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2013年9月13日 (金)

カンディンスキー展(1)

昨日まで、カンディンスキーが抽象画を始めるまでに焦点を当てた展覧会の思い出を書き込みましたが、続いて、2004年4月28日 東京国立近代美術館で見た、カンディンスキー展のことを思い出して書き込みます。

Kandinskypos抽象絵画というのを始めた人。今までなかった抽象的な画面を発明したとか創り出したとか、色々なレッテルがあって、難解とかいうことになっている人です。美術史では、すでにピッグネームに入っているはずなのに、西洋美術館ではなくて、近代美術館で展覧会が開かれる(別に、二つの美術館で棲み分けをしているわけではないでしょうが)というのも、何となく、カンディンスキーに対しての美術業界の一般的イメージがあると思います。かりに、同時代のピカソ展だったら西洋美術館で開催したのだろうなと思ったりします。

私も、それに引き摺られているところがないとは言えません。というわけで、ここで、ちょっと身構えて、抽象画に関する個人的見解を少しく述べたいと思います。

ひとつは、絵画と意味ということに関わることです。「意味」などというと、深く考えていくときりがかいので、取敢えず具象(この言葉は抽象絵画というものが生まれたことから、抽象絵画への対立概念として創り出されたものです。だから、抽象絵画が生まれる前は、だれもこんな言い方はしなかった。そもそも絵画は全部、具象だったからです)の作品を見る時に、そこに“何が描かれているか”ということを特に意識して考えることもなく、それを前提に見ると思います。そのことと思ってください。テーマとか題材とか、絵画鑑賞を真面目にするときに出てくる大層なタームまで行くものではありません。そんなものではなく、単に、“何の絵だ”というもので、人物が描かれているとか、風景画であるとか、そんなものです。幼稚園で、おえかきの時間に無心にクレヨンをはしらせる園児に話しかける時、「何を描いているの」などと、とくに考えるわけでもなく訊くと思います。だから、自然と絵画を見る時に、“何の絵だ”とか“何が描かれている”とかいうことが意識することもなく前提にしてしまっている、それを意味と、ここではいうことにします。これは、何も絵画を見るということに限ったことではなく、私たちが見るということをする時には、“何を見る”というように対象を特定します。だから、見るということをする時に、必然的についてまわることです。だから、絵画というのは意味ということと切り離すことはできない。というのが、普通の一般的な絵画の見方ではないでしようか。しかし、そうなると私たちが見るのは、全て意味ということになります。私たちは自分の外側を認識するのには主に目で見るということをしますから、そうであれば、私たちの周囲は意味で充満しているということになります。意味ばっかりです。普段は、そんなことは感じないかもしれませんが、いったん気づいてしまうと息がつまるような気がしませんか。そんな時に、目で見るのは別の感覚器官を考えてみて下さい。例えば耳です。耳は何かを聞くというのではなくて、ただ聞こえてくるのです。対象を特定しないしできないのです。ただ、聞こえてくる音を分析して、その中で“これは何の音だ”と認識することはあります。しかし、眼と違って対象を特定することはできないのです。それで耳で聞く芸術である音楽というのは、とくに“何の音”というのは音楽そのものを聴く前提にはならないのです。つまり、見るということについて回る意味というものがないのです。(但し、人によっては意味を求める人もいます。)だから、そこで流れてくる音楽に乗るとか浸るとかしてればいいのです。だから、疲れた人が音楽を聴くことでリラックスして、再生するということがよくあるのです。絵画に同じような効果を求めるということは、あまりしません。そういうことを考えたうえで、抽象絵画というものを見ていくとどうなるか。まず、意味“何の絵”であるかということが見る方は分かりません。多分、そのことが抽象絵画が難解だといわれることになるのでしょう。なぜなら、とこで普通は私たちは“何の絵”として見るのが、その何が分らないからです。しかし、ここで逆の発想として“何の絵”か分らないから、それを前提として見るということを放棄してしまったらどうでしょうか。つまり、さっき触れたような音楽のように接してみることはできないでしょうか。そのとき、私たちは周囲に充満する意味を切り離すことが可能となるかもしれません。かえって“何の絵”と意味づけるという重さから開放されて、気楽に、リラックスして見るという可能性が開けるかもしれません。

二つ目は、子どものお絵かき遊びで、特に“何の絵”というわけではなく、こともがクレヨンをもって白い画用紙の上を好き勝手に(たいていはゴチャゴチャ)に線を引いて、楽しそうにしていることがあります。子どもにどうして楽しいかを訊いても、本人も分らないでしょうが、こちらが考えてみると、そういう身体の動きをする、つまり運動をすること自体が快感であること、また、白い画用紙を汚すことが楽しいのかもしれませんし、線を引くことで白い画用紙が変化していくのが面白いのかもしれません。いずれにしても、“何を描く”ということとは無関係に線を引くとか描くというのは実は楽しいことかもしれないわけです。抽象絵画は、もしかしたら、そういう楽しさ、絵画鑑賞などといって切り捨てられてきた面白さを、取り戻すことができるのではないか。そして、この好き勝手に線を引いた子供が、出来上がったものを“何の絵”とはいえないですが“美しい”ということはできるのです。それは、先に触れた音楽もそうです。そうであれば、“何の絵”でなくても、単に眺めて美しいと思うことはできる。というよりも“何の絵”と意味で特定するというのは理性の働きです。その“何の絵”というのがなくて理性の働きというのが働かないと、あとは純粋に感性が働くだけです。つまり感覚的な世界、感覚的に快かどうかということだけです。そう考えると、抽象絵画は決して難しくはない。むしろ、理性を働かせて意味を特定しなければならない、具象の絵画の方が実は難しいということも可能です。私たちが、それを難しいと思わないのはいつもその作業をやっていた、その作業に習熟しているからです。いわば、みんなエキスパートだからなのです。

そして、三つ目です。これは、今までみたことと矛盾するようなことです。それは、カンディンスキーやその他モンドリアンとかロスコといった抽象的な作品を主として描いた画家たちの作品を見ていて、私が、強く感じたことです。このような画家たちは、普通に見えること以上のことを絵画の画面に入れ込もうとしたのではないかと、作品をみていて感じるのです。私たちの周囲には目で見えること以外にたくさんのことがあります。それは、感覚的なことで言えば、音、臭い、触れて分かること、味等が代表的なことです。それで感覚できる広大な領域があります。その他感覚できないもの空気とか雰囲気とか。それだけでなく、感覚できないもの、人の感情とか、思いとか、それ以上に人も分らないようなこととか。これらを、従来の絵画では目で見える意味というものに縛られて、そういうものを描くということはできなかった。これまでに、それを試みた画家は数多くいたと思います。例えば比喩的な手法を活用するなどしたとか。しかし、意味というものが足枷となって、どうしても比喩をうまく用いても副次的な効果を生むのがせいぜいのところです。さきにあげた画家たちは、それに飽き足らなかったのではないかと思います。そこで、たどり着いたのが足枷を外すということです。だから、この人達は神秘主義的な傾向が実はあったりします。そういう点では、作品の背後をいろいろ追求していくと、作品の表面に隠されたものがたくさんあって、それは具体的な形を持ったものでないので、こういうものだと明確ではないのですが、感覚で何となくそうかもしれないという何かがあるような雰囲気を感じることができるのです。こんなことをいうと誤解されるかもしれませんが、感性の宝探しのような面白さがあるのです。

以上3点が、私が個人的に抽象絵画を比較的好んでみるポイントです。

それで抽象絵画を好むことは分ったけれど、その中で、カンディンスキーはどうなのか。何も描かないということになるとカンディンスキーとモンドリアンの違いというのは、どのように表われて、でカンディンスキーはどうなのかということも、この後、述べなければならないことです。これについては、この後、追々作品に触れながら、カンディンスキーの特徴に交えて、お話ししていきたいと思います。

それを踏まえて、これから展示されたカンディンスキーの作品について述べていきたいと思います。

今回の展示は、カンディンスキーの軌跡に沿って次の6つの局面で為されていました。

.ミュンヘン1986~1907年─始動

.ミュンヘン1908~1910年─飛躍

.ミュンヘン1911~1914年─抽象絵画へ

.ミュンヘン1913年─コンポジション、大いなる総合

.モスクワ1914~1917年─内なる故郷

.モスクワ1918~1921年─絵画と社会

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コメント

なるほど。
抽象という概念について、実は詳しく調べたことがないのですが、単に具象にたいして抽象と捉えていましたし、感覚を形にする行為とも思っていました。

ただ、以前生け花のテキストに「平面分割」を色分けするという項目があったのですが、沢山の線を書き込んだ後に大胆にいらないと思われる線を消していき、残った線を色分けしたとき、ふとこれも「抽象の始まり」ではないかと感じたことがあります。

その、いらない線を消すという行為は「自分の視点による」ということですから、そこに「独自の視点」が存在すると思ったわけです。(これは抽象の概念とは違い、単なる感覚に過ぎませんが)
だいぶ横道にずれてしまいました。

すみません。

ひつじさん。コメントありがとうございました。抽象については我流で、とくに根拠があるというものではないので、気楽に読んでいただければ幸いです。
コメントされていらっしゃったことに関して、哲学の世界で18世紀までの存在と現象という認識の考え方から、19世紀後半の現象そのものへの変遷があったことを思い出しました。例えばカントとという人が、例えば私の目前に存在しているパソコンを見るにしても、その真実の姿を認識することはできないと言います。私が目で捉えるのは一定波長の光(可視光線)であって、パソコンそのものを見ているのではなくて、パソコンに(太陽)光が反射したのを目が捉えているのを認識しているだけ。しかも、認識できる光は限られるので、人間が見えるものと猫が見えるものは違ってくる。ということで、私が見ることができるのは、仮の姿で、それを現象というというのです。これに対して19世紀にフッサールという人が出てきて、私が見ている現象で十分ではないかと。つまり、私の目の前のパソコンを見ていれば、それを使うことができるし、触ったりするにも不自由はしない。そこで認識できない真実の存在など何の意味があるのか。人間というものは、それぞれの見える範囲(視点)で存在を認識し、それを世界としてそこで生活をしている。つまり、18世紀は存在しているのを不十分ながら認識している、というのだったのを、認識しているから存在している意味があるというように考え方を全く変えてしまったのです。これを極端に推し進めれば、ある視点でとらえるから在りえる、ということになるのです。このことは、ひつじさんが仰ったように抽象画の考え方の背景として、あったのかもしれません。真実の存在を写実することに意味がなくなるわけですから。すごく、勉強になりました。それと、少しばかり、知ったかぶりをさせていただきました。

ご丁寧なお返事ありがとうございました。
哲学は、学生時代どうも相性が悪く苦手でしたが、
CZTさんのコメントを拝読してこんなふうに考えました。

例えば(現実に則して考えないとわからない人間なのですみません)、グループ展を企画するとします。 作業を進めながら幾度となくお互いの頭の中にある作品像が同じであるかどうか確認を繰り返します。
例えば「横長の作品」を制作するとお互い納得づくで作業を始めても皆が同じ作品像を思い描いているかというと、案外そうでなかったりします。
このように相互の認識にずれがあると、存在意義がなくなるということかもしれません。
すごい解釈の仕方でごめんなさい。

独り言ですのでお返事はなくて大丈夫です。

ご丁寧なお返事ありがとうございました。
哲学は、学生時代どうも相性が悪く苦手でしたが、
CZTさんのコメントを拝読してこんなふうに考えました。

例えば(現実に則して考えないとわからない人間なのですみません)、グループ展を企画するとします。 作業を進めながら幾度となくお互いの頭の中にある作品像が同じであるかどうか確認を繰り返します。
例えば「横長の作品」を制作するとお互い納得づくで作業を始めても皆が同じ作品像を思い描いているかというと、案外そうでなかったりします。
このように相互の認識にずれがあると、存在意義がなくなるということかもしれません。
すごい解釈の仕方でごめんなさい。

独り言ですのでお返事はなくて大丈夫です。

ひつじさん。コメントありがとうございます。
なんか真剣に考えていただいて、もうしわけなくほど、ありがたく思います。
でも、ひつじさんの考えられたことは、さきにお話ししたフッサールが晩年に
直面した難問で、そのために彼はそれまでの自説を全否定してしまったもの
なんです。自分の視点ということは、独断と一緒ではないのか、端的に言えば
ひとりよがりですね。
ここでは、長くなりそうなので、別のところで、改めてまとめてみたいと思います。
PS ボケとツッコミではないですが、突っ込まれるのは嫌いではないので、
   うるさいかもしれませんが、勝手に返事をしてしまいます。あしからず。

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