴、妖美といった形容が湧き上がってくると思いますが、実際に作品を見てみると、意外なほど淡泊というのか平面的、あるいは表面的であっさりした印象を受けます。むしろ、薄っぺらいといった感じ、日本画ではありませんが、シュルレアリスムの画家ルネ・マグリットのだまし絵のような作品(左下図)の薄っぺらな印象と、よく似た感じを受けます。だまし絵が、その効果を最大限にあげるためには、その絵を見る人が、その絵をリアルと信じなければなりません、ただし、あんまりリアルに描きすぎると見る人は、信じすぎてしまった騙されたことに気付かなくなってしまう。そこで、リアルっぽい、一方で、どこか現実と違うように、例えば薄っぺらく描いて、騙されたことに気付く逃げ道を用意しておく。マグリットの作品には、そういうところがあります。マグリットの作品の人物は人間としての息吹とか生命感はなく、マネキン人形のようですが、絵を見る人は、それが人を取り上げていることが一目瞭然で分かるように描かれています。

Magking速水は、『炎舞』では、夜の深い闇を背景にして、写実なら炎の明かりに浮かび上がる背後の風景をすべてシャットアウトして、炎と蛾のみを描いています。しかも、炎の燃えている材料である薪も見えず、炎だけが描かれています。その炎も、古い仏画や絵巻に出てくる火焔表現を思わせるように様式化されています。一方、群れ集まる蛾を見てみると、それぞれの蛾を見てみると、まるで標本のように翅を広げて正面から見るようなポーズですべての蛾が描かれています。翅を震わせたり、はばたく格好のものはなく、横向きの蛾や裏側を向いた蛾もいません。つまりは、蛾の群がり飛ぶ実況的な現実感は、ここでは放棄されている、ということができます。一般的な解説では、この作品は、写実を自家薬籠中の物とした御舟が写実を突き抜けて幻想的で象徴的な世界に入ったと言われているようです。実は、前回までに見た、速水の中途半端で平面的な、言うなればエセ写実のままなのです。それが、このような題材を得て、効果を上げたということではないか、と私には思えます。

ここで、もう一度ルネ・マグリットに戻りましょう。マグリットが参加していたシュルレアリスムの芸術運動は、夢とか人間の無意識とかを基に、その象徴的で幻想的な世界を表現しようとすることをひとつの要素として持っていました。だから、だまし絵のようなマグリットの作品は夢の世界でもあるのです。夢を見るのは現実がひとつのペースにはなっていますが、けして現実そのものではないのです。だからこそ、マグリットの絵画で描かれる人物や風景は薄っぺらだったのです。それは夢の世界で見る風景や人物が薄っぺらであったのに通じるものであると思います。夢というのは、一人の人間が個人で見る者です。集合無意識というような概念もないわけではありませんが、基本的には個人的なものです。現実を無意識のうちに個人が取り込んで、それを欲望や感情などを加味して恣意的に解釈して見せたのが夢ということができます。この場合、夢の世界というのは個人の主観的な世界です。そこで、速水御舟に戻りましょう。最初のところで、速水はリアリズムに必要な近代的な主体が確立していないため視点を固定することができなかった、ということを述べました。そのような速水にとって、その視点を得るために、近代的な主体ではなく、主観的なものであるにしても、シュルレアリスムに通じる夢とか無意識的なものに代替的に求めたということが言えないでしょうか。つまり、この『炎舞』という作品は、速水の幻想とか夢の世界であると。そこで、速水は西洋の近代的主体に替わる幻想とか夢の世界という主観的な無意識の閉じた世界を獲得したのではないか、と思うのです。だからこそ、『炎舞』は特徴的なものしか描かれていない、それは夢の主体である速水が見たいものだけしか存在しない夢の世界だからです。そして、晩年に向けて、速水の写生的な作品というのは、一輪の花とか実とか一部をピックアップして、速水が見たいものだけを描く作品になっていきます。それは、現実をリアルに見たまま写生するというのはなくて、現実を速水の主観とか無意識とかいうフィルターを通した夢、あるいは幻想を忠実に写生した作品と言えるのではないか、と考えると、私なりに、速水の作品の辻褄が合うように思えるのです。

Hayamiyoiそのような傾向は、『春の宵』という作品では、さらに顕著です。画面右上の幽かに見える新月の夜の闇の中でハラハラと花弁を散らす桜の姿は、現実の風景を見て描いたというより、頭の中で、そのようなストーリーを言葉で組み立てて、風景を想像したものと考えられます。まさに夢の光景ではないでしょうか。そこに写生した、いかにも“らしい”パーツを配置して、墨による薄闇の中で、桜の白い花が咲き、花びらが散って空中に舞う風景を作り出しています。夢の中ですから、暗闇でひとつひとつの花びらが見えるわけがないということもなく、桜以外のものはすべて省略し、桜の木の枝ぶりなどもかなり無理がある強引な描き方で、斜めに傾いでいる幹は、どうしたらこれで立っていられるのか不思議です。そんなことは、夢の世界では関係ないでしょう。そこには、新月と暗い画面で動きがないために森閑とした静けさや、夜目に無数の花びらが一枚一枚描きこまれていることから桜のむせ返るような香りが想像できるような気分にさせられます。日本画の様式性を生んだわざとらしさ(フィクショナルなところ)が、近代主義の客観性と超現実的な夢を介して、折り合うことのできた一つの成果ではないかと思います。

2013年9月 1日 (日)

「速水御舟─日本美術院の精鋭たち─」展(3)~速水御舟の写実とは何なのか

前回かなり無責任な放言をしてしまいましたので、私なりに考えたことを述べた方がフェアであると思います。何しろ、速水はすでに作品を制作してしまっているわけですから、それに対して私がどうこう言うのは、“後出しじゃんけん”と揶揄されても仕方のないことです。しかし、同じように、現在の時点で速水の一部の作品を写実という人がいるということは、その人は写実であると評価しているわけで、その評価に対して、私は強い違和感を持ったということです。その理由を考えていくと、私なりに速水の作品の写実ということを考えられるのではないかと思います。

Hayamimaiko速水御舟の作品の中で、写実的な描写が物議をかもしたという「京の舞妓」という作品があります。この作品は、今回の展示作品ではありませんが、速水のことを調べていると、横山大観に“悪しき写実”と酷評されたという、この作品にたどり着きました。私は、速水と同時代の人間ではなく、日本画には不案内の人間なので、最初に述べたとおり“後出しじゃんけん”と言われてもしょうがないのですが、この「京の舞妓」という作品を、どう見ても写実的に見えないのです。絵がれている舞妓さんが人間の体形をしているとは思えないし、背景の、彼女が腰かけている窓の張り出しは平面的で奥行がなく、とても腰かけられるものではない。そして、描かれている舞妓に生命感がなく人形のようにしか見えないのです。これは、私に日本画を見る文法が備わっていないためかもしれません。それを差し引いても、写実と、どうしても言えないのです。門外漢ながら日本画の歴史を遡ってみると、丸山応挙とか伊藤若冲のような人々は決まったパターンを踏襲することに飽き足らず、実際の花鳥風月の現物を見て、それを手本に描いて、今までにないあたらしいパターンを創り出して日本画に加え、写実と言われたといいます。速水の写実には、それと同じところがあるのではないかと思います。つまりは、既存の日本画に行き詰まりを感じていた速水が、新たな可能性を開こうと従来のパターンの踏襲から新たなパターンを求めて、先人に倣って事物に立ち返ろうとしたのではないか、ということです。

しかし、先人と速水とでは大きな違いがあると思います。それは、速水の感じた日本画の行き詰まりとは、日本画自体に胚胎する内発的な理由だけではなく、文明開化により西洋から流入した洋画によるプレッシャー、つまり外圧も大きな理由であったのではないかということです。洋画の描かれた人物や事物は立体的で質量を備えた存在に見えたのではないか、ということです。極端なことを言えば、以前とは画というものの概念が変わってしまった。それを速水は感じさせられたのではないか、と思われるのです。そこで、速水は二重の意味で写実ということを追求したのではないかと思うのです。そのうち後者、つまりはリアルな洋画に対抗するために、リアルさを追求しようとしたときに、現在なら石膏デッサンなどのような体系だてて技法やそういう視点を学ぶということがありますが、当時の速水には、それがなかった。例えば、立体感を表現するために一方向から事物に光を当てて、その影を、つまり陰影を克明に写すことで凹凸を表現するとか、いわゆる投射による遠近法を用いる際には、ひとつの固定した視点を持つことが必要となります。速水はこの視点というのを持てなかった、というのが彼の作品を見ていて感じたことです。視点と簡単に言いますが、これはヨーロッパでも神中心の中世からルネサンスを経て近代社会で神を離れ個人が自立したことに伴ってはじめて獲得できたものです。同じように、文学の世界でも江戸時代の戯作から近代的な小説を書くために文学者たちは視点とその視点からの写実ということを大きな課題としていました。二葉亭四迷の「浮雲」という文学史上、日本で初めての小説ということになっていますが、今読む人がいるのか疑わしい作品。これを読んでいくと、章が変わるごとに小説家の書き方が大きく変化します。これは西洋の小説なら当たり前の客観的な視点で筋を書いていくということを、当時の二葉亭が、そういう超越的な視点を獲得することができず様々な方法で、それに近づく書き方を試行錯誤しているのが文体の大きな変化となって露われているのです。その後、二葉亭に続いて苦闘が続きますが、私小説という小説家が自分の私生活を自分で語るということをすれば、超越的な視点を持つことなく語ることができる、というチョンボのような日本独特の形式を生み出すに至ります。その端緒が、田山花袋の「蒲団」という作品で、小説家が若い女性の弟子に恋着するという当時で言えば醜聞に属する内容のものから、島崎藤村の「新生」

話は変わりますが、そういう勘違いのような醜聞のような私小説と、速水の「京の舞妓」の敢えてくたびれたような舞妓の姿を描いて見せたのは、相通じるような感じがします。確固とした視点を確立できないでいれば、洋画というような写実は与えることができる。これは、当時の“悪しき写生”という評価と同じような考え方かもしれません。

そして、もうひとつ、速水は視点を持ちえなかったことをカバーするために、写実であろうとして努めたのが、細部の追求ということではないかと思います。それは、あくまで写生らしさを印象付けるためですから、アントニオ・ロペスのような全体的な細密画ではなくて、見る人が細かさに感心するようなところで細密さが強調できていれば、写実的な感じがしてきます。そのため、恣意的な部分が細密な作品となっているのではないか、と言えます。例えば、「京の舞妓」では畳の目ひとつひとつ、着物の生地の糸一本一本までも描いていますし、舞妓の顔には無数の細い線を重ねています。

以上が、前回の生意気なコメントをしてしまった以上、フォローしなければならないという必要性を感じて、勉強した結果です。しかし、ここまで読んだ人は、これが果たしてフォローなのかと思われるでしょう。

これを、現代的意味で見直してみると、多少言葉遊びのきらいがないとはいえませんが、たとえば、ポストモダン的状況ということを考えてみましょう。ポストモダン的状況というのは、端的にいえば、正義とか理想とか客観的真実とかいったような大きな物語を、だれもが信じられなくなって、個人がそれぞれの身の回りの小さな物語しか信じられなくなっている、という状況のことです。そこでは、かつて信じられた近代的な自我の確立ということも、絶対的な価値観が崩壊してしまった後では、個々人が自分なりに自分の周囲にむけて試行錯誤をしていかざるを得ない、という状態にあると言えます。そのような客観的な視点とか、近代的な主体というものが、じつはフィクションでしかなかったというてき、もともと主体が確立していなかった速水の作品は、そういう状況に沿うものとなっているのではないか、といえることです。例えば、「京の舞妓」では、確立して視点がないために、画面の階層化がなされていません。具体的に言うと、作品の主役である舞妓の顔の精緻な描き方と、畳の目や衣装の生地の精緻な描き方が同じような重点をかけられているのです。つまりは、舞妓の顔と畳の目と衣装の生地は同列に置かれているということです。ここでは、人間中心とかそういうことはない。このように同列で、並列的に描かれ、人間中心とかいうような大きな秩序で画面が統括されていない、いわばスーパーフラットな世界となっているということです。そこでは、限りなく分散化し、まるでコンピュータのデータのような交換可能な世界になっているということです。

年月を超えて速水の作品を私が見るとしたら、おそらくそのような視点で見ることで、面白さを感じることができるのではないか。そこでは、最初にあげた速水のもうひとつの特徴として装飾的という点を改めて捉えることができるのではないか、と思うのです。

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