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2013年9月22日 (日)

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(2)

中世哲学を理解するために、もう一つ注意しなければならないことがある。それは哲学理解についての変遷である。この場でもプラトンとアリストテレスが古代の終わりから中世にかけて、どのように受け取られてきたかについて、簡略に触れておく必要がある。まずプラトンのイデア論であるが、重要なポイントと思えるのは、プラトンは概念の理想型としてイデアを考えているが、人間の側の知性ないし精神が把握すべき対象ではあっても、イデアが知性と「一つ」になる、という考えは、プラトン自身はもっていない。知性という認識する側の役割と、イデアという見られる側の真理は、端的に別々の存在である。恐らくプラトンにとって、生きているものは生々流転のうちにあり、「一定の真理」という概念で理解できるものでは絶対にないと考えていたのだろう。要するにプラトンのイデアは、動かない不変の「真理対象」であって、変化のただなかにある生き物ではない。アリストテレスの存在論では、真理解釈が微妙になる。アリストテレスの存在論(形而上学)は、根源的に「実体論」である。実体とは、アリストテレスにとって究極存在であり、すべての存在の基礎にある何かである。つまり偶然的なもの、あるいは、それにとって本質的でないものを取り去ったのちに残るものである。それはプラトンのイデアのような「精神の対象」という視点の規定ではなく、「世界の構成要素」は何か、という視点からの規定である。そしてアリストテレスは、プラトンとは異なって、「精神」を世界のきわめて重要な構成要素と見なしている。すなわち、精神は世界を構成する重要な「実体」である。むしろ精神ないし生命主体は、世界を構成する実体の基本である。

ところで、アリストテレス自身はプラトンの弟子でもある。そのため、イデアないし形相は、アリストテレスにおいても実体論の研究に用いられる。そして実体の本質は実体を構成している形相にある視点の概念である。したがって完全には一致しない。しかし、この相違は視点の相違から来るものであり、そうであるなら、それぞれは互いに補完する概念と見て、両者を統一する見方が生まれてくるのは避けられない。新プラトン主義もそういう考えから生まれたものだ。新プラトン主義と、プラトンとアリストテレスの哲学の大きな違いはどこかといえば、新プラトン主義には、最高のものである「一者」から下がっていく視点がある、ということである。プラトンもアリストテレスも、周囲の普段見慣れている世界、あるいは感じている世界から、上昇する志向はもっているが、最高位から下に向かう視点は持たない。

ここで、いかにも唐突に思われるかもしれないが。ヨーロッパの中世絵画を思い起こしてもらいたい。中世の絵画といえば、聖母マリアや教皇、天にいるキリストや天使など、どれも別世界にいて縁遠く見えてしまうものばかりだ。しかし、最近、その縁遠さが解消できる場所を見つけた。それは広く開放されたエスカレーターである。広いテラスの間の開放された空間に設置されているものだ。そこを降りてくる人たちを、下から見ていたらそこに見える光景が、中世の絵画のキリストや聖母マリアの光景に重なって見えた。高いところから下りてくるという事実が、中世の絵画に描かれたキリストや天使のような見上げるものに重なった。彼らはこちらに向かい時に「下りてくる」立場にいる。つまり「上から下りてくる」という点が重なるのだ。中世絵画が描こうとしているものは、地上にあるものではなくて、どこか高いところにあるものである。私たちと同じ地平にある喜怒哀楽ではなく、畏れ、見上げるべき歓びである。ただし、下から見上げているのは、心の中の視線であって事実ではない。

したがって、中世の精神世界は、下向きのエスカレーターがつくめ世界と同じである。中世哲学では、神や天使が当然のように出てくる。中世の人々は、それらを見上げ、それらが下りてくるのを待っている。人々はそれを考えるために、上にある「言葉」を借りてきて考えた。上にある神の言葉を聞き、それを使って論じなければならない。だから、中世の哲学者たちにとって、「言葉」(概念)も、実は「上から下にやってくる」。そういう想定が、中世の哲学者たちにある。そのために、抽象された言語が多用される。それが新プラトン主義の哲学が中世で生きている姿なのである。だとすれば、中世の精神世界が異質なものに見えても、そこに生きている人たちは、私たちと大して変わらない。彼らが私たちと違っているとすれば、彼らはよく上を見上げているせいで、見えているものが私たちの日常とは少し違う、ということである。

新プラトン主義の哲学も、それと同じである。すなわち、新プラトン主義では、最高の「一者」の次の段階に「知性」が置かれ、この段階で知性と対象の区別が生じてくる。つまり第二の段階で、知性と対象は分かれるが、しかし同じレベルに置かれるので、それらは二つであるが、同一のレベルとしてお互いが相手の端くれであるという観念が残る。つまりイデアと知性は、プラトンやアリストテレスの時よりも一体化する傾向を強める。次の段階で人間身体に入る霊魂が生じる。人間ばかりでなく、天体や動物や植物の霊魂としても、それぞれの体をもつ。天体も動物もそれぞれに相応しい霊魂を持つ生命体なのである。ここから存在が流れ落ちる先にあるのが物体であり、それは霊魂から区別されて、生命を失って完全に物体となり、存在の最低段階に到達する。新プラトン主義には、上からの流出と下からの還流という流れの観念を組み込んで、上下の秩序の間に一体性を生み出し、精神性と物体性の上下関係を残しながら、二元論ではなく、一元論の説明を可能にしているのである。そして世界全体を上下の流れでとらえるために、その全体は生命的なものとして理解させられる。こうしてプラトンがもっていたイデア同士の乖離、イデアと知性の乖離は、生命的観念や流れの観念のなかで見失われる。

キリスト教にとっては、新プラトン主義の哲学が、もっともよくキリスト教哲学に適合するものであったので、アウグスティヌスを通じて中世に知られたプラトン主義は、一般に新プラトン主義だった。したがって、プラトンの哲学が純粋にそれ自体で理解されたことはほとんどない。

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