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2013年9月 4日 (水)

「速水御舟─日本美術院の精鋭たち─」展(5)~夢としてのリアル

速水御舟という画家は、日本画の様々な技法を試み習熟していたテクニシャンだったと思いますが、あくまでも画家が何かを描くということに終始固執し続けた画家だったと思います。例えば、色とか線とかいった絵画の要素が独り歩きしはじめ、何かを描くということより、描かれたものが優先されるようなことには至らなかった。例えば、色がどんどん前に出てきて、何かを描くということから、色によって画面が構成されるとかいう方向に進むことはありませんでした。

Hayaminasu私が、今回の展示された速水の作品を一通り見た印象は、19世紀から20世紀にかけて、日本が西洋化、近代化を進めていく中にあって、対象を客観的に捉えようとして、対象を捉えるべき主体の確立、近代的自我の確立の必要性を認識しながら、そういうものがもともとない日本画の世界で、しかも自らも視点を無からつくっていかねばならない苦闘を続けた画家というイメージを強く持ちました。(同時に展示されていた他の画家、例えば、横山大観は、燕山の巻という巻物のような横に長大なパノラマのような風景スケッチをしていますが、能天気に描いた風景を横にダラダラとつなげていますが、その風景をどのように捉えて、描かれる空間をどのような構成させるかということが全く考えられていない、近代的な反省ということなど思ってもいないようなのです。いくら個々の描写が巧みでも、そういう作品は退屈でしかありません。)私の見る速水は、そのプロセスの中で、夢という主観的な視点を獲得し、別の穏便な言い方で言えば心象風景といったもので、対象をいったん主観の中に取り込み、自分の想うがままの世界に換骨奪胎したものを描いていくという、いわば正面切ってではなく、搦め手から私という視点を獲得していった。そのことによって、世界を描くということから、世界の一部を恣意的に切り取ったミクロの世界に対象をどんどん狭めていく結果にはなったものの、その閉じた世界の中で、精緻で密度の高い作品を生み出すに至ったという捉え方です。悪く言えば、マスターベーションと紙一重の世界です。しかし、一時的なものであったかもしれせんが、技巧の追求、リアリズムの追求に日本画の伝統的な趣味をバランスさせた、絶妙な均衡が一部の作品では達成されていたのではないかと思います。リアルで高密度でありながら、日本間の床の間に漫然とかけていても違和感のない作品が、とくに晩年の花鳥画であると思います。

『秋茄子』という作品は、墨を主体に滲みをきかせ、実や茎や葉は墨の濃淡で巧みに表現する一方で、花は紫で描いても違和感を感じさせません。

Hayamisumi『墨牡丹』と言う作品では、墨の濃淡や滲みによって牡丹の花びら一枚一枚がまるで独立してみたいに、まるで花びら一枚一枚を見ろとでも言いたげに描きこまれているが、全体として、かろうじて花の体をなしているようで茎や葉まで一体としての実体があまり感じられず、その浮ついた感じが、非現実感をそそり、墨絵のような花と緑の絵の具で彩色された茎や葉とのちぐはぐさが、なんとなく納得できてしまう。

これらの作品は、現実の草花を写したのではなくて、速水の主観に落とし込んで、彼自身の閉じた夢の極主観的な世界の中で再構成されたものと言えます。速水自身は、前回触れたマグリットのような言葉あそびのような世界の広がりと言う方向ではなく、縮み志向というのか細かく精緻にこだわっていくような志向があったのではないかと思います。それは、日本間の狭い空間で個人や親しい数人の間の親密な空間を演出するのに似つかわしいサイズだったのではないかと思います。その意味で速水の夢のスケールは、マーケットニーズのスケールに沿うものだったことから、人々に受け入れられることが可能となったと言えると思います。そういう点では、近代的と言う点では中途半端な速水の作品は、まさに当時のマーケットの消費する側も近代的な自我を持ちえなかったことから、その意味で人々の共感を得ることのできる要素となったのではないかと思います。その意味で、速水という人は過渡期に苦闘し、その過渡期にいるままで終わってしまった画家ではないかと思います。

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コメント

正岡子規のいう「写生」のようなものでしょうか。それにしても速水御舟を見ながらマグリットを語るというのはすごいですね。日本画には興味がありませんでしたが、友人に勧められて春に大阪で開かれていたボストン美術館展で、伊藤若冲や曽我蕭白を見て感動しました。

OKACHANさん。コメントありがとうございます。多分、私は感度が鈍いせいか、絵画をまず、それが絵画であると理解できて、初めてそれに対する評価を自分なりにして、そのあと感動できるかどうか、ということになるようです。速水御舟の作品は、まず、それが絵画として認識できるのか、という入口で躓きました。そのときに糸口としてマグリットをこじつけで利用しました。日本画というのは、難解な代物ですね。また、正岡子規の作品には何度か挑戦したのですが、私にはちんぷんかんぷんでした。これは日本語なのかというが正直な感想で、それが写実かどうかは、私には判断がつきかねる、というところです。

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