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2013年9月16日 (月)

カンディンスキー展(3)~抽象絵画へ

ここから、いよいよ抽象絵画の世界へ足を踏み入れます。この展覧会の目玉である、大作『コンポジション6』と『コンポジション7』は、この後で集中的に展示されているので、ここでは、そこに至る作品を見ていきたいと思います。

Kandinskyst_g『聖ゲオルギウスⅡ』(右図)という作品です。聖ゲオルギウスはドラゴン退治の伝説で有名な聖人で、しばしば絵画の題材として取り上げられ、馬上で槍を持って竜を退治するする図像が定着しています。しかし、この作品では馬上から槍で竜を突いた瞬間のゲオルギウスを描写しているということは、下絵や習作を見て研究者たちが突き止めて分っているからいえることで、単に作品を見ただけではわからないと思います。槍を突いた瞬間のテンションというのか迫力が伝わると解説する人もいますが、果たしてどうなのか、それは何を描いたかを分って後でこじつけたようにしか思えません。中央を少し左に傾いて縦に画面を貫く緑色の細長いものが、そう言われればケルギウスの剣のように見えなくもない。しかし、そんなことは考えずに、緑の細長いものが画面を縦に貫くさまを、横に交錯する赤や茶が折り重なるさまを味わうというので、いいのではないかと思います。

前のところで、抽象画は具体的な対象を写生するということを放棄して、何かを描くというWHATの要素を制約と捉え、そこから解放されて、画家は如何に描くというHOWの部分だけを追求できるものとした、という私の捉え方を説明したと思います。ということになれば、私がここでカンディンスキーの作品を見る場合も、WHATを気にすることなく、例えば、ここの作品では『聖ゲオルギウス』といタイトルがありますが、聖人が描かれているとか、その象徴である剣を探すとかいうことは、抽象画にとっては、さほど意味のないことです。それよりも、作品がどのように構成され、色がどのように使われ、というような描かれ方を見ていくということになります。多分、画家の方では、何かを描くということを制約と考えていれば、その制約を取り払い、解放されたところで、思いのままに描くということができたのではないかと思います。だから、それを見る側は、何かが描かれているという、言うなれば意味を考えることなく、直観的に綺麗とか汚いとか、そういうところからみればいいということになる。と理屈では考えますし、そういう見方でしっくりくる画家もあります。しかし、カンディンスキーの作品は、そうではない。それだけでは説明しれない何かがあるような気がします。画面はこうなって、このように描かれている、ということから零れ落ちてしまうような何かが、この『聖ゲオルギウス』という作品も、描き方のきれいさとか、構成の見せ方の上手さとか、そういうHOWだけでは、他の画家に数多のすぐれた作品がありますが、それらに伍して、それらを超えて、見る者に訴えかけるような何か、があります。それが、おそらく、抽象画とか具象とかそんなジャンルのこととは関係なく、実はカンディンスキーの特徴で、私がカンディンスキーの作品を見る時に、一番ひきつけられ、しかも、言葉にできないものであると思います。

Kandinskyblackそして、『黒い色斑Ⅰ』(左図)という作品です。カンディンスキーの黒と言われる表現主義的な黒い色を中心に、色斑と言いますが、黒い太い曲線が植物の蔓のように屈曲したり張りめぐらされる様子は、生命的なものを感じさせもします。

『インプロヴィゼーション34』(右下図)という作品は、前の作品もそうですが1m近い比較的大きな画面に広がるように描かれていた水彩画のような絵の具の滲むさまが色が融合する印象を与える一方で、左右の黒の塊とそこから派生するような黒い線と、それに絡んだり、重なるような赤との対峙に青が空白を埋めるというように色の構成と動きを感じさせる画面になっています。

などと言葉で説明していますが、カンディンスキーの抽象画というのは、抽象画というのはそういうものなのですが、とくにカンディンスキーのは言葉による説明ができなくて、説明しようとすると言葉が出てこないということに陥ってしまうことが多いです。ここでの説明もそうなってしまっています。このカンディンスキー展について述べてきた最初のところで、抽象画を描いた画家というのはカンディンスキー以外にもいますが、そういう人たちとカンディンスキーとの違い、つまり、カンディンスキーの特徴については後述すると述べました。実は、それを、なかなか言葉に定着できないのです。他の画家ならば、モンドリアンなら構成の画家といえばそれで済みそうです。しかし、カンディンスキーは構成もありますが、それだけではありませんし、カンディンスキーならではの構成とか、そういうものがハッキリしません。カンディンスキーの自身はどうだったのか、多分、画家としての自分を売り込むためにも、他の画家とは違うということをまず、マーケットや消費者に理解してもらわなくては存在を認識してもらえないわけですから、自分の個性とか特徴ということは絶対意識していたはずです。近代以降の芸術は、作家の個性を重視しているはずですから。しかし、抽象画という、当時誰もやらなかったことに手を染め、いわば創始者となってしまったわけですから。他にこんな作品を描く人などいなかったのですから、抽象画を描くということは大きな特徴だったということでしょうか。他の抽象画家は、カンディンスキーと同年代の人もいますが、そうでない人も多く、そういう人は、カンディンスキーが創始した抽象画というジャンルに後から参入したということになるわけでしょうか。抽象画という土俵、枠組みをカンディンスキーがつくった。後から参入した人は、その土俵に乗って戦うことになるので、カンディンスキーとの違いを、自分はカンディンスキーではないことをアピールしなくてはならず、そこで個々に特徴を出して行かなくてはならなかった、ということでしょうか。コンピュータのソフトの世界で言えば、カンディンスキーはOSの立場、他の画家はそのOSに乗ってさまざまなソフトやアプリをつくる羽目になったということになるでしょうか。自分がスタンダードになってしまったということで、スタンダートとの距離とか、違いを意識する必要に迫られなかったというところでしょうか。

Kandinskyimp34カンディンスキーと違って、他の抽象画を描く画家たちは、好むと好まざるとに関わらず、カンディンスキーの作ってしまった土俵で戦わざるを得なかった。そのため、カンディンスキーの作った土俵の上で、自分の立ち位置を示す必要に迫られた。つまり、カンディンスキーとどこが違うのかとか、カンディンスキーに対してどうなのかといった具合です。そのため、後世から、私のような何も知らない人間が見れば、カンディンスキーの土俵で戦った人達は個性が分かりやすく見えてしまい、逆に土俵をつくったカンディンスキーは捉えどころがないように映ってしまうのではないかと思います。

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