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2013年9月19日 (木)

カンディンスキー展(6)~モスクワ1918~1921年─絵画と社会

カンディンスキーは10月革命後のモスクワで、次第に公的な仕事に創作時間は少なくなっていたと。しかも、ミュンヘンのような表現主義というような人間個人の内面性を重視した象徴主義的な文化があまりなかったということで、そういう文化伝統を糧にしていたカンディンスキーの芸術は主観主義、観念論といった批判を受けたらしいです。社会主義リアリズムなどという紋切型を簡単にイメージするつもりはありませんが、前衛芸術でもマレーヴィチのようなパターン化を極限まで突き詰めていったようなものと比べて見ると、カンディンスキーの作品は外形性という方向性はあまりなかったのが、受けなかったのかもしれない、と思います。

Kandinskyovalsそして、今までは触れませんでしたが、カンディンスキーが抽象絵画というのを始めて、それが今日では広く人口に膾炙して、彼が創作を続けることができたというのは、彼の作品を受け入れ援助する多数の人々がいたからです。カンディンスキーも人間ですから、食べて生活していかなければならない。彼は生活の糧を作品を販売することで得ていたわけですから、彼の作品を購入する人々がいた、つまりは彼の作品のマーケットがあった。当然、彼はそのマーケットに受け入れられなければならないわけで、芸術関係の人はこういう言葉は嫌うでしょうが意識的にか無意識のうちにかマーケティングをしていたと思います。そして、そこで彼はどういう人たちをターゲットとしてマーケティングをしていたか、つまりは、どのような層を対象として、作品が受け入れられることを考えていたか、ということです。まず、もう彼の時代には産業革命が進行し大衆というものが形成されつつあった。そこに大衆社会の消費文化が形成されつつあった。では、カンディンスキーは、そこを成長性の高い市場だからと、そこに売り込んでいったかというと、彼の作品はそういうところには受け入れられにくいものだったと思います。高尚とか難解とか言われて、敬遠されたということは想像かつきます。多分、彼の作品はハイカルチャーとして、大衆から差別化された芸術という枠組みの中でも、前衛的とか芸術意識の高いという人々、つまりはスノッブというような人々が主な対象だったのではないかと思います。従来の芸術の主要なパトロンであった王侯貴族や教会は、パトロンとしては突出してものではなくなり、しかも、カンディンスキーの作品のような作品は政治的なアピールに資するところが少ないのは明白です。そうすると、裕福なブルジョワで、芸術文化の最先端にいるというポーズをとりたい人々が、前衛的な彼の作品を所有していることで、エリート意識をくすぐられるというのが、カンディンスキーの作品の売り込まれ方として、商売上は適していたのではないか。富を手にしたプルジョワが文化とか教養とか精神とか、一見高尚っぽいものを手にしたがる、それで更なる箔付けをするときにハイエンドの芸術として前衛絵画はうってつけだった。本人は意識していなかったかどうか、分かりませんが、カンディンスキーの絵画は、それにうまく媚びるところがあったからこそ、されは作品自体もさることながら抽象画という最先端の芸術のコンセプトだったりするわけです。

そういうものを、社会革命で労働者の政権というタテマエとなった革命政府で、評価して受け入れることができるか、ということは火を見るより明らか、というのは単純化した議論ですが。西欧帰りのカンディンスキーは、そういう目でみられていなかったということは、あり得ないと思います。たとえば、音楽の世界で、パリを中心に前衛的な作品を多数作曲したプロコフィエフはソ連に帰国後、自己批判した上で、作風を大きく変えてしまいました。

そういう状況を考えると、カンディンスキー本人は、大きな屈折を抱えることになったのではないか。そのような状況で、ミュンヘン時代の「コンポジション」のような勝手気ままな制作は出来なくなって、作品にも影響が出て来るのではないか、と外部の人間は考えたくなります。どうしても、そういう目で見てしまうのです。たとえば、前回に見た『灰色の楕円』のような作品の暗さをみると、そういうことを考えてしまいます。

『ふたつの楕円』(右図)という作品を見てみましょう。1mサイズの大きさは決して小さいとは言えませんが、『コンポジション』に比べると小さいものです。で、上に書いたようなものがたりを前提に見ると、そのように見える可能性もあります。しかし、そういうものがたりてきな情報を締め出して、この作品と『コンポジション』を見比べてみて、大きさの違い以外に、顕著な違いを見分けることができるでしょうか。私は素人の好事家ですから、そんな知識も見識もないので、見分ける能力がないのでしょうか。だから、大きさの違いというのは、実はかなり大きな要素を占めているのではないか。『コンポジション』は大きいということで見る者を圧倒することができましたが、1m程度のサイズでは、それはできない。そこでどうするか、私には、上で書いたような物語よりも、こっちの方がしっくりきます。だって、『ふたつの楕円』と『コンポジション』を比べて見ても、HOWに基本的な変化が見られないからです。上述のものがたりが本質的なものだったならば、HOWがもっと変化していたのではないか、と思います。で、カンディンスキーは、どう対処したかということは、前回で見た作品にも表われていましたが、たくさんの要素が画面から溢れるほどだったのを、画面に納まるようにしたということです。そこで、外向きの広がりという方向性から、画面がまとまり内向きに充実するように感じる方向性に転換した。前回見たものは、その行き方をコントロールできず、行き過ぎもあって閉塞感を感じされるものが出来てしまった、ということです。それで。『ふたつの楕円』を見てみる、ひとひとつのパーツが細かく小さく描き込まれています。『コンポジション』では、その描き込まれる密度に差があって、細かい所と、大雑把なところが画面上で割り振られていて、それが対照とかリズムとかを醸し出していました。しかし、反面、統一感ということでは、品質が一定したことで『ふたつの楕円』の方に感じられるようになったように思います。そして、また、『ふたつの楕円』では、そのパーツがはっきり描かれたので、統一感とあいまって、作品を見る時に見るべき対象が絞られた感じがします。『コンポジション』の場合は、そのサイズに圧倒され、しかも様々な要素が画面から跳び出さんばかりなので、正直言ってどこから見ていいか分らくなって、作品の前で呆然としてしまうところがありました。しかし、『ふたつの楕円』の場合は、そういう意味では、手がかりを得やすくなっています。

それを、上述のものがたりに当て嵌めてみると、観念的な作風から脱皮して、より広く人々に訴える、完成度の高い作品となっていった、とかいえると思います。

Kandinskypoints『尖りのある絵』(左図)という作品では、画面上の要素が減って、より整理された感じを受けます。よく見てみると、要素自体は、それほど減ったわけではなくて、中央に集められたので、そう見えたのです。多数の要素を、中央に集めると、どうしても、各々の要素が相互に重なり合うことになるので、それぞれの要素がハッキリ描かれることになります。そして、重なることにより重層感が得られるようになりました。前回も触れましたが、『コンポジション』には平面的に広がる感じが強くありましたが、その代わりに平面的で奥行などは感じられませんでした。これに対して、『尖りのある絵』では、要素を重ねて重層的な感じをだすことで立体的に感じられることで奥行が生まれた。その結果、納まりの言い絵となっている。それが、見る人には充実したという印象を与える。

というわけで、カンディンスキーの作品を見てきました。最初にも書きましたように、カンディンスキーの作品は、抽象画といわれるジャンルで他の画家と比べてこうだ、という差別化された個性が見分けられない、ということについて、今回の展示を通して見て、そういう個性が見つけられたかというと、見つけられませんでした。何かの枠に当て嵌めようとすると、その枠からすり抜けてしまうというのか。ただ、かりに、私が絵筆かクレパスを持たされて、抽象画にチャレンジしてみようと促されて、とにかく何かキャンバスなり紙の上に描いたものは、結果的にカンディンスキーの作品をなぞったようなものが出来上がる可能性が高いのではないかと思います。絶対にモンドリアンのようなものは描かないと思います。そういうものなのかもしれません。逆に考えると、そういうところにとどまって、ずっと勝負し続けたところにカンディンスキーという画家の凄いところがあるのかもしれない、と思いました。一見した差別化の個性が見分けにくいところで、あえて戦い、スタンダードとしてのスタンスを維持し続けた。多分それがなければ、他の、後進の画家がぞくぞくと続くことができなかったと思います。

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