無料ブログはココログ

« カンディンスキー展(2)~始動と飛躍 | トップページ | カンディンスキー展(3)~抽象絵画へ »

2013年9月15日 (日)

コメントをキッカケにして~抽象画を見る

ここ数日、カンディンスキーの展覧会の感想を書き込んでいますが、その中で抽象画に対する私の個人的見解を少しく述べさせてもらいました。詳しくは、こちらを参照していただきたいのですが、簡単に言うと、例えば音楽をプレイしているとそのこと自体が楽しい、絵画を描くということも、そのこと自体が楽しいということです。幼児にクレヨンと紙を与えると、線が引かれることや色がつくということに新鮮な驚きを覚えて、線を引く、色を塗ること自体を楽しそうです。その時に、知ったかぶりをした大人が「何を描いているの」とか聞くことが多いのですが、抽象画はその問いかけを、その背後にある規制のようなものを取り払ったのではないか、そうすることで音楽をプレイしている楽しさを周囲で聴いている人々が感じたように、それまでの絵画では感じることができなかったものを感じられる、ということになっていったのではないか。カンディンスキーにしても、モンドリアンにしても抽象画を始めたという人の作品には、目で見えない、形にならない何かを表現しようというものが感じられるのです。

このことについて、コメントをいただいたのは、生け花のテキストにある「平面分割」を色分けするということで、沢山の線を書き込んだ後で、平面構成において、それらの線の中から大胆に不要と思われる線を消していくということだそうで、そこに抽象の始まりを見たということで、その線を消す際に、不要かどうかの判断は、その人の視点がなければできない、つまり、抽象に視点と言うものが存在する、という内容だったと思います。(私の視点(笑)で引用しました、間違っていたらごめんなさい)それは、私の書き込みに欠けていた、どのようにということから、なぜにということに踏み込んだ鋭い指摘でした。

実際、カンディンスキーの作品を制作年代順に見ていくと、最初は具象の風景画を描いていたのが、徐々に、そこから大胆にいろいろな要素を削っていって残ったものが結果的に抽象画といわれるような何が描かれているのか判然としないようなものになった、というストーリーをつくることも可能です。その時に、コメントで指摘されるようにカンディンスキーによる視点というのが存在していた。それはたしかにそうだと考えられるものでます。

確かに、人間の、というよりも個人の視点が作品と言う世界を作るというのは、当時の人々の考え方がベースとしてあって初めて可能になったと言えます。その人々の考えが突出して表われるもののひとつに哲学と言うものがあります。例えば、18世紀の哲学者にカントと言う人がいます。哲学史の教科書ではデカルトによって始められた近代哲学を一つの体系としてまとめたということになっています。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」ということから、神が全部の根拠ではなくて、我という人間がまず存在しているところから全てが始めようとした。でも、これでは、我が存在するというのは確かだと分かります。しかし、それ以外は?というときに、カントは主観と客観ということに分けて、我である人間が主観として、その人間が見たり聞いたりする対象が存在しているのを客観として、その二つによって世界があると設定して見せました。これは、絵画の世界で言えば、主観は絵を描く画家です。そして、描かれるものは客観で、これを見て、写すことで絵画をつくった、と言うことができる。ただし、カントは言います。客観は存在しているけれど、その真実を主観である人間は認識することができない。(それができるのは神だけだ)例えば私の目前に存在しているパソコンを見るにしても、私が目で捉えるのは一定波長の光(可視光線)であって、パソコンそのものを見ているのではなくて、パソコンに(太陽)光が反射したのを目が捉えているのを認識しているだけ。しかも、認識できる光は限られるので、人間が見えるものと猫が見えるものは違ってくる。ということで、私が見ることができるのは、仮の姿で、それを現象というというのです。だからこそ、そこに個人差も生まれ、画家は対象である客観を写そうとしても、それぞれの画家によって違う作品が生まれるのは、神と違って対象の姿を完全に捉えられない不完全な存在だから、ということになる。だからこそ、完全という理想を求めて画家が腕を磨くということも生まれた。例えば、アカデミーとかの階級もその結果の一つの表れといってもいいでしょう。

一方、19世紀になって、カントを批判的に継承したとされるフッサールという哲学者は現象学という哲学運動を始めます。現象学の現象とはカントが客観を捉えた仮の姿をそう呼んだ現象です。私が見ている現象で十分ではないかと。つまり、私の目の前のパソコンを見ていれば、それを使うことができるし、触ったりするにも不自由はしない。そこで認識できない真実の存在など何の意味があるのか。人間というものは、それぞれの見える範囲(視点)で存在を認識し、それを世界としてそこで生活をしている。つまり、18世紀は存在しているのを不十分ながら認識している、というのだったのを、認識しているから存在している意味があるというように考え方を全く変えてしまったのです。これを極端に推し進めれば、ある視点でとらえるから在りえる、ということになるのです。画家が写実しようとしていた客観の真実の姿なんか存在しない、ということに開き直ることを可能になったわけです。そこで、画家は自分なりに視点をもって作品という世界を創ってしまうこともできることになります。それが抽象画という対象を写すことをしない絵画を生む考えの上でのベースの一つになった。そんな考えを、ブログにいただいたコメントに触発されて考えるに至りました。

 

そして、さらに鋭いコメントをいただきました。引用させていただきますと、例えば、グループ展を企画するとします。 作業を進めながら幾度となくお互いの頭の中にある作品像が同じであるかどうか確認を繰り返します。そこで「横長の作品」を制作するとお互い納得づくで作業を始めても皆が同じ作品像を思い描いているかというと、案外そうでなかったりします。このように相互の認識にずれがあると、存在意義がなくなるということかもしれません。前回にもまして鋭い指摘をいただきました。

そうです、紹介したフッサールのいうような視点ということを強調すれば、個人の視点はそれぞれ違うのだから、みんながバラバラの視点をもてば、共通のものが無くなってしまうではないか。しかし、現実にはみんな共通の地盤の上で生活している。それは矛盾ではないのか、ということで、件のフッサールもその問題にぶつかって悩みに悩んで、それまでの自身の業績を全否定して、晩年の思想を一から構築することになります。ご指摘いただいたコメントはむ、作品の共同制作を例にしていますが、これは作品を作る人と鑑賞する人との間に、共通するものがなければ、たとえ誤解に基づくものであっても、共感とか感動とかいうものが生まれないことになりかねません。バルザックという19世紀フランスの小説家に『知られざる傑作』という作品がありますが、理想を追求して究極の作品を追い求めた画家の苦闘を周囲の芸術家仲間が見ると言う作品です。しかし、その画家が命をかけて残した作品を、周囲の人々が見たときに何だかよくわからないものだった、という懐疑的な結末になっていますが。では、話を戻して、件のフッサールは、どういうことを考えたかというと共同主観ということを言います。端的に言うと、それぞれの人が視点を、それぞれにぶつけ合って、そこに共通するものを見出したり、互いの違いを認識し合ったりする、その結果、生活のベースとなるような共通のものが生まれるといいます。ただし、これは一枚岩のようなものではなくて、様々な局面でそれぞれに形成され、様々な共通なものが様々に織りなすことによって形成されるのが共同主観だと言います。もともと、人間の視点というのは最初から個人の中で独自に形作られるものではなくて、人々との共同生活の中で育てられ作られるものだから、人々がそれぞれに全く違う視点を別々にもつということは実際上ありえない。

実際のところ、抽象画とかカンディンスキーとか言っても、難解だとかいって見向きもしない人もたくさんいます。ある意味、客観的な存在があって、それを人々が認識できるということをやめてしまったことから、すべての人に受け入れられるということは、絵画では考えられなくなったのかもしれません。それはそれで、様々な人が、それぞれの好みで、様々に絵画やその他を楽しんだり、差異を愛でるということで、私は共通していたり、違うところがあったりで、観る方は楽しんでいます。

また、視点というのは必ずしも固まったものではないと思います。最初にいただいたコメントのなかで、視点に基づいて不要なものを削っていくという話がありましたが、これとは逆に、視点によって新たな可能性が加わることもあります。例えば、音楽を聴くとき、視点によって聞こえなかった音が聞こえてくることがあります。私はクラシック音楽を聴くことが多いのですが、バッハの作曲したパルティータという鍵盤楽器のための曲集が好きで、よくCDをかけて聴いています。その曲集を演奏した中に、アンドラーシュ・シフというピアニストが若いときに録音したCDがあります。私は、ピアノの豊かな残響を捉えた響きの美しさを愛好していたのですが、ある人が、シフの工夫について教えてもらったところ、いままでその音が聞こえていなかったことに気が付きました。それは、パルティータ第1番の最後の部分で、たった2つの音によるフレーズを何度も繰り返して、そのリフレインが軽快なリズムを作り出して愉楽的な盛り上げをつくっていくところを、シフの演奏では、そのフレーズを単に繰り返すのではなくて、最初に出てきたところと、2回目に出てきたところではアクセントをずらしたり、フレーズとフレーズの間の休止の長さを少しずらしてみたりして、工夫をすることで、まるで、そのフレーズが何人かいて掛け合いをしているような弾き方をしているのです。そのことによって、単なるフレーズのリフレインによる機械的なリズムではなくて、複数の人がいて会話をしているような生き生きとした楽しい時間が作られているのです。それに気づくと、その部分を何度聴いても、その度に違ったように聞こえてくるのです。そして、シフというひとは、そういう工夫を至るところで行っていることに徐々に気づき始め、バッハの音楽の豊かな可能性を改めて発見することができました。ほんの些細なことなのですが、私は、その人に教えてもらうまでは、それを聴くことができなかったのですが、その人に視点を教えられることで、今まで聞けなかった音を聴くようになった。というわけです。

だから、このブログの中でも、絵画のことを書き込むときは、敢えて、この作品はこうなってああなってという説明を記述することにしています。見れば分かるという人もいますが、私には、こう見えていると見えている内容を記述することで、もしかしたら、私がアンドラーシュ・シフのピアノに今まで聞かなかった音を聴いたように、それまで、作品を目の前にしても見ていなかったものを見るキッカケにすることがあるかもしれない、と考えているからです。

 

ブログの書き込みにコメントをいただいたのが、ありがたくて、興が乗って、少しく生意気なことを書き連ねたかもしれません。私の読むのに疲れるブログの記事に辛抱強く付き合っていただいて、真摯なコメント何度もいただいた、ひつじさん、そのほか、おつきあいいただいたり、コメントを寄せてくださる方に、いつもありがとうございます。

« カンディンスキー展(2)~始動と飛躍 | トップページ | カンディンスキー展(3)~抽象絵画へ »

美術展」カテゴリの記事

コメント

単なる感覚的コメントを、ここまで深く考察していただいて恥ずかしい限りです。

長文ですね。私は「視点」というときの「わたし」というのはある固定した点ではないと思っています。「わたし」には真の「わたし」は正しく認識できない、というのは多くの哲学者の言っていることです。では私は私をどう認識するのか。私が、私以外の何かを認識したとき、その何かと私との関係を通しておぼろげな私が浮かび上がるのだ、と考えます。曖昧な、電子雲のような私の存在はあらゆるものと私との関係の積み重ねによってようやくその姿を何となくある確率の中にとらえられるものだ、と思います。人間に知識欲があること、好奇心があることの向こうには自分自身を知るため、という根源的な欲求があるように考えます。これはキルケゴールの「死に至る病」の冒頭部の文章から私が妄想した考えですが。『人間とは何か。精神である。精神とは何か。関係である。関係が関係に関係する関係である』という意味を考えて編み出した私流の世界観です。

poemさん。コメントありがとうございます。単に長くなっただけで、深く考えているわけではないんです。構えさせてしまって恐縮です。

OKACHANさん。コメントありがとうございます。「わたし」のあり方について言及しているわけでなく、視点を固定的なものとも書いていないつもりでしたが、誤解を招いてしまったようですね。私の書き方が不明確だったようです。要反省です。
ちなみに、キルケゴールは「哲学的断片への結びとしての非学問的あとかき」のなかで、『思弁は実存を度外視する。思弁にとって、実存するとは、実存したこと(過去)であり、実存は、永遠という純粋存在における消失的な止揚されるべき一契機になりおおせる。思弁は、抽象として、実存と同時的になることはできず、従って実存を実存として捉え得ず、後になって漸く捉えるに過ぎない』と書いていますが、この思弁とはヘーゲル的な理性的な客観的な思弁であり、これに対してキルケゴールは実存、つまり、いま、ここにいる具体的な主体を主張しています。つまり、抽象的な思弁に主体的な自己のあり方が先立つ。キルケゴールは本質的にして単純な根本問題の一つとして、そこで、死の問題に触れます。死はいつ来るか分からない。各瞬間が常に死に曝されているという死の不確実性。もちろん死の問題を一般的に語ることはできますが、一般的に語るうちに人は死の不確実性を見失ってしまいます。語る人がその時死ぬかもしれないのに、彼は自分の死を他人のように語ってしまうことになってしまう。まさしく、主体的実存とは、こうした死の定めなさを常に背後に控えた、有限的な、しかも単独の私なる個別者のあり方、生き方の問題なのだと書いています。死に直面して人は単独者として神に向かはざるを得ない、というのがキリスト者であるキルケゴールです。さて、「死に至る病」の冒頭ですが、人間の姿を、自己自身に対し関係する関係のあり方に見ていますが、この関係とは自己自身を措定した根源的な他者である神と向き合うこと、ここに信仰というあり方、このようなあり方をしないことを絶望と言います。というように、私が読んだキルケゴールは単独者として神に向き合う。というように、理性を肥大化させた抽象的思考に対して否といってますが、「わたし」のあり方を論じているようには読めませんでした。

浅読み、勝手読み、知識の浅薄であること、お恥ずかしい限りです。無明の闇にいるものとして、闇から世界を見るわずかな手がかりのために自己流に作り出した考え方を無意味につい吐露してしまいました。キルケゴールについてはCZTさんの言うとおりだと思います。彼も私の解釈を聞いたらたまげるでしょう。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: コメントをキッカケにして~抽象画を見る:

« カンディンスキー展(2)~始動と飛躍 | トップページ | カンディンスキー展(3)~抽象絵画へ »