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2013年9月28日 (土)

「竹内栖鳳─近代日本画の巨人」展(4)

TakeromeTakerome2_2私は竹内の特徴を画面構成による世界構築への強い意志に見ます。そのような彼の特徴が最もよく発揮されているのが風景画だったのではないかと思います。それも掛軸に描く山水画にも表われているのですが、こんな窮屈なところでチマチマ細部に工夫を凝らすというのではなくて、少なくとも屏風くらいのスケールで描かれるものに本領が発揮されるように見えました。多分、世界のひろがりへの視線というのか、風景をダイナミックに捉えようという、近代西欧の風景画にあるのと同じ視線を感じることがあるのです。それでは、何ことだか抽象的すぎますよね。例えば、18世紀から19世紀にかけてのドイツロマン派の画家フリードリッヒに『海辺の僧侶』という作品があります。圧倒的な大画面に描かれているのは薄暗くどんよりと曇った空の下、鉛色のあれた海と砂浜が荒涼と広がっている光景で、左隅にちいさくポツンと一人の質素な僧侶が海の方を向いて、ということは背中だけが描かれているので表情を窺い知ることができない、配されている、という作品です。その人物を配置したことにより、対比的に、あるいはその人物が対峙しているような構成となって、荒涼とした空や海、そして砂浜が画面という枠を越えてずっと伸びていくような印象を与えています。これは、風景がたんなる背景の書き割りのようなものではなく、それ自体意味をもったものとして、それだからこそ、広がったり、深まったりという動きを内包しているように見えてくるのです。Ki

比較的似ているところを見易い作品から見ていきましょう。竹内の渡欧の際に見た風景を描いた『羅馬之図』という作品です。横長のパノラミックな画面に、対象の大小や色彩の濃淡といった表現を組み合わせて遠近法的な効果を持たせて、拡がりと奥行きのある作品になっています。さきに風景画の例として紹介したフリードリッヒに『雪の中の修道院の墓地』という作品がありますが、これと竹内の『羅馬之図』は構図がよく似ている作品です。多分、竹内は、この作品を知って描いたのではないと思いますが、横長の画面で、廃墟が朽ちるように奥に配されて、その前景には草木が対称的に生命感溢れるように繁茂している。フリードリッヒの場合には、横長の画面がまさにその草木の繁茂の成長が動きとして画面から広がっていくようなダイナミクスを内包しています。そして、朽ちていくような廃墟が奥におかれていることで、対比的にそのダイナミクスが強調されるように映っています。多分、朽ちた修道院の廃墟には何らかの象徴的な意味合いがあるのでしょうが、それはここでは措いておいて、竹内の『羅馬之図』ではフリードリッヒのような過剰な意味づけや対比は試みられていませんが、フリードリッヒの作品にあるのと同じような広がりを感じさせる作品になっていると思います。そして、フリードリッヒと竹内の大きな違いは、その空気感の表現でしょうか。フリードリッヒは暗く鬱蒼とした森で冬の凍てつくような透明な空気の中でどこまでも明晰に描き込まれていますが、竹内の作品では奥の廃墟は靄がかかったようにぼんやりとしています。これは、フリードリッヒの場合には森の暗さで奥行感を出していたのに対して、竹内の場合にはもっと開けた空間で、前景の木々との間にもやをいれることで奥行を間接的に感じさせているようです。それに加えて、廃墟が薄ぼんやりしていることにより、幻想性を加味させ、空間的な広がりにとどまらず、時間的な過去に遡るような幻想性を加味させる効果を出している。つまりは、空間と時間のダイナミクスを含ませているように見ることができます。しかも、セピア色のような色遣いが、ノスタルジックな味わいを加味させ、時間的な位置を曖昧にしていることが、そのような想像を煽っています。

Photo_4_2このように風景を描くには、風景という客観的な対象が目の前に在るということを認識する、という現在の私たちには当然のことですが、そのことを前提にしていなければならないはずです。それが在るということが前提されていなければ、在るがままに写そうという写生とか写実という発想は出てきません。それは、近代西欧でいえば、デカルトによって確立された主観と客観の二元論的な世界観です。自分と違うものが実在していると認めるから観察という発想が出てくるわけで、その観察した結果を正確に写そうとして写実ということが生まれてくるわけです。しかし、例えばアニミズム的に木に神が宿っているとみれば、奉ることはあっても、物体として客観的にみるという視点は成立しません。つまり、対象を客観的に認識するためには、それを認識する側である人が主観として確立されていることが必要となります。絵画で用いられる遠近法の基本的なかたちである投射遠近法では消失点という一点に向けてだんだん描かれるサイズが小さくなっていきます。それで遠近感を出しているわけです。その消失点こそがその画面の遠近感をだす視点、つまりはそれを見ている主観の位置に他なりません。それがはっきりしていなければ、遠近法は成立しないのです。そして、近代の日本画をみていると、それができてないで、画家が苦心している例が見られる。ところが、竹内の場合にはそれがキッチリ確立している。竹内の風景画を見るとよく分ります。そのことが、竹内の作品から感じられるモダンさの理由です。

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