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2013年9月 5日 (木)

病は医師と患者による共作ストーリー

医者嫌いというわけではないのですが、十年以上の間、耐え難い痛みや顕著な症状のようなものなく、怪我をすることもなかったので、定期的に病院に通うということがありませんでした。また、勤め人生活を送っていると、病院にいって医師の診察を受けるというのは、受付で待たされ、医師に待たされ、会計で待たされ、薬局で待たされ、とほとんど1日を費やして無駄に時間をすごし、それでいて案外疲れてしまうというようなことが、往々にしてあります。そのため、多少の痛みがあったり、調子が悪かったりしても、あえて病院に行くのが億劫になり、その結果、足が遠いていました。そんな私が、それこそ十年以上のブランク(?)の後、病院に行って、医師の診察を受けた時に面白いことに気付きました。

私が受診したのは内科で、それ以外の外科などは違うのかもしれませんが、大きな病院の場合、検査は、例えばレントゲンとか、採血とかは、それぞれ専門の検査室と担当技師が行い、診察室には、パソコンでそのデータを見ながら、問診するというやり方になっていました。私の場合は、レントゲンを撮った時点で明らかに異常があり、その状態から速やかに普通の状態に戻すということが最優先されました。その措置は、定型的なパターンに沿って施せばいいことなので、すぐに着手ということになりました。それはいいのですが、その異常な状態の原因を明らかにしないと、また同じことが起きるかもしれないし、場合によってはこの状態は表面的な現われで実は背後にもっと重大なことがあるかもしれない、ということでした。それで、医師とのやり取りを何度かしました。

例えばこんな具合です。

医師「この状態について、本人は何かおかしいと異常を感じたことがありますか」

私「?(まず、異常に対する、普通の状態というのを日頃自覚していないので答えようがない)」

  「例えば、どんなことですか」

医師「そうですね。このような状態ならば、息苦しいと感じたことはありませんか」

私「息苦しい?(「息苦しい」と言う言葉は知っていても、それがどういう状態なのか実感したことがないので答えようがない)」

医師「息切れがするとかありませんでしたか」

私「そう言えば(医師に言われて、そんなことがあったかもしれないと、無意識の記憶をほじくり出す)、朝、駅の階段を上った時に息が切れたことがあります。(無理矢理それがあったことを思い出させた、何か医師にサービスしているみたい)でも、私も50歳を過ぎましたから、歳のせいではないかと思っていました」

医師「歳のせいかもしれませんが(失礼)、この状態の症状の可能性がありますね」

というような具合に、医師の誘導尋問のような(?)問いかけに対して、私がそれまで認識していなかったような些細なことを記憶の中の重箱の隅を突くように捻り出して、それに新たな意味づけをしていくことを繰り返したのでした。これで、私の場合、息切れは年齢的要因による体力の衰えから病気の症状に意味づけが塗り替えられたことになるわけで、そうなると体力の衰えもないかもしれないということになってきます。これを読んでいる人は、何か些細なことを針小棒大に書いているように思われるかもしれません。しかし、私が受けた診察は、このような細かいことをつついて、それを積み重ねていくと言う作業でした。それはまるで、最初に医師が選択肢という形で、視点を提示して、それに従って、私が自分の毎日や身体を捉え直してみて、新たな意味づけをしたり、時には、そこで捉え直されたものが最初に医師が提示した視点にそぐわない場合は、視点を修正するとか、別の視点を探すとかして、最終的には、それらを一つの筋(ストーリー)にまとめていく作業でした。

そして、大きな病院の場合、私を担当するのは一人の担当医師に限らずチームで対応しているので、そのまとめられた筋(ストーリー)に検討を加えて確認する作業をしているようで、次の診察のときに、まさに私との間で、その再確認の作業が行われました。

こうなると、病気とか症状というのは、客観的事実としてあったものを医師が確認するということではなくて、医師と患者が話し合いながら、ああでもないこうでもないと共同で症状というストーリーを共作で紡ぎ出すという作業に近いことを行っていたと思います。病気というのは、ものさしのように客観的な基準があって、いうなればチェックシートを消し込んでいく作業で白か黒かを切り分けていくとうのではなくて、白と黒の間の灰色の濃さを見て、白と黒のどっちに近いかを判断して行くようなものではないか。あるいは、白と黒という一系統の色に限られていなくて様々な系統の色が入り混じる中で、一番それらしい系統を選んで、その系統の中で濃淡を判断して行く、と言う作業に近いのではないか。その時に、機械的に判定できるような客観的基準があるのではなくて、医師と患者、医師のチームなどという様々な主観がつつきあって議論をすり合せていく、言わば共同作業で判断を作っていく、と言う作業に近いのではないか、と思いました。

実は、このことを学問として、大々的に論文として発表した人として、フロイトという人がいます。精神分析というフロイトの学問は、まさに患者との問答によって、無意識という存在を新たに作り出し、その無意識と理性的な意識の乖離から神経症の症状を創作して、それを精神分析という学問にしてしまったのでした。客観的な状態があって、それを分析するという姿勢から見れば、かなりいかがわしい代物と言えるのではないでしょうか。今では、フロイトの精神分析というのは一つの権威になってしまっているので、あまり変なことは言えませんが。

今回、医師の診察を受けてみて、そんなことを強く感じました。もっとも、このような診察を受けたのは私だけかもしれないし、もしそうでなかったとしても、このように感じるのは私だけかもしれません。ただ、こんなことを、ここで長く書いているのは、実はこのようなことは、企業の経営企画とか、あるいは私がここに何度も書いてきたIRの現場で、同じようなことがおこなわれているのではないか、と思ったからです。逆に、いつもそんなことを考えているところにいたから、医師にたいしても、そのように見えてしまったのかもしれません。

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